虚構の群青

笹森賢二

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#16 憑くもの

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    ──誰にでも。


 雨が降って居る。窓を閉め切ってエアコンを掛けて居ても音が聞こえる程強い雨だ。女はリビングのテーブルに突っ伏したまま其れを聴いて居る。待ち人が来る筈の時間に合わせて沸かした湯はすっかり冷めて仕舞った。ティーカップを受け皿に伏せ、ティーポットには布を被せた。一時間待ち、二時間待ち、後どれだけ待ち続けるのだろう。

 其処まで書いてペンを置いた。現実の雨もいよいよ強さを増し、警報が出る地域も出始めた。此の部屋は比較的高い場所に建っているから浸水の心配は無いだろうが、雨音が煩い。叩き付けるような音は、折角編み上げ、積み上げたイメージに穴を空けて行くようだ。
「また言い訳?」
 背後の声が言う。戸棚の硝子には映って居ないが、振り返れば白い服の女が立って居るのだろう。
「そしてまた私を殺すのね。」
 此の話を書くのは初めてでは無い。何度も途中まで書いて、其の度に破り捨てた。一度だけ、結末らしい物を着けた事は在ったが、如何やら彼女は納得して呉れて居ないらしい。此の話を書く時は必ず、違う話を書いて居る時でさえ時折現れ、背後から囁く。冷たい手が伸びて来て頬に触れる。
「さぁ、この後私はどうなるの? どうするの?」
 雨音が増して行く。ペンを握る。読み返して、続きを考える。雨音が邪魔だ。続きが書けない。背後の気配は徐々に冷たさを増して行く。俺は何時まで耐え続けるのだろう。其れは彼女も同じか。何時まで待ち続けるのか。俺の強靭とは言えない精神は何時まで正常を保って居られるだろう。


 久しぶりに女の部屋に招待された。それなりの下心と所望された白い花を持って呼び鈴を鳴らす。インターホンからの返答はあったが中々出て来ない。焦らしているのか、そういう駆け引きも久々だ。やがてゆっくりと開いた扉の向こうの彼女は、外で見るよりも妖艶に見えた。胸元の開いた赤いフリルの付いた服に、下ろして整えた髪、心なしか目を細めている。
「いらっしゃいませ、どうぞ、お入りになって下さい。」
 部屋に通され、白い椅子に座った。部屋を見ると、白い花をと言っていた割にやたら赤い花が飾られていた。
「ああ、どうぞ、御所望の白薔薇です。」
「あら、素敵ね。どうも有難う御座います。どうぞ、紅茶です。」
 カップに口を着けた。
「赤い花が好きなんですか?」
 僅かに目眩を感じた。
「ええ、綺麗でしょう?」
 やたら赤い唇が目についた。
「好きなんですよ。眺めるのも、」
 視界がぼやける。何だこれは。
「作るのも。」
 俺の体は痺れて行く。彼女の右手には銀色に輝くナイフが握られていた。


 何の変哲もない少女だった。背の低い、茶髪のおかっぱ頭。目が大きく鼻が低いから小学生に見られる事もあるが、れっきとした高校生だ。運動も勉強も平均程度だったが、一つだけ人と違う所があった。人の頭の上に数字が見えるのだと言う。常に見える訳ではなく、大体三十程度見え始めて、一秒毎に減って行く。それがゼロになるとその人を不幸が襲うそうだ。不幸と言っても大したものではない。躓いたり、足や腕をぶつける程度らしい。
「不思議な割に役に立たん能力だな。」
 笑ってやったが、笑えない事もある。数字の色だ。白い数字なら問題ないが、かつて一度見たピンクの数字がゼロになった時は目の前で人が轢かれたそうだ。
 だから、恐らくそいつはその時には言えなかったのだろう。かなり後になって二人とも何とか生き延びてから聞かされた。あの時、カフェの窓ガラスに映る俺達の頭の上に赤い数字が見えていたそうだ。ブレーキとアクセルを間違えた車が突っ込んで来たのは、丁度その数字がゼロになった時だそうだ。


 暇を持て余した寂しい男三人で深夜のドライブに出た。当然綺麗な夜景なんぞ目的にならない。行先は郊外の山。心霊スポットが幾つかある。先ずは麓の廃屋。老夫婦が住んでいたらしいが奥さんが亡くなり、精神的なショックからか旦那は二月程奥さんの死体と暮らし、そのまま亡くなったそうだ。病死とも自殺とも言われているが、今でも時折灯りが点いたり談笑する声が聞こえるそうだ。降りて近付こうと思ったが、鉄製の門には鎖が巻かれているし、囲うように生い茂る樹木がまるで家を守っているようで、入るのは骨だし、憚られた。
「今でも二人で暮らしてるのかねぇ?」
「さぁな。」
 軽く会釈をしただけで次へ向かう事にした。道は細くなってきたが、舗装も山道にしては整っていた。
「抜け道で結構車通るからな。ほら、また工事してる。」
「他に予算使うトコないんじゃないか? まぁ、お陰で助かる。」
 そんな事を言っていると急に道が悪くなった。メイン道路が工事中の為、古い道を迂回路として使っているようだ。そこへ入ったようだ。都合は悪くない。目的地はこの古い道からさらに脇に入った所にある。
「あれか?」
 友人の声に車を止める。鬱蒼とした木々の一ヶ所だけが開いている。獣道に毛が生えた程度で、人が漸く通れる程度だが。
「よく気付いたな。」
「あれだろ、噂の奴。」
 小さな赤い鳥居と、髑髏の様な形の岩。通称首吊りの森。入口の先にやや開けた場所があり、そこに車を止めて森へ入って行くそうだ。俺達もそこへ車を止め、入口へ向かった。
「夜は人来ないし、枝が太い木が多いんだとさ。」
 季節の所為か蔦やら蔓やらが満載だ。
「入口の写真だけで良いか。」
 夜明けまで時間はある。少し時間を使って森に入っても良かったが、目的地はここではない。適当に写真を撮って車に戻った。
 迂回路を抜けるとメイン道路に合流する。その直前にあるのが死の湖。昭和の初期だったか、水泳の授業が行われ、十数名の生徒が溺死した。生き残った生徒の多くが骸骨に足を引かれたと証言した、と言われている。その骸骨の所為か、亡くなった生徒の所為か、はたまた偶然か、去年ボートの転覆事故があり女性が一人亡くなっている。ここでも写真を撮るだけにした。
「さて、じゃあ、いよいよ本命か。」
 メイン道路に戻ると直ぐにまた道が別れる。老朽化に伴い新しいトンネルを通す計画らしいが、まだ開通はしておらず、未だ古いトンネルが使われている。後一月程で工事が終わり、切り変わるらしい。
「最後の記念かもな。」
 それ程長いトンネルではないが、全体が緩いカーブになっている上に照明も老朽化していて事故が多い。それが原因なのかは分からないが、様々な噂がある。トンネルの中なのに雨音がするとか、白い車で通るとボンネットに血の手形が付くとか、カーブの中ほどの壁に女の顔が浮かぶとか、出口で男が飛び出して来て、慌てて停車して降りると「お前じゃない。」という囁き声が聞こえるとか。トンネルの入り口と出口は車を止めて、中は停車できないので走行したまま写真を撮った。
「さて、戻るか?」
「いや? 風呂でも行こうぜ、今から行けば開く頃だろ。」
「そうだな。」

 翌日、写真を整理しながら凍った。トンネルの中で走行中に撮った写真に青白い顔の男が映っていた。それは、車外ではなく、車内に居た。


 安アパートの一室。台所、ダイニング、和室。手入れが良かったらしく年数と値段の割に綺麗な部屋だ。俺はこの部屋で一人暮らしをしている、事になっている。
「お帰りなさい。」
 白い髪、肌、袷が逆の着物、紫の唇。鏡には映らない彼女のお陰で部屋は綺麗さを保ち、食事の心配も無い。よく隣人に「また痩せた?」と訊かれるくらいだ。
「ただいま。今夜は酒は要らない。」
「はい、畏まりました。」
 食事と風呂を済ませ、寝支度を整えた。彼女は布団には入らない。枕元で正座をして、一晩中俺の顔を見下ろしている。最初は気になって眠れなかったが、今はすっかり慣れた。
「桜の花弁の中で消える事ができたら、幸せでしょうね。」
 彼女は時折そんな事を呟く。
「今夜でも良いか?」
 部屋の隅に置いていた段ボールを寄せる。不細工な紙の花弁が詰まっている。
「ふふっ、まだ狂い咲きと呼ばれる季節ですよ。」
 初めて二人で布団に入った。どこからか吹き込んだ風が紙の花弁を幾つも幾つも舞い上げた。狂い咲きの桜の花弁が風に踊りながら舞い降りた。
 
 


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