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#17 静寂
しおりを挟む──巡り綴られる季節。
朝から暑い日だった。外に出ると人々の生活は既に始まって居た。朝餉を支度する音と匂い。犬を連れて散歩する人。前だけを見据え走る青年。私は溜め込んで居た塵を集積所へ放った。同じように小さな塵袋を収める中年の女性と挨拶を交わした。他にする事も無く塒へ戻る事にする。途中見上げた緑は青々と茂って居た。
よく面倒が寄って来る。同僚がやり損ねた仕事の始末。足りない人員の穴埋め。特段断る理由も見当たらず、漠然とこなした。
「お前はまるで吊るされた男だな。」
占いに詳しいらしい知人はそう言って居た。私は微かに笑ったのだと思う。知人は酷く困ったような苦笑いを浮かべた。
秋桜が咲いた。風の温度と向きが変わって金木犀が香った。楓の葉が色を変えて行く。どれも生家の庭に在ったと思う。けれど、其処に在った筈の顔は誰一人として思い出せなかった。
炬燵布団を厚手の物に替えようか迷って居た。猫がソファの上、タオルケットを避けて陽射しの中で眠って居た。未だ早いか。
父が死んだ。久しぶりに訪れた実家では身内の醜悪が見えた。私は其の全てを放棄した。二度と此の地を踏む事も、彼らに会う事もないだろう。
殆ど惰性で生きて居るだけだった。酔う感覚すら忘れる程酒を呑み、訳も無く煙草を吸った。今日も来客は無い。一日一日、只退屈に過ぎて行った。紙とインクと文字を消費するだけだった。
何もかも使い切って仕舞えば楽になるだろう。
厭になって外に出た。初夏に入ってからずっと曇り空が続いている所為か、蝉の声は聞こえず向日葵は下を向いていた。見上げれば今日も幾重にも重なるように千切られた雲が空を覆って居た。
去年はどうだったか。思い出しかけて、止めた。日々は只過ぎて行く。私は何処へ行くのだろう。私は何に成るのだろう。それさえ。
金木犀の香りも消えた。赤い楓の葉も落ち始めた。黄昏は山吹色が強いように思えたが、何も感じなかった。時間は只未来へだけ進んで行く。
常夜灯を消して暗闇に目が慣れるのを待ってみる。天井を見上げる。右へ左へ寝返りを打つ。眠れない。幻覚と幻聴が部屋中に、部屋の外にも溢れて居る。
其れでも僅かに微睡んだ。
数十分か、数時間か、悪夢の中に沈んだ。目が覚めればまた幻覚と幻視。何度も何度も繰り返す。寝汗も酷い。時計は延々と廻り続ける。外は少しずつ白み始めているが、朝は未だ遠いようだった。
暦は大寒から立春へ。空は気紛れに色を変え、風を吹かせ雪を降らす。思えばおかしな作りだ。寒さの底から少し這い上がっただけで春の気配等感じるものなのだろうか。勿論突然春の陽射しと暖かさが訪れてもそれはそれで驚くのだろうが。まぁ、良いさ。今日も温かい布団の中で目を覚ます。ろくな暖房はないから陽射しだけが頼りだが、それさえ気紛れな雲が遮ったりしている。簡単に朝食を済ませて、溜まったゴミを集積場へ。ボロアパートの周りに昨夜降ったらしい雪を適当に掃き散らしておく。然程積もっていなかったが動かしておかないと中々溶けない。部屋に戻れば、もうする事は無い。俺は夢も希望も無い落伍者で、世間のお零れに与かって生きているだけだ。
いつからそうだったか。
考えるだけ無駄か。昨晩夢に出た見知らぬ少女も言っていた。全てはそこにあるだけで、意味と理由は後付けだ。何かが無くなれば代わりを用意する。それ、はただその性質に従ってそこにあるだけだろう。考えて理解した気になったところで自己を満足させるだけだ。全く愉快だ。どれだけ崇高そうな物も結局は自身の性質上そう見えるだけだというのに、誰しもそれを口にして、行動に移して、それが真っ当だという顔をしている。
だから、こうしているのだろうか。
馬鹿馬鹿しくなっただけだろう。何がどうあろうと最後は心臓が止り、脳が腐り、残った物も燃やされるか、緩やかな微生物の分解によって骨になり朽ち果てる。何を残そうがそれは後世の物が勝手に使うだけだ。そこらの石と同じだろう。希少だろうがそこら辺に転がっていようが、所詮石は石だ。勝手に価値を付けられてその身を加工されて望もしない形にされる。
それならば、何もしない方が良い。血の滲んだ足跡を延々と並べた果てに何かを手にするより、一瞬の快楽の為に一生を棒に振る方が余程手っ取り早いだろう。初めから与えられなかった物をどんな努力で手に入れたとしても、それはたった一言に収められ、最後に待っているのは死だ。
煙草を銜えて白い壁に背を当てた。外は薄日とちらつく雪。春が深くなる頃には何か変わるだろうか。何も変わらないか。遅かれ早かれ全ては熱を失い塵さえも残らない。その日まで、せめて何か、とも思えずただ呆けたまま降り止んだ雪を見送り、煙草に火を点けた。
(了)
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