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第6章:仮の人生と赦しの影――幻想の果てに再生はあるか
第3話:焦燥と再起の幻影と過去と孤独が交差する日々
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震災後の転職、家族との断絶、そして綾香との出会い。村瀬の過去と現在が交錯する中、彼は再起への幻想にすがり始める。だが、現実は甘くなく、焦燥だけが募っていく。
東日本大震災後の混乱がおさまるのに十年かかったように思う。その頃の村瀬は、警察を辞めて次の仕事は何をしようかと考えあぐねていた。その頃、損害保険の支店営業マンとも自動車保険の話などで良く支店に出入りするようになった。
かれこれ十年近くになる。気がつけば五十半ば。家族やかつての同僚から顧みられない暮らしを何年も続けている村瀬にすれば、会ったばかりの男であっても誉められると、照れくさい気持ちにも増して心が浮き立った。
村瀬はつい、調子づいた。
「なんとかなるようなら、車のリース業なんかも考慮してもらえると有難いのですが」
実家が車の整備工場を営んでいたが、父親の他界を契機に弟が引き継いだが、もともと仕事嫌いだった為、さびれた工場を思い出す。
「ああ、ますます有望株ですねぇ。そのおりには、ローンの件は私どもで手配させていただきます。はい……」と飯島は真顔で言った。
村瀬は彫りの浅い整った鼻を指先でなぞった。これで、妻の両親にも顔向けができる。収入のいい警察を辞める時に、反対されたのを押し切ってはじめた仕事だった。父親が経営していた整備工場に入ってくる車の保険は棚ぼたで金が入って来るので単純な理由で転職する村瀬に周囲の誰一人、賛成はしなかった。
しかし損保代理店研修生時代の同期の三宅だけは力づけてくれた。風俗の店に出入りするとき、同じ女の子を指名し、相手がすむのを待つほど気のおけない仲だったからかもしれない。
村瀬は目の前に客がいることも忘れて、深い溜息をついた。
当初の目論みではうまくいくはずだったが、震災後で元々、建設業に特化した営業だったので仕事もみるみるうちに減った。
本通りと背中合わせになる、裏通りの古い貸しビルの一室を借りているが、携帯電話に連絡が入れば建設業の犬や猫好きの社員相手に安いペット保険をこっそり売りつけるのが村瀬の現状だった。時には、昼メシ代にも困るありさま。ガソリン代の値上げも響いている。毎日ように、なんとかしなければと、気持ちばかりが先走り焦っていた。
十日ほど前、八月の半ばだった――、
最近、顔見知りになった女性が、いつもの格好で事務所にやってきた。白のノースリーブのブラウスに、風をはらむリネンのロングスカート。足元はベージュのサンダルで、素肌に陽射しがやさしく触れていた。肩にかけた麦わら素材のバッグが、季節の空気をそのまま運んでくるようだった。
開店休業の日が多いので、マスクなしのルージュばっちりの若い女性が訪ねてくれると男相手の仕事をしているとさわやかな気分になれる。
「ひさしぶりだな」と声をかけると、「はい」とひと言。
いつもの彼女とは、ネオンが滲む街角でゆっくりとヒールを鳴らして歩いている。漆黒のドレスは、夜の闇に溶け込むようでいて、月光を受けるたびに艶やかに光を返す。長く伸びた髪はゆるく巻かれ、首筋にかかるたび、香水の甘い残り香が漂った。
目元は涼しげで、笑みは控えめ。けれどその一瞬の視線に、男たちは言葉を失う彼女の存在は、夜の喧騒の中でひときわ静かに、しかし確かに輝いていた。その美しさは、誰かに見せるためのものではなく、彼女自身が纏う鎧のようだった。
彼女のために、村瀬は小型冷蔵庫の中にペットボトルの水を買い置きしている。
「このお仕事も、そろそろヤバイかもです」と綾香がめずらしく泣き言を言った。「いまの暮らしに飽き飽きしてるんです」
「商売替えでもするのかな?」と村瀬は、からかい気味に言い続けた。「金だけ取って、ホテルへ行くと見せかけてトンズラすることなど、アコギな商売はやめた方がいいと思うよ」
「小汚いオジサンに触られたくないから」
東日本大震災後の混乱がおさまるのに十年かかったように思う。その頃の村瀬は、警察を辞めて次の仕事は何をしようかと考えあぐねていた。その頃、損害保険の支店営業マンとも自動車保険の話などで良く支店に出入りするようになった。
かれこれ十年近くになる。気がつけば五十半ば。家族やかつての同僚から顧みられない暮らしを何年も続けている村瀬にすれば、会ったばかりの男であっても誉められると、照れくさい気持ちにも増して心が浮き立った。
村瀬はつい、調子づいた。
「なんとかなるようなら、車のリース業なんかも考慮してもらえると有難いのですが」
実家が車の整備工場を営んでいたが、父親の他界を契機に弟が引き継いだが、もともと仕事嫌いだった為、さびれた工場を思い出す。
「ああ、ますます有望株ですねぇ。そのおりには、ローンの件は私どもで手配させていただきます。はい……」と飯島は真顔で言った。
村瀬は彫りの浅い整った鼻を指先でなぞった。これで、妻の両親にも顔向けができる。収入のいい警察を辞める時に、反対されたのを押し切ってはじめた仕事だった。父親が経営していた整備工場に入ってくる車の保険は棚ぼたで金が入って来るので単純な理由で転職する村瀬に周囲の誰一人、賛成はしなかった。
しかし損保代理店研修生時代の同期の三宅だけは力づけてくれた。風俗の店に出入りするとき、同じ女の子を指名し、相手がすむのを待つほど気のおけない仲だったからかもしれない。
村瀬は目の前に客がいることも忘れて、深い溜息をついた。
当初の目論みではうまくいくはずだったが、震災後で元々、建設業に特化した営業だったので仕事もみるみるうちに減った。
本通りと背中合わせになる、裏通りの古い貸しビルの一室を借りているが、携帯電話に連絡が入れば建設業の犬や猫好きの社員相手に安いペット保険をこっそり売りつけるのが村瀬の現状だった。時には、昼メシ代にも困るありさま。ガソリン代の値上げも響いている。毎日ように、なんとかしなければと、気持ちばかりが先走り焦っていた。
十日ほど前、八月の半ばだった――、
最近、顔見知りになった女性が、いつもの格好で事務所にやってきた。白のノースリーブのブラウスに、風をはらむリネンのロングスカート。足元はベージュのサンダルで、素肌に陽射しがやさしく触れていた。肩にかけた麦わら素材のバッグが、季節の空気をそのまま運んでくるようだった。
開店休業の日が多いので、マスクなしのルージュばっちりの若い女性が訪ねてくれると男相手の仕事をしているとさわやかな気分になれる。
「ひさしぶりだな」と声をかけると、「はい」とひと言。
いつもの彼女とは、ネオンが滲む街角でゆっくりとヒールを鳴らして歩いている。漆黒のドレスは、夜の闇に溶け込むようでいて、月光を受けるたびに艶やかに光を返す。長く伸びた髪はゆるく巻かれ、首筋にかかるたび、香水の甘い残り香が漂った。
目元は涼しげで、笑みは控えめ。けれどその一瞬の視線に、男たちは言葉を失う彼女の存在は、夜の喧騒の中でひときわ静かに、しかし確かに輝いていた。その美しさは、誰かに見せるためのものではなく、彼女自身が纏う鎧のようだった。
彼女のために、村瀬は小型冷蔵庫の中にペットボトルの水を買い置きしている。
「このお仕事も、そろそろヤバイかもです」と綾香がめずらしく泣き言を言った。「いまの暮らしに飽き飽きしてるんです」
「商売替えでもするのかな?」と村瀬は、からかい気味に言い続けた。「金だけ取って、ホテルへ行くと見せかけてトンズラすることなど、アコギな商売はやめた方がいいと思うよ」
「小汚いオジサンに触られたくないから」
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