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第3話
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4月3日の合唱演奏会に向けた準備が、教室全体で進められていた。表向きは演奏会に向けた通常の練習が続いているように見えたが、実はその裏で、もっと重要な作業が静かに進行していた。それは、新レパートリーの選考とパート編成の見直しだ。そして、その中心にいたのは若き講師の薫子だった。
新レパートリーの選考は、校長からの提案を元に、既に初春には指揮者に提出されていた。しかし、指揮者側としては単に新曲を選ぶだけでなく、パート編成も合わせて総合的に検討したいという意向があり、校長もこれに同意していた。そのため、最終的な決定は来月初旬に持ち越されることとなった。
薫子はこの動きをリードし、生徒の技術レベルを把握するために、2月26日の朝から個別のヴォイストレーニング(ヴォイトレ)を行った。これは薫子が指名した生徒に対して行われるもので、生徒の技術力を再確認し、今後のパート編成に役立てる目的があった。
その日、指揮者による技術的なスキャンニングの結果、15名が指定されていたが、うち3名は都合により欠席。それでも、選ばれた生徒たちは皆、緊張の面持ちで薫子の指示に従い、発声練習を始めた。薫子が発する一言、一言に耳を傾け、いつもは硬い表情の生徒たちも次第にリラックスし、時には薫子との世間話で和む場面もあった。
だが、その場に漂う空気とは裏腹に、薫子の頭の中は常にパート編成と新レパートリーのことが渦巻いていた。生徒は28人を超えたが、4つのパートに分けると1パートあたり平均7人。それぞれの生徒が、無理なく最大限の力を発揮できる配置にしなければならない。個々の声質や技量、さらには新レパートリーとの相性までを考慮し、薫子は慎重に判断を下さなければならなかった。
そして、この作業のもう一つの側面は、合唱団全体の総合力の向上だ。新レパートリーを取り入れるにあたって、どの生徒がどのパートで最も力を発揮できるのかを見極めることは非常に重要で、薫子の肩にかかる負担は計り知れなかった。
それでも薫子は、他の講師や生徒にはその苦悩を見せることなく、淡々と仕事をこなしていた。しかし、内心では悩みを抱えていた。指揮者と校長とのやり取り、生徒個々の成長、そして自らの立場――そのすべてが彼女の心に重くのしかかっていたのだ。
そんな薫子が唯一心を許せる相手が、同じ教室の生徒である正夫だった。正夫は薫子より18歳も年上で、落ち着いた物腰と包容力を持つ会社経営の男性。薫子は彼に仕事の悩みを相談し、時には音楽理論についても意見を求めた。正夫は薫子の話をじっくりと聞き、的確なアドバイスをくれる。その大人びた態度に、薫子は次第に心を惹かれていった。
薫子の夫は、彼女と同年代だった事で、こうした悩みを理解することはなかった。家庭に帰れば、薫子の仕事に対する情熱に対して冷淡な態度を取り、ヤキモチを妬くばかりだった。「そんなに真剣に取り組む必要があるのか? パートなんだから、適当にやればいいじゃないか」と、軽く流されることが多かった。
しかし、正夫は違った。薫子の悩みを理解し、彼女の努力を認めてくれる。次第に薫子は正夫に心の安らぎを見出すようになり、夫とは異なる包容力に強く惹かれていった。
やがて、薫子にとって正夫との時間は、唯一自分が本当に求めていたものを感じられる瞬間となり、薫子の心は次第に揺れ動いていく。教室での指導者としての責任感と、個人的な感情――その間で薫子の心は揺れ続けていた。
つづく
新レパートリーの選考は、校長からの提案を元に、既に初春には指揮者に提出されていた。しかし、指揮者側としては単に新曲を選ぶだけでなく、パート編成も合わせて総合的に検討したいという意向があり、校長もこれに同意していた。そのため、最終的な決定は来月初旬に持ち越されることとなった。
薫子はこの動きをリードし、生徒の技術レベルを把握するために、2月26日の朝から個別のヴォイストレーニング(ヴォイトレ)を行った。これは薫子が指名した生徒に対して行われるもので、生徒の技術力を再確認し、今後のパート編成に役立てる目的があった。
その日、指揮者による技術的なスキャンニングの結果、15名が指定されていたが、うち3名は都合により欠席。それでも、選ばれた生徒たちは皆、緊張の面持ちで薫子の指示に従い、発声練習を始めた。薫子が発する一言、一言に耳を傾け、いつもは硬い表情の生徒たちも次第にリラックスし、時には薫子との世間話で和む場面もあった。
だが、その場に漂う空気とは裏腹に、薫子の頭の中は常にパート編成と新レパートリーのことが渦巻いていた。生徒は28人を超えたが、4つのパートに分けると1パートあたり平均7人。それぞれの生徒が、無理なく最大限の力を発揮できる配置にしなければならない。個々の声質や技量、さらには新レパートリーとの相性までを考慮し、薫子は慎重に判断を下さなければならなかった。
そして、この作業のもう一つの側面は、合唱団全体の総合力の向上だ。新レパートリーを取り入れるにあたって、どの生徒がどのパートで最も力を発揮できるのかを見極めることは非常に重要で、薫子の肩にかかる負担は計り知れなかった。
それでも薫子は、他の講師や生徒にはその苦悩を見せることなく、淡々と仕事をこなしていた。しかし、内心では悩みを抱えていた。指揮者と校長とのやり取り、生徒個々の成長、そして自らの立場――そのすべてが彼女の心に重くのしかかっていたのだ。
そんな薫子が唯一心を許せる相手が、同じ教室の生徒である正夫だった。正夫は薫子より18歳も年上で、落ち着いた物腰と包容力を持つ会社経営の男性。薫子は彼に仕事の悩みを相談し、時には音楽理論についても意見を求めた。正夫は薫子の話をじっくりと聞き、的確なアドバイスをくれる。その大人びた態度に、薫子は次第に心を惹かれていった。
薫子の夫は、彼女と同年代だった事で、こうした悩みを理解することはなかった。家庭に帰れば、薫子の仕事に対する情熱に対して冷淡な態度を取り、ヤキモチを妬くばかりだった。「そんなに真剣に取り組む必要があるのか? パートなんだから、適当にやればいいじゃないか」と、軽く流されることが多かった。
しかし、正夫は違った。薫子の悩みを理解し、彼女の努力を認めてくれる。次第に薫子は正夫に心の安らぎを見出すようになり、夫とは異なる包容力に強く惹かれていった。
やがて、薫子にとって正夫との時間は、唯一自分が本当に求めていたものを感じられる瞬間となり、薫子の心は次第に揺れ動いていく。教室での指導者としての責任感と、個人的な感情――その間で薫子の心は揺れ続けていた。
つづく
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