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呼ぼうとして、呼べない名前。知っているのに、そこに居るのに、この距離を縮めることはできない。以前はこうじゃなかった。何も知らない子供だった頃は。たぶん当時も隔たりはあったのだろう。ただ俺が鈍かっただけで。
「失礼いたします」
主人の足元に跪いて靴下を履かせる。まだ眠そうな主人は、ちゃんと目が開いていないし、頭がぐらついている。侍女が洗面器を持ってきて、彼の顔を拭いた。
「ああ……やっと目が覚めたよ」
服をきちんと着て表情を引き締めれば、凛々しい貴族の若君だ。にこりと微笑むだけでご令嬢方がぽうっと見惚れる見目の良さである。
昔は、許されていた。彼を愛称で呼ぶことも、くっついて笑うことも。大人の目を盗んで些細ないたずらを仕掛けることも。いや、最後のやつは叱られたが。
俺が六歳になった頃、彼は貴族令息としての教育をうけるようになり、俺は執事見習いとしてそのそばに仕えるようになった。俺たちはもう対等じゃなかった。名前は呼べない。呼びたくない。様という敬称を口にすれば、俺の中の何かが削れていく。
ずっと子供でいられたらよかった。せめて俺が本家筋のもっとちゃんとした貴族だったら。今でも彼と笑い合うことができていたかもしれない。
最近、主人には縁談の申し込みや見合いの話が来るようになった。当然だろう。次男とはいえ伯爵令息だ。婿にと望む家もある。けれど、主人はそれを断り続けている。俺を見合いの席に立ち合わせて、あれこれと理由をつけては縁談を断り、何かを言いたそうに俺を見る。
どうしろというんだ。俺には、彼を攫って逃げるほどの力はないというのに。
「おいで」
主人が俺を呼ぶ。優しげな穏やかな声。けれど、俺には決して逆らえない声だ。
前に出ないよう、けれど扉があれば開けられるよう、距離を気遣いながら供をして歩く。
「ああ、三日後に子爵家のお嬢さんとお会いすることになったから」
専属執事として同席するように、と俺に告げる彼は、少し寂しそうに見える。
「畏まりました」
承諾する以外に俺にできることはない。
主人が憂うつそうにため息をつく。
「見合いなんて……私は、お前がいれば」
聞こえてしまった言葉は、気付かなかったふりをする。
きっと明日も……その見合いがあるという三日後も。俺はこの人の足に靴下を履かせるのだろう。
そのつま先に口付けたいなどという邪念をねじ伏せながら。そう、思ったのだけれど。
「なあ」
主人が俺を見てにやりと笑った。何かを決したとでも言うように。
「もし私が……」
声が小さすぎて聞き取れない。一歩近付いたら耳元に囁かれた。
「家を出ると言ったら、一緒に来るか?」
「…………え?」
何を言われたのか、理解が遅れてやってきた。
「苦労はさせるぞ。幸せなんてものはないかもしれない。もしそれでも――」
「もちろんです!」
「しっ、声が大きい」
三日後。見合いの会場に移動したその足で、俺たちは行方をくらませた。準備はたったの二日間。けれど俺が自由にできるものなんてほとんどなく、彼が屋敷を出るチャンスも少ない。
見合い相手の子爵令嬢が逃亡を手助けしたと疑われないよう、手紙を託して詫びた。彼女は事情を察していたらしく、支援はできないけれど応援したいと言ってくれた。
「ところで、そろそろ呼んでくれてもいいんじゃないか?」
庶民の服に着替え、フードを目深に被った彼が言う。からかう声で。
「お前、いつから私の名前を呼んでいない?」
「それは。その」
今更、どんな顔をして呼べばいいのか……。
「まったく。わかりやすい奴だな」
主人が――俺の主人だったはずの、もう貴族でもなくなった彼が、真っ赤になった俺の頬に口付けた。
「逃げるなよ?」
今までずっと穏やかだった彼の笑顔を、初めて怖いと思った。でもそれが、嫌ではなかった自分に――戸惑っている。
「失礼いたします」
主人の足元に跪いて靴下を履かせる。まだ眠そうな主人は、ちゃんと目が開いていないし、頭がぐらついている。侍女が洗面器を持ってきて、彼の顔を拭いた。
「ああ……やっと目が覚めたよ」
服をきちんと着て表情を引き締めれば、凛々しい貴族の若君だ。にこりと微笑むだけでご令嬢方がぽうっと見惚れる見目の良さである。
昔は、許されていた。彼を愛称で呼ぶことも、くっついて笑うことも。大人の目を盗んで些細ないたずらを仕掛けることも。いや、最後のやつは叱られたが。
俺が六歳になった頃、彼は貴族令息としての教育をうけるようになり、俺は執事見習いとしてそのそばに仕えるようになった。俺たちはもう対等じゃなかった。名前は呼べない。呼びたくない。様という敬称を口にすれば、俺の中の何かが削れていく。
ずっと子供でいられたらよかった。せめて俺が本家筋のもっとちゃんとした貴族だったら。今でも彼と笑い合うことができていたかもしれない。
最近、主人には縁談の申し込みや見合いの話が来るようになった。当然だろう。次男とはいえ伯爵令息だ。婿にと望む家もある。けれど、主人はそれを断り続けている。俺を見合いの席に立ち合わせて、あれこれと理由をつけては縁談を断り、何かを言いたそうに俺を見る。
どうしろというんだ。俺には、彼を攫って逃げるほどの力はないというのに。
「おいで」
主人が俺を呼ぶ。優しげな穏やかな声。けれど、俺には決して逆らえない声だ。
前に出ないよう、けれど扉があれば開けられるよう、距離を気遣いながら供をして歩く。
「ああ、三日後に子爵家のお嬢さんとお会いすることになったから」
専属執事として同席するように、と俺に告げる彼は、少し寂しそうに見える。
「畏まりました」
承諾する以外に俺にできることはない。
主人が憂うつそうにため息をつく。
「見合いなんて……私は、お前がいれば」
聞こえてしまった言葉は、気付かなかったふりをする。
きっと明日も……その見合いがあるという三日後も。俺はこの人の足に靴下を履かせるのだろう。
そのつま先に口付けたいなどという邪念をねじ伏せながら。そう、思ったのだけれど。
「なあ」
主人が俺を見てにやりと笑った。何かを決したとでも言うように。
「もし私が……」
声が小さすぎて聞き取れない。一歩近付いたら耳元に囁かれた。
「家を出ると言ったら、一緒に来るか?」
「…………え?」
何を言われたのか、理解が遅れてやってきた。
「苦労はさせるぞ。幸せなんてものはないかもしれない。もしそれでも――」
「もちろんです!」
「しっ、声が大きい」
三日後。見合いの会場に移動したその足で、俺たちは行方をくらませた。準備はたったの二日間。けれど俺が自由にできるものなんてほとんどなく、彼が屋敷を出るチャンスも少ない。
見合い相手の子爵令嬢が逃亡を手助けしたと疑われないよう、手紙を託して詫びた。彼女は事情を察していたらしく、支援はできないけれど応援したいと言ってくれた。
「ところで、そろそろ呼んでくれてもいいんじゃないか?」
庶民の服に着替え、フードを目深に被った彼が言う。からかう声で。
「お前、いつから私の名前を呼んでいない?」
「それは。その」
今更、どんな顔をして呼べばいいのか……。
「まったく。わかりやすい奴だな」
主人が――俺の主人だったはずの、もう貴族でもなくなった彼が、真っ赤になった俺の頬に口付けた。
「逃げるなよ?」
今までずっと穏やかだった彼の笑顔を、初めて怖いと思った。でもそれが、嫌ではなかった自分に――戸惑っている。
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