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第7章:罪の記憶と影の囁き
第9話:浜辺の歩みと影の囁き
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和永と麻衣子は毎朝、食事の前に浜辺を二キロほど歩くことを習慣にしていた。運動不足を防ぐためでもあったが、本当は一日七千歩ほど歩くのが理想だと和永は考えていた。
潮風に吹かれながら歩く時間は、夫婦にとって心を整えるひとときでもあった。二人は歩きながら、流れ着いた薪になりそうな木を拾い集めるのが常だった。
その朝、先日交番に届けたキャッシュカードのことを思い出した。カードには「井田拓夢」という名前が記されていた。店の前で拾ったそれを届けた際に応対した警察官が、ちょうど巡回で姿を見せた。
「松谷さんのご夫妻じゃないですか? あれから何か変わったことはありますか?」と警察官は心配そうに声を掛けてきた。
「いえ、あれ以降は何もありません」と和永が答える。
「奥様も気持ち悪いでしょうけど、どうかお気を強く持たれて下さい。私ども警察が付いていますから」
「ありがとうございます」麻衣子は深く頭を下げた。
心の奥では犯人は娘婿だった康彦と分かっていたのは彼女だけだった。
◇◆◇
朝食を済ませた後、二人は鹿野の家へ向かった。ここしばらく毎朝訪れるのが習慣となっていた。和永は鹿野から村政について学び、麻衣子は家の掃除を手伝った後、車の中で待ちながら水戸に住む娘の近況を聞いたり、かつての娘婿である康彦に連絡を取ったりしていた。
康彦は電話口で囁いた。
「次に会う時は媚薬と大人のオモチャを用意しておくから。今まで以上に狂わせてやるから」
その言葉に麻衣子の身体は熱を帯びた。若い彼を忘れられなくなっている自分が怖かった。母としての責任と女としての欲望がせめぎ合い、心は揺れ続けていた。
◇◆◇◆◇
店への帰途、麻衣子は口を開いた。
「もう鹿野先生のところへの訪問はいいんじゃないのですか?」
和永は強い口調で返した。
「ダメだよ。先生はご高齢なんだから」
怪訝そうな麻衣子に、和永はようやく理由を語った。
「最近、鹿野先生の話が村政に及ぶようになってね。俺は今の村役場は怠慢だと思っている。正さなければならないと感じているんだ。だから先生から学べることは学びたい」
「そういうことだったのですね」
「鹿野先生は持病もあるし、次期の村長選挙には出馬されないかもしれない。だからこそ、直接話を聞いて鹿野イズムを自分の中に取り入れたいんだ」
「でも、それはあなたの仕事に必要なのですか?」
「必要だと思う」
麻衣子は、和永が一度言い出したら聞かない性格だと知っていた。従うしかないと心の中で呟いた。
◇◆◇◆◇
昼の営業を終え、麻衣子が水戸へ出かけた後、和永のスマートフォンに着信があった。表示された名前は「幸枝」。
「結婚したんだって?」
「うん、そうだよ」
「全く、和永は相変わらず水臭いね」
「ごめん」
「でも、私は和永の女だけど、結婚しようとは思ってなかったから。とりあえずは、おめでとう!」
「サンキュー!」
幸枝は近況を語った。前夫が若い女と別れ、再び彼女のもとに戻ってきたという。籍は入れていないが、一緒に暮らしているらしい。
「でもね、相変わらずEDで立たないのよ。それでも一人じゃ寂しいから、役立たずでも一緒にいてくれたらいいかと思って」
和永は笑いながら応じた。
「本当に欲求不満になったら俺が抱いてやる。あいつが戻ってきても、一度は捨てたんだ。幸枝は俺の女なんだから、今は貸してやっている形だ」
「うん、その時は内緒でお願いするわ。六十を過ぎても私はまだ女として枯れてないから」
二人は冗談めかしながらも、互いの絆を確かめ合った。店の話題にも及び、友子の店が閉店したことを聞いた。和永は「困ったら連絡が来るだろう」と軽く答え、電話を切った。
◇◆◇◆◇
夕方、和永は店に戻り、仕込みを始めた。山村崇が出勤してきて、二人で準備を進める。夜の営業が始まる頃、麻衣子は「今晩は水戸に泊まる」と告げていた。和永は久しぶりに崇と酒を酌み交わすことにした。
浜辺の朝の静けさ、鹿野の家での学び、そして麻衣子の心に潜む影。和永の誠実さと麻衣子の罪が交錯しながら、寒鷺島の生活は続いていく。
――つづく。
潮風に吹かれながら歩く時間は、夫婦にとって心を整えるひとときでもあった。二人は歩きながら、流れ着いた薪になりそうな木を拾い集めるのが常だった。
その朝、先日交番に届けたキャッシュカードのことを思い出した。カードには「井田拓夢」という名前が記されていた。店の前で拾ったそれを届けた際に応対した警察官が、ちょうど巡回で姿を見せた。
「松谷さんのご夫妻じゃないですか? あれから何か変わったことはありますか?」と警察官は心配そうに声を掛けてきた。
「いえ、あれ以降は何もありません」と和永が答える。
「奥様も気持ち悪いでしょうけど、どうかお気を強く持たれて下さい。私ども警察が付いていますから」
「ありがとうございます」麻衣子は深く頭を下げた。
心の奥では犯人は娘婿だった康彦と分かっていたのは彼女だけだった。
◇◆◇
朝食を済ませた後、二人は鹿野の家へ向かった。ここしばらく毎朝訪れるのが習慣となっていた。和永は鹿野から村政について学び、麻衣子は家の掃除を手伝った後、車の中で待ちながら水戸に住む娘の近況を聞いたり、かつての娘婿である康彦に連絡を取ったりしていた。
康彦は電話口で囁いた。
「次に会う時は媚薬と大人のオモチャを用意しておくから。今まで以上に狂わせてやるから」
その言葉に麻衣子の身体は熱を帯びた。若い彼を忘れられなくなっている自分が怖かった。母としての責任と女としての欲望がせめぎ合い、心は揺れ続けていた。
◇◆◇◆◇
店への帰途、麻衣子は口を開いた。
「もう鹿野先生のところへの訪問はいいんじゃないのですか?」
和永は強い口調で返した。
「ダメだよ。先生はご高齢なんだから」
怪訝そうな麻衣子に、和永はようやく理由を語った。
「最近、鹿野先生の話が村政に及ぶようになってね。俺は今の村役場は怠慢だと思っている。正さなければならないと感じているんだ。だから先生から学べることは学びたい」
「そういうことだったのですね」
「鹿野先生は持病もあるし、次期の村長選挙には出馬されないかもしれない。だからこそ、直接話を聞いて鹿野イズムを自分の中に取り入れたいんだ」
「でも、それはあなたの仕事に必要なのですか?」
「必要だと思う」
麻衣子は、和永が一度言い出したら聞かない性格だと知っていた。従うしかないと心の中で呟いた。
◇◆◇◆◇
昼の営業を終え、麻衣子が水戸へ出かけた後、和永のスマートフォンに着信があった。表示された名前は「幸枝」。
「結婚したんだって?」
「うん、そうだよ」
「全く、和永は相変わらず水臭いね」
「ごめん」
「でも、私は和永の女だけど、結婚しようとは思ってなかったから。とりあえずは、おめでとう!」
「サンキュー!」
幸枝は近況を語った。前夫が若い女と別れ、再び彼女のもとに戻ってきたという。籍は入れていないが、一緒に暮らしているらしい。
「でもね、相変わらずEDで立たないのよ。それでも一人じゃ寂しいから、役立たずでも一緒にいてくれたらいいかと思って」
和永は笑いながら応じた。
「本当に欲求不満になったら俺が抱いてやる。あいつが戻ってきても、一度は捨てたんだ。幸枝は俺の女なんだから、今は貸してやっている形だ」
「うん、その時は内緒でお願いするわ。六十を過ぎても私はまだ女として枯れてないから」
二人は冗談めかしながらも、互いの絆を確かめ合った。店の話題にも及び、友子の店が閉店したことを聞いた。和永は「困ったら連絡が来るだろう」と軽く答え、電話を切った。
◇◆◇◆◇
夕方、和永は店に戻り、仕込みを始めた。山村崇が出勤してきて、二人で準備を進める。夜の営業が始まる頃、麻衣子は「今晩は水戸に泊まる」と告げていた。和永は久しぶりに崇と酒を酌み交わすことにした。
浜辺の朝の静けさ、鹿野の家での学び、そして麻衣子の心に潜む影。和永の誠実さと麻衣子の罪が交錯しながら、寒鷺島の生活は続いていく。
――つづく。
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