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#01 澄んだ風の中で
しおりを挟む──君の隣。
昨日夢を見た。僕は小さな鳥籠を持って丘の上に立っている。扉はもう開けてある。太陽と風が誘うまま、真っ青な空へ逃げ出す事は造作も無いだろう。それなのに、真っ白な鳥は不思議そうに僕を見上げたまま、籠を通り過ぎる風を浴びていた。僕が手を伸べるとそれに乗った。そのまま高く掲げると漸くその翼を広げて風の中へ身を躍らせた。けれど、僕が空になった鳥籠の扉を閉めようとすると、直ぐに戻って来て僕の手を突ついた。何度試しても、小さな鳥は小さな鳥籠の中へ帰ろうとした。
夢から覚めて澄んだ風の中に居た。よく晴れた空から注ぐ光の中、砂利を敷き詰めた道に大きな石が並んで埋められている。自然にできたのか意図しているのか、石の平らな表面には多くの起伏が刻まれていて滑り止めの役割を果たしていた。それが門口から玄関まで続いていて、僕を導いてくれている。果たしてそれが平石であるのか、単に上部を削っただけの石であるのかは知らない。兎にも角にも。長らく戻っていなかった僕の実家だ。見事に手入れのされた松の木が迎えてくれて、奥には金木犀がある。盆まで忙しく働かされ、纏まった休みが取れた今、金木犀はすっかりその花を広げてしまった。まぁ、良いさ。この香りは嫌いではない。もう少し休みが遅れていたら秋の雨に散ってしまっていただろうが、なんとか間に合った、と言う事にしておこう。実際には、忙しさにかまけて一年ぶりの帰郷だ。祖父は若い男ならそんなものだと笑うが、せめて墓参りぐらいは時期に合わせた方が良かったかも知れない。
たった一段ある玄関前の階段に足を掛けた時、丁度扉が開いた。挨拶をしようとしたその瞬間にはもう抱きつかれていた。僕の家族でそんな事をするのは一人しかいない。妹の凛香だけだ。両親や祖父は言うまでもなく、猫のユリは余り僕には懐かなかった。
「お帰りなさい。」
「ただいま。」
軽く頭を叩いてやる。去年会った時よりも少し背が伸びたようだったが、未だ僕より頭一つ小さい。体つきも細いままだ。
「丁度クッキーが焼き上がったところです。さ、早く上がって召し上がって下さい。」
白い指先に手を引かれ、居間に上がると祖父が将棋の駒を並べていた。
「おお、帰って来たか。丁度良い。相手しろ。」
「ダメです、兄様は私の相手をして下さい。」
とりあえず凛香を引きずりながら仏壇に線香を上げ、祖父が窓辺に並べた将棋盤の前に座った。
「凛香、クッキーと、ああ、そうだ、紅茶をいれてくれ。」
「畏まりました。」
渋々台所を横目に歩兵の駒を手に取り、一つ進ませた。祖父は僕よりもずっと強いから、いつも僕が先手を持たされる。だったら駒落ちにしろよと言いたくなるが、祖父はそれを好まなかった。曰く、好きに打たせてやるからいつか勝って見せろ、だそうだ。実際祖父が序盤から戦いに来る事はなかった。一つか二つ穴を用意して僕に攻めさせ、しかし全て受け切って今度は苛烈な攻めに転じる。本当は序盤からそうしたいのだろうが、今までを考える限り祖父が生きている間に僕がそこまで強くなる事はなさそうだ。きっと、それは僕と祖父との思い出の中で一点の後悔となるのだろう。
「仕事は、どうだ。」
相変わらずゆったりと駒を動かしながら祖父が呟いた。
「良くも悪くもない。」
反射的にそう応えてしまってから、視線を窓の外へと振った。盤上に放った手も、どうやら悪手だったようだ。
「悪い癖だな。」
分かっている。僕は、そこにある物を見ていない。少しぐらい悪くても良いだろうと言い、少しぐらい良くても大差は無いだろうと言う。
「一つ一つ手に取れとは言わん。大まかな分類ぐらいはしてやれ。」
僕は他を評価する事が苦手だ。余程必要な場合でなければ、それは軋轢を生むだけで利益をもたらさない。いつか同僚が僕を言う時は言う男だと評価したが、それは褒められたものではないのだ。ある欠点が、それ放置していたら莫大な不利益を生むと判断したに過ぎない。言うべき時に言ったのではなく、言わざるを得ない状況になってしまっただけだ。普段の僕は祖父の言う通り、評価もしなければ分類もしない。他人は所詮他人であり、良くも悪くも、好きでも嫌いでもない。極端な不利益を産む場合にだけ忠告し、多くの利益を産むならば肯定する。唯それだけだ。
「処世術として悪い訳ではないがな。」
そんな生き方は、その関係の持ち方は、余りにも薄い。
自陣に飛車を打ち込まれた。気が付けば桂馬と角が狙っている。分厚い関係を持つ祖父の駒に、僕が形成した囲いはバラバラに崩されてしまっていた。
「兄様、紅茶が入りました。」
凛香が紅茶とクッキーを持って来た。今日は少し待たせてしまったかも知れない。僕も祖父も、将棋を指している時は飲食をしないから、凛香はいつも頃合いを見計らって紅茶を入れているらしい。
「ああ、悪いな。」
カップに口をつけると、確かな熱と香りが伝わってきた。味も、良い。
「啓二。」
祖父が僕の名を呼んだ。妙にくすぐったい気持ちなる。普段は、姓である島内としか呼ばれない。
「凛香と二人で墓参りでも行って来たらどうだ。」
時期は少し外れているがな、と祖父は笑った。恐らくは僕よりも凛香を案じているのだろう。メールやネットでのやりとりを見る限り、妹は今も変わらずに深窓の令嬢であるようだった。
「天気が良すぎるけど大丈夫か?」
凛香は少し躊躇ったようだった。昔から体が弱く、秋口はよく風邪をひいていたからこの時期の外出には特に抵抗があるようだ。
「兄様が、どうしてもと言うのなら行きます。」
僕は、また少し気が沈んだ。頼られるという事、選ばれるという事は、必ずしも嬉しいものではないのだ。
遥か彼方、青く澄みきった空から十分に秋を含んだ風が降りてきている。線香を上げて、ぼんやりと考える。祖母は亡くなる少し前に人を好きになる方法を教えてくれた。けれど僕は未だにそれができない。盆や彼岸に帰って来なかったのは、それが理由の一つでもあった。顔を合わせて、誇るものがない。人より少し回り道をして、平坦な道を歩いてきた。ほんの少し不幸を嘆くなら、それで大きな失敗をしなかった事か。兎にも角にも。今、祖母が目の前に居たら、恐らく僕は頬を張られるだろう。頭に響くようなあの痛みが、それでも僕に前を向かせているような気もする。
「兄様。」
凛香は、ぼんやりと墓を眺める僕を呼んだだけで、それ以上は何も言わなかった。それもまた、僕が仕事ばかりを優先する理由だった。
「少し散歩して帰ろうか。」
手桶を持ちながら言った。凛香も今度は躊躇わずに頷いた。
墓地の周りには桜の木が並んでいる。その木の下には、と誰かが言っていた気がするが、怖いとは思わなかった。例え死人の血を吸い上げ春のあの薄紅色を作るのだとしても、人間だって同じだ。血を吸う機会は少ないだろうが、動物や植物の身を食らって生きている事に変わりはない。精神に関しても同じだ。人の不幸を養分にして育つ植物を誰もが育てている。そうやって開く花は美しく、しかしその根は恐ろしい、のだろう。まぁ、良いさ。
桜の木を見送り、短い坂を登ると小さな川に行き当たる。その堤防の上は砂利を敷いただけの小道が一キロか、もう少し伸びている。理屈はよく分からないがこの道は良い風が通る。凛香は余り良い顔をしないが、僕はその風が好きだった。
「やっぱり、私は苦手です。」
隣を歩きながら凛香は矢張り不満そうに言った。
「そうか?」
「私には少し冷た過ぎて。」
その言葉の意図が分かってしまう。そして僕はその通りに凛香の手を取る。残暑は漸く収まって来たようだが、未だそれ程冷たい風が吹く訳ではない。ただ歩くだけなら丁度良いくらいだ。それでも、僕は凛香の手を握って歩く。ずっと昔からそうだった。僕がそうするから、凛香は僕ばかりを頼るようになってしまった。
「兄様は私に合わせて歩いてくれるんですね。」
そういう言葉は余り聞きたくない。
「恋人でもできたか?」
「いいえ、告白はされましたが、断りました。兄様と比べてしまうと、どうしても。」
僕達は繋いだ手を放せずにいる。いつその手を取ったのかなんて覚えていないのに、時が流れても、距離ができても、ずっと。
「もう、着いてしまいましたね。」
金木犀の香りがした。否、玄関の前まで来て漸くその香りに気が付いた。
「今夜は泊って行かれるんですよね?」
「ああ、昼ぐらいまでゆっくりしてから帰る。」
「もっとゆっくりなされば良いのに。」
そんな事を話しながら、気が付くと凛香の部屋でクッションの上に座っていた。この家に住んでいた頃もそうだった。居間でテレビを見ていても、祖父と将棋を打っていても、部屋で勉強をしても、いつの間にか凛香が隣に居て、いつの間にか手を引かれて凛香の部屋に居た。
「兄様は、お嫌いですか?」
「何が?」
「私がこんな風にくっ付くのは。」
僕は、戸惑った。じゃれて来る凛香を捕まえていたのは、凛香を縛り付けているのは、僕だ。
「兄様が、私を、ですか。」
何故か凛香は嬉しそうな顔をしていた。
「兄様は私がお嫌いですか?」
僕は、僕は、嗚呼、そうだよ、僕が好きなのは凛香だけで、だからずっと傍に置いて、深窓の奥に閉じ込めておいた。白い鳥に首輪まで着けて鳥籠に閉じ込めていた。
「私はずっと、私が兄様にご迷惑を。」
僕は一度たりとも凛香のする事が迷惑だと思った事はない。それだけは、はっきりと言える。
「そうでしたか。嬉しいです。では、遠慮なさらず、兄様のお好きなようになさって下さい。」
いつの間にか目の前に凛香の顔があった。僕が目を逸らすと、凛香はそのまま体を預けてきた。まるでそれが当たり前であるかのように、僕は受け止めていた。
「私の幸せは兄様と一緒に居る事です。」
その気持ちはどこから来たのだろう。それは訊けなかった。
「例えどんな形でも。」
あの夢の中で、真っ白な鳥は幸せだと言った。それを認められないのは僕だけだ。籠の中の鳥は、本当に幸せなのだろうか。そう考えてから、少し笑った。例えどんな形でも。良くも悪くもない世界で、僕が殆ど関心を持てない世界で、凛香だけは特別だった。余りにも不器用な自分に笑いながら、祖母が教えてくれた通りその人とその周りを知る。唯それだけで、僕は少しだけ目の前にある世界が好きになれた。
太陽が一番高い位置に届くまで凛香と話をしていた。本の話、世間を這う他愛のないニュースの話、僕の話、凛香の話。何も不足はない。帰り際、凛香は少しだけ泣いていた。僕はその涙を拭って次に会う約束をした。今日も空はよく晴れていて、透明に澄んだ風が気まぐれに飛び交っていた。
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