好きの手前と、さよならの向こう

茶ノ畑おーど

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〇2章【波乱と温泉】

10節~『ひろくん』~ 3

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「営業部の高森です。普段は別のフロアなので、あまりお会いすることはないかもしれませんけど……」

隣の席の紗菜が、穏やかな調子で自己紹介を締めくくった。
控えめで、耳にすっと落ちてくる柔らかな声色。
グラスを持ち上げる手つきも、口元に運ぶ角度も、どこか洗練されていて、立ち居振る舞いだけを見れば――きっと誰もが『感じのいい人』という印象を抱くだろう。

だからこそ、乾杯のときにかすかに混じったあの嫌悪にも似た色が、ヒロトの胸には、小さな刺として残っていた。

やがて自己紹介は一周し、テーブルはほっと息をついたように笑いと会話で満たされていく。
初対面同士のぎこちなさも、アルコールの持つ魔法のような弛緩に溶かされて、あちこちで雑談の輪が生まれ始めたころ。

隣から、静かな声が落ちてきた。

「この施設、すごく綺麗ですよね。びっくりしました」

紗菜が、おしぼりで指先をていねいに拭いながら、ふと話しかけてくる。
爪の先まで意識の届いていそうな、整った所作だった。

「ホントに。リニューアルしたにしても、あちこち気合いが入ってますよね」

ヒロトも、無難な相づちでそれに応じる。
一往復で終わってしまうような、ごく普通の世間話。
当たり障りもなく、波風も立たない――はずの会話。

それなのに、言葉が途切れたあとに残る間には、妙な乾きがあった。
距離の測り方を探っているような、薄く張った透明な膜のような空気。
ヒロトはそれを、意識のどこかでそっと指先でなぞるように感じ取っていた。

次に紗菜の口からこぼれた一言が、その感覚をよりはっきりとさせる。

「彼女さんとも、よく来られるんですか?」

「……へ?」

思い描いていたどの方向とも違う角度からの問いに、ヒロトは間の抜けた声を出してしまった。
紗菜は、淡い笑みを浮かべたまま、まっすぐにこちらを見ている。
返ってくる反応を一つも取り逃がすまいとする、精密な測定器のような視線だった。

「こういう……温泉とか」

「え、あ、あぁ……」

どの程度まで答えるべきか、言葉の選び方を迷った、その瞬間。

「にしても、今日の昼のイベントとか、なかなかにハードだったよなぁ」

別の方向から飛び込んできた声が、ちょうど救難信号に応えた救助船のように二人の間に割り込んだ。

自然と、そちらへ視線が移っていく。
テーブル全体の意識も、すべるようにそちら側へ流れた。
救われたような感覚が、ヒロトの胸の奥にかすかに広がる。

「みんな楽しそうに参加してたけど、私なんて明日は筋肉痛かも」

「わかる~!」

女子社員の自虐めいた一言に、テーブルは再び和やかな笑いに包まれた。
緩んだ空気に押し出されるように、別の女子社員が身を乗り出す。

「中町さんも、天内さんとのペアで楽しそうでしたよねぇ。優勝までしちゃって」

「そうそう! うちのチームの若い子、めちゃめちゃ羨ましがってたんだから!」

軽口が矢継ぎ早に飛んでくる。
さっきのイベントで目立ちすぎた以上、こうして冷やかしの的になるのは覚悟の範囲内だと、ヒロトは内心肩をすくめた。

「いやぁ、たまたま運がよかっただけというか……」

苦笑交じりにそう返した、その直後。

「それは、天内さんとペアになれた『くじ運が』ってこと~?」

茶化すような声と笑いが弾ける。
ヒロトは誤魔化すようにグラスへ口を逃がし、そこで自然と話題が流れてくれれば――と、淡い期待を胸の隅に差し込んだ。

だが。

その軽い笑い声を縫うように、ひときわ静かな音がテーブルに落ちた。

「……私も、聞きたいです」

紗菜だった。

声量は小さいのに、ひどくよく通る。
淡々としていて、それでいて一切の揺らぎを含まない調子。
酔いでほんのり潤んだようにも見える目元が、まっすぐにヒロトを射抜いていた。

「天内さんと一緒だったから……運が良かったんですか?」

引き寄せられるように、視線が自然とそこへ向かう。
問いの内容だけを見れば、宴会場ではお決まりの、軽い冷やかしの延長にすぎない。
けれど、紗菜の表情は柔らかく笑みを浮かべているのに、その奥から伝わってくるものは別種の圧力だった。

胸の奥で、言葉にならない何かがじわりと膨らむ。

――なんだ、この感じ。

輪郭は見えないのに、鋭い棘の先だけが皮膚に触れているような感覚。
それでも、周囲の視線と空気に背中を押されるようにして、ヒロトは口を開いた。

「まぁ……ペアの相手が同じチームの同僚っていう点では運がよかったですね。初めましての挨拶をする必要がなかったですから」

その返答に、テーブルのあちこちから「そりゃそうだ」と笑いが上がる。

「それに……天内が謎解き得意っていうのもラッキーでしたよ。実はあれ、ほとんど全部彼女が解いてくれたんですよ」

「え~、そうなんだ! ちょっと意外~!」

「パワフルに走り回ってただけじゃなかったんだな……」

周囲はひたすら楽しそうだった。
テーブルに広がる熱気とアルコールの勢いは、追及というよりも、宴会特有の明るさと軽さに満ちている。

その輪の中で――紗菜だけが、微笑みを崩さないまま、ヒロトの言葉だけをひたすら追っていた。
声の調子、言い淀み、言葉の選び方。
ひとつひとつを拾い上げるようなその視線には、静かな圧があった。

ひたり、と足音もなく距離を詰められているような感覚に、ヒロトは小さく息を吐く。
逃げ場を探すようにざわつきかけた胸を押さえ込み、意識して調子を和らげる。

「高森さんも……これで納得してくれます?」

困ったように笑いながら、正面から視線を受け止めてみせる。

「納得もなにも、意義を唱えているわけではありませんから」

紗菜は静かに答え、ようやく視線を外すと、空になったグラスを指先で転がすように持ち替える。
さりげない横顔には、「後ろめたいことでもあるんですか?」と無言で告げてくるような気配が滲んでいた。

もはや勘など必要ない。
明らかに、探りを入れられている。

何を疑われているのかまでは分からない。
ただ、この飲み会の熱気と笑いの渦の中に、不自然なまでに冷たい空気が一つだけ混じり込んでいる――
その感覚だけが、不思議なほど鮮明に残った。

ヒロトは、それをごまかすように、手にしたグラスを口元へ運ぶ。
中身を一気に流し込んだ。

喉を滑り落ちていく酒が、さっきよりも少しだけ苦かった。
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