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#11 春の悪夢
しおりを挟む──幻想の白。
濃い霧の中を歩いていた。足元はコンクリートだが、無秩序な小さな水路が張り巡らされていて、一々跳びこえて進まなければならなかった。どこへ向かっているのかも分からない。ただただ、僕は足を動かす。やがて神殿の入口にあるような太い石造りの柱が二本見えた。その先にある建物は、なぜか知っているような気がした。柱の間を抜け、一度振り返ると、低木も高木も水路と同じように並んでいる。ため息を吐きながら振り返る。僕はここへ何をしに来たのだろう。考えても仕方がない。建物に入ってみると人影は無かったが、受付らしきカウンター、廊下、壁、椅子、木製の扉はどれも綺麗に手入れされているようだった。そうして、思い出した。ああ、そうだ、僕は傘を取りに来たのだった。
古アパートの自室、広さや少ない家具の配置が微妙に違う。知らない顔の人間が数人ずつ立っていた。誰も僕に興味を示さなかった。一人だけ、白い服の女性が隣で僕を見ていた。男にしては背丈の低い僕よりも少し背の低い。長い黒髪が目を隠しているが、赤い唇がやけに目についた。
「ねぇ、××県の県庁所在地って、どんな名前だっけ?」
親しげな声が問い掛けて来る。けれど、僕は彼女を知らないし、そんなものスマホで調べればいいだろうと思ったが、知っている地名だったので答えた。僕は微妙に変わった部屋の散策と部屋に点在する人々の顔を横眼で見て周る。無くなった物はないようだが、配置が違う。女性は小さな足音を立てながらまた隣に並んできた。
「ねぇ、××が死んだのっていつだっけ?」
正確な年号も享年も知らないが、確か戦後だったハズだと答えた。何故か和室に置かれていた長テーブルにノートパソコンが置いてあった。開いてみないと分からないが、恐らく僕のものだろう。
「ねぇ、」
パイプ椅子に座り、開いてみる。見慣れたパスワードの入力画面があった。
「調べてみてよ。」
女性は隣の椅子に座りテーブルに突っ伏すと腕に乗せた顔をこちらに向けて、言った。
「私が死んだ日も。」
外は強い風が吹いているようだった。見慣れない男性が扉の前で立ち尽くしていた。よく見ればそれは扉ではなく、壁に書かれた絵だった。
「参ったな、今夜は泊めてくれないか?」
仕方なく家に上げる。昼の間方々に居た人々は消え、代わりに見慣れない布団が二組敷いてあった。はてと考える。確かこの部屋には僕が使う一組しかなかったハズだが、この際丁度良いと諦めるしかない。
「悪いね。」
そう言いながら布団にもぐり込むその男の顔を僕は知らなかったけれど、何故か友人なのだと思った。適当に言葉を返しながら隣の布団にもぐり込み、天井を見上げる。見慣れたシーリングライトが微かに見えた。目を閉じようと思ったその瞬間に、壁の向こう、隣の部屋から女性の悲鳴が聞こえた。思わず見知らぬ友人と顔を見合わせる。続いて何か争うような、いや、一方的な暴力の音が聞こえてきた。
「警察呼ぶか?」
勘違いという事もあるかもしれない。仕方なく布団を抜けだし、玄関へ向かう。呼び鈴を鳴らして、何もなければ騒音の苦情という事にすればいい。僕が玄関のドアノブに手をかける前に呼び鈴がなり、勝手に扉が開いた。その向こうには白い服の女が風に髪をなびかせながら立っていた。相変わらず赤い唇だけが目立つ。今度は少し笑っていた。
「ふふっ、ちゃんと騙されてくれたね。」
夏が近いのか日差しが強い。長い道の右手には切れ目なくブロック塀が並んでいる。左側は、空き地だろうか、延々と短い草の生えた平地が続いていた。僕は何をしていたのだろう。僕は何をしているのだろう。仕方なくアスファルトを踏んで歩き出す。暫く進むと左側にガードレール、ブロック塀の上にはカーブミラーが二つ、どうやら脇道があるらしい。曲がるべきだろうか。考えながら見上げるとやたら高い青空があった。どっちでも同じか。そう思いながら視線を戻すと分かれ道の先に女性が立っていた。
「どっちに行くの?」
手を後ろに回し、僕を見ているようだが相変わらず目は髪に隠れている。すっとほどけた手が脇道を指した。
「ねぇ? 貴方はどっちへ行くの?」
病院、役所、図書館、一通り周ってどこにも傘はなかった。当たり前か。傘があるのは入口の傘立てだ。我ながら抜けているなと思いながら入口に戻る。エントランスの扉を抜けるとすぐに傘立てがあって、恐らく僕のものであろう傘があった。霧は晴れていたが強い雨が降っていた。傘を広げてまた水路を跳びこえて進む。大粒の雨の中、女性が立っていた。雨に濡れた髪が顔に張り付き、わずかながらその目が見えた。青空よりも蒼い瞳。僕はその女性を知っていた。
「やっと思い出してくれたね。」
そして、僕はその名前を呼んだ。
(了)
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