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#16 冬の日
しおりを挟む──滔々と。
雪が降り始めたのは昨晩の事だったと思う。延々と舞い降りる結晶は雲の向こうで太陽が昇る前に庭を白く染め上げた。私はぼんやりとそれを眺めている。辺りが明るくなり始めると、雪はどんな色に見えるだろう。そんな事を考えていた。
熱燗がある。肴がある。かつてぎこちない笑顔を浮かべていたその人が、今は柔らかく笑っている。幸せなのだろう。仄かに酔いが回り始めた頭にそんな言葉が浮かんだ。
煙草を銜える瞬間に考えた。連れが酔い潰れて眠った瞬間に考えた。窓の外で雪がちらつき始めた時に考えた。帰ろうかな。
人の命の儚さと、陽射しに融ける雪の儚さは、如何かな、同じもののように思えないかね?
日々何かを騙して生きている。それは他人であったり、自分であったり、或は言葉を交わす事さえできない何かであったりする。悪い事だとは思わない。良い事でもないだろう。如何でも良いのだ。例えばその事に関する評価が唯一つ定まったところで、何も変わらない。良い評価であるからと言って積極的にするような事ではないし、悪い評価だったからと止められるものではない。一つだけ。自分以外の何かを傷つけずにいたいとだけ願った。
その人は大きな椅子に腰を掛けて本を読んでいた。赤い膝掛けが見える。焦げ茶色の本の表紙によく似合うと思った。傍らの小さなテーブルには未だ暖かいらしい飲み物を湛えたカップがある。恐らく紅茶だろう。逆隣に赤々とした炎を抱えるストーブがある。その上には薬缶が乗っていて、ゆらゆらと湯気を上げている。夢の中を歩いているような、奇妙な感触があった。僕は二つか三つ、言葉を投げた。その人は本から目を離し、僕の言葉を丁寧に受け取って、微笑んでくれた。
新しい冬の、一番最初に降る雪が一番綺麗だから。そいつは曇り空を見上げてそう言った。予報は未だ平野では雪は降らないと言っていたが、季節はもう冬と言えるようになってから久しい。もしかしたら。期待をしている訳ではないし、この青年の言葉を真に受けた訳でもない。但、もしそうであっても不思議ではない。
長く続いた沈むような日々を抜けると喧騒が待っていた。身を潜めていたらしい面倒事や問題は次々に顔を出し、僕はそれを抱えて駆け回っている。人や社会は優しい訳ではない。貧しい者、困っている者からは取り上げないのではない。存在しない物は取れないだけだ。だから有る所に群がるし、無い所は閑散としている。悪い事ではない。雲や霞を食べて生きてゆける訳ではないのだ。
まぁ、良いさ。
昔より遅いように感じる初雪の下で誰かが呼んでいる。僕はその方向へ歩き出した。
月の光が敷き詰められた庭が、まるで雪が積もっているかのように見えた事があった。青白い月の光が葉の上で跳ねて、そう見えた。見えただけだ。好きだとも言っていないし、綺麗だと言ったのは月の光の方であって雪ではない。
「ふむ、相変わらず君は面白いのだね。」
瑠璃は喫茶店の窓の向こうに落ちる雪を眺めながらそう言った。
「では、雪は嫌いなのかい?」
嫌いではないが、綺麗だとは思わない。一見綺麗に見えても黒点が混ざっていたり、少し掘り返せば直ぐに土と混ざり汚れてしまう。
「それならば確かに月の光とは違うね。」
もし汚れて見えても、それは月の光を受けるものが汚れているだけだ。
「成程。でも僕は、」
そう言って瑠璃はカップを両手で抱えるようにしたまま雪を眺めた。分かっている。降り注ぐその雪は、どうやら綺麗なもののようだった。
藤沢は珍しく机に突っ伏していた。雨が好きなら雪も好きだろうと思ったが、違うらしい。
「ん~? だってさー、くっ付いちゃうし、きらきらしないしー。」
成程、それなら違う。
「ああ、でも街灯の下なら光って見えるぞ。」
藤沢が顔を上げた。そして俺の予定も決まった。雪は日付が変わるまで降り続くらしい。
煙を入れるなと言われているから、仕方なくベランダに出て煙草を銜えた。なんとも情けない限りだ。俺が稼いだ金で俺が借りている部屋であっても、共に暮らす人間が居れば何もかもが自由という訳にはいかない。初めから分かっていた事だ。だから何度か断ったのだが、半年前に邪魔にはならないからと泣き落とされた。人間のする事だ。もう覚えてさえいないだろう。ため息交じりの煙が流れていった先では雪が降り続いている。何だか無駄に気を使って、何だか無駄な時間を過ごしているうちに冬になっていたらしい。どうでも良い事だ。周りの言うように、だからと言ってする事もないのだ。強いて言うならただ生きて、ただ死ぬだけだ。それならその合間に誰かが居ても良いだろう。友人達はそう言った。恐らく善意なのだろう。だから性質が悪い。せめてもう数ヶ月は我慢してやらないといけない。ふと視線を巡らせると、手すりの隅に雪の兎が居た。ベランダには一応仕切りがあるが、手を伸ばせば隣のベランダに物を置くことぐらいはできる。恐らく隣に住んでいる八つになったばかりの娘さんが置いたのだろう。身を乗り出したら危ないとか、母親に怒られなかっただろうか。そんな事を考えながら雪の兎をこっちへ向けた。目は赤い南天の実だった。優しそうな雰囲気だったが、明日には融けてしまうだろう。少し笑った。せめて同居人も一日ぐらいこの兎のように大人しくしていて、できれば明日の昼にでも融けてくれれば良いのにと、酷く虚ろにそう思った。
風が止むと庭は落ち着きを取り戻した。未だ止まない雪だけがただ静かに積もってゆく。
冬の暮らし。
雪に足を滑らせ尻餅をつきながら。
屋根に、道路に積もった雪を苦労して除けながら。
雪を、冷たい風を利用しながら。
凍える世界の中で、それでも生きている。
目を閉じれば目蓋の裏に冬の景色が残る。もう一度目を開けて、おや、如何やら雲の切れ間から陽射しが注いでいるようだ。
(了)
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