架空の雲

笹森賢二

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#06 降り止まぬ雨の後

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    ──眠れぬ夜に。



 白い壁に掛けた時計の秒針が滑るように周る。日が暮れたのは何時だったか。雨が降り始めたは何時だったか。狭い机に原稿用紙を広げたのは、安物のボールペンを握ったのは、何時だったか。僕の背後で嘆き事を呟く女性は何時から居るのだろう。

 雨が降っていました。スマホの電源は切りました。時計の電池を抜いて、約束の時間に合わせてテーブルの隅に置きました。紅茶を淹れる為に沸かしていたお湯はすっかり冷めてしまいました。私はテーブルに突っ伏したまま、彼が来るのを待っています。けれど、気づいてもいました。きっと彼が来ない事。数週間くらい前でしょうか、共通の友人から彼が見知らぬ女性と歩いていると知らされていたから。それでも、良いと思っていました。都合の良い時に、都合良く会ってくれるのなら、それだけで幸せでした。
 雨が降っています。きっと、初めから分かっていたのだと思います。特段人に誇るもののない私より素敵な女性はこの世にごまんと居ます。何でもできる彼なら、その中から選ぶ事だって簡単な事なのでしょう。

 ボールペンを原稿用紙の上に放り投げた。続きを書きたく無かった。悲劇にするにせよ喜劇にするにせよ、其れは有り触れた物にしかならないと思った。そもそも名前も顔も決められ無かった架空の女性だ。此のまま原稿用紙を丸めて塵箱に放って仕舞えば、次の物語を書き始められる。「そうやって、また私を殺すつもりですか?」背後から声が聞こえる。耳を塞ぐ。立ち上がって狭い台所へ向かい、換気扇を回した。煙草を銜え、火を点す。五枚の羽が周り煙を外へと吸い出して行く。同じ様に、そう思いながら半分も吸って居ない煙草を灰皿に押し付けた。

 雨はまだ止みません。スマホの電源を入れました。すっかり冷めた水を温め直しました。時計に電池を入れて、起動したスマホの時間に合わせました。棚から半分ほど残っているブランデーの瓶を出しました。お湯が沸いて、紅茶を入れる準備ができても彼が来なければ、入れてみましょう。普段お酒は一滴も飲めないのですが、使う人が来ないのではあれば自分で使うしかありません。捨ててしまうのも勿体無いですし、馬鹿馬鹿しいですから。夕飯にと用意した少しだけ豪華な食材は、すぐに腐ってしまうものではありませんし、一人で処分していけば良いでしょう。ワインは、未開封ですので友人にでも上げてしまいましょうか。雨は変わらずに降り続けていて薄暗く、時計を見なければ夕暮れが近いのか遠いのかすら分かりません。
 ほんの少しだけ笑っている間にお湯が沸きました。

 僅かに空腹を覚えた。直ぐに食べられる物は無かった筈だ。そう言えばそんな莫迦げた怠惰に任せて夕飯を摂って居なかったのだったか。原稿用紙を床に置いて、台所へ向かう。乾麺と具材は有る。使い古した鍋を適当な量の水で満たして火に掛ける。少し笑った。何をやって居るんだ。他にする事は山程在るだろう。

 あの人はもう帰って来ません。でも、貴方にはその最後まで、私も価値があるでしょう?

 辞書の頁を捲る。文字を書き連ねる。背後の女性は少しだけ笑った様だ。ペンを走らせる右腕が僅かに痛んだ。鈍ったな。言葉も尽きかけて居る。其れでも、僕には此れしか残って居ない。

 そこまで、とは言わずにおきましょう。私が望んだ事です。でも、そうですね、温かいコーヒーぐらいは淹れましょうか。確かブラックで良かったハズです。

 漸く原稿用紙が埋まった。未だ終わりじゃない。もう一度最初から見て、直す所は直して、要らない物は切り捨てる。

 朝の陽射しが差していました。カーテンを開けて、コーヒーとパン、そう言えば貴方の家にはトースターがありませんでしたね。卵かベーコンか、フライパンで何とかしましょう。サラダはキャベツの千切りにトマトとハムですか。なら、パンは甘みを控えたフレンチトーストですね。ベーコンは、刻んで添えましょう。

 未だ夢を見て居るのだろうか。朝陽が差し込む居間に食事が並んで居た。ベーコンが散ったフレンチトーストにハムとキャベツのサラダ。味付けは紫蘇のドレッシング。コンソメのスープには味塩と玉葱の千切りが浮いて居た。

「ね? 貴方には私が必要でしょう?」
「ああ。そうだな。此れからも働いて貰うぞ。」
「はいはい。でも、もう雨の日のテーブルに突っ伏すのは嫌よ?」
「分かってるよ。」
 次は、そうだな、黒髪の美女、紅い縁の眼鏡に、少し大袈裟な衣装が良いな。すっかり雨の上がった空を見上げ乍らそう思った。
(了)
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