アイロニー・シンフォニー

笹森賢二

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#19 憧憬

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   ──雨音と土の匂い。


 昼だと言うのに薄暗い。初夏だと言うのに肌寒い。空は鉛色、ぽつりぽつりと雨も落ち始めているようだ。テーブルの上ではコーヒーを淹れたカップが湯気を上げている。今日はもうする事も無い。少しばかり思いに沈むのも悪くないだろう。


 窓越しに庭を見ていた。降り出した雨に、水溜りが出来る瞬間を探していた。結局飽きてしまって、目を離している間に水溜りが出来ていた。そしてまた、いつの間に出来たのかと不思議に思った。その程度には子供だった。


 深い鉛色の雲が広がっていたけれど、雨は落ちて来なかった。何かに似ている。母の身体が灰に変わって行く。余りの実感の無さに、涙は出なかった。


 雨粒が煙を叩く。広げた傘の上で鳴る音は、不思議と不快ではなかった。何処へ向かっているのか、何をしているのか。思い出せない、と言うより解っていなかったのだろう。彷徨は続く。その時はそれが永遠だと思っていた。


 ベランダで煙草を銜え、頬杖を着いていた。視線の先には黒と赤の小さな傘。自分には無かったな、そう思いながら溜め息と一緒に煙を吐き出す。振り返ると、困ったような微笑が居た。


 読書に耽っていると土の匂いがした。夕立らしい。開けたままの窓から入り込んで来ているらしい。
「閉めましょうか?」
 よくプランターの土を弄っている妹君は土の匂いが好きらしい。珍しい奴だ。
「吹き込まないならそのままで良いよ。」
 煙草もコーヒーも、もう少しだけ待つとしよう。


 暮れかけた陽光が雲を裂いて落ちる。かなり水を吸って重くなっているハズのスカートが軽やかに舞う。光を受けて輝く雫は彼女を中心に広がり、舞う。そして俺は、その背中に真っ白な翼を見た。


 麦酒、煙草、雨、夜、下がった温度と上がった湿度。時計の短針は天井に近い。
「さて、私は抱き枕にでもなろうかね。」
「暑くないか?」
「いや? 朝にシャワーでも浴びれば良いだろう?」
 偶には違った答えを、と思い頭を撫でてみた。少し意外、と言うような、普段は余り見れない顔が見れた。


 日が暮れた。雨は止んでいた。雨に濡れた夜の街が残った。耽るのもそろそろ止めにしよう。夜と朝の支度をしなければ。
(了・雨)



 広がる水面を滑るように渡り届く風は涼やかだったが、微かな水音も、凍える季節をやり過ごして繁る緑も、何か煩い。都会の、人々の喧騒に比べれば悪くは無いが、良くも無い。私は今、木々に囲まれた湖畔に在る小屋に滞在して居る。名目は療養。実際は怠惰を貪って居るだけだ。
「必要最低限だが、揃っては居る。電気が欲しければ発電機を回せ。」
 世間からは変人と呼ばれている友人はそう言って帰って行った。
 そして私は一人此の湖畔の小屋に残された。もう暖房が必要な季節では無い。貯蔵庫はあるが、日持ちのする物を必要な分だけ置くだけのようだ。併設されているさらに小さな物置小屋には釣り具や猟、その後の処理に使うらしい道具や燃料が揃って居た。変人の趣味、らしい。流石に猟に使う道具の類が入った棚は厳重に施錠されて居た。
 小屋に戻り、何もする事が無い。太陽はやや傾き始めている。一応電気も通せると言って居たが、木製のテーブルの上のランプで充分だろう。何をする訳でも無いのだ。棚から酒と水を取り出し、少し飲んだ。瓦斯は使える様だったから干し肉を少し炙って食べた。
 二日目は殆ど眠って居た。鳥の声が妙に耳についた。
 三日目に原稿用紙を広げたが、ペンは持たなかった。何も書く事が無かった。
 四日目に一枚書いた。怠惰に飽き始めて居た。
 五日目に成って漸く外に出た。木の扉を押し開けると、風景が何か違って居るように見えた。室内に篭り切って居た所為で少しばかり感覚が変わったらしい。取り囲む緑も、水の音も、鳥の声も、好ましく思えた。ふらつく足を動かして湖畔を歩いてみる事にした。そうしてぼんやりと考える。切欠は何だったか。あの黄昏の山に取り残された日か、伯父の遺体と骨を見た日か、何一つ調和の取れ無かった家庭か、母の横死か。不運と不遇か。裏切られたのだとはっきり理解できた時か。其れとも、すっかり色の褪せてしまった日常か。どれも合って居るようで、どれも違って居るのだろう。私は、私のまま延々と過ぎる日々に削り取られて行っただけだ。
「貴様は人を信用し過ぎる。少し位傲慢でも、他人は大して困らんし、そもそも其処まで見て居るような暇な人間の相手などする必要は無い。」
 件の友人はそう言って居た。如何受け取るべきなのだろう。私も、恐らく彼の言う他人も、そうそう変われる物では無い。
 濁った思考を払うように風が木々を揺らした。見上げると小さな鳥が蒼い空の、陽光の中へ飛び立って行く処だった。視線を戻せば変わらずに水面が広がって居る。もう、どれだけの時間此処に在るのだろう。季節に色を変えながら、何時まで此処に在るのだろう。意味も理由も無い。其処に在るのだから、其処に在るだけだ。
 此の風景には似合わないエンジン音が聞こえた。
「よぉ、少しは顔色が良くなったみたいだな。」
 件の友人が食料と燃料を持って来たらしい。
「偶には釣りでもしたらどうだ?」
 一通り見て回り、補填を済ませた友人は呆れた顔で言った。私は答えなかった。今は未だ、恐らく悠久の時を経たであろう水面の近くで、静かに暮らしてみようと思った。
(了・水面)

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