泡のように、生きる

第2章 若さは武器だった。だが老いは、物語になる

第17話 初恋の記憶と喫茶店の前

　夜の店が終わった帰り道、アタシはふと、昔の恋を思い出した。理由は分からない。ただ、街の片隅にある古い喫茶店の前を通った瞬間、あの人の名前が頭に浮かんだ。

「直樹」――高校時代、図書館でよく顔を合わせていた男の子。喫茶店で待ち合わせをして、アタシが遅れて行くと、彼はいつも笑って言った。

「好きな人を待ってる時間は嫌いじゃないから」

　その言葉が、今でも心に残っている。優しくて、少し照れ屋で、でも真っ直ぐな人だった。あの頃、アタシは彼のことが好きだった。でも、何も言えなかった。夜の世界に憧れていたアタシは、恋よりも自由を選んだ。

　直樹は大学に進学して、東京に行った。その後、何度か年賀状をもらったけど、いつの間にか途絶えた。今、彼はどこで何をしているのだろう。結婚して、子供がいて、穏やかな家庭を築いているのかもしれない。

　アタシは、そんな彼の人生を想像しながら、少しだけ胸が痛くなった。もし、あの時、違う選択をしていたら――アタシの人生は、少しだけ違っていたのだろうか。
でも、後悔はしていない。夜の街で生きることを選んだアタシは、たくさんの人と出会い、たくさんの感情を知った。

　直樹との思い出は、アタシの中で静かに輝いている。人生は、選択の連続だ。そして、選ばなかった道にも、確かに愛があった。

　アタシは、喫茶店の前で立ち止まり、そっと目を閉じた。

「直樹、元気でいてね」
その言葉は、誰にも聞かれず、夜の風に溶けていった。

　つづく