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第四章 婚約破棄令嬢、ダイエットに燃える
第三八話「……この分なら、【色欲】のアスモデウス君のことも君たちに任せて良さそうね」
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二三七日目。
やると決めたら行動は早いほうがいい。
なぜならば、俺達には時間がないからだ。世間のしがらみから解放されたスローライフを目指していたはずなのに、どうしてこうなったのだろうか。
「で、ヨーガの勉強に私を使おうとするなんて……中々あなたも私を楽にさせてくれないわね」
「そういうなよ、ある意味俺たちは共犯者同士だ。仲よくしようぜ?」
ベッドの上に横たわるアグラアト先生のそばで、俺とクロエはヨーガの指導を受けていた。
もちろん、ヨーガの研究の専門家から本格的なヨーガの指導を受けてもいいのだが、今回俺はあえてアグラアト先生を選んでいる。
理由? 守秘義務を必ず守ってくれる関係だからだ。クロエが魂の器の位階において世界一であること、俺が【英雄指定】のS級冒険者であること、そして大罪の魔王の討伐者であることは、あまり周囲に知られたくない事実である。徐々に外延的な情報(=直接は事実に結びつかない情報だが、推定材料になる情報)は洩れてはいるのだが、あまり積極的に周知したい情報でもない。
となると、ヨーガを学ぶにあたっても、人選を慎重にせざるをえなくなるのだ。
元・虚ろなる魔王、【憂鬱】の大罪、アシュタロト。彼女であれば、互いに弱みを握っている間柄なので、情報漏洩の面は心配しなくてよいだろう。
「……私が教えられるのは伝統的なヨーガじゃないわ。いわゆる現代ヨーガよ。知識体系としてヨーガの深くを学ぶのであれば、もっと適切な師がいると思うけど」
「別に構わないさ。ダイエットが第一目標なんだ。体操の知識を取り入れて、アーサナの研究に特化した現代ヨーガを学ぶほうが、ダイエットには役立つはずだ」
自信なさげなアグラアト先生に、全然構わないと返す。専門分野が錬金術であることは重々承知しているので、こちらも無理に深くを聞こうとは思っていない。
動的なアーサナ(=ポーズ)とプラーナヤーマ(=呼吸法)を整えるヨーガ――ハタ・ヨーガ。「ハタ」はサンスクリット語で「力」、「強さ」といった意味の言葉である。ハタ・ヨーガの教えの中では、「太陽」を意味する「ハ」と、「月」を意味する「タ」という語を合わせたハタの教えは、陰陽の気を統合する教えであるとも言われている。
留意する点としては、現代ヨーガは対位法の追及に偏っている。
伝統的体育学と武闘術の流儀を取り入れて、体育教育や病気治療の観点で再構築された現代ヨーガは、魔術としての魔術的文脈には乏しい反面、合理性の追求という意味ではむしろ進歩しているとも言えた。
もっと時間があるならヨーガを追求するのもいいのだが。
あと二十日でクネシヤ魔術院からおさらばしようと考えている俺にとっては、文献調査によるヨーガ研究と、ヨーガの実践で見つかった疑問点をたまに他の先生に質問するぐらいで十分である。
「……なるほど、ミロク君があの子を隠したがるのもわかるわ。魂の器に蓄えられている魔力が、他の人の比ではないわ」
「だろ? あんまり魂の研究を行っている先生たちには教えたくないんだ」
「……今までよく隠し通せたわね」
「こう見えて隠密行動は得意なんだ。目立たないっていうのかな。それに、普段から魔力を使う機会がなければ、そうそう周囲にばれるものでもない。……綱渡りだけどな」
純魔力学部の先生に頼れば、魂の研究の観点からもっと有益なアドバイスをもらえるということはわかっている。
これだけ魂の器の位階が高いのだから、魔力の循環方法だったり、魔力の制御方法を根幹の理論から教わったほうがいいとも理解はしている。
それでもやはり、クロエの存在はあまり表に出したくはない。
隠密スキルが高く、なおかつ普段の生活で魔力を放出したりする機会のない今だからこそ誤魔化せている節はあるが、時間の問題かもしれない。
(……それにしても、ヨーガって意外と汗をかくな)
安楽座の姿勢。
そこから、手首と肩を回して関節をほぐし、さらに安楽座のまま左右へと上体を倒して体の側面を伸ばす。
息を吸って右手を上にあげて、息を吐きながらお尻が浮かないように上体を左に倒す。息を吸って上体を持ち上げて、息を吐くと同時に右手をおろす。同様に反対側にも体を倒す。
次は、胸の前で指を組んで背中を思い切り丸めたかと思うと、今度は後ろに手を組んで肩甲骨がくっつくように胸をそらす。
首を左右に倒して首筋のストレッチを行ったのちに、足首を回して全身一通りをほぐす。
そこから、猫のポーズ(マルジャリャーサナ)と牛のポーズ(ビティラーサナ)へと移行する。
四つん這いになって背骨を丸める、反るの動作を繰り返すポーズなのだが、背骨をほぐすと同時に、肩こりも軽減する効果がある。
続けて、伸びをする子犬のポーズ(ウッタナシショーサナ)に移る。
四つん這いの姿勢から、お尻の位置をそのまま保ちつつ、両手を前に伸ばして顎と胸を床に近づけていく。お尻と太腿が地面と垂直になった状態で手を前に伸ばすことで、肩が脱力してほぐれるという効果がある。
ヨーガにはこのように、いくつか基本となるポーズがある。これらの体位は、いくつかに大別される。すなわち、前屈、後屈、ねじり、体幹強化、座位、立位などである。
激しい運動は伴わないが、全身の柔軟性を高めることと、凝りをほぐしてリラックスする効果が認められる。
(確かに、続けてたら健康になりそうだけど)
ちゃんと痩せるんだろうか。自分が言い出しっぺであるだけに効果が出てくれないと困るのだが。
真剣にヨーガに取り組むクロエの隣で同じポーズを取りながら、俺はふとそんなことを考えるのだった。
|ねじり三角(パリヴルッタトリコナーサナ)から|半分の魚の王(アルダマッツェーンドラーサナ)へ。
|蓮華座(パドマーサナ)から|上向きの雄鶏(ウールドゥヴァクックターサナ)へ。
|側面伸ばし(パールシュヴォッターナーサナ)から|猿王(ハヌマナーサナ)へ。
こうしていくつかの体位を振り返ると、動物を象ったポーズが多いことに気付く。
象徴の表現。
聖刻文字のような象形文字で表現するか、古代ヘブライ語のような典礼言語で表現するか、古代ドラグロア言語や古代エルヴンロア言語のような迷宮言語で表現するか、魔法陣のように記号で表現するか、聖歌や祝詞のように口頭詠唱で表現するか――それらと同列の位置に、ヨーガのポーズはある。
すなわち魔術的な意味をうまく編み込むことができれば、理論上はヨーガのポーズで魔術を発動することが可能。
肉体魔術という分野が存在するが、これはあながち冗談ではないといえよう。
「……不思議なものね。ついこの間まで殺し合おうとした仲だというのに、今はこんなに打ち解けあってるなんて」
「まあね」
身を起こすのも辛そうなアグラアト先生のために、カモミールの薬湯を作って手渡す。カモミールは優しい味と香りのハーブティーになるので俺もよく愛飲している。
一口含んで温まりながら、アグラアト先生はぽつりと呟いた。
「……この分なら、【色欲】のアスモデウス君のことも君たちに任せて良さそうね」
「ああいいぜ、任せてく――ん?」
それはあまりにも自然な口調だったためか、今何と言ったのか、と思わず聞き返したくなるような台詞だった。
アスモデウスといえば、【色欲】の魔王と名高い存在である。
旧約聖書の外典『トビト記』に登場する悪魔であり、語源はゾロアスター教の悪魔アエーシュマの呼称、アエーシュモー・ダエーワ(怒れる悪魔 *aēšmō.daēva-)が変化したものとされる。
「……ぅ」
獣人のその子供には見覚えがあった。
かつて女子トイレから水浸しになって泣きながら出てきた子供。詳細不明のいじめられっ子。
その子供は、一切の言葉をしゃべることができない様子だった。
やると決めたら行動は早いほうがいい。
なぜならば、俺達には時間がないからだ。世間のしがらみから解放されたスローライフを目指していたはずなのに、どうしてこうなったのだろうか。
「で、ヨーガの勉強に私を使おうとするなんて……中々あなたも私を楽にさせてくれないわね」
「そういうなよ、ある意味俺たちは共犯者同士だ。仲よくしようぜ?」
ベッドの上に横たわるアグラアト先生のそばで、俺とクロエはヨーガの指導を受けていた。
もちろん、ヨーガの研究の専門家から本格的なヨーガの指導を受けてもいいのだが、今回俺はあえてアグラアト先生を選んでいる。
理由? 守秘義務を必ず守ってくれる関係だからだ。クロエが魂の器の位階において世界一であること、俺が【英雄指定】のS級冒険者であること、そして大罪の魔王の討伐者であることは、あまり周囲に知られたくない事実である。徐々に外延的な情報(=直接は事実に結びつかない情報だが、推定材料になる情報)は洩れてはいるのだが、あまり積極的に周知したい情報でもない。
となると、ヨーガを学ぶにあたっても、人選を慎重にせざるをえなくなるのだ。
元・虚ろなる魔王、【憂鬱】の大罪、アシュタロト。彼女であれば、互いに弱みを握っている間柄なので、情報漏洩の面は心配しなくてよいだろう。
「……私が教えられるのは伝統的なヨーガじゃないわ。いわゆる現代ヨーガよ。知識体系としてヨーガの深くを学ぶのであれば、もっと適切な師がいると思うけど」
「別に構わないさ。ダイエットが第一目標なんだ。体操の知識を取り入れて、アーサナの研究に特化した現代ヨーガを学ぶほうが、ダイエットには役立つはずだ」
自信なさげなアグラアト先生に、全然構わないと返す。専門分野が錬金術であることは重々承知しているので、こちらも無理に深くを聞こうとは思っていない。
動的なアーサナ(=ポーズ)とプラーナヤーマ(=呼吸法)を整えるヨーガ――ハタ・ヨーガ。「ハタ」はサンスクリット語で「力」、「強さ」といった意味の言葉である。ハタ・ヨーガの教えの中では、「太陽」を意味する「ハ」と、「月」を意味する「タ」という語を合わせたハタの教えは、陰陽の気を統合する教えであるとも言われている。
留意する点としては、現代ヨーガは対位法の追及に偏っている。
伝統的体育学と武闘術の流儀を取り入れて、体育教育や病気治療の観点で再構築された現代ヨーガは、魔術としての魔術的文脈には乏しい反面、合理性の追求という意味ではむしろ進歩しているとも言えた。
もっと時間があるならヨーガを追求するのもいいのだが。
あと二十日でクネシヤ魔術院からおさらばしようと考えている俺にとっては、文献調査によるヨーガ研究と、ヨーガの実践で見つかった疑問点をたまに他の先生に質問するぐらいで十分である。
「……なるほど、ミロク君があの子を隠したがるのもわかるわ。魂の器に蓄えられている魔力が、他の人の比ではないわ」
「だろ? あんまり魂の研究を行っている先生たちには教えたくないんだ」
「……今までよく隠し通せたわね」
「こう見えて隠密行動は得意なんだ。目立たないっていうのかな。それに、普段から魔力を使う機会がなければ、そうそう周囲にばれるものでもない。……綱渡りだけどな」
純魔力学部の先生に頼れば、魂の研究の観点からもっと有益なアドバイスをもらえるということはわかっている。
これだけ魂の器の位階が高いのだから、魔力の循環方法だったり、魔力の制御方法を根幹の理論から教わったほうがいいとも理解はしている。
それでもやはり、クロエの存在はあまり表に出したくはない。
隠密スキルが高く、なおかつ普段の生活で魔力を放出したりする機会のない今だからこそ誤魔化せている節はあるが、時間の問題かもしれない。
(……それにしても、ヨーガって意外と汗をかくな)
安楽座の姿勢。
そこから、手首と肩を回して関節をほぐし、さらに安楽座のまま左右へと上体を倒して体の側面を伸ばす。
息を吸って右手を上にあげて、息を吐きながらお尻が浮かないように上体を左に倒す。息を吸って上体を持ち上げて、息を吐くと同時に右手をおろす。同様に反対側にも体を倒す。
次は、胸の前で指を組んで背中を思い切り丸めたかと思うと、今度は後ろに手を組んで肩甲骨がくっつくように胸をそらす。
首を左右に倒して首筋のストレッチを行ったのちに、足首を回して全身一通りをほぐす。
そこから、猫のポーズ(マルジャリャーサナ)と牛のポーズ(ビティラーサナ)へと移行する。
四つん這いになって背骨を丸める、反るの動作を繰り返すポーズなのだが、背骨をほぐすと同時に、肩こりも軽減する効果がある。
続けて、伸びをする子犬のポーズ(ウッタナシショーサナ)に移る。
四つん這いの姿勢から、お尻の位置をそのまま保ちつつ、両手を前に伸ばして顎と胸を床に近づけていく。お尻と太腿が地面と垂直になった状態で手を前に伸ばすことで、肩が脱力してほぐれるという効果がある。
ヨーガにはこのように、いくつか基本となるポーズがある。これらの体位は、いくつかに大別される。すなわち、前屈、後屈、ねじり、体幹強化、座位、立位などである。
激しい運動は伴わないが、全身の柔軟性を高めることと、凝りをほぐしてリラックスする効果が認められる。
(確かに、続けてたら健康になりそうだけど)
ちゃんと痩せるんだろうか。自分が言い出しっぺであるだけに効果が出てくれないと困るのだが。
真剣にヨーガに取り組むクロエの隣で同じポーズを取りながら、俺はふとそんなことを考えるのだった。
|ねじり三角(パリヴルッタトリコナーサナ)から|半分の魚の王(アルダマッツェーンドラーサナ)へ。
|蓮華座(パドマーサナ)から|上向きの雄鶏(ウールドゥヴァクックターサナ)へ。
|側面伸ばし(パールシュヴォッターナーサナ)から|猿王(ハヌマナーサナ)へ。
こうしていくつかの体位を振り返ると、動物を象ったポーズが多いことに気付く。
象徴の表現。
聖刻文字のような象形文字で表現するか、古代ヘブライ語のような典礼言語で表現するか、古代ドラグロア言語や古代エルヴンロア言語のような迷宮言語で表現するか、魔法陣のように記号で表現するか、聖歌や祝詞のように口頭詠唱で表現するか――それらと同列の位置に、ヨーガのポーズはある。
すなわち魔術的な意味をうまく編み込むことができれば、理論上はヨーガのポーズで魔術を発動することが可能。
肉体魔術という分野が存在するが、これはあながち冗談ではないといえよう。
「……不思議なものね。ついこの間まで殺し合おうとした仲だというのに、今はこんなに打ち解けあってるなんて」
「まあね」
身を起こすのも辛そうなアグラアト先生のために、カモミールの薬湯を作って手渡す。カモミールは優しい味と香りのハーブティーになるので俺もよく愛飲している。
一口含んで温まりながら、アグラアト先生はぽつりと呟いた。
「……この分なら、【色欲】のアスモデウス君のことも君たちに任せて良さそうね」
「ああいいぜ、任せてく――ん?」
それはあまりにも自然な口調だったためか、今何と言ったのか、と思わず聞き返したくなるような台詞だった。
アスモデウスといえば、【色欲】の魔王と名高い存在である。
旧約聖書の外典『トビト記』に登場する悪魔であり、語源はゾロアスター教の悪魔アエーシュマの呼称、アエーシュモー・ダエーワ(怒れる悪魔 *aēšmō.daēva-)が変化したものとされる。
「……ぅ」
獣人のその子供には見覚えがあった。
かつて女子トイレから水浸しになって泣きながら出てきた子供。詳細不明のいじめられっ子。
その子供は、一切の言葉をしゃべることができない様子だった。
応援ありがとうございます!
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