2 / 6
第2話
しおりを挟む
合唱教室のパート講師である薫子は、24歳という若さながら、日々の練習に真剣に取り組んでいた。その教室では、毎回3時間の練習時間のうち、1時間は発声練習に費やされている。発声練習は、合唱教室における基本的な作業であり、声という道具を磨き上げるために欠かせないプロセスだ。薫子もその重要性を十分に理解していた。
しかし、薫子はどこか釈然としない思いを抱えていた。合唱における声楽的技法ばかりが重視され、発声練習があたかもすべてであるかのように扱われる風潮に疑問を感じていたのだ。そもそも、合唱とは「合わせて唱う」ことに他ならない。「合」と「唱」の両方に、それぞれの技術が必要であり、それを学ぶべきだと薫子は考えていた。
薫子の頭の中で、合唱において鍛えるべき能力は2つに要約されるように思えた。
一つ目は、自由自在に声をコントロールして表現する力。声楽技法そのものだ。
二つ目は、瞬間、瞬間の演奏状況を聴き取り、臨機応変に修正する力。これは「合」に関わる技術で、仲間と音を合わせるために必要な能力だ。
具体的に言えば、音程や音色の微妙な違いを聴き分け、テンポやピッチがずれた際にすぐに修正する力だ。声のコントロールに焦点を当てた発声練習も重要だが、それだけでは合唱の真髄には届かないと薫子は感じていた。もっと音を合わせるための訓練に力を入れるべきだ、と。
薫子の目には、一部の「優れた声」の持ち主が逆に合唱のバランスを崩している光景が浮かんでいた。もし、そうした個人に「二つ目」の能力が欠けていれば、合唱はハーモニーを失い、全体が崩れてしまうだろう。声量が大きく、影響力のあるメンバーであればあるほど、その影響は大きい。これが、ソリストとしては優秀でも、合唱教室では疎外感を生む典型的な例だ。
だが、薫子は知っていた。一つ目と二つ目の技術は、独立して存在しているわけではない。二つ目の技術を発揮するためには、まず一つ目の技術がある程度習得されていなければならないのだ。演奏中にピッチがずれていることに気づいても、それを修正できる技術がなければ意味がない。
そのため、一般の合唱教室では「良い声」に偏りがちで、こうしたバランスの取れた技術が育ちにくい現状があった。そして、薫子はそうした教室の状況を改善したいと願っていた。特に、忙しい社会人が通う合唱教室では、効率的に一つ目と二つ目の技術を鍛える方法を考えたいと、日々悩んでいた。
そんな薫子が最も頼りにしているのは、音楽大学時代に結婚した同級生の夫だった。しかし、彼は薫子の真剣な話をまともに聞くことはなかった。彼はいつも、「薫子はパートなのに、なんでそんなに必死になっているんだ? パートはパートらしく適当にやればいいんだよ。それとも教室に参加している男にでも気があるのか?」と冗談めかし、薫子を軽んじていた。
薫子は夫の言葉に失望しつつも、独りで考え続けた。彼女にとって合唱は、単なる趣味ではなく、音楽の高みを目指すための大切な一歩だったのだ。そして、教室での練習をどう改善すれば全体のレベルを上げられるのか、日々頭を悩ませていた。
そんな薫子が、やがて夫との距離を感じ始めるのは自然な流れだった。彼女の情熱を理解せず、むしろ嫉妬の目で見る夫に対して、薫子は次第に心を閉ざしていった。代わりに、合唱教室での時間が彼女にとって唯一の安らぎになっていく。そして、彼女の心の中で何かが静かに変わり始めていた。
つづく
しかし、薫子はどこか釈然としない思いを抱えていた。合唱における声楽的技法ばかりが重視され、発声練習があたかもすべてであるかのように扱われる風潮に疑問を感じていたのだ。そもそも、合唱とは「合わせて唱う」ことに他ならない。「合」と「唱」の両方に、それぞれの技術が必要であり、それを学ぶべきだと薫子は考えていた。
薫子の頭の中で、合唱において鍛えるべき能力は2つに要約されるように思えた。
一つ目は、自由自在に声をコントロールして表現する力。声楽技法そのものだ。
二つ目は、瞬間、瞬間の演奏状況を聴き取り、臨機応変に修正する力。これは「合」に関わる技術で、仲間と音を合わせるために必要な能力だ。
具体的に言えば、音程や音色の微妙な違いを聴き分け、テンポやピッチがずれた際にすぐに修正する力だ。声のコントロールに焦点を当てた発声練習も重要だが、それだけでは合唱の真髄には届かないと薫子は感じていた。もっと音を合わせるための訓練に力を入れるべきだ、と。
薫子の目には、一部の「優れた声」の持ち主が逆に合唱のバランスを崩している光景が浮かんでいた。もし、そうした個人に「二つ目」の能力が欠けていれば、合唱はハーモニーを失い、全体が崩れてしまうだろう。声量が大きく、影響力のあるメンバーであればあるほど、その影響は大きい。これが、ソリストとしては優秀でも、合唱教室では疎外感を生む典型的な例だ。
だが、薫子は知っていた。一つ目と二つ目の技術は、独立して存在しているわけではない。二つ目の技術を発揮するためには、まず一つ目の技術がある程度習得されていなければならないのだ。演奏中にピッチがずれていることに気づいても、それを修正できる技術がなければ意味がない。
そのため、一般の合唱教室では「良い声」に偏りがちで、こうしたバランスの取れた技術が育ちにくい現状があった。そして、薫子はそうした教室の状況を改善したいと願っていた。特に、忙しい社会人が通う合唱教室では、効率的に一つ目と二つ目の技術を鍛える方法を考えたいと、日々悩んでいた。
そんな薫子が最も頼りにしているのは、音楽大学時代に結婚した同級生の夫だった。しかし、彼は薫子の真剣な話をまともに聞くことはなかった。彼はいつも、「薫子はパートなのに、なんでそんなに必死になっているんだ? パートはパートらしく適当にやればいいんだよ。それとも教室に参加している男にでも気があるのか?」と冗談めかし、薫子を軽んじていた。
薫子は夫の言葉に失望しつつも、独りで考え続けた。彼女にとって合唱は、単なる趣味ではなく、音楽の高みを目指すための大切な一歩だったのだ。そして、教室での練習をどう改善すれば全体のレベルを上げられるのか、日々頭を悩ませていた。
そんな薫子が、やがて夫との距離を感じ始めるのは自然な流れだった。彼女の情熱を理解せず、むしろ嫉妬の目で見る夫に対して、薫子は次第に心を閉ざしていった。代わりに、合唱教室での時間が彼女にとって唯一の安らぎになっていく。そして、彼女の心の中で何かが静かに変わり始めていた。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる