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#09 移り行く日々の中
しおりを挟む──季節に唄えば。
ひらり、風に舞った花びらがスケッチブックに落ちた。払ってしまっても良かったのだろうが、そう急いでいる訳でもない。凪いだ風が戻るのを待つ。思った通り、僅か揺らぐような風が流れ、花びらをどこかへ連れて行った。隣でくすくすと笑う声もついでに運んできた。視線を向けると長い髪を後ろで束ねた女性が笑っていた。
「何だよ。」
「いえ、貴方らしいですね。」
僕は見下ろす公園に視線を戻して、スケッチブックに当てたままの鉛筆を動かした。丁寧にする必要はない。イメージだけ描き写してアトリエ、とは言えないような狭い部屋に持って帰るだけだ。昔からそうだった。完全な空想も、完全な模写も僕にはできない。街中に散らばったイメージを拾い集める。写真でも良いだろうと何枚か持って来てくれた人もいたが、そもそも他人から貰った物は作品に出来なかったし、一度自分でも試してみたけれど、描き上がるのは空想とも模写とも言えない出来損ないばかりだった。そんな訳で暇があれば街中を歩きまわる僕の隣に、いつの間にかこの女性がいるようになった。
「少し休みませんか?」
言いながら小さな荷物から水筒と、小さなカップを二つ取り出した。
「ああ、後少しで終わる。」
ちらほらと絵に値が付くようになり始めても、何も変わらなかった。ある大家は「旅行でもして」云々と言っていたが、まだ足りない。正確な数は分からないが、百に近い程描いたらしい。それでも、足りない。
「どうぞ。」
鉛筆を置いた僕に微笑む女性がカップを渡してくれる。受け取りながらその黒い髪に薄紅の花びらが飾られてたが、言わずにいよう。
(了・君の住む街で。)
「雨、止みませんねぇ。」
停留所、雨、高校の制服を着た少女。最終のバスまで後十五分。偶々同じ地方で産まれて、偶々同じバスを待っているだけだ。
「バスも来ませんねぇ。」
雨は止まない。後頭部で結んだ髪がパタパタと動く足に合わせて揺れる。偶々他に人は居ない。
「ねぇ、兄さん。」
幼い頃から少女は僕をそう呼ぶ。
「スイカでもやってろ、まだ二つは作れてないんだろ?」
「ん? あ~、そうですねぇ、手伝って下さいよ。それか、」
ごそごそと探って出て来るのは、かしゃかしゃと安い音を立てる小さな将棋盤だった。
「どうです? 急戦なら丁度間に合うかもしれませんよ。」
停留所。ベンチ、素早く位置に着く駒達。何の考えも無く進まされる歩兵。
「お前さ、」
「何です?」
「鬼畜とか言われないか?」
酷い盤面だった。考え無しに駒が暴れ回っているが、少女の細い指先に導かれた駒達は一応の形を作っている。
「兄さんの他に本気出した事ないですから、言われてないですよ。」
雨粒を弾きながらバスが滑り込んで来た。小さな盤を持つ少女の代わりに整理券を二枚取る。
「おや、これは鷺宮定跡かい? 若いのに凄い事するねぇ。」
一瞬で見切ったらしい老人がぼやいた。知らない人ではない。そもそも帰るのは小さな町だ。知らない人の方が少ない。
「相振りは趣味じゃないんですよねぇ、兄さんは直ぐ振っちゃうんでこうです。」
軽い囲い、鮮烈な攻め、成程、らしいと言えばそうか。無邪気で獰猛な瞳が僕を見上げている。
「雨、止まないな。」
言いながら置いた駒は恐らくは急所、に刺さったらしい。うめき声と老人の笑い声が聞こえた。
(了・雨と駒)
縁側に腰を据えて真夏の景色を見ていた。確か、麦藁帽子で叩かれた日も、こんな暑い日だったと思う。
「はぁ、今日も昼行燈ですか。偶には笛でも吹いてみては宜しいのでは?」
添えるように置かれた麦茶の中で氷が音を立てた。
「私には無理だよ、息が続かない。」
白い少女は苦笑いを浮かべながら隣に座り、からりとグラスの中を揺すった。
「不思議ですね。音は溢れていて、貴方はそれを使えるのに。」
驟雨。何もかにも掻き消してくれる。少女、いや、もう女性か、彼女は雨音に隠すように何かを言った。知る必要はないだろう。
「二階の、」
「閉めましたよ。全く、貴方は私が居ないと何もできないのですね。」
事実だった。変える気も無い。彼女がそこにいる限り。
(了・夏の午後)
まだ色を残した葉が舞う。
「綺麗ですね。」
君はそう言った。僕は黙っている。晩秋、初冬、どう言えば良いのだろう。そればかり考えていた。
「貴方の好きになされば良いと思いますが、」
汲み取ったらしい君が言う。それでも僕は言の葉を探している。
「らしい、ですか。」
君は空を見上げた。青い空に飛行機雲が尾を引いていた。ぼんやりと呆ける僕に君は言う。
「少し、残りますか。次は?」
無くても良い。遠く高い薄青の空は次の表情を見せてくれるだろう。
「そうですね、おや、クマバチですね。」
青い空を背に丸く太ったような蜂が必死そうに羽根を動かしている。
「ふふっ、可愛いですね。」
「ああ、そうだな。」
煙草に火を灯す。煙は、緩い風に流れて行った。
(了・秋の午後)
縁側に冷たい風が流れた。上は曇天。そろそろ、と思っていたら湯気を上げる湯呑みが置かれた。
「降るでしょうか。」
無駄な言葉は吐き出さない。それが不安と思える女性は裾を直しながら隣に座った。
「さぁね、僕は予報士じゃ無い。」
「でも、貴方の風読みはよく当たります。」
水は器に沿う。器の形さえ見えれば、当然と結果が見える。
「器、見えましたか?」
黒髪を耳に流しながら彼女は茶を口に含んだ。僕は頭をぼりぼりと掻きながら茶を啜る。
「兆しは見えた。でも、器は未だ見えない。」
少し温度が下がった。もう、直ぐだろう。
「晩は?」
「そうですね、鍋でも作りましょう。降る、のでしょう?」
曖昧に返事をして居間へ戻る。未だ少しだけ仕事が残っている。
(了・初冬)
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