4 / 11
#04 晩春の風
しおりを挟む──青く晴れた空の下。
見上げれば雲一つ無い青空。指先で挟んだ紙巻きから上る煙は殆ど揺らぎもし無い。桜は、もう殆ど散った物、緑が目立ち始めた物、少し遅い品種、陽の当らない場所にしぶとく咲き残る物、どれも同じか。予報は明日には雨が降ると言って居た。視線を下げれば何時の間にか緑と次の季節の花が広がって居る。
もう雨の時期が近い。
芝、とは言えないか。とりあえず広がっている緑の上、白いボールが放物線を描いた。右足で踏み切り、身体を捻りながら左手を伸ばす。グローブの先、なんとかボールが収まった。着地しながら一回転してアンダースローで投げ返す。
「おおぅ、よく取れたね。」
少女はまるで屈託の無い笑顔でボールを受け取り、風に乱れた前髪をかき上げた。
「せめて取れるトコに投げろよ。」
「取ったじゃん。」
放物線の高低差が小さくなった。それもさっき俺が立っていた場所を狙って。今度は飛び付かなくても取れた。それでも何だか腹が立ったのでグローブの中で縫い目に指を掛けた。
「うわっ、ちょっと、」
横回転のボールは少女の右手側、グローブをしていない方へ曲がりながら落ちていく。意外にも逆手で取られてしまった。
「にゃろう。」
体勢を直して構えた少女はクイックモーションで腕を振った。嫌な予感しかしない。後ろ向きに走り出す。予想通りすっぽけ抜けたカーブを追いかけて、振り返る。風を受けたのか思ったより曲がった分余裕を持って取れた。
「ち、頭越えないか。」
本気で悔しがっているらしい少女に向かって歩き出しながら緩くボールを放る。軽く受け取る少女は、やっぱり屈託のない笑顔だった。
ベランダの柵に肘をついて煙草を吹かしていた。白昼、青い空を白い雲が流れていく。上空は風が流れているのだろうか。地上の枝葉は全くと言っていい程動いていない。どうでも良いか。所詮些末な事だ。煙草を灰皿に押し付ける。残った煙が僅かに吹いた風に流れた。俺はそれをただ見送った。
それはきっと幻覚だろう。墓地を囲う桜の木。落ちる花びらの向こうに二人、女性と、その人に手を握られた少女が立っている。俺はその二人を知っている。俺は、その二人がもうこの世にいない事を知っている。顔はもうよく見えない。流れた年月が余りにも長ぎて、記憶はすり減り、抜け落ち、微かな面影が残っているだけだ。
花びらが落ち切る前に、少女の名前を呟いた。本当の名前ではないけれど、少女は微かに笑ってくれた。風が流れる。残ったものは、アスファルトに落ちた薄紅の花びらと、夏を迎えに行くような強い陽射しだけだった。
部屋に差し込む陽が短い。春分はいつだったか、夏至はいつだろう。考えるまでもないか。例えばそれが今日だとしても、俺にできる事は何もない。ただ狭くなっていく陽だまりを、そんな名前さえない、太陽の落ちる場所を眺めるだけだ。気温が高くなって光熱費の心配が減るな、ぐらいにしか思っていない。思っていない事にしている。毛布にくるまって陽光が届くのを待つ事もない。隣にあったような気がする熱も、もう二度と思い出す事はないだろう。
歩く。いい加減に直せと言いたくなるような、デコボコになったタイルを敷いた歩道を歩く。枝垂桜が咲いていた。優美とごまかし。世の中など、人などそんな物だろう。何もかもが本当で、真実で、偽りのないもの等存在しない。それ以前に、か、そんな事を考える事自体が無駄だ。そんなものがあったとして、果たしてどんな意味があるのだろう。ようやく若葉を出し始めた銀杏に問いかける。当然返事などない。鎮魂。それも、俺には無理がある。今にも抜け落ちそうな魂を抑える事も、背後で枝垂桜にはしゃぐ魂を鎮める事も、できそうにないのだから。
小さな喫茶店の窓辺、その向こうで風に流されるように人が動いている。いつからかそんな風にしか思えなくなった。風の向き、道端の花、色づく並木。かつて興味を引いていたはずの全てがただそこにあるものとしか思えない。
「そんなものだよ?」
妙な気を利かせたらしい店主が二杯目のコーヒーとサンドイッチをテーブルに置いた。
「金なら払わねぇぞ。」
店主はご自由に、とでも言わんばかりに空になったトレイをひらひらと振ってカウンターの向こうへ戻って行った。過ぎたのは時ではなく、そこにあったもの。変わったのは世界ではなくそこにあったもの。ただ、それをくり返すだけだ。それでいいだろう。もう、何を思うこともないだろう。
気が付けば小さな雲が浮かんで居た。緑の葉が緩く流れた風に揺れた。ほんの僅か、雨の匂いがした。煙草を携帯灰皿に預けて立ち上がる。行き先は丁度風の流れる方向と同じだった。酷く重く感じられる足を引き摺る様に歩き出した。
(了)
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる