逆針の羅針盤

笹森賢二

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#01 晴れた午後

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   ──絵本の風景へ君を連れて。


 青い鳥
   ──見知らぬ鳥を待ちながら。

 いつもの喫茶店の窓から乳白色の空を見ている。食後の珈琲を飲み終えた連中が居なくなり、店はすっかり静かになっていた。もう少し時間が経てば休憩がてらに立ち寄る連中が増えてくるが、もう少しの間は閑散としている。頭上で回る送風機も店長もだるそうな顔をしている。ただ一人、目の前の席に座っているウェイトレスだけが楽しげな顔をしていた。否、一人騒いでいた。
「だから、ホントに居るんだってば。」
 こいつは止まったまま喋れないのか、身を乗り出したり引っ込めたり、首を振ったり髪を弄ったりする。その度に肩まである髪が揺れ、柑橘類の様な香りが漂う。
「そりゃ良かったな。」
 気の無い返事で応え、珈琲を啜る。俺はこいつにもこいつの話にも明日の天気にも興味が無い。そういえば季節は今どの辺りだろう。気にしていないから分からない。
「良くない、全ッ然良くない!」
 テーブルを叩いて叫ぶ。一々言動が五月蝿い。
「そもそも私の話、ちゃんと聞いてた?」
 俺の鼻先を指差す。またあの匂いが鼻腔に届く。
「聞いてた。ここから五キロ先の海岸に青い鳥が来るから、明日見に行きたいんだろ?」
 一度身を引き、そいつは何か複雑そうな顔をした。
「聞いてたんなら。」
 その複雑そうな顔は、俺が一番嫌いな顔だ。そのまま放って置くと涙か雷が落ちる。肯定してやる以外にそれを回避する術が無いのが気に食わない。
「分かったよ、行けば良いんだろ。」
「ホント?」
 やや俯いて言う。恐らくこいつは半分笑っている。
「ああ。」
「季節外れだけど良い?」
「別に泳ぎに行くわけじゃないだろ。」
 顔を上げたそいつは、やっぱり笑っていた。
「ありがとね。」
 まぁ、そう言われるのは嫌いじゃない。


 翌日。晴れた。ビロードを敷いたような海と水彩絵の具で描いたような空が広がっている。少しずつ秋が深まっているのか少しだけ肌寒かった。そういえばあいつは朝から妙にはしゃいでいて、わざわざ弁当まで詰めて来た。砂浜にビニールシートを広げ、座ってみると気持ちの良い風が通り過ぎた。
「良い天気だね。」
「ああ。それより、見付かりそうか?」
 あいつは双眼鏡を顔にくっ付けて辺りを見渡した。俺も肉眼で探してみるが、青い鳥どころか一羽の鳥すらいなかった。
「どうかなぁ、噂だし。」
 こいつは、こうやって騙されるのを楽しんでいるのだろう。俺は、如何だろう。退屈さは感じなかった。あいつが色々と言葉を渡してくれる。かと言って楽しい訳でもない。騙されるのは好みじゃない。
「そういえば、どんな鳥なんだ?」
「言ったじゃん、青い鳥だってば。」
「色は分かったが、小さいのか? 大きいのか?」
 顔から双眼鏡を離し、そいつは驚いたような顔をしていた。考えていなかったらしい。
「まぁ、青い鳥なんか見れば分かるか。」
 大きく背伸びをして、シートの上に寝転がった。秋口の空は妙に高く感じられた。
「でもこれだけ青いと見つからないかもね。」
 そいつがそう言った時、シートの端に一羽の鳥が降りてきた。ひたすらに白い鳥だった。鳥は俺とそいつを一度ずつ見て、にやりと笑った。
「季節外れの海でデートかい?」
「ち、違うってばぁ!」
 そいつはなぜか慌てていた。
「青い鳥探してるんだよ、お前、知らないか?」
「ここらに住んでるのはアタシだけサね、ああ、でもあっちの島なら腐るほど居るよ。ウミネコちゃんさね。」
「ウミネコは青くないよぉ。」
 からかっているらしい。そいつが一々反応するから面白がっているのだろう。俺はぼんやりと体を起こし、何気なく海を見た。青い海から押し寄せてくる波が、砂浜で砕けて白く泡立っている。
「いひひ、アンタ面白いな。サービスしてやっかねぇ。」
 鳥がそいつにそう言った。俺はまたぼんやりと考える。もし、あの波とこの鳥が同じなら、羽根をむしれば手から零れ落ちるのだろうか。
「試してみるか。」
「って、そっちの旦那は物騒サね、ったく、分かったよ。」
 白い鳥が大きく羽ばたき、頭上を低く飛んだ。白い羽根が数枚舞って、俺とそいつの手の中に落ちた。
「ダシにされちゃ敵わんと思ったがね、それだけじゃないようだね。まぁ、ゆっくりして行くが良いサ。」
 ばさばさとうるさく羽ばたきながら鳥は真っ青な空に飛んで行った。その小さな体が空に届く頃、青い空に溶けこむような、青い翼が見えた気がした。
「あ、青いよこれ。」
 そいつの手の中に空の色を映したような青い羽根があった。俺の手の中にあったはずの羽根はいつの間にか消えていた。
「でもあの子は白い鳥だったよねぇ?」
 その正体なんか、知っても仕方がないだろう。知らない方が良い事だってあるかも知れない。
「あんなのが青い鳥じゃ台無しだろ。」
 またシートに寝転がった。風は穏やかで、そいつは楽しそうだ。もう少しこのままでいよう。繰り返し届く波音の中でそう思った。
 
 


 星の夜
   ──淡いその光に。

 綺麗な星がたくさん落ちて来たから、タンポポの冠に散らした。アライグマが手伝ってくれたからすぐに出来上がった。湖に落ちた月の雫をサケが運んできてくれたから、結んでペンダントにした。きらきらと零れた光を集めて金具に着けたら、綺麗なイヤリングになった。けれど、僕はあまり楽しくなかった。僕はこの森で暮らしている。何度も何度も訪れる湖の波を眺めて暮らしている。あの人は、何ヶ月か前にその悲しみを湖に投げ捨てて行った。水面に沈んだ悲しみは先月光の尾を引きながら空へ飛んで行った。今度こそ幸せになれたのだろう。だから、もうこの湖には来ないんだろう。あの日僕の前髪を直してくれたあの人は、きっと遠くの町で幸せに暮らしている。キツツキが珍しく僕の肩にとまってくれた。大丈夫だよ。悲しくないよ。足音が聞こえた。また誰かが悲しみを捨てに来たのだろう。振り返るとあの人が居た。キツツキは一言だけ残して飛び去って行った。
「今晩は。」
 あの人が優しく微笑んで言ったから、同じ言葉を返した。
「不思議ね、あれから色々あったけれど、うまくいったの。」
 知っている。悲しみは遠くの空で綺麗な光に変わった。
「貴方のお蔭よね?」
「それは、違う、よ、貴方が、努力したか、ら、」
 相変わらず、僕の言葉は唇の端に引っかかってうまく響かない。
「そうなの? でも、良いわ、今日は貴方にお礼がしたいの。」
 そう言ってその人は一枚の絵をくれた。様子を伺っていたヘビが二匹出て来て、丁度良い位置に絵を掲げてくれた。多分僕と、この湖の周りにいる動物たちの絵だった。僕が随分綺麗に描かれているから、違うかもしれない。
「貴方よ。」
 その人は笑いながらそう言ってくれた。僕は嬉しくて、少し恥ずかしくて、ひょっこり現れたウサギにからかわれた。
「ここは綺麗ね。私、ここで絵を描きたいの。協力してくれる?」
「ここは、たくさん、悲しい人が来るから、だから、えっと。」
 地面から顔を出したモグラが僕のふくらはぎを抓った。
「ぼく、の、家に、」
 その人はくすくすと笑って、僕の手をとってくれた。
「なら、案内してくれるかしら?」
 蛇は絵を背に乗せたままさっさと行ってしまった。ウサギやモグラも先を進んだ。僕は、さっき作ったものをどうしようかと悩んで、その人は多分気付いていたのかも知れないけど、冠をその人の頭に乗せた。とても綺麗に笑ってくれて、僕はとても嬉しかった。
 
 


 蛙
   ──夕刻。

 窓ガラスに蛙が張り付いていた。すぐ下にある小さな池から上がって来たのだろう。西から入ってくる陽射しを浴びる姿は神々しいように思えた。
「時に人の子よ、」
 蛙が言う。
「太陽は何故毎日同じ方角へ落ちるのだ?」
 僕は知っている限りの知識を蛙に伝えた。蛙は成程と言い、頭を少し動かした。頷いているようだった。
「今日通りかかった違う人の子が井の中のカワズと言っていた。成程、そういう事か。」
 蛙はこの世界がまっ平らな地の上にあって、海や川は溝に過ぎないと思っていたらしかった。海を知っているのが意外だった。
「通りかかった旅の鼠が言っていた。とても大きな水の塊で、どうしても向こうまで見えないと。」
 僕も同じような感想を抱いたが、少し違うのだと蛙は微笑んだようだった。鼠は海が真っ平らな地に開いた穴に水が溜まっているものだと思い、ただ遠いから彼方が見えないと思っていたらしい。
「しかし人の子よ、お前は地が丸く、だから遠くになれば見えなくなると知っているのだ。小さな差にも見えるが、これは大きな違いだ。」
 その意見には反対だった。例え地球が楕円だと知っていても、水平線が何故見えるのかを知っていても、独力でその先へ行けない事に違いはない。
「そうだな。だが人の子よ、この、お前にとっては差とすら思えない程小さな違いの積み重ねが、やがて大きな違いになるのではないか?」
 私は蛙でしかないが、と言いかけた所で蛙は池に飛び込んだ。僕の背後からやって来た猫に気が付いたらしい。猫は不機嫌そうに目を細め、
「お腹が空いたわ、何か食べる物を頂戴。」
 と言った。僕は苦笑して頭を掻き、立ち上がって晩御飯の支度を始めた。
 
 

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