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〇2章【波乱と温泉】
~波乱と温泉 エピローグ~ 3
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最後の障壁であったミーティングを終え、チェックアウトもすませた施設の玄関先は、すでに帰路モードの喧騒に満ちていた。
キャリーケースの車輪がタイルの上を転がる音、紙袋やリュックを引っ掛けた社員たちの話し声、スタッフの「またお待ちしております」という声が、和やかに混ざり合っている。
あとは、バスに乗って戻るだけ。
すっかりこの場にも慣れてしまった体が、ゆっくりと日常へ戻る準備を始めているようだった。
穏やかで、名残惜しさを含んだ空気が、春の終わりの風みたいにゆっくりと流れている。
「それで、天内ちゃんだけ早く起きてたんですよぉ!」
「後輩のせいにして恥ずかしくないの……?」
ちひろの言い訳に、麻衣が眉をひそめて呆れたような声を返す。
「私、帰ったらそのまま爆睡だわ……」
「てか、バスの中で意識失う自信ある」
しおりとすみれは、コーヒー片手に未だ抜けきらない眠気と戦いながら、ぐったりとした口調で会話をしていた。
笑うほどの元気はないが、それでも言葉の端々には「よく遊んだ」という満足感が滲んでいる。
キリカはというと、完全に電源が落ちかけているらしく、玄関横のベンチに腰かけ、鞄を抱きしめたまま、こくりこくりと船を漕いでいた。
浴衣から私服に戻ったせいか、昨日より少しだけ年相応に見える横顔が、眠気でさらに幼く見える。
「せんぱい、せんぱい!」
そんな中、一人だけ妙に元気な声が、ざわめきの中でよく通った。
ももは、スニーカーの踵を鳴らしながら小さく跳ねるようにヒロトへ近づき、「はい、酔い止め」と言って、彼の手のひらに小さな飴の包みをぎゅっと握り込ませる。
その笑顔からは、とても前日一日遊び倒していたとは思えないほどの元気があふれていた。
「……ほんと、元気だな。お前は」
感心するより先に呆れが口をつく。
ヒロトがそう言うと、ももは「え~?」と首を傾げた。
「だって、まだ朝ですよ? せんぱいも余裕そうじゃないですかぁ」
「まぁ、二日酔いでも寝不足でもないのは確かだな」
ヒロトは呻き声を上げている倉本や、口を手で隠しながらあくびを繰り返すしおりたちを見やってから、肩をすくめる。
「あっ、そうだ! せんぱい、もし暇なら解散したあと――」
「天内ちゃん! よかったらLINE交換しない?」
ももが何かを切り出しかけたその瞬間、別のチームの男性社員たちが、空気も読まずに割り込んできた。
声のトーンや距離感に、昨日どこかで見たようなノリが重なり、ヒロトは思わず目を細める。
「チームは違っても、仕事で嫌なことがあれば愚痴聞けるし!」
「そうそう、相談とか乗るからさ」
尤もらしい名目を添えてはいるが、「愚痴」という単語を本人のチームメンバーの前でよく口にできるなと、ヒロトは内心で呆れる。
昨日の井口たちほど露骨ではないにせよ、同じ匂いはする。
助け舟を出すべきか一瞬迷ったところで、ももが先に口を開いた。
「はい、いいですよぉ♡」
断られるとは思っていなかったのか、それとも可能性すら考えていなかったのか。
一瞬だけ「お、マジか」という顔になった男たちが、そそくさとスマホを取り出し、浮かれた調子で彼女と次々に連絡先を交換していく。
「大丈夫か……?」と、思わず眉をひそめる。
その腕を、ももが軽やかに取った。
「ほらぁ、せんぱいも!」
「は?」
半ば流れ作業のようにQRコードを読み込み合うことになり、気づけばヒロトの友達一覧にも、「天内 もも」の名前が追加されていた。
男たちは「よっしゃ」「やったな」などと浮かれた声を上げながら、そのままぞろぞろと離れていく。
ももは、その背中が見えなくなったのを確認してから、企みが成功した子どものような笑顔でヒロトを見上げた。
「これで、いつでもお話できますね♡」
「……本当、すごいよお前は」
ヒロトは苦笑しながら、照れ隠しのように頭をかいた。
その動作が終わるのを待っていたかのようなタイミングで、ももが小さく首を傾げる。
「あの、私、昨日の夜の記憶が途切れてるんですけど」
「お前な……ああ、途中で寝落ちしてたからな」
「せんぱいが私のこと、部屋に連れ込んだって本当です?」
「バッ……!!」
思わず、裏返った声が出た。
昨日、麻衣にあれほど釘を刺されたばかりだというのに、とっさに周囲を見回す。
視線の先で、こちらを鋭く睨んでいる麻衣と目が合い、ヒロトは内心で悲鳴を上げた。
「ふふっ、大丈夫ですよぉ。誰にも聞こえてないですから」
ももは、唇に指を当てるような仕草をして、くすりと笑う。
声のボリュームは確かに小さい。だが問題はそこではない。
「そういう問題じゃなくて……いや、それはそもそも誤解で――」
「……何もしてくれなかったんですか? せんぱい」
唐突に落とされたその言葉に、ヒロトの顔から血の気が引く。
麻衣の視線が、さっきよりさらに冷たく、鋭く、心臓を狙って飛んできた気がした。
「あははっ、せんぱいの顔、おもしろ~い!」
ももは堪えきれないと言わんばかりに肩を震わせ、くすくすと笑い続ける。
ヒロトは頭を抱えたくなる衝動をどうにか抑え込みながら、低い声で言った。
「……マジで頼むから、その手の冗談は選べ。俺の首が飛ぶ」
「だってぇ……心配になっちゃって」
「どの口が言うんだ、どの口が」
呆れを通り越して感心しそうになる。
昨夜の中庭で見せていた、弱さを覗かせる表情との落差に、こちらの感情の置き場がなくなってくる。
「お前な、本当に気をつけてくれよ……? さっきの連中だって、わざわざ連絡先を交換する必要もなかったろ」
ヒロトが眉間にシワを寄せると、ももはむっと唇を尖らせる。
「だって……ああでもしないと、せんぱい、交換してくれなさそうなんですもん」
「いや、同じチームだし……仕事始まってから、グループに入れられると思うけど」
「え……ブロックしようかな、さっきの人たち」
ももは、途端に声のトーンを落とし、本気とも冗談ともつかない呟きを零した。
目元は笑っているが、奥にある温度は、さっきまでとは違う色を含んでいる。
「やめてやれ、泣くぞ、あいつら」
「むぅ……」
少しだけ悩んだ末、彼女は渋々といった様子でスマホをしまい込んだ。
そして、何かを切り替えるみたいに、ぱっと明るい声を作る。
「ねぇ、せんぱい?」
甘えるような、聞き慣れた声色で、ももがすっとヒロトの耳元へ顔を寄せてきた。
距離が近い。
さっきまで隣に立っていたときより、半歩分だけ踏み込んだ近さ。
ふわりと、昨夜の布団から立ち上っていたのと同じ、柔らかな香りが鼻先をかすめる。
一瞬、胸の奥がきゅっと鳴るような感覚が走り、ヒロトの心臓が目に見えない音を立てて跳ね上がった。
「私が寝てた布団……よく眠れました?」
試すような視線と口調。
ほんの少しだけ細められた瞳と、語尾に忍ばせた悪戯っぽい響きが、からかいと本気の境目を曖昧にする。
今さら否定しても、誤魔化しても、簡単に見透かされそうな気がした。
喉の奥で、言葉がもつれる。
言い訳を選ぶべきか、正直に返すべきか――そのどちらでもない第三の答えを探して、ヒロトは小さく息を吸い込み、口を開きかける。
そのとき――
「はーい! それでは、荷物の積み込みをお願いしまーす!」
スタッフのよく通る声が、玄関前のざわめきの中でひときわ大きく響き渡った。
割り込んできたその音に、ももが「わっ」と肩を揺らす。
ヒロトは内心で天を仰ぎ、見知らぬスタッフに、心の底から感謝した。
「はーい、行きましょう、せんぱい!」
ももは何事もなかったようにぱっと距離を取り、さっきまでの挑発めいた表情を、いつもの無邪気な笑顔にすり替える。
ひらひらと手を振りながらバスの停まる方向へ歩き出し、足元のスニーカーが軽い音を立てた。
ざわざわとした流れに紛れながら、ヒロトも自分のキャリーケースの取っ手を掴み、ももの小さな背中を目で追いかけるようにして歩き出した。
ほどなくして乗り込んだバスは、行きと同じ場所に、同じ角度で並んで待っていた。
フロントに灯った行き先表示板の光だけが、ささやかな非日常の名残のように瞬いている。
エンジンが低く唸りを上げ、タイヤの近くからは、熱に混じった独特の油の匂いが、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
帰りの車内も、基本的には行きと同じ席順だった。
後方では、キリカたちが互いに肩や頭を預け合いながら、出発して間もなく眠りの世界へと落ちていく。
揺れるたびにポニーテールがふわふわと弧を描き、そのリズムに合わせるように、かすかな寝息が一定のテンポで漏れていた。
ヒロトの隣には、やっぱり当然のような顔をして、ももが座る。
シートベルトを留める仕草も、隣を陣取ることも、まるで決められたルールであるかのような自然さだった。
一度だけ窓の外の景色を確認するように視線を流し、それからすぐに、期待を含んだ瞳のまま、くるりと体ごとヒロトのほうへ向き直った。
一日前と同じように、ももは相変わらず楽しそうに喋り続けている。
昨日のレクリエーションの話、温泉の話、女子部屋での地獄の朝の話、そしてそこからなぜか派生した、テーマパークと屋台グルメと祭りの屋台の話。
車窓の外を流れる景色が、山の緑から、徐々に見慣れた高速道路の景色へと切り替わっていく。
非日常から、日常へ。
それでも少しだけ、色のコントラストが違って見えた。
ももの話を聞きながら、ヒロトは、イベントの案内メールを初めて見たときの自分を思い出していた。
煩わしい。面倒臭い。
忙しいのに、なぜ今こんなものを企画するんだ。
行かずに済む方法はないか――そんなことばかり考えていたはずの二日間。
来ていなかったら、きっと別の意味で愚痴だらけの月曜を迎えていたのだろう。
ヒロトは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、内心で苦笑する。
「ねぇ、せんぱい。聞いてます?」
拗ねたような声が、すぐ隣から飛んできた。
「聞いてるよ。光るわたあめの話だっけ?」
「それは二つ前の話題ですよぉ! もう!」
ぷくっと頬をふくらませるもものリアクションに、ヒロトは肩を揺らして笑う。
その笑いには、昨日までにはなかった、ほんの少しの名残惜しさと、ほんの少しの楽しみが混ざっていた。
彼らを乗せたバスは、高速道路をまっすぐに駆け抜けていく。
フロントガラスの向こうには、オフィスのある街へと続く道。
その先には、新しいプロジェクトと、それぞれの胸の中に芽生えた、まだ名前のつかない感情が待っている。
二日間の非日常は、ゆっくりと遠ざかっていく。
けれど――そこで生まれたさざ波のような変化だけは、確かに彼らの中に残ったまま、次の『現場』へと運ばれていくのだった。
2章『波乱と温泉』 完
キャリーケースの車輪がタイルの上を転がる音、紙袋やリュックを引っ掛けた社員たちの話し声、スタッフの「またお待ちしております」という声が、和やかに混ざり合っている。
あとは、バスに乗って戻るだけ。
すっかりこの場にも慣れてしまった体が、ゆっくりと日常へ戻る準備を始めているようだった。
穏やかで、名残惜しさを含んだ空気が、春の終わりの風みたいにゆっくりと流れている。
「それで、天内ちゃんだけ早く起きてたんですよぉ!」
「後輩のせいにして恥ずかしくないの……?」
ちひろの言い訳に、麻衣が眉をひそめて呆れたような声を返す。
「私、帰ったらそのまま爆睡だわ……」
「てか、バスの中で意識失う自信ある」
しおりとすみれは、コーヒー片手に未だ抜けきらない眠気と戦いながら、ぐったりとした口調で会話をしていた。
笑うほどの元気はないが、それでも言葉の端々には「よく遊んだ」という満足感が滲んでいる。
キリカはというと、完全に電源が落ちかけているらしく、玄関横のベンチに腰かけ、鞄を抱きしめたまま、こくりこくりと船を漕いでいた。
浴衣から私服に戻ったせいか、昨日より少しだけ年相応に見える横顔が、眠気でさらに幼く見える。
「せんぱい、せんぱい!」
そんな中、一人だけ妙に元気な声が、ざわめきの中でよく通った。
ももは、スニーカーの踵を鳴らしながら小さく跳ねるようにヒロトへ近づき、「はい、酔い止め」と言って、彼の手のひらに小さな飴の包みをぎゅっと握り込ませる。
その笑顔からは、とても前日一日遊び倒していたとは思えないほどの元気があふれていた。
「……ほんと、元気だな。お前は」
感心するより先に呆れが口をつく。
ヒロトがそう言うと、ももは「え~?」と首を傾げた。
「だって、まだ朝ですよ? せんぱいも余裕そうじゃないですかぁ」
「まぁ、二日酔いでも寝不足でもないのは確かだな」
ヒロトは呻き声を上げている倉本や、口を手で隠しながらあくびを繰り返すしおりたちを見やってから、肩をすくめる。
「あっ、そうだ! せんぱい、もし暇なら解散したあと――」
「天内ちゃん! よかったらLINE交換しない?」
ももが何かを切り出しかけたその瞬間、別のチームの男性社員たちが、空気も読まずに割り込んできた。
声のトーンや距離感に、昨日どこかで見たようなノリが重なり、ヒロトは思わず目を細める。
「チームは違っても、仕事で嫌なことがあれば愚痴聞けるし!」
「そうそう、相談とか乗るからさ」
尤もらしい名目を添えてはいるが、「愚痴」という単語を本人のチームメンバーの前でよく口にできるなと、ヒロトは内心で呆れる。
昨日の井口たちほど露骨ではないにせよ、同じ匂いはする。
助け舟を出すべきか一瞬迷ったところで、ももが先に口を開いた。
「はい、いいですよぉ♡」
断られるとは思っていなかったのか、それとも可能性すら考えていなかったのか。
一瞬だけ「お、マジか」という顔になった男たちが、そそくさとスマホを取り出し、浮かれた調子で彼女と次々に連絡先を交換していく。
「大丈夫か……?」と、思わず眉をひそめる。
その腕を、ももが軽やかに取った。
「ほらぁ、せんぱいも!」
「は?」
半ば流れ作業のようにQRコードを読み込み合うことになり、気づけばヒロトの友達一覧にも、「天内 もも」の名前が追加されていた。
男たちは「よっしゃ」「やったな」などと浮かれた声を上げながら、そのままぞろぞろと離れていく。
ももは、その背中が見えなくなったのを確認してから、企みが成功した子どものような笑顔でヒロトを見上げた。
「これで、いつでもお話できますね♡」
「……本当、すごいよお前は」
ヒロトは苦笑しながら、照れ隠しのように頭をかいた。
その動作が終わるのを待っていたかのようなタイミングで、ももが小さく首を傾げる。
「あの、私、昨日の夜の記憶が途切れてるんですけど」
「お前な……ああ、途中で寝落ちしてたからな」
「せんぱいが私のこと、部屋に連れ込んだって本当です?」
「バッ……!!」
思わず、裏返った声が出た。
昨日、麻衣にあれほど釘を刺されたばかりだというのに、とっさに周囲を見回す。
視線の先で、こちらを鋭く睨んでいる麻衣と目が合い、ヒロトは内心で悲鳴を上げた。
「ふふっ、大丈夫ですよぉ。誰にも聞こえてないですから」
ももは、唇に指を当てるような仕草をして、くすりと笑う。
声のボリュームは確かに小さい。だが問題はそこではない。
「そういう問題じゃなくて……いや、それはそもそも誤解で――」
「……何もしてくれなかったんですか? せんぱい」
唐突に落とされたその言葉に、ヒロトの顔から血の気が引く。
麻衣の視線が、さっきよりさらに冷たく、鋭く、心臓を狙って飛んできた気がした。
「あははっ、せんぱいの顔、おもしろ~い!」
ももは堪えきれないと言わんばかりに肩を震わせ、くすくすと笑い続ける。
ヒロトは頭を抱えたくなる衝動をどうにか抑え込みながら、低い声で言った。
「……マジで頼むから、その手の冗談は選べ。俺の首が飛ぶ」
「だってぇ……心配になっちゃって」
「どの口が言うんだ、どの口が」
呆れを通り越して感心しそうになる。
昨夜の中庭で見せていた、弱さを覗かせる表情との落差に、こちらの感情の置き場がなくなってくる。
「お前な、本当に気をつけてくれよ……? さっきの連中だって、わざわざ連絡先を交換する必要もなかったろ」
ヒロトが眉間にシワを寄せると、ももはむっと唇を尖らせる。
「だって……ああでもしないと、せんぱい、交換してくれなさそうなんですもん」
「いや、同じチームだし……仕事始まってから、グループに入れられると思うけど」
「え……ブロックしようかな、さっきの人たち」
ももは、途端に声のトーンを落とし、本気とも冗談ともつかない呟きを零した。
目元は笑っているが、奥にある温度は、さっきまでとは違う色を含んでいる。
「やめてやれ、泣くぞ、あいつら」
「むぅ……」
少しだけ悩んだ末、彼女は渋々といった様子でスマホをしまい込んだ。
そして、何かを切り替えるみたいに、ぱっと明るい声を作る。
「ねぇ、せんぱい?」
甘えるような、聞き慣れた声色で、ももがすっとヒロトの耳元へ顔を寄せてきた。
距離が近い。
さっきまで隣に立っていたときより、半歩分だけ踏み込んだ近さ。
ふわりと、昨夜の布団から立ち上っていたのと同じ、柔らかな香りが鼻先をかすめる。
一瞬、胸の奥がきゅっと鳴るような感覚が走り、ヒロトの心臓が目に見えない音を立てて跳ね上がった。
「私が寝てた布団……よく眠れました?」
試すような視線と口調。
ほんの少しだけ細められた瞳と、語尾に忍ばせた悪戯っぽい響きが、からかいと本気の境目を曖昧にする。
今さら否定しても、誤魔化しても、簡単に見透かされそうな気がした。
喉の奥で、言葉がもつれる。
言い訳を選ぶべきか、正直に返すべきか――そのどちらでもない第三の答えを探して、ヒロトは小さく息を吸い込み、口を開きかける。
そのとき――
「はーい! それでは、荷物の積み込みをお願いしまーす!」
スタッフのよく通る声が、玄関前のざわめきの中でひときわ大きく響き渡った。
割り込んできたその音に、ももが「わっ」と肩を揺らす。
ヒロトは内心で天を仰ぎ、見知らぬスタッフに、心の底から感謝した。
「はーい、行きましょう、せんぱい!」
ももは何事もなかったようにぱっと距離を取り、さっきまでの挑発めいた表情を、いつもの無邪気な笑顔にすり替える。
ひらひらと手を振りながらバスの停まる方向へ歩き出し、足元のスニーカーが軽い音を立てた。
ざわざわとした流れに紛れながら、ヒロトも自分のキャリーケースの取っ手を掴み、ももの小さな背中を目で追いかけるようにして歩き出した。
ほどなくして乗り込んだバスは、行きと同じ場所に、同じ角度で並んで待っていた。
フロントに灯った行き先表示板の光だけが、ささやかな非日常の名残のように瞬いている。
エンジンが低く唸りを上げ、タイヤの近くからは、熱に混じった独特の油の匂いが、ゆらゆらと立ちのぼっていた。
帰りの車内も、基本的には行きと同じ席順だった。
後方では、キリカたちが互いに肩や頭を預け合いながら、出発して間もなく眠りの世界へと落ちていく。
揺れるたびにポニーテールがふわふわと弧を描き、そのリズムに合わせるように、かすかな寝息が一定のテンポで漏れていた。
ヒロトの隣には、やっぱり当然のような顔をして、ももが座る。
シートベルトを留める仕草も、隣を陣取ることも、まるで決められたルールであるかのような自然さだった。
一度だけ窓の外の景色を確認するように視線を流し、それからすぐに、期待を含んだ瞳のまま、くるりと体ごとヒロトのほうへ向き直った。
一日前と同じように、ももは相変わらず楽しそうに喋り続けている。
昨日のレクリエーションの話、温泉の話、女子部屋での地獄の朝の話、そしてそこからなぜか派生した、テーマパークと屋台グルメと祭りの屋台の話。
車窓の外を流れる景色が、山の緑から、徐々に見慣れた高速道路の景色へと切り替わっていく。
非日常から、日常へ。
それでも少しだけ、色のコントラストが違って見えた。
ももの話を聞きながら、ヒロトは、イベントの案内メールを初めて見たときの自分を思い出していた。
煩わしい。面倒臭い。
忙しいのに、なぜ今こんなものを企画するんだ。
行かずに済む方法はないか――そんなことばかり考えていたはずの二日間。
来ていなかったら、きっと別の意味で愚痴だらけの月曜を迎えていたのだろう。
ヒロトは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、内心で苦笑する。
「ねぇ、せんぱい。聞いてます?」
拗ねたような声が、すぐ隣から飛んできた。
「聞いてるよ。光るわたあめの話だっけ?」
「それは二つ前の話題ですよぉ! もう!」
ぷくっと頬をふくらませるもものリアクションに、ヒロトは肩を揺らして笑う。
その笑いには、昨日までにはなかった、ほんの少しの名残惜しさと、ほんの少しの楽しみが混ざっていた。
彼らを乗せたバスは、高速道路をまっすぐに駆け抜けていく。
フロントガラスの向こうには、オフィスのある街へと続く道。
その先には、新しいプロジェクトと、それぞれの胸の中に芽生えた、まだ名前のつかない感情が待っている。
二日間の非日常は、ゆっくりと遠ざかっていく。
けれど――そこで生まれたさざ波のような変化だけは、確かに彼らの中に残ったまま、次の『現場』へと運ばれていくのだった。
2章『波乱と温泉』 完
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<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
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