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第6章:仮の人生と赦しの影――幻想の果てに再生はあるか
第6話:夢の代償と朱色の印が導く破滅の序章
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「急ぎましょう」と、和信ファイナンスの飯島は、出前のコーヒーを飲み干し、勿体ぶった言い方をした。
「今から、お話することは、こちら様にもけっして損にならないことでして、はい……」
三枚綴りの用紙を、飯島は村瀬の鼻先でちらつかせる。
「この保険のご加入を、私どもではお薦めいたしておりましてね、いかがなものかと……はい……」
村瀬の目は用紙に釘づけになる。それと言うのも、村瀬の生業だからだ。
「信用のおける、御社のようなところにしか、お話させていただかないんですが、はい……」
「調査してもらいたいようなことは何も……」
村瀬が口ごもると、飯島は身を乗り出した。
村瀬は飯島の要求に応じ、金を支払う。夢と現実の狭間で揺れながら、破滅への一歩を踏み出す。朱色の印鑑が、彼の人生を静かに塗り替えていく。
「新規の事業に手を染められる以上、新たに社員を雇い入れる必要が生じますでしょう?」
その際には、身上調査が欠かせないと飯島は言った。
「とにかく一部上場企業とタイアップしてのご商売なんですよ。経費はかかりますが、しれてます。月々、たったの十万です。儲けはその十倍、いや二十倍、諸経費を差し引いても、十二分に…十二分にペイします」
村瀬は思わず、「十万か……」とつぶやいた。
飯島はのど飴の袋をアタッシュケースに戻すと、書類の右上に日付を書き入れた。
「一か月分を前払いしていただきます」
「……手元に現金は……」
取引銀行にアクセスして残高を見なくてもわかっている。限りなくゼロに近い。
「保険金の五十万円を添えて申し込んでいただきます」
「家族と知人に相談してみてからでないと……」
「内金として三万円だけでも――本日、ご都合が悪いようでしたら、入会金の五十万に三万円を添えて五十三万。うちの取引先銀行へ一週間以内に支払っていただかないと、お話は無効となります。おわかりですよね? 私も調査員の端くれですので、いいかげんな取引にはかかわりたくないんですよ、はい……」
飯島は借金を取り立てるようなぞんざいな口ぶりになった。
ふと、ノせられているのではないかという疑いが、村瀬の頭をよぎった。顔色に出たのかもしれない。
「和信ファイナンスと致しましては、会員の皆様に、お一人でも多くご賛同いただきましてですね、職種によっては、双方のご利益になるような事業の仲立ちをさせていただいております、はい……」
飯島は早口になった。
村瀬は思案するときのいつもの癖で目を見開き、額に四本の皺を寄せていた。話の途中から、金のかかることはある程度覚悟していたが、こんなに早く請求されるとは想定外だった。
「お支払いが難しいようでしたら、定款をお預かりしている間に、別の方にお話を進めることもございます。はい……」
村瀬は、飯島の言葉に焦りを感じた。綾香の話が現実味を帯びていたこともあり、夢の尻尾を逃したくないという思いが強くなっていた。
「三万円だけなら……なんとか」
「ありがとうございます。では、こちらにご署名とご捺印を」
飯島は書類を差し出し、村瀬は震える手でペンを取った。文面を読み込む余裕はなかった。綾香の涙と、飯島の言葉が頭の中で交錯していた。
「これで、すべてが動き出します。はい……」
飯島は満足げに頷いた。
村瀬は、書類に押した印鑑の朱色を見つめながら、胸の奥にわずかな不安を覚えていた。だが、それ以上に、夢が動き出すという期待が勝っていた。
その夜、村瀬は事務所のソファに横になりながら、綾香の言葉を思い返していた。
「マーちゃんしか、頼れる人いないんで」
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
彼女の涙は演技だったのか、それとも本心だったのか。村瀬には、もう確かめる術がなかった。
ただ一つ言えるのは、自分がその涙に動かされたということだった。
そして今、自分はその代償を払ったのだ。
夢の始まりか、破滅の序章か――それはまだ、誰にもわからなかった。
「今から、お話することは、こちら様にもけっして損にならないことでして、はい……」
三枚綴りの用紙を、飯島は村瀬の鼻先でちらつかせる。
「この保険のご加入を、私どもではお薦めいたしておりましてね、いかがなものかと……はい……」
村瀬の目は用紙に釘づけになる。それと言うのも、村瀬の生業だからだ。
「信用のおける、御社のようなところにしか、お話させていただかないんですが、はい……」
「調査してもらいたいようなことは何も……」
村瀬が口ごもると、飯島は身を乗り出した。
村瀬は飯島の要求に応じ、金を支払う。夢と現実の狭間で揺れながら、破滅への一歩を踏み出す。朱色の印鑑が、彼の人生を静かに塗り替えていく。
「新規の事業に手を染められる以上、新たに社員を雇い入れる必要が生じますでしょう?」
その際には、身上調査が欠かせないと飯島は言った。
「とにかく一部上場企業とタイアップしてのご商売なんですよ。経費はかかりますが、しれてます。月々、たったの十万です。儲けはその十倍、いや二十倍、諸経費を差し引いても、十二分に…十二分にペイします」
村瀬は思わず、「十万か……」とつぶやいた。
飯島はのど飴の袋をアタッシュケースに戻すと、書類の右上に日付を書き入れた。
「一か月分を前払いしていただきます」
「……手元に現金は……」
取引銀行にアクセスして残高を見なくてもわかっている。限りなくゼロに近い。
「保険金の五十万円を添えて申し込んでいただきます」
「家族と知人に相談してみてからでないと……」
「内金として三万円だけでも――本日、ご都合が悪いようでしたら、入会金の五十万に三万円を添えて五十三万。うちの取引先銀行へ一週間以内に支払っていただかないと、お話は無効となります。おわかりですよね? 私も調査員の端くれですので、いいかげんな取引にはかかわりたくないんですよ、はい……」
飯島は借金を取り立てるようなぞんざいな口ぶりになった。
ふと、ノせられているのではないかという疑いが、村瀬の頭をよぎった。顔色に出たのかもしれない。
「和信ファイナンスと致しましては、会員の皆様に、お一人でも多くご賛同いただきましてですね、職種によっては、双方のご利益になるような事業の仲立ちをさせていただいております、はい……」
飯島は早口になった。
村瀬は思案するときのいつもの癖で目を見開き、額に四本の皺を寄せていた。話の途中から、金のかかることはある程度覚悟していたが、こんなに早く請求されるとは想定外だった。
「お支払いが難しいようでしたら、定款をお預かりしている間に、別の方にお話を進めることもございます。はい……」
村瀬は、飯島の言葉に焦りを感じた。綾香の話が現実味を帯びていたこともあり、夢の尻尾を逃したくないという思いが強くなっていた。
「三万円だけなら……なんとか」
「ありがとうございます。では、こちらにご署名とご捺印を」
飯島は書類を差し出し、村瀬は震える手でペンを取った。文面を読み込む余裕はなかった。綾香の涙と、飯島の言葉が頭の中で交錯していた。
「これで、すべてが動き出します。はい……」
飯島は満足げに頷いた。
村瀬は、書類に押した印鑑の朱色を見つめながら、胸の奥にわずかな不安を覚えていた。だが、それ以上に、夢が動き出すという期待が勝っていた。
その夜、村瀬は事務所のソファに横になりながら、綾香の言葉を思い返していた。
「マーちゃんしか、頼れる人いないんで」
その言葉が、耳の奥で何度も反響した。
彼女の涙は演技だったのか、それとも本心だったのか。村瀬には、もう確かめる術がなかった。
ただ一つ言えるのは、自分がその涙に動かされたということだった。
そして今、自分はその代償を払ったのだ。
夢の始まりか、破滅の序章か――それはまだ、誰にもわからなかった。
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