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(……あ、終わった)
森下優太(もりした・ゆうた)、20歳。大学2年生。 人生最大のピンチは、あまりにも唐突に、そして理不尽に訪れた。
冬が近づき、すっかり日の短くなった午後五時過ぎ。 バイト代が入ったばかりの財布が入ったカバンを、背後から近づいてきたバイクの男に掴まれた。 だが、今月の生活費がかかっている優太は、無我夢中でカバンのストラップを離さなかった。
「……離せっ、このっ……!」
「うわあああ! だめです、これだけはっ!」
激しいひったくりに抵抗した拍子に、優太は派手に転倒。勢い余って男もバイクごとバランスを崩し、無残な音を立てて転倒した。 カバンの紐は引きちぎれ、中身が地面に散らばる。
「……てめぇ、よくもやってくれたな……っ!」
バイクを起こすのも後回しに、男がふらふらと立ち上がった。 膝を擦りむいて動けない優太のもとへ、怒り狂った男が歩み寄る。 逆上した男の目は血走り、大きな拳が振り上げられた。
(痛いの嫌だ、怖い……誰か、誰か助けて……!)
優太は反射的に目を閉じ、身をすくませた。 その時だった。
――ッパァン!
乾いた、何かが弾けるような鋭い衝撃音が住宅街に響き渡る。 続いて聞こえてきたのは、「ぶっ……!?」という男の短い絶叫と、鈍い衝突音。
恐る恐る、優太は目を開けた。 ……そこには、数秒前までの緊迫感が嘘のような、静かな光景が広がっていた。
「……え?」
目の前では、先ほどまで凶器のような拳を振り上げていた男が、もんどりうって地面に倒れ伏していた。悶絶し、顔を押さえて呻いている。 そして男のすぐ横には、場違いなほど鮮やかなサッカーボールが、コロコロと力なく転がっていた。
(……何? どうなったの……?)
混乱する優太の視界に、一人の少年が入り込む。
紺色のハーフパンツから伸びる、まだ細いがバネのように引き締まった脚。 背中には、夕日に照らされて光を放つランドセル。 少年は、跳ね返って転がってきたボールを器用に足元でピタリと止めると、冷ややかな視線を男へ突き刺した。
「おじさん。それ、その人のだよね。……あと、バイクのナンバー、もう覚えたから。警察、そこ曲がったところに交番あるけど。一緒に行く?」
淡々とした、けれど有無を言わせない低温の響き。 犯人の男は、自分より遥かに小さな子どもが放つ圧倒的な威圧感と、「ナンバーを覚えた」という冷静な通告に完全に気圧されたのか、カバンを捨て、壊れかけたバイクに跨がると必死の形相で逃げ出していった。
(……ええっと、某名探偵、かな……?)
静寂が戻る。 優太は腰が抜けたまま、アスファルトの上に座り込み、自分を救ってくれた「ヒーロー」を見上げた。
身長は140センチ台半ばといったところだろうか。優太より頭二つ分は低い。 けれど、西日を背負って立つそのシルエット、涼やかな目元、そして意志の強そうな眉は、大人の男性顔負けのオーラを放っていた。
「……大丈夫? お兄さん」
少年がゆっくりと歩み寄り、優太の目の前に小さな手を差し出す。
その瞬間だった。
――ドクン。
優太の心臓が、今日一番の大きさで跳ねた。 逆光のせいで少年の顔ははっきりとは見えない。けれど、差し出された手のひらの微かな温かさと、自分を見つめるまっすぐな瞳に、優太の脳内はパニックを起こした。
(待って。え、何。この心臓の音。吊り橋効果? いや、それにしたって、相手は……相手はまだランドセル背負ってるぞ!?)
「おーい、生きてる?」
「あ、は、はい! 生きてます! ありがとうございますっ!」
優太は慌ててその手を掴み、立ち上がる。 手首に伝わる感触は、確かにまだ子どものそれだ。骨が細くて、肌が柔らかい。 それなのに、優太の心拍数は上がる一方だった。
「これ、カバン。……はい、中身」
少年は、地面に散らばった小銭や学生証を、拾い集めて差し出してくれた。
「あ、うん。……あ、ありがとう。……えっと、君、名前は?」
少年は、少しだけ面倒そうに視線を泳がせた後、短く答えた。
「……蒼。日向蒼」
「あ、あおいくん。……あ、俺は森下優太! 大学生です! 本当に助かったよ。何かお礼を……そうだ、ジュースとか、図書カードとか……!」
必死に食い下がる優太を、蒼は「別にいいよ」と素っ気なくあしらう。 そしてボールを脇に抱え直すと、ひょいと背を向けた。
「お兄さん、危ないから早く帰りなよ。じゃあね」
軽やかな足取りで去っていく、小さな、けれどあまりに大きな背中。 優太はその場に立ち尽くし、熱を持ったままの胸を押さえた。
「……か、かっこいい……」
口から漏れたのは、自分でも信じられない言葉だった。
20歳の大学生が、小学生に、命を救われて(正確にはバイト代だけど)、あろうことか一目惚れ。
(いやいやいや! ないないない! 落ち着け優太、相手はランドセルだぞ!? 黄色いカバーこそ付いてなかったけど、中身は計算ドリルとかリコーダーだぞ! せめて中学生……いや、それでもアウトだわ! 落ち着け、あれはただの感謝だ。崇高なまでのリスペクトなんだ……!)
翌日。 大学の食堂で、友人の高橋に事の次第を、身振り手振りを交えて必死に報告した。 報告し終えた瞬間、高橋の口から出たのは、慈悲の欠片もない一言だった。
「おい変態。自首しろ。今すぐだ」
「違うんだよ高橋! そういう不純なものじゃないんだ、たぶん! ただ、あのクールでカッコいい冷ややかな視線が、網膜に焼き付いて離れないだけで……!」
「それを世間では変態って言うんだよ。それもかなり重症のな」
高橋は飲みかけのカフェオレを置き、憐れみすら含んだ目で優太を見た。
「いいか、よく聞け森下。お前は20歳。相手は小学6年生だったとしても、12歳だ。それ以下の可能性もある。その差は8歳以上。だが、その8歳の間には『義務教育』という名の巨大で強固な壁がそびえ立ってるんだ。お前がその少年に『また会いたいな』なんて思って近所をうろついた瞬間、それはもう立派な『事案』なんだよ。ニュースのテロップに『森下容疑者(20)』って出るのを、俺は見たくない。親御さんが泣くぞ」
「うぐっ……犯罪者扱いはやめてくれよ! 俺はただ、彼がどこの小学校の、何年何組の、どんなサッカークラブに入ってるのかを知りたいだけだ!」
「それが不審者の思考回路だって気づけよ! 完全にロックオンしてるじゃねーか!」
優太は食堂のテーブルに突っ伏した。 閉じれば浮かぶのは、夕日に照らされた凛々しい横顔と、差し出された少し小さな手のひら。
「……だって、本当にすごかったんだ。あの空気感、小学生のそれじゃないんだよ。まるで何百戦もくぐり抜けてきたエースストライカーみたいなさ……」
「はいはい、わかったから。その『ランドセルの王子様』のことはもう忘れろ。合コン組んでやるから、現実の女性を見ろ」
高橋の血も涙もない正論は、今の優太の耳には一分たりとも届かなかった。 優太の脳内では、昨日のヒーローがスローモーションでボールを蹴り、クールに言い放っている。
『……大丈夫? お兄さん』
(……ああ、やっぱり、もう一回会いたい……!)
「おい、森下。顔がニヤけてるぞ。通報するぞ」
「……してない!」
否定しながらも、優太の心はすでに、あの夕暮れの住宅街へと飛んでいっていた。
森下優太(もりした・ゆうた)、20歳。大学2年生。 人生最大のピンチは、あまりにも唐突に、そして理不尽に訪れた。
冬が近づき、すっかり日の短くなった午後五時過ぎ。 バイト代が入ったばかりの財布が入ったカバンを、背後から近づいてきたバイクの男に掴まれた。 だが、今月の生活費がかかっている優太は、無我夢中でカバンのストラップを離さなかった。
「……離せっ、このっ……!」
「うわあああ! だめです、これだけはっ!」
激しいひったくりに抵抗した拍子に、優太は派手に転倒。勢い余って男もバイクごとバランスを崩し、無残な音を立てて転倒した。 カバンの紐は引きちぎれ、中身が地面に散らばる。
「……てめぇ、よくもやってくれたな……っ!」
バイクを起こすのも後回しに、男がふらふらと立ち上がった。 膝を擦りむいて動けない優太のもとへ、怒り狂った男が歩み寄る。 逆上した男の目は血走り、大きな拳が振り上げられた。
(痛いの嫌だ、怖い……誰か、誰か助けて……!)
優太は反射的に目を閉じ、身をすくませた。 その時だった。
――ッパァン!
乾いた、何かが弾けるような鋭い衝撃音が住宅街に響き渡る。 続いて聞こえてきたのは、「ぶっ……!?」という男の短い絶叫と、鈍い衝突音。
恐る恐る、優太は目を開けた。 ……そこには、数秒前までの緊迫感が嘘のような、静かな光景が広がっていた。
「……え?」
目の前では、先ほどまで凶器のような拳を振り上げていた男が、もんどりうって地面に倒れ伏していた。悶絶し、顔を押さえて呻いている。 そして男のすぐ横には、場違いなほど鮮やかなサッカーボールが、コロコロと力なく転がっていた。
(……何? どうなったの……?)
混乱する優太の視界に、一人の少年が入り込む。
紺色のハーフパンツから伸びる、まだ細いがバネのように引き締まった脚。 背中には、夕日に照らされて光を放つランドセル。 少年は、跳ね返って転がってきたボールを器用に足元でピタリと止めると、冷ややかな視線を男へ突き刺した。
「おじさん。それ、その人のだよね。……あと、バイクのナンバー、もう覚えたから。警察、そこ曲がったところに交番あるけど。一緒に行く?」
淡々とした、けれど有無を言わせない低温の響き。 犯人の男は、自分より遥かに小さな子どもが放つ圧倒的な威圧感と、「ナンバーを覚えた」という冷静な通告に完全に気圧されたのか、カバンを捨て、壊れかけたバイクに跨がると必死の形相で逃げ出していった。
(……ええっと、某名探偵、かな……?)
静寂が戻る。 優太は腰が抜けたまま、アスファルトの上に座り込み、自分を救ってくれた「ヒーロー」を見上げた。
身長は140センチ台半ばといったところだろうか。優太より頭二つ分は低い。 けれど、西日を背負って立つそのシルエット、涼やかな目元、そして意志の強そうな眉は、大人の男性顔負けのオーラを放っていた。
「……大丈夫? お兄さん」
少年がゆっくりと歩み寄り、優太の目の前に小さな手を差し出す。
その瞬間だった。
――ドクン。
優太の心臓が、今日一番の大きさで跳ねた。 逆光のせいで少年の顔ははっきりとは見えない。けれど、差し出された手のひらの微かな温かさと、自分を見つめるまっすぐな瞳に、優太の脳内はパニックを起こした。
(待って。え、何。この心臓の音。吊り橋効果? いや、それにしたって、相手は……相手はまだランドセル背負ってるぞ!?)
「おーい、生きてる?」
「あ、は、はい! 生きてます! ありがとうございますっ!」
優太は慌ててその手を掴み、立ち上がる。 手首に伝わる感触は、確かにまだ子どものそれだ。骨が細くて、肌が柔らかい。 それなのに、優太の心拍数は上がる一方だった。
「これ、カバン。……はい、中身」
少年は、地面に散らばった小銭や学生証を、拾い集めて差し出してくれた。
「あ、うん。……あ、ありがとう。……えっと、君、名前は?」
少年は、少しだけ面倒そうに視線を泳がせた後、短く答えた。
「……蒼。日向蒼」
「あ、あおいくん。……あ、俺は森下優太! 大学生です! 本当に助かったよ。何かお礼を……そうだ、ジュースとか、図書カードとか……!」
必死に食い下がる優太を、蒼は「別にいいよ」と素っ気なくあしらう。 そしてボールを脇に抱え直すと、ひょいと背を向けた。
「お兄さん、危ないから早く帰りなよ。じゃあね」
軽やかな足取りで去っていく、小さな、けれどあまりに大きな背中。 優太はその場に立ち尽くし、熱を持ったままの胸を押さえた。
「……か、かっこいい……」
口から漏れたのは、自分でも信じられない言葉だった。
20歳の大学生が、小学生に、命を救われて(正確にはバイト代だけど)、あろうことか一目惚れ。
(いやいやいや! ないないない! 落ち着け優太、相手はランドセルだぞ!? 黄色いカバーこそ付いてなかったけど、中身は計算ドリルとかリコーダーだぞ! せめて中学生……いや、それでもアウトだわ! 落ち着け、あれはただの感謝だ。崇高なまでのリスペクトなんだ……!)
翌日。 大学の食堂で、友人の高橋に事の次第を、身振り手振りを交えて必死に報告した。 報告し終えた瞬間、高橋の口から出たのは、慈悲の欠片もない一言だった。
「おい変態。自首しろ。今すぐだ」
「違うんだよ高橋! そういう不純なものじゃないんだ、たぶん! ただ、あのクールでカッコいい冷ややかな視線が、網膜に焼き付いて離れないだけで……!」
「それを世間では変態って言うんだよ。それもかなり重症のな」
高橋は飲みかけのカフェオレを置き、憐れみすら含んだ目で優太を見た。
「いいか、よく聞け森下。お前は20歳。相手は小学6年生だったとしても、12歳だ。それ以下の可能性もある。その差は8歳以上。だが、その8歳の間には『義務教育』という名の巨大で強固な壁がそびえ立ってるんだ。お前がその少年に『また会いたいな』なんて思って近所をうろついた瞬間、それはもう立派な『事案』なんだよ。ニュースのテロップに『森下容疑者(20)』って出るのを、俺は見たくない。親御さんが泣くぞ」
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優太は食堂のテーブルに突っ伏した。 閉じれば浮かぶのは、夕日に照らされた凛々しい横顔と、差し出された少し小さな手のひら。
「……だって、本当にすごかったんだ。あの空気感、小学生のそれじゃないんだよ。まるで何百戦もくぐり抜けてきたエースストライカーみたいなさ……」
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高橋の血も涙もない正論は、今の優太の耳には一分たりとも届かなかった。 優太の脳内では、昨日のヒーローがスローモーションでボールを蹴り、クールに言い放っている。
『……大丈夫? お兄さん』
(……ああ、やっぱり、もう一回会いたい……!)
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