アイロニー・セレナーデ

笹森賢二

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#04 晩春の風

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   ──青く晴れた空の下。



 見上げれば雲一つ無い青空。指先で挟んだ紙巻きから上る煙は殆ど揺らぎもし無い。桜は、もう殆ど散った物、緑が目立ち始めた物、少し遅い品種、陽の当らない場所にしぶとく咲き残る物、どれも同じか。予報は明日には雨が降ると言って居た。視線を下げれば何時の間にか緑と次の季節の花が広がって居る。
 もう雨の時期が近い。


 芝、とは言えないか。とりあえず広がっている緑の上、白いボールが放物線を描いた。右足で踏み切り、身体を捻りながら左手を伸ばす。グローブの先、なんとかボールが収まった。着地しながら一回転してアンダースローで投げ返す。
「おおぅ、よく取れたね。」
 少女はまるで屈託の無い笑顔でボールを受け取り、風に乱れた前髪をかき上げた。
「せめて取れるトコに投げろよ。」
「取ったじゃん。」
 放物線の高低差が小さくなった。それもさっき俺が立っていた場所を狙って。今度は飛び付かなくても取れた。それでも何だか腹が立ったのでグローブの中で縫い目に指を掛けた。
「うわっ、ちょっと、」
 横回転のボールは少女の右手側、グローブをしていない方へ曲がりながら落ちていく。意外にも逆手で取られてしまった。
「にゃろう。」
 体勢を直して構えた少女はクイックモーションで腕を振った。嫌な予感しかしない。後ろ向きに走り出す。予想通りすっぽけ抜けたカーブを追いかけて、振り返る。風を受けたのか思ったより曲がった分余裕を持って取れた。
「ち、頭越えないか。」
 本気で悔しがっているらしい少女に向かって歩き出しながら緩くボールを放る。軽く受け取る少女は、やっぱり屈託のない笑顔だった。


 ベランダの柵に肘をついて煙草を吹かしていた。白昼、青い空を白い雲が流れていく。上空は風が流れているのだろうか。地上の枝葉は全くと言っていい程動いていない。どうでも良いか。所詮些末な事だ。煙草を灰皿に押し付ける。残った煙が僅かに吹いた風に流れた。俺はそれをただ見送った。


 それはきっと幻覚だろう。墓地を囲う桜の木。落ちる花びらの向こうに二人、女性と、その人に手を握られた少女が立っている。俺はその二人を知っている。俺は、その二人がもうこの世にいない事を知っている。顔はもうよく見えない。流れた年月が余りにも長ぎて、記憶はすり減り、抜け落ち、微かな面影が残っているだけだ。
 花びらが落ち切る前に、少女の名前を呟いた。本当の名前ではないけれど、少女は微かに笑ってくれた。風が流れる。残ったものは、アスファルトに落ちた薄紅の花びらと、夏を迎えに行くような強い陽射しだけだった。



 部屋に差し込む陽が短い。春分はいつだったか、夏至はいつだろう。考えるまでもないか。例えばそれが今日だとしても、俺にできる事は何もない。ただ狭くなっていく陽だまりを、そんな名前さえない、太陽の落ちる場所を眺めるだけだ。気温が高くなって光熱費の心配が減るな、ぐらいにしか思っていない。思っていない事にしている。毛布にくるまって陽光が届くのを待つ事もない。隣にあったような気がする熱も、もう二度と思い出す事はないだろう。


 歩く。いい加減に直せと言いたくなるような、デコボコになったタイルを敷いた歩道を歩く。枝垂桜が咲いていた。優美とごまかし。世の中など、人などそんな物だろう。何もかもが本当で、真実で、偽りのないもの等存在しない。それ以前に、か、そんな事を考える事自体が無駄だ。そんなものがあったとして、果たしてどんな意味があるのだろう。ようやく若葉を出し始めた銀杏に問いかける。当然返事などない。鎮魂。それも、俺には無理がある。今にも抜け落ちそうな魂を抑える事も、背後で枝垂桜にはしゃぐ魂を鎮める事も、できそうにないのだから。


 小さな喫茶店の窓辺、その向こうで風に流されるように人が動いている。いつからかそんな風にしか思えなくなった。風の向き、道端の花、色づく並木。かつて興味を引いていたはずの全てがただそこにあるものとしか思えない。
「そんなものだよ?」
 妙な気を利かせたらしい店主が二杯目のコーヒーとサンドイッチをテーブルに置いた。
「金なら払わねぇぞ。」
 店主はご自由に、とでも言わんばかりに空になったトレイをひらひらと振ってカウンターの向こうへ戻って行った。過ぎたのは時ではなく、そこにあったもの。変わったのは世界ではなくそこにあったもの。ただ、それをくり返すだけだ。それでいいだろう。もう、何を思うこともないだろう。


 気が付けば小さな雲が浮かんで居た。緑の葉が緩く流れた風に揺れた。ほんの僅か、雨の匂いがした。煙草を携帯灰皿に預けて立ち上がる。行き先は丁度風の流れる方向と同じだった。酷く重く感じられる足を引き摺る様に歩き出した。
(了)

 

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