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#07 風の回廊
しおりを挟む──巡り巡る。
立って居たのは黄昏の駐車場だった。確かそれなりに高い山の中腹辺りにあるものだったと思う。隣に居た筈の母は居なかった。中央の時計には針が無い。只々夕陽に染まって、金色に見えるアスファルトが広がるだけだった。途方に暮れる。何も思い出せない。何をしていたのだったか、何故ここに居るのだったか。近くに小さな売店があったが、もう営業時間は終わっているらしい。シャッターが閉まっていて、中に灯りはないようだった。売店の端に灰皿があった。胸ポケットにはタバコとライターがある。火を点ける。何がどうなったのか。何の話だ? 煙が揺れた。風が背を押すように動いた。
「一本ぐらい良いだろ。」
風が止んだ。煙は真上に上がって行く。自分もそこに行くのだろう。漠然とそう思った時、また風が吹いた。分かったよ、行けば良いんだろう。タバコを灰皿に投げ入れ、風に背を押されて歩く。駐車場の端に着く頃には昼になっていた。そう長い時間歩いた訳でもないはずだが、まぁ、良いか。階段があった。降りて行くと、すぐに広い平坦な道に繋がっていた。道の両端は、雲の上だろうか、白い何かがゆっくりと動いていた。見上げれば真っ青な空と太陽。鬱陶しいな。風が背を押す。仕方なく歩く。道の真ん中に麦藁帽子が落ちていた。拾い上げてみる。声が聞こえた。視線を向けると、見知らぬ少女が居た。
「お前のか?」
「うん。」
駆け寄って来たので被せてやった。少女は笑顔になって、麦藁帽子を押さえながら頭を下げてくれた。
「ありがとう。」
俺が応える前に少女は雲の上を走り去って行った。何だったんだろう。風が背を押す。されるがまま歩くと道が二本に分かれていた。
「こっちだよ。」
いつの間にか隣に居た少女が右を指差した。さっきよりも少し大人びたように見えるが、相変わらず麦藁帽子が風に飛ばされないように左手で押さえている。今度はせめて右手を上げて応えた。振り返っても、きっともう居ないのだろう。風に背を押されて歩く。燕が数羽、雲から飛び出しては潜ってを繰り返して、青い空へ飛び去って行った。羨ましい。俺も。そう思っているうちにまた分かれ道に出くわした。今度は丁寧に看板がある。右は進入禁止、左は一方通行。歩行者を含む、だそうだ。風は左へ背を押す。けれど妙に右の道が気になった。風が強く吹いた。雲が舞い上がり視界を塞ぐ。目を細めて見る。見慣れた女性と、麦藁帽子の少女が手を繋いで立っていた。それなら、俺が行くべきじゃないか。示された道を行く。もう、戻る事はない。戻ってはいけない。誰かがそう言った。
道を進む。今度は十字路に差しかかった。直進は未来。右は過去、左は、文字が擦れていて読み取れなかった。雲の上の十字路の真ん中に立って左を見る。もう少女ではなかった。麦藁帽子を手にしているが、優しげな顔を困ったように微笑ませる女性が立っていた。
「ダメだよ。君には、未だやる事があるでしょう?」
右にはまた見慣れた中年の女性。最後に見た口元の血の跡はすっかり消えたらしい。ため息を吐いた。どうせ前に進むしかないのだろう。
暫く進むと短い階段があって、それを上ると広場に出た。かなり賑わっていた。食事処が多いようだが、服や装飾品の店もあるようだった。おかしな事は一つだけ。行き交う人の顔に目と口が無い。
「おや、お前さん、駄目じゃないか。未だちゃんと死んどらん。」
一人、眼鏡をかけ、杖を着く老人が話しかけて来た。
「目も口もあるモンがこんなところにいちゃいかんよ。」
老人が笑う声だけが聞こえる。
「儂らはここで冥途の土産を買って行くがな。お前さんは何も買わずにあっちへ進め。いいか? 絶対に、何も買っちゃならんぞ?」
妙な説得力があった。幾つもある店には魅力的な物が幾つもある。翡翠のペンダントに見事に磨き上げられた銀のリング。見る角度によって色が変わる月型のイヤリング。俺も何か土産を。見抜かれたのか、目の無い老人がそれでも睨んでいると分かった。気押されて老人の言うあっちとやらに足を進めた。小さな柱に小さな屋根。その下に足の細い灰皿があった。さっきは中途半端だったな。胸のポケットからタバコを取り出して火を点けた。
「お父さんそっくりね。」
目と口が無い女性が居た。誰かは、知らなくて良いのだろう。
「そりゃそうでしょ。」
麦藁帽子を手にした別の女性が言う。
「大きくなったわね。桜をお願いね。あの人だけじゃ、頼りないから。」
「酷い事言うねぇ? ね? 君もそう思うでしょ?」
煙と言葉を吐き出す。
「名前。」
「ん? ああ、決めてくれる?」
産まれる事の無かった水子。正確にはその直前で死んだと決められた所為で名を与えられなかった子。
「椿。」
「うん、桜の姉の椿か。良いね。」
そう言った姿はもう消えていた。タバコももう吸い終わる。行こうか。広場を抜ける。また雲の上の道だったが、今度は霧がかかっていた。踏み外したら、あの広場から老人達と同じ場所へ行く事になるのだろうか。それも悪くないな。そう思いかけた時、突然大きな白い鯨が道を飛び越えて行った。その風圧で霧が吹き飛ぶ。助けられたのだろうか。吹き飛ばされた霧の向こうから一匹の犬が駆け寄って来た。しゃがみ込んで受け止めてやると散々顔を舐められた。
「エリー、くすぐったい。」
知っている、と言うか家族だ。エリーは俺の腕を擦り抜けると大きく高い声で吠えた。付いて来いと言っているらしい。風が吹く。背中を押される。分かってるよ、進む先に、未だあどけない顔の少女が居た。
病室には白い鯨の絵が飾られていた。燕の絵もある。少しだけ開けた窓からは風が滑り込んできている。涙目の妹の胸には誕生日に贈った翡翠のペンダントがあった。イミテーションだろうが、大事にしてくれているらしい。
理由は何だったか。確か大学のエントランスの階段を転げ落ちたんだったか。誰かを受け止めた所為だった気もするが、まぁ、良いか。
「お兄ちゃん、お帰りなさい。」
体中の感覚が鈍い。痛みも感じない。麻酔でも入っているのだろうか。
「早く治して帰ろうね。エリーもお父さんも待ってるから。」
父は、まぁ、仕事の目処が立たないのだろう。忙しい男だ。エリーは、さっき会ったばかりだ。
「なぁ、桜はずっと看ててくれたのか?」
「うん、」
言葉が途切れて涙が溢れた。
「ありがとな。」
自由に動かない腕を伸ばして、頭まで届かなかった。桜は俺の手を取って頬に当てた。
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