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プロローグ
出会いは突然だった。
それは、大学のキャンパスで。
一目見ただけで、心がざわめいた。理由なんて、わからなかった。ただ、目が離せなかった。彼の存在が、世界の色を変えた気がした。
名前も知らない。声も聞いたことがない。
それが、すべての始まりだった。
*
この世界には、第一の性とは別に「第二の性」が存在する。 α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)――それぞれが、生まれながらに異なる特性を持っていた。
αは全人口の少数派。身体能力、知能共に優れていることが多く、指導者や高い社会的地位に就く者が目立つ。人を惹きつける。
βは最も一般的で、特別な性質を持たない中間層。
そして、Ωは希少で、男女問わず繁殖能力を持つ存在。 その特性ゆえに、Ωはしばしば特別視される。 容姿が整っている者が多く、周囲の目を引くことも少なくない。男性のΩは特に珍しい。
1
都心から少し離れた場所にある美術大学は、古い校舎と現代的なガラス張りのアトリエが混在し、その空気は常に、油絵の具や現像液、そして若者たちの夢の熱気で満ちていた。
映画監督を目指す碧人(あおと)は、この大学で学ぶ学生の一人だ。彼は、全人口の数少ない男性のΩであり、この特性が、彼の人生に影を落とすと同時に、皮肉にも一つの武器となっていた。
Ωはαを引き寄せるための本能的な特性として、見た目がよい、つまり整った容姿を持つ者が多い。
碧人も例外ではなかった。色素の薄い柔らかな髪、すらりとした体躯、そして端正な顔立ちは、彼にどこか中性的な美しさを与えていた。この見た目を買われ、碧人は、服飾科の卒業制作のためのモデルを頼まれることが増えていた。
「碧人くん、本当にキレイ!」
服飾科の女子学生が、碧人の着る、繊細な刺繍が施されたシャツの襟元を直しながら、興奮気味に言った。
今日の撮影場所は、大学内の古いアトリエだ。大きな窓から差し込む午後の光が、埃の舞う空間に幻想的な光の柱を作っている。
「碧人くん、こちらは十和(とわ)くん、今日はよろしくお願いします」
女子学生が緊張した面持ちで、今日のフォトグラファーとして紹介した男。それが十和だった。
写真学科の十和は、3年。長身で、周囲の学生たちより頭一つ抜き出ている。碧人は十和を一目みただけで、心がざわめいた。
十和は、愛用のカメラを構え、その光を捕らえる鋭い眼差しを持つが、口数は少なく、愛想がいいとは言えない。どこか近寄りがたい絶対的な雰囲気を纏っている。
十和は、碧人に向かって、低い声で指示を出した。
「そこの窓の近くに立ってくれ。視線は窓の外だ。姿勢を正して、ただし、肩の力は抜け」
「……ああ」
碧人は、彼の声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。これが、彼の初めて聞いた、十和の声だった。低く、落ち着いていて、どこかぶっきらぼうだが、聞いている者を惹きつける力があった。
十和はカメラのファインダー越しに、碧人を冷たいほどに真剣な瞳で見つめていた。その視線は、碧人を一人の被写体、一人の人間の内側を見抜こうとする。
カシャッ。
シャッター音が、静寂を切り裂く。
「おい、もっと顎を引け。視線は、そう、その窓の向こう、ほら、もっと未来を見るように」
十和は口調はぶっきらぼうだが、シャッターを切る瞬間は、その場の誰も寄せ付けない集中力を発揮する。彼の被写体への真摯さは、撮影される側にも強く伝わるものがあった。
(もっと未来を見るように……)
碧人は、彼の言葉を反芻する。十和の瞳に映る自分は、ただの綺麗なモデルではなく、何かを志す一人の人間として扱われているような気がする。このことに、碧人の心は激しく揺さぶられた。碧人はまだ、それが何なのかを知らなかった。
「未来、ね……。お前、写真にポエムでもつけるのか?」
十和は、カメラから目を離し、碧人の目を見据えた。
「ポエムなんかどうでもいい。……ほら、笑え。せっかくキレイな顔してるんだ」
「はあ?笑えって言われて、笑えるかよ」
碧人は口を尖らせる。
“Ωらしからぬ”――そんな言葉を、碧人は何度も耳にしてきた。この世界でΩといえば、従順で物静か、αに守られる側。そういうイメージが根強く染みついている。
けれど、自分は違う。
周囲から見れば、異端だろう。碧人の生意気な態度は、常に周囲の予想を裏切る。
『Ωのくせに可愛くねえな』
『とんだはねっかえりだな』
そう言われてきた。
愛想を振りまけば「可愛げがある」と優しく扱われるだろうが、彼はそれを拒否した。
与えられた性に、枠に、縛られたくない。自分の意思で、自分の人生を選びたかった。誰かにどう思われようと、自分の軸はぶれない。
十和は、そんな碧人の反抗的な言葉を鼻で笑った。
「ああ、その顔も悪くねえな」
カシャッ。
十和がシャッターを切った。その一瞬、碧人の胸が、歓喜と、どうしようもない焦燥で、強く締め付けられた。
撮影が終わり、服飾科の学生が、十和の傍に行き、興奮した様子で画像を確認していた。碧人は、十和から少し離れた場所で、ペットボトルの水を飲みながら、その様子を眺めていた。
十和は、ふと碧人の方を向いた。
「お前も見るか?」
「別にどうでもいい…」
碧人は、またしても素直になれない言葉を返した。本当は、「お前が撮った写真を見てみたい」と、言いたかったのに。
「素直じゃねえな」
十和は小さく呟き、再びカメラに向き直った。碧人は、その言葉にドキリとした。彼だけは、何故か自分の本質を見抜いているような気がする。その事実に、碧人は動揺を隠せなかった。
*
それから度々モデルを頼まれ、十和と会うことが増えた。
十和は、αだった。
けれど、碧人の知っている、世間一般の“αらしさ”――威圧的な自信、集団の統率力、傲慢なまでの絶対的な存在感――とは、どこか違っていた。
カメラマンとしての技術もある。センスもある。写真に対する直感は、誰よりも鋭い。しかし、三脚の組み立て一つとってもぎこちなく、少し不器用で、碧人と同じくコミュニケーションがあまり上手くなく、集団の中では目立っているにもかかわらず、どこか浮いていた。
だからこそ、十和の存在は不思議だった。
バースの頂点に立つαなのに、群れない。強いフェロモンで周囲を圧倒できるはずなのに、いつもどこか孤独を纏っている。その孤高の光と影が、碧人の心を離さなかった。
そして、十和はあまり碧人を“Ω”として見ていなかった。
性別やバースというラベルを通してではなく、レンズ越しに俺を見るその目は、いつもまっすぐだった。そこにあるのは、純粋な好奇心と、芸術家特有の探求心なのかもしれない。
撮られるたびに、問いかけられている気がした。
「本当のお前は何者なんだ?」
「お前の本当の姿は、どこにある?」
そんなふうに、まるでガラス細工を覗き込むように、碧人の奥の奥を探ろうとしてくる。その視線が、暴かれてしまうのではないかと怖くて、でも――その視線の熱から、目が離せなかった。
そして、碧人もまた、十和の中にある、αとしての地位や強さとは無関係な“何か”を知りたくなっていた。孤独な光の奥に隠された、彼の弱さ、あるいは真実を。
撮影が終わり、機材の片付けをしている十和に、碧人はペットボトルの水を差し出した。
「……やるよ。自販機で当たったから」
口から滑り出た言葉は嘘だった。ただ、この静かな空間で、十和と話す口実が欲しかっただけだ。ポケットの中で握りしめた硬貨の冷たさが、さっきまで感じていた胸の熱と対照的だった。
十和はごつごつした手の甲で汗を拭い、こちらを向いた。その目には、いつもの人を惹きつける明るい光が宿っている。
「おお。サンキュ、碧人」
自分の名前を呼ばれただけで、心臓が一回り大きく跳ねた気がした。
「別に……」
碧人は視線を外し、散乱したレフ板に目をやった。平静を装うのに必死で、声がぶっきらぼうになる。
十和は受け取りざまに、慣れた手つきでキャップを捻り開け、一気に一口飲んだ。その瞬間、シャツの襟元から覗く首筋で、彼の喉仏が大きく上下する様子を、碧人はまじまじと見つめてしまった。ゴクリという音が、まるでこの空間のすべてを支配しているかのように響く。自分の顔が熱を帯びているのが、内側から燃えるような感覚でわかった。
喉の渇きが潤った十和は、キャップを閉めながら、不意に口を開いた。
「そういえば……、お前、映画学科なんだってな?」
言われ、碧人は驚きで肩が跳ねた。
「なんで知って……、誰に聞いたんだ?」
十和は肩をすくめ、曖昧に笑う。
「あー、なんか噂?」
(噂?)
碧人の心臓がドクンと嫌な音を立てた。どうせろくでもない噂なんだろう。人を避けている自分のことだ、陰で何を言われているかなど、考えたくもない。
そんなこと、自分でもわかっている。だが、十和の口から出た言葉が、彼の内側にある暗い感情をわずかに揺さぶった。
「……俺は、いつか監督になりたくて」
唐突に、碧人は口に出した。それは、普段はコンプレックスと恥ずかしさから誰にも言えない、自身の一番大きな、しかし脆い夢だ。言ってしまった後で、自分の口から出た言葉の重みに、心臓が握りつぶされそうになった。
「……へえ。そうなのか」
十和は驚きもしない、ごく自然な声で返した。
「へえって!そんだけで済む話かよ!普通、『Ωなのに?』とか『無理だ』とか、嘲笑うだろ?」
碧人は思わず声を荒らげた。いつもなら、この瞬間に嘲笑が、あるいは憐憫の視線が飛んでくるはずなのだ。
「ああ。夢があるのはいいことだろ。俺は応援するぜ」
「聞いて驚け! いつか誰もが認める、歴史に残るような監督になってやるっ!」
碧人は、自分自身を鼓舞するように、力強く言い放った。男性Ωが、監督職を目指すこと。それは、このバース社会においては、非常に困難で、笑い話にもなりかねない挑戦だとされている。ヒートのコントロール、社会的な偏見、そしてαを頂点とする業界の慣習。すべてが、立ちはだかる分厚い壁となっていた。
十和は、作業の手をぴたりと止め、初めてまともに碧人の顔を見た。その視線は、まっすぐで、熱を帯びていた。
「そうか。なれるといいな、本当に」
碧人は予想外の、あまりにも穏やかで肯定的な反応に拍子抜けした。いつもは自分の夢を語ると、決まって鼻で笑われるか、心配という名の侮蔑を浴びせられるかのどちらかだった。
なぜ、この男は違うのか。
「どうして馬鹿にしないんだ?」
十和は少し考えた後、肩をすくめた。その仕草は、彼にとってはこの質問自体が意味をなさないことを示しているようだった。
「馬鹿にする理由がない。お前の目は、ただの憧れではなく、野心を宿している。それが嘘じゃないって、俺にはわかるから」
十和の言葉は、碧人の奥深くに冷え切っていた芯の部分に、じわりと温かい水を注ぎ込んだ。碧人の胸が、再び熱くなる。それは、十和の肉体や顔立ちに向けられた気持ちとは少し違う、もっと深く、精神的な尊敬と理解のような、温かい感情だった。
「……ふん。変な奴。人のこと、勝手に決めつけるな」
そう言いながらも、碧人の顔には、これまで感じたことのない安堵と、少しの照れが浮かんでいた。初めて、自分が自分として、この世界に受け入れられたような気がした。
出会いは突然だった。
それは、大学のキャンパスで。
一目見ただけで、心がざわめいた。理由なんて、わからなかった。ただ、目が離せなかった。彼の存在が、世界の色を変えた気がした。
名前も知らない。声も聞いたことがない。
それが、すべての始まりだった。
*
この世界には、第一の性とは別に「第二の性」が存在する。 α(アルファ)、β(ベータ)、Ω(オメガ)――それぞれが、生まれながらに異なる特性を持っていた。
αは全人口の少数派。身体能力、知能共に優れていることが多く、指導者や高い社会的地位に就く者が目立つ。人を惹きつける。
βは最も一般的で、特別な性質を持たない中間層。
そして、Ωは希少で、男女問わず繁殖能力を持つ存在。 その特性ゆえに、Ωはしばしば特別視される。 容姿が整っている者が多く、周囲の目を引くことも少なくない。男性のΩは特に珍しい。
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都心から少し離れた場所にある美術大学は、古い校舎と現代的なガラス張りのアトリエが混在し、その空気は常に、油絵の具や現像液、そして若者たちの夢の熱気で満ちていた。
映画監督を目指す碧人(あおと)は、この大学で学ぶ学生の一人だ。彼は、全人口の数少ない男性のΩであり、この特性が、彼の人生に影を落とすと同時に、皮肉にも一つの武器となっていた。
Ωはαを引き寄せるための本能的な特性として、見た目がよい、つまり整った容姿を持つ者が多い。
碧人も例外ではなかった。色素の薄い柔らかな髪、すらりとした体躯、そして端正な顔立ちは、彼にどこか中性的な美しさを与えていた。この見た目を買われ、碧人は、服飾科の卒業制作のためのモデルを頼まれることが増えていた。
「碧人くん、本当にキレイ!」
服飾科の女子学生が、碧人の着る、繊細な刺繍が施されたシャツの襟元を直しながら、興奮気味に言った。
今日の撮影場所は、大学内の古いアトリエだ。大きな窓から差し込む午後の光が、埃の舞う空間に幻想的な光の柱を作っている。
「碧人くん、こちらは十和(とわ)くん、今日はよろしくお願いします」
女子学生が緊張した面持ちで、今日のフォトグラファーとして紹介した男。それが十和だった。
写真学科の十和は、3年。長身で、周囲の学生たちより頭一つ抜き出ている。碧人は十和を一目みただけで、心がざわめいた。
十和は、愛用のカメラを構え、その光を捕らえる鋭い眼差しを持つが、口数は少なく、愛想がいいとは言えない。どこか近寄りがたい絶対的な雰囲気を纏っている。
十和は、碧人に向かって、低い声で指示を出した。
「そこの窓の近くに立ってくれ。視線は窓の外だ。姿勢を正して、ただし、肩の力は抜け」
「……ああ」
碧人は、彼の声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねるのを感じた。これが、彼の初めて聞いた、十和の声だった。低く、落ち着いていて、どこかぶっきらぼうだが、聞いている者を惹きつける力があった。
十和はカメラのファインダー越しに、碧人を冷たいほどに真剣な瞳で見つめていた。その視線は、碧人を一人の被写体、一人の人間の内側を見抜こうとする。
カシャッ。
シャッター音が、静寂を切り裂く。
「おい、もっと顎を引け。視線は、そう、その窓の向こう、ほら、もっと未来を見るように」
十和は口調はぶっきらぼうだが、シャッターを切る瞬間は、その場の誰も寄せ付けない集中力を発揮する。彼の被写体への真摯さは、撮影される側にも強く伝わるものがあった。
(もっと未来を見るように……)
碧人は、彼の言葉を反芻する。十和の瞳に映る自分は、ただの綺麗なモデルではなく、何かを志す一人の人間として扱われているような気がする。このことに、碧人の心は激しく揺さぶられた。碧人はまだ、それが何なのかを知らなかった。
「未来、ね……。お前、写真にポエムでもつけるのか?」
十和は、カメラから目を離し、碧人の目を見据えた。
「ポエムなんかどうでもいい。……ほら、笑え。せっかくキレイな顔してるんだ」
「はあ?笑えって言われて、笑えるかよ」
碧人は口を尖らせる。
“Ωらしからぬ”――そんな言葉を、碧人は何度も耳にしてきた。この世界でΩといえば、従順で物静か、αに守られる側。そういうイメージが根強く染みついている。
けれど、自分は違う。
周囲から見れば、異端だろう。碧人の生意気な態度は、常に周囲の予想を裏切る。
『Ωのくせに可愛くねえな』
『とんだはねっかえりだな』
そう言われてきた。
愛想を振りまけば「可愛げがある」と優しく扱われるだろうが、彼はそれを拒否した。
与えられた性に、枠に、縛られたくない。自分の意思で、自分の人生を選びたかった。誰かにどう思われようと、自分の軸はぶれない。
十和は、そんな碧人の反抗的な言葉を鼻で笑った。
「ああ、その顔も悪くねえな」
カシャッ。
十和がシャッターを切った。その一瞬、碧人の胸が、歓喜と、どうしようもない焦燥で、強く締め付けられた。
撮影が終わり、服飾科の学生が、十和の傍に行き、興奮した様子で画像を確認していた。碧人は、十和から少し離れた場所で、ペットボトルの水を飲みながら、その様子を眺めていた。
十和は、ふと碧人の方を向いた。
「お前も見るか?」
「別にどうでもいい…」
碧人は、またしても素直になれない言葉を返した。本当は、「お前が撮った写真を見てみたい」と、言いたかったのに。
「素直じゃねえな」
十和は小さく呟き、再びカメラに向き直った。碧人は、その言葉にドキリとした。彼だけは、何故か自分の本質を見抜いているような気がする。その事実に、碧人は動揺を隠せなかった。
*
それから度々モデルを頼まれ、十和と会うことが増えた。
十和は、αだった。
けれど、碧人の知っている、世間一般の“αらしさ”――威圧的な自信、集団の統率力、傲慢なまでの絶対的な存在感――とは、どこか違っていた。
カメラマンとしての技術もある。センスもある。写真に対する直感は、誰よりも鋭い。しかし、三脚の組み立て一つとってもぎこちなく、少し不器用で、碧人と同じくコミュニケーションがあまり上手くなく、集団の中では目立っているにもかかわらず、どこか浮いていた。
だからこそ、十和の存在は不思議だった。
バースの頂点に立つαなのに、群れない。強いフェロモンで周囲を圧倒できるはずなのに、いつもどこか孤独を纏っている。その孤高の光と影が、碧人の心を離さなかった。
そして、十和はあまり碧人を“Ω”として見ていなかった。
性別やバースというラベルを通してではなく、レンズ越しに俺を見るその目は、いつもまっすぐだった。そこにあるのは、純粋な好奇心と、芸術家特有の探求心なのかもしれない。
撮られるたびに、問いかけられている気がした。
「本当のお前は何者なんだ?」
「お前の本当の姿は、どこにある?」
そんなふうに、まるでガラス細工を覗き込むように、碧人の奥の奥を探ろうとしてくる。その視線が、暴かれてしまうのではないかと怖くて、でも――その視線の熱から、目が離せなかった。
そして、碧人もまた、十和の中にある、αとしての地位や強さとは無関係な“何か”を知りたくなっていた。孤独な光の奥に隠された、彼の弱さ、あるいは真実を。
撮影が終わり、機材の片付けをしている十和に、碧人はペットボトルの水を差し出した。
「……やるよ。自販機で当たったから」
口から滑り出た言葉は嘘だった。ただ、この静かな空間で、十和と話す口実が欲しかっただけだ。ポケットの中で握りしめた硬貨の冷たさが、さっきまで感じていた胸の熱と対照的だった。
十和はごつごつした手の甲で汗を拭い、こちらを向いた。その目には、いつもの人を惹きつける明るい光が宿っている。
「おお。サンキュ、碧人」
自分の名前を呼ばれただけで、心臓が一回り大きく跳ねた気がした。
「別に……」
碧人は視線を外し、散乱したレフ板に目をやった。平静を装うのに必死で、声がぶっきらぼうになる。
十和は受け取りざまに、慣れた手つきでキャップを捻り開け、一気に一口飲んだ。その瞬間、シャツの襟元から覗く首筋で、彼の喉仏が大きく上下する様子を、碧人はまじまじと見つめてしまった。ゴクリという音が、まるでこの空間のすべてを支配しているかのように響く。自分の顔が熱を帯びているのが、内側から燃えるような感覚でわかった。
喉の渇きが潤った十和は、キャップを閉めながら、不意に口を開いた。
「そういえば……、お前、映画学科なんだってな?」
言われ、碧人は驚きで肩が跳ねた。
「なんで知って……、誰に聞いたんだ?」
十和は肩をすくめ、曖昧に笑う。
「あー、なんか噂?」
(噂?)
碧人の心臓がドクンと嫌な音を立てた。どうせろくでもない噂なんだろう。人を避けている自分のことだ、陰で何を言われているかなど、考えたくもない。
そんなこと、自分でもわかっている。だが、十和の口から出た言葉が、彼の内側にある暗い感情をわずかに揺さぶった。
「……俺は、いつか監督になりたくて」
唐突に、碧人は口に出した。それは、普段はコンプレックスと恥ずかしさから誰にも言えない、自身の一番大きな、しかし脆い夢だ。言ってしまった後で、自分の口から出た言葉の重みに、心臓が握りつぶされそうになった。
「……へえ。そうなのか」
十和は驚きもしない、ごく自然な声で返した。
「へえって!そんだけで済む話かよ!普通、『Ωなのに?』とか『無理だ』とか、嘲笑うだろ?」
碧人は思わず声を荒らげた。いつもなら、この瞬間に嘲笑が、あるいは憐憫の視線が飛んでくるはずなのだ。
「ああ。夢があるのはいいことだろ。俺は応援するぜ」
「聞いて驚け! いつか誰もが認める、歴史に残るような監督になってやるっ!」
碧人は、自分自身を鼓舞するように、力強く言い放った。男性Ωが、監督職を目指すこと。それは、このバース社会においては、非常に困難で、笑い話にもなりかねない挑戦だとされている。ヒートのコントロール、社会的な偏見、そしてαを頂点とする業界の慣習。すべてが、立ちはだかる分厚い壁となっていた。
十和は、作業の手をぴたりと止め、初めてまともに碧人の顔を見た。その視線は、まっすぐで、熱を帯びていた。
「そうか。なれるといいな、本当に」
碧人は予想外の、あまりにも穏やかで肯定的な反応に拍子抜けした。いつもは自分の夢を語ると、決まって鼻で笑われるか、心配という名の侮蔑を浴びせられるかのどちらかだった。
なぜ、この男は違うのか。
「どうして馬鹿にしないんだ?」
十和は少し考えた後、肩をすくめた。その仕草は、彼にとってはこの質問自体が意味をなさないことを示しているようだった。
「馬鹿にする理由がない。お前の目は、ただの憧れではなく、野心を宿している。それが嘘じゃないって、俺にはわかるから」
十和の言葉は、碧人の奥深くに冷え切っていた芯の部分に、じわりと温かい水を注ぎ込んだ。碧人の胸が、再び熱くなる。それは、十和の肉体や顔立ちに向けられた気持ちとは少し違う、もっと深く、精神的な尊敬と理解のような、温かい感情だった。
「……ふん。変な奴。人のこと、勝手に決めつけるな」
そう言いながらも、碧人の顔には、これまで感じたことのない安堵と、少しの照れが浮かんでいた。初めて、自分が自分として、この世界に受け入れられたような気がした。
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