アイロニー・シンフォニー

笹森賢二

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#08 或る亡霊

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   ──夏の終わりに枯れる花。


 何の事は無い。季節が少しずつ巡って行くだけだ。降る雨に紫陽花が咲いて、降る陽射しに枯れた。そうして咲いた向日葵ももう終わる。朝夕に流れ始めた涼しげな風は秋桜を育てる。一月かそこからで金木犀も花をつけるだろう。
 不思議な事は一つも無い。
 梅雨になったから紫陽花が咲いて、盛夏に向日葵が花と種を広げた。終わるなら種を落とし、また次の花が咲く。金木犀は少し違うか。この国では結実しない。
 少し笑った。
 かつて君が言った通りじゃないか。
「たった一人で、実る筈がない。」
 晩夏か初秋か、早朝だったか夕暮れだったか、果たして何年前だったか。もう覚えちゃいないが、確かに君はそう言って、それは正しかった。
 なら、それで良いじゃないか。
 不思議は一つも無い。
 君は正しくて、僕は間違っていた。それでも、底を這って生きる程度はできている。今更、腕を掴まれても、もう起き上がる程の気力は無いし、そんな無駄な事をする心算も無い。
「納得が、できない。」
 小さな部屋の隅、君が呟いた。今ぐらいは分かる。晩夏の夕暮れだ。場所は僕の塒だ。幸いな事に安くて広い部屋を借りられた。台所と食堂は狭くて良いし、居間は寝る場所さえあれば良い。一部屋余ったからアトリエだなんて言って、少しずつしか集められない画材と、少しずつしか描けない絵を置いている。不満は無かった。好きな物を好きなように描いて、多くなり過ぎたら燃やしてしまう。誰も分かってくれないなら、誰も知らなくて良い。
「どこかに売り込んだ事は?」
 もう興味が無いのだった。何度かは試してみたけれど、奇抜すぎるらしい僕の絵に買い手はつかなかった。それでいいさ。望みは絵を描く事で、金に換える事じゃない。細々と別の仕事をしながらでも、絵は描ける。
「じゃあ、もう少し幸せそうな顔をしてくれ、もう少し、何か、食べてくれよ。そのままじゃ、君、本当に死ぬよ?」
 そう言えば同僚に似たような事を言われたような気がする。それにも興味が無い。体のだるさにも喉の苦しさにも慣れてしまった。指が筆を握って、腕と肩が、体が絵を描ければそれで良い。実る事がないなら、枯れ落ちて腐り果てるだけだ。ただそれを待っているのかも知れない。それにさえ興味が持てなかった。今でも一時間後でも、明日でも、明後日でも、それで良かった。
「その時まで好きに描いてるさ。放っておけよ、あの時みたいに。」
 何故か君の瞳から涙が零れた。理由は理解できなかった。不思議だとも思った。一度捨てたのだから、もう構う必要はないだろう。
 まぁ、良いか。
 まだ体は動く。僕は思うままに筆を動かし続けた。
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