37 / 76
第6章:仮の人生と赦しの影――幻想の果てに再生はあるか
第4話:夜の鎧を纏う女と綾香の誘惑と村瀬の揺れる良心
しおりを挟む
十八歳の綾香は、夜の街で男たちを翻弄する一方、弟たちを守るために危うい生活を続けていた。彼女の魅力と哀しみは、村瀬の良心と欲望を揺さぶり、物語はさらに深い闇へと進んでいく。
綾香は何も言わず、木製のデスクの横の椅子に腰を下ろした。書類の山をちらりと見やり、バッグから細身のタバコを一本取り出す。その動きは、まるでルーティンのように滑らかだった。ライターの金属音が小さく響き、火が灯るまでの一瞬、彼女の横顔が炎に照らされる。
吸い口を唇に添え、静かに火をつける。煙がゆっくりと立ちのぼり、事務所の空気がわずかに揺れた。村瀬は言葉を飲み込んだまま、彼女の仕草に目を奪われていた。その姿は、場違いなはずなのに、なぜか完璧に『そこにいる』ように見えた。
「おれもオッサンだけどな」
「マーちゃんはいいのよ。以前に客に絡まれた時に助けてくれたし、厭らしい目では見ないから」
村瀬の事務所で、綾香が小休憩する理由は、煙草を吸う場所に困ってのことだった。しかし、五十過ぎて、マーちゃんと呼ばれると、胸がざわつく。子供の頃を思い出すのかもしれない。
来客用の紙コップを灰皿がわりにしながら、「今のまんまだったら、ジリ貧だもんねぇ」と綾香は甘えた口調で言った。
「そんなことないだろうよ」
綾香がどうやって中年男をたぶらかしているのか、村瀬は見知っているからだ。
空が群青色に染まる時刻、本通りに近いビジネス街の暗がりで人待ち顔の中年男に近づき、煙草の火を貸してくれと言って相手の顔をのぞきこみ、「どっか遊びに行かない?」と誘うのだ。
たいていの男は戸惑う。その種の女性に見えないからだ。損保研修生時代の同期の三宅と待ち合わせていた村瀬は見るともなしに見ていた。
「いくら……?」と男が尋ねると、綾香は長髪を結った頭をかしげながら、「オジサンの思うだけでいいですよ」と彼女がふと顔を上げた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
アイラインは鋭く、まつげは扇のように広がっている。頬には艶やかなハイライトが走り、唇は深いローズ色に染められていた。その表情は、誰かに見られることを計算しているようでいて、どこか突き放すような冷静さもあった。
実際には十代のはずなのに、彼女の顔には「経験」という名の影が差していた。視線を交わすだけで、年齢を測ることが無意味に思えるほど、彼女は『自分』を纏っていたその表情で答える。
「カネによって、サービスがかわる事はないよな?」
「それはないですよ」と綾香は言って手を開いて出す。
男は札入れから札びらを出す。その瞬間、綾香の手がさっと伸び、札びらを抜きとる。それと察した男が彼女の手首をつかみ、「その手にはのらないよ」と言った。
彼女は押し殺した悲鳴をあげた。村瀬はなぜ、綾香を助ける気になったのか、今もわからない。男を突き飛ばし、彼女の手を引っ張って駆け出した。
「まじめに働けよ」と、そのとき、村瀬は綾香を叱った。
街灯の灯る本通りまで逃げてきていた。
「母親が働かないから仕方ないの」綾香は頬をふくらませて言った。
「なんでもいいから、あぶない仕事はやめとけ」
綾香はふふんと鼻で笑うと、「オジサンが、養ってくれますか?」
「おれには妻子がいる」
そこへ三宅がやってきた。高層ビルが立ち並ぶ川崎のビジネス街の青雲損害保険株式会社に三宅は勤めている。もうすぐ独立して代理店の社長になる。生真面目を絵に描いたような男で、時間にうるさかった。
ラインで待ち合わせ時間と場所の変更を報せたが、三宅は綾香をひと目見て、落ち着きがなくなった。遅れたことに腹を立てているのだろうと思い、謝ったが機嫌はよくならなかった。
三人で村瀬の事務所へ行き、コンビニで買ったもので飲み食いした。口を動かしている間中、三宅は上目遣いに綾香を盗み見ていた。一方の綾香は、三宅の視線に気づかないふりをした。
綾香は何も言わず、木製のデスクの横の椅子に腰を下ろした。書類の山をちらりと見やり、バッグから細身のタバコを一本取り出す。その動きは、まるでルーティンのように滑らかだった。ライターの金属音が小さく響き、火が灯るまでの一瞬、彼女の横顔が炎に照らされる。
吸い口を唇に添え、静かに火をつける。煙がゆっくりと立ちのぼり、事務所の空気がわずかに揺れた。村瀬は言葉を飲み込んだまま、彼女の仕草に目を奪われていた。その姿は、場違いなはずなのに、なぜか完璧に『そこにいる』ように見えた。
「おれもオッサンだけどな」
「マーちゃんはいいのよ。以前に客に絡まれた時に助けてくれたし、厭らしい目では見ないから」
村瀬の事務所で、綾香が小休憩する理由は、煙草を吸う場所に困ってのことだった。しかし、五十過ぎて、マーちゃんと呼ばれると、胸がざわつく。子供の頃を思い出すのかもしれない。
来客用の紙コップを灰皿がわりにしながら、「今のまんまだったら、ジリ貧だもんねぇ」と綾香は甘えた口調で言った。
「そんなことないだろうよ」
綾香がどうやって中年男をたぶらかしているのか、村瀬は見知っているからだ。
空が群青色に染まる時刻、本通りに近いビジネス街の暗がりで人待ち顔の中年男に近づき、煙草の火を貸してくれと言って相手の顔をのぞきこみ、「どっか遊びに行かない?」と誘うのだ。
たいていの男は戸惑う。その種の女性に見えないからだ。損保研修生時代の同期の三宅と待ち合わせていた村瀬は見るともなしに見ていた。
「いくら……?」と男が尋ねると、綾香は長髪を結った頭をかしげながら、「オジサンの思うだけでいいですよ」と彼女がふと顔を上げた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
アイラインは鋭く、まつげは扇のように広がっている。頬には艶やかなハイライトが走り、唇は深いローズ色に染められていた。その表情は、誰かに見られることを計算しているようでいて、どこか突き放すような冷静さもあった。
実際には十代のはずなのに、彼女の顔には「経験」という名の影が差していた。視線を交わすだけで、年齢を測ることが無意味に思えるほど、彼女は『自分』を纏っていたその表情で答える。
「カネによって、サービスがかわる事はないよな?」
「それはないですよ」と綾香は言って手を開いて出す。
男は札入れから札びらを出す。その瞬間、綾香の手がさっと伸び、札びらを抜きとる。それと察した男が彼女の手首をつかみ、「その手にはのらないよ」と言った。
彼女は押し殺した悲鳴をあげた。村瀬はなぜ、綾香を助ける気になったのか、今もわからない。男を突き飛ばし、彼女の手を引っ張って駆け出した。
「まじめに働けよ」と、そのとき、村瀬は綾香を叱った。
街灯の灯る本通りまで逃げてきていた。
「母親が働かないから仕方ないの」綾香は頬をふくらませて言った。
「なんでもいいから、あぶない仕事はやめとけ」
綾香はふふんと鼻で笑うと、「オジサンが、養ってくれますか?」
「おれには妻子がいる」
そこへ三宅がやってきた。高層ビルが立ち並ぶ川崎のビジネス街の青雲損害保険株式会社に三宅は勤めている。もうすぐ独立して代理店の社長になる。生真面目を絵に描いたような男で、時間にうるさかった。
ラインで待ち合わせ時間と場所の変更を報せたが、三宅は綾香をひと目見て、落ち着きがなくなった。遅れたことに腹を立てているのだろうと思い、謝ったが機嫌はよくならなかった。
三人で村瀬の事務所へ行き、コンビニで買ったもので飲み食いした。口を動かしている間中、三宅は上目遣いに綾香を盗み見ていた。一方の綾香は、三宅の視線に気づかないふりをした。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
御曹司との交際0日婚なんて、聞いてません!──10年の恋に疲れた私が、突然プロポーズされました【完結】
日下奈緒
恋愛
10年付き合った恋人と別れ、恋に臆病になっていた30歳の千尋。そんな彼女に、取引先で出会った御曹司・神楽木律が突然のプロポーズ。「交際0日で結婚しよう」なんて冗談でしょ?──戸惑いながら始まった新婚生活。冷めた仮面夫婦のはずが、律の一途な想いに千尋の心は少しずつほどけていく。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる