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第6章:仮の人生と赦しの影――幻想の果てに再生はあるか
第5話:傷と願いの代償と綾香の涙と村瀬の迷いが交錯
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綾香の過去の傷と弟たちへの思いが明かされる。村瀬は彼女の涙に動かされ、互助会への加入を決意するが、それは破滅への第一歩だった。
それ以来、綾香は暇をもてあますと、村瀬の事務所をのぞくようになった。冷蔵庫を開けてペットボトルの水を飲み煙草をふかす。
「どんな奥さん?」と腰に手を当てて訊かれても、村瀬には答えようがない。独身寮でパート勤務する妻とは、もう五年以上も没交渉だ。中学生の娘も母親に倣ってか、父親を避ける。廊下でぶつかったとき、妻は「爺臭いオッサンと朝っぱらから鉢合わせなんて、今日も厄日だわ」と吐き捨てた。
綾香はそんな村瀬の心の渇きを見透かすように、「ヒマだねぇ」と言いながら、回転椅子の背後に立ち、肩に手を置いた。「何にもすることがないと、つまらないわ」
村瀬は綾香が誘っていると感じた。肩をそらして彼女の手を外す。「金のないオッサンをからかうなよ」と言う声がかすれる。
「マーちゃんのこと、誰よりもお気に入りだから、ほんのごあいさつよ」と綾香は耳元で囁いた。
村瀬は綾香の顔をまじまじと見た。「本当の歳はいくつなんだ?」
「母の恋人がネットスーパーの営業部長なの」と綾香は話を変えた。だから、自分たち家族はなんとか生き延びてこられたと。
「厭らしいオジサン相手のアルバイトは弟たちのためなの」
彼女の言葉は、甘えと諦めが混ざったような響きを持っていた。村瀬は戸惑いながらも、彼女の話に耳を傾けた。
「そのオジサンが北海道に転勤させられそうなんです。その前に別のコネを見つけて、自分で仕事を始めてもいいかもって思ってて。マーちゃんが前からやりたがってた仕事に、のっかってみようかなって」
綾香は椅子を蹴って半回転させると、村瀬の前に立った。虚を突かれたように棒立ちになる彼女を、村瀬は抱き寄せようとしたが、綾香は魚のように跳ねて腕の中から逃れた。震えている。顔が青ざめている。
「きつい冗談はやめろ。バカか、子供のくせに」
村瀬は落ち着きを取り戻すのに数分を要した。
「怒らないで……」と綾香は小さく言った。
「怒るわけないだろ。ただ、なんでこんなことするのか、知りたいだけだよ」
綾香は背中を向けると、カットソーをたくしあげた。殴られたような痕がくっきりと見える。
「客にやられたのか?」
綾香は頷き、騙した男と偶然再会し、殴られたと言った。
「お願いがあるんです」
「何?」
「互助会に入会したことにして頂けませんか?」
「カネはないぞ」
「わかってます。名前書いて、ハンコ押してほしいだけなんです」
綾香は涙を溜めていた。
「いますぐ押してほしいんです。この書類がないと、どうにもならないので」
「面倒くさいよ。次でいいだろ」
座り直した村瀬の肩を、綾香は握りこぶしで叩いた。
「営業部長さんに紹介してあげますから」
「いらないよ」
村瀬は和聖の叔父だ。彼の過去と現在が交錯する。刑事として過ごした横浜という故郷と、事務所がある神奈川県・川崎市、そして東京・東五反田という現実の狭間で、彼は赦しと再生を模索する。社会的な闘争と個人の葛藤が交差する。
綾香は村瀬の前にしゃがみこみ、彼の両手に自分の手を重ねて握りしめた。
「その手にはのらないからね!」
村瀬は苛立ちを隠せず、声を荒げた。
「サインとハンコ、お・ね・が・いします」
綾香はこんどは、頭を村瀬のひざにのせた。白磁のような艶のある首筋が、村瀬に軽い目眩を起こさせる。
「マーちゃんしか、頼れる人いないんで」
綾香は突然、ポロポロと涙をこぼした。手の甲で涙をぬぐい、顔中をくしゃくしゃにして泣きじゃくる。
「なんで、信じてくれないのですか。好きだから、頼んでるのに」
村瀬は両耳を塞ぎたかった。
「わかったよ」
「本当にいいの? うれしいです!」
綾香は涙が乾かぬうちに、村瀬の首に腕をまわし、顔を寄せた。「これなんですけど」と、すぐさま顔を離し、ブラの谷間から複数の書類を取り出してデスクに並べた。
さっき初心な小娘を装って逃げたのは、書類に気づかれたくなかったからだ。ハメられているとわかっていながら、村瀬は文面もろくに読まずにサインし、実印を何箇所も押した。
綾香は「サンキュー」と短く言って、「母の恋人のこと、楽しみにしていてくださいね」と言い足してそそくさと帰って行った。
「くそぉー!」
村瀬は惨めな思いに打ちひしがれながら、トイレで顔を洗った。綾香の言葉を微塵も信じていないが、夢と願望が頭を占領する。
ネットスーパーの営業部長と手を組んで、かねてからやりたかった車のリースの仕事のメドがつくかもしれない――そう思うだけで、村瀬の頭は熱を帯びていく。
五十半ばになる今だからこそ、後先考えずにのめりこめる何かを求めていた。実体のともなわない見果てぬ夢だと知りつつ、たしかなものが欲しいと願っていた。
夢の尻尾が、いま目の前にやってきている――綾香の話は、嘘ではなかったのだ。
それ以来、綾香は暇をもてあますと、村瀬の事務所をのぞくようになった。冷蔵庫を開けてペットボトルの水を飲み煙草をふかす。
「どんな奥さん?」と腰に手を当てて訊かれても、村瀬には答えようがない。独身寮でパート勤務する妻とは、もう五年以上も没交渉だ。中学生の娘も母親に倣ってか、父親を避ける。廊下でぶつかったとき、妻は「爺臭いオッサンと朝っぱらから鉢合わせなんて、今日も厄日だわ」と吐き捨てた。
綾香はそんな村瀬の心の渇きを見透かすように、「ヒマだねぇ」と言いながら、回転椅子の背後に立ち、肩に手を置いた。「何にもすることがないと、つまらないわ」
村瀬は綾香が誘っていると感じた。肩をそらして彼女の手を外す。「金のないオッサンをからかうなよ」と言う声がかすれる。
「マーちゃんのこと、誰よりもお気に入りだから、ほんのごあいさつよ」と綾香は耳元で囁いた。
村瀬は綾香の顔をまじまじと見た。「本当の歳はいくつなんだ?」
「母の恋人がネットスーパーの営業部長なの」と綾香は話を変えた。だから、自分たち家族はなんとか生き延びてこられたと。
「厭らしいオジサン相手のアルバイトは弟たちのためなの」
彼女の言葉は、甘えと諦めが混ざったような響きを持っていた。村瀬は戸惑いながらも、彼女の話に耳を傾けた。
「そのオジサンが北海道に転勤させられそうなんです。その前に別のコネを見つけて、自分で仕事を始めてもいいかもって思ってて。マーちゃんが前からやりたがってた仕事に、のっかってみようかなって」
綾香は椅子を蹴って半回転させると、村瀬の前に立った。虚を突かれたように棒立ちになる彼女を、村瀬は抱き寄せようとしたが、綾香は魚のように跳ねて腕の中から逃れた。震えている。顔が青ざめている。
「きつい冗談はやめろ。バカか、子供のくせに」
村瀬は落ち着きを取り戻すのに数分を要した。
「怒らないで……」と綾香は小さく言った。
「怒るわけないだろ。ただ、なんでこんなことするのか、知りたいだけだよ」
綾香は背中を向けると、カットソーをたくしあげた。殴られたような痕がくっきりと見える。
「客にやられたのか?」
綾香は頷き、騙した男と偶然再会し、殴られたと言った。
「お願いがあるんです」
「何?」
「互助会に入会したことにして頂けませんか?」
「カネはないぞ」
「わかってます。名前書いて、ハンコ押してほしいだけなんです」
綾香は涙を溜めていた。
「いますぐ押してほしいんです。この書類がないと、どうにもならないので」
「面倒くさいよ。次でいいだろ」
座り直した村瀬の肩を、綾香は握りこぶしで叩いた。
「営業部長さんに紹介してあげますから」
「いらないよ」
村瀬は和聖の叔父だ。彼の過去と現在が交錯する。刑事として過ごした横浜という故郷と、事務所がある神奈川県・川崎市、そして東京・東五反田という現実の狭間で、彼は赦しと再生を模索する。社会的な闘争と個人の葛藤が交差する。
綾香は村瀬の前にしゃがみこみ、彼の両手に自分の手を重ねて握りしめた。
「その手にはのらないからね!」
村瀬は苛立ちを隠せず、声を荒げた。
「サインとハンコ、お・ね・が・いします」
綾香はこんどは、頭を村瀬のひざにのせた。白磁のような艶のある首筋が、村瀬に軽い目眩を起こさせる。
「マーちゃんしか、頼れる人いないんで」
綾香は突然、ポロポロと涙をこぼした。手の甲で涙をぬぐい、顔中をくしゃくしゃにして泣きじゃくる。
「なんで、信じてくれないのですか。好きだから、頼んでるのに」
村瀬は両耳を塞ぎたかった。
「わかったよ」
「本当にいいの? うれしいです!」
綾香は涙が乾かぬうちに、村瀬の首に腕をまわし、顔を寄せた。「これなんですけど」と、すぐさま顔を離し、ブラの谷間から複数の書類を取り出してデスクに並べた。
さっき初心な小娘を装って逃げたのは、書類に気づかれたくなかったからだ。ハメられているとわかっていながら、村瀬は文面もろくに読まずにサインし、実印を何箇所も押した。
綾香は「サンキュー」と短く言って、「母の恋人のこと、楽しみにしていてくださいね」と言い足してそそくさと帰って行った。
「くそぉー!」
村瀬は惨めな思いに打ちひしがれながら、トイレで顔を洗った。綾香の言葉を微塵も信じていないが、夢と願望が頭を占領する。
ネットスーパーの営業部長と手を組んで、かねてからやりたかった車のリースの仕事のメドがつくかもしれない――そう思うだけで、村瀬の頭は熱を帯びていく。
五十半ばになる今だからこそ、後先考えずにのめりこめる何かを求めていた。実体のともなわない見果てぬ夢だと知りつつ、たしかなものが欲しいと願っていた。
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