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撮影から、数週間が経っていた。
碧人にとって、十和との出会いは、乾いた日常に落とされた一滴の刺激物のようなものだった。言葉にできない激しい感情を抱えながらも、彼はいつものように強がりと虚勢でそれを覆い隠し、表面上は平静を装っていた。十和が自分の夢を馬鹿にしなかったという事実だけが、頑なな碧人の心の奥底で、小さな光を放っている。
(馬鹿にしないとか言っておいて、結局は他人事だ。どうせ、αには、Ωの苦労なんて分かるわけがない)
そう割り切りながらも、碧人は映画学科の課題に取り組む際、つい十和の真剣なまなざしを思い出してしまう。彼のカメラマンとしての姿勢は、監督を目指す碧人にとって、手本となるほど真摯なものだった。
しかし、監督への道のりは、碧人が想像していた以上に険しいものだった。
「撮影所のバイト、落ちた……また、か」
碧人はスマホを見ながら、ため息をついた。有名撮影所でスタッフを募集しているという情報を見て、すぐに面接に行ったのだが、結果は不採用。これで、この二ヶ月で五社目だった。
「理由は、全部同じだろ?」
横から、碧人の数少ない友人の一人で、同じ映画学科の男子学生が声をかけてきた。
「……ああ。例のアレだ」
例のアレ。それは、彼がΩであるという一点だった。
『君のやる気は認めるよ。でもね、撮影所ってαが多いんだ。君のヒートがもし発現したら、大パニックだよ。周りのスタッフに迷惑がかかるだろう?』
『今は抑制剤で管理できていると言っても、絶対にヒートにならない可能性がゼロではない。君一人の問題じゃないんだ』
『うちの現場は厳しいから、Ωに配慮する余裕はないんだよ。ごめんね』
どれも、体裁の良い、遠回しな拒絶だった。
碧人は唇を噛んだ。自分が必死で磨いてきた技術や、作品にかける情熱は、彼らにとっては二の次なのだ。
(くそっ……俺は、監督になりたいんだ!ただの性で、夢を諦めるなんて、絶対に嫌だ!)
碧人は、このバース社会の仕組みが心底嫌いだった。
*
そんな折、碧人は十和と、思いがけない形で再会することになった。
十和が写真学科の卒業制作で短編映画の撮影に挑戦することになり、映画学科の学生たちに協力を仰ぎに来たのだ。
「監督は、お前がいい」
十和は、碧人を見つけると、まっすぐにそう言った。
「はあ?!なんでだよ…?!」
碧人はぶっきらぼうに答えたが、内心は驚いていた。
「俺はカメラマンだ。監督の仕事はお前に任せる。お前の撮りたいものを撮れ」
その言葉は、碧人の心に深く突き刺さった。十和は、自分のΩというバースではなく、監督という夢に対して真摯に向き合ってくれている。
結局、碧人は十和の卒業制作の監督を引き受けることになった。
撮影期間中、二人は頻繁に顔を合わせることになった。
十和は監督の指示に対して、決して口出しはしない。だが、彼のカメラマンとしての技術はプロ顔負けで、碧人がイメージする通りの光と影を正確に捉える。碧人は、十和の仕事ぶりを見るたび、強烈な憧れと嫉妬を感じていた。
ある日の夜、撮影で疲労困憊になった碧人は、十和が手配してくれたレンタカーで仮眠を取っていた。
夜中の冷たい空気に目が覚め、ふと窓の外を見ると、十和が一人、車の外でカメラを構えているのが見えた。十和のフェロモンは控えめで、碧人のヒートに影響を与えるような強さはなかったが、その存在感は、常に碧人の注意を惹きつけていた。
(何してるんだ?)
碧人はそっと車のドアを開け、十和に近づいた。
「おい、車の中に入ったらどうだ?寒いだろ?」
「ああ」
十和はカメラを下ろし、静かに答えた。
「なあ…」
「ん?」
「お前は、どうして俺を監督にしたんだ?もっと才能のあるやつが、いくらでもいるのに…」
「お前を応援したいと思ったから…」
十和はそう言いながら、碧人の肩に自分の着ていた厚手のパーカーをかけた。十和の体温と、微かなαのフェロモンの香りが碧人を包み込み、碧人の心臓は、またしても異常なリズムを刻む。
「……余計なお世話だ…」
碧人は反射的に、その優しさを突き放した。彼の優しさに触れるたび、自分の中の弱いΩの部分が露呈してしまうようで、怖かった。
十和は何も言わず、ただ碧人を見つめた。
「そうか」
十和はそう言って、再び車の中へ入るよう促した。
碧人は十和のパーカーを握りしめながら、車に入る。十和は、自分がバイトを断られ続けていることを知らないはずだ。もし知ったら、きっと「だからΩは」とまでは言わないだろうが、彼の態度に憐憫の色が混じるかもしれない。それは、碧人にとって一番避けたいことだった。
*
撮影は順調に進み、十和の制作は、学内でも高い評価を得た。碧人自身も、監督としての手応えを感じていた。
しかし、その成功は、現実の壁を崩すには至らなかった。
「羽賀くん、卒業後の進路はどうするんだ?うちの助監督として、まずは経験を積まないか?」
指導教授が、碧人に声をかけてきた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
碧人は、ようやく掴んだチャンスだと、目を輝かせた。
だが、教授の言葉はすぐにトーンダウンした。
「ただな、君はΩだから、ヒートの時期は外して出勤してもらうことになる。撮影現場には、君一人に付きっきりで配慮できるβのスタッフを常に配置する。……もちろん、その分、君の給与は他の学生より低くなるが、仕方ないだろう?」
「それは……」
碧人は言葉を詰まらせた。
「仕方ないんだ、羽賀くん。君のバース性は、他の学生たちを刺激する可能性がある。うちのスタジオは特にαが多いから、こればかりは、我々もリスクを負えない」
教授の言葉は、悪意のない差別だった。才能を認めながらも、バースという一点で、彼は他の学生よりも低い位置に置かれてしまう。
「俺は、抑制剤を欠かしたことはありません!他のβと同じように働けます!」
「君の努力は認めるが、問題は君の意思だけではないんだよ。わかるだろう?」
碧人は、教授の言葉を振り払うように、その場を立ち去った。
(なんだ、結局はこれか……!俺がΩというだけで理不尽だ!)
激しい怒りと悔しさが、碧人の全身を駆け巡った。
*
その日の夕方、碧人は大学近くの馴染みの居酒屋で、カウンターの隅に腰を下ろし、一人でグラスを傾けていた。琥珀色の液体は、彼の心に巣食う焦燥を、わずかにも溶かしはしなかった。
すると、ガラリと扉が開き、明るい喧騒とともに数人のグループが入ってきた。その中に、十和の姿を見つけた時、碧人は反射的に顔を伏せた。しかし、十和は彼を一瞬で見つけ出し、目を丸くして立ち止まった。写真学科の友人らしき面々が訝しげにしているのを他所に、十和はすぐに彼らの輪を離れ、碧人の隣の席に腰を下ろした。
「珍しいな」
十和は、座るなり率直に言った。
「……放っとけよ」
碧人は、グラスの氷をカランと鳴らし、目を合わせようとしない。不機嫌を通り越した、自嘲にも似た苛立ちが声に滲んだ。
十和はそれを気に留める様子もなく、静かに自分の飲み物を頼むと、再び碧人に向き直った。
「卒業制作、お前のおかげでうまくいった。ありがとうな」
その言葉はストレートで、余計な装飾が一切ない。碧人は面食らったように少しだけ顔を上げた。
「別に、それくらい誰でもできる…」
「相変わらずだな…」
十和は小さく笑った。その笑みは、周囲の明るい喧騒とは裏腹に、少しだけ寂しそうに見えた。
「何かあったのか…?」
突然、十和が静かに言った。その声は、居酒屋のざわめきの中でも、碧人の耳にだけはっきり届いた。
「は?なんで?」
「いや、なんか…、落ち込んでるみたいだ」
碧人は、十和の勘の鋭さに、ぎくりとした。まるで自分の心の奥底を覗き込まれたような感覚に、思わず身体が強張る。なぜ、この男はいつも、自分の弱々しい本質を見透かそうとするのだろうか。
「てめえには、関係ないだろ」
「まあな…」
十和は一度引いたものの、碧人の様子から何かを察したのか、静かに次の言葉を待った。そして、碧人は堰を切ったように、心の奥の苦しみを吐き出した。
「何も上手くいかない…」
「……」
十和は何も言わず、ただ静かにグラスを回す碧人を見つめている。その沈黙が、碧人の内なる叫びを引き出した。
「俺は、自分の夢のためなら、何でもするっつーのに、何もさせてもらえない…」
十和はピクリと眉を動かした。その次の瞬間、「何でも……?」と発せられた声は、居酒屋の喧騒の中でも、妙なほどに低く、引き締まっていた。
十和の眼差しが、急に鋭利な刃物のように鋭くなった。その瞳は、碧人の奥底にある危うい決意を穿つように見つめている。彼が纏うαのフェロモンが、微かに、しかし確実に強まり始めた。その場の空気が、一瞬にして圧力を増したように変わる。
Ωである碧人の身体は、反射的にビクリと強張るのを感じた。肌が粟立ち、息が浅くなる。
「ああ、そうだよ。何でもだ!」
碧人は、身体の震えを隠すように、無理やり強い言葉を吐き出した。
「監督になるためなら、どんな汚い仕事だってやるつもりだ。誰かの踏み台にされようが、利用されようが構わない。チャンスさえ掴めるなら、魂だって売ってやる」
彼はそこで言葉を切り、喉の奥から絞り出すような、深く、熱いため息をついた。
「でも、Ωだからって理由で、書類選考で弾かれるし、面接で蔑まれる。βよりも下に見られて、見下されて…Ωだってだけで理不尽だ。俺なんて、この社会のヒエラルキーの前では、ゴミなんだよ…」
碧人は、グラスを乱暴にカウンターに置き、氷の塊が勢いよくぶつかってカランと高い音を立てた。その音は、彼の胸中に渦巻く、怒り、悔しさ、そしてどうしようもない絶望が混ざり合った、どろどろとした感情の爆発を代弁していた。彼の瞳は、夢への焦燥と社会への憎悪で燃えていた。
「お前はゴミじゃねえよ」
碧人は、「…っ」と言葉を詰まらせた。十和が、自分の痛々しい感情を正面から否定したことに、反発と同時に、小さな動揺を覚える。
「…卒業制作のカメラワークとか、光の捉え方。あれは、素人の域を超えていた。特に、あのラストシーンの大胆なフレーム構成は、お前のセンスだ」
十和は、目を逸らさずに続けた。それは、ただの慰めではない。率直な評価だった。
「お前じゃなかったら、あんな映像作品はできなかった」
「お世辞はいい…」
碧人は、顔をそむけながら、毒づくように言った。
「お世辞じゃねえ」 十和は断言する。
「だから、あまり自分を卑下するのをやめろ。あと――」
十和は声のトーンをわずかに落とした。
「危ないことはするな」
それは、まるで呪文のように、低く、しかし明確な命令の響きを持っていた。碧人が口にした「何でもする」「魂だって売る」という言葉に対する、αとしての、有無を言わせぬ牽制だった。
「なんだ、それ。別に俺の勝手だろ」
碧人は、この一方的な優しさと牽制に耐えられず、再び反発するように言い返す。感情をこれ以上、十和に踏み込ませたくなかった。
「ああ、そうだな。でも、自分のことは大切にしろよ」
十和は、碧人の反発を一蹴するでもなく、ただその言葉を繰り返した。その言葉には、理屈ではない、強い情が込められていた。
十和はそれ以上、続けなかった。言葉ではもう届かないと判断したかのように、彼はゆっくりと手を伸ばした。
そして、碧人のウエーブのかかった髪を、軽く、しかし強い力で一撫でした。
その手のひらから伝わる熱と、不器用で、一方的な優しさに、碧人の心はまた乱された。脳裏に、十和の鋭いフェロモンの残像と、今の温かい手の感覚が同時に残り、矛盾した感情が渦巻く。
(何なんだ、こいつは。俺のことなんて、どうでもいいだろ…)
碧人は、十和の真意を理解できないまま、ただただ、この不器用で、強引な男の存在に、心の防御壁が崩されていくのを感じていた。
碧人にとって、十和との出会いは、乾いた日常に落とされた一滴の刺激物のようなものだった。言葉にできない激しい感情を抱えながらも、彼はいつものように強がりと虚勢でそれを覆い隠し、表面上は平静を装っていた。十和が自分の夢を馬鹿にしなかったという事実だけが、頑なな碧人の心の奥底で、小さな光を放っている。
(馬鹿にしないとか言っておいて、結局は他人事だ。どうせ、αには、Ωの苦労なんて分かるわけがない)
そう割り切りながらも、碧人は映画学科の課題に取り組む際、つい十和の真剣なまなざしを思い出してしまう。彼のカメラマンとしての姿勢は、監督を目指す碧人にとって、手本となるほど真摯なものだった。
しかし、監督への道のりは、碧人が想像していた以上に険しいものだった。
「撮影所のバイト、落ちた……また、か」
碧人はスマホを見ながら、ため息をついた。有名撮影所でスタッフを募集しているという情報を見て、すぐに面接に行ったのだが、結果は不採用。これで、この二ヶ月で五社目だった。
「理由は、全部同じだろ?」
横から、碧人の数少ない友人の一人で、同じ映画学科の男子学生が声をかけてきた。
「……ああ。例のアレだ」
例のアレ。それは、彼がΩであるという一点だった。
『君のやる気は認めるよ。でもね、撮影所ってαが多いんだ。君のヒートがもし発現したら、大パニックだよ。周りのスタッフに迷惑がかかるだろう?』
『今は抑制剤で管理できていると言っても、絶対にヒートにならない可能性がゼロではない。君一人の問題じゃないんだ』
『うちの現場は厳しいから、Ωに配慮する余裕はないんだよ。ごめんね』
どれも、体裁の良い、遠回しな拒絶だった。
碧人は唇を噛んだ。自分が必死で磨いてきた技術や、作品にかける情熱は、彼らにとっては二の次なのだ。
(くそっ……俺は、監督になりたいんだ!ただの性で、夢を諦めるなんて、絶対に嫌だ!)
碧人は、このバース社会の仕組みが心底嫌いだった。
*
そんな折、碧人は十和と、思いがけない形で再会することになった。
十和が写真学科の卒業制作で短編映画の撮影に挑戦することになり、映画学科の学生たちに協力を仰ぎに来たのだ。
「監督は、お前がいい」
十和は、碧人を見つけると、まっすぐにそう言った。
「はあ?!なんでだよ…?!」
碧人はぶっきらぼうに答えたが、内心は驚いていた。
「俺はカメラマンだ。監督の仕事はお前に任せる。お前の撮りたいものを撮れ」
その言葉は、碧人の心に深く突き刺さった。十和は、自分のΩというバースではなく、監督という夢に対して真摯に向き合ってくれている。
結局、碧人は十和の卒業制作の監督を引き受けることになった。
撮影期間中、二人は頻繁に顔を合わせることになった。
十和は監督の指示に対して、決して口出しはしない。だが、彼のカメラマンとしての技術はプロ顔負けで、碧人がイメージする通りの光と影を正確に捉える。碧人は、十和の仕事ぶりを見るたび、強烈な憧れと嫉妬を感じていた。
ある日の夜、撮影で疲労困憊になった碧人は、十和が手配してくれたレンタカーで仮眠を取っていた。
夜中の冷たい空気に目が覚め、ふと窓の外を見ると、十和が一人、車の外でカメラを構えているのが見えた。十和のフェロモンは控えめで、碧人のヒートに影響を与えるような強さはなかったが、その存在感は、常に碧人の注意を惹きつけていた。
(何してるんだ?)
碧人はそっと車のドアを開け、十和に近づいた。
「おい、車の中に入ったらどうだ?寒いだろ?」
「ああ」
十和はカメラを下ろし、静かに答えた。
「なあ…」
「ん?」
「お前は、どうして俺を監督にしたんだ?もっと才能のあるやつが、いくらでもいるのに…」
「お前を応援したいと思ったから…」
十和はそう言いながら、碧人の肩に自分の着ていた厚手のパーカーをかけた。十和の体温と、微かなαのフェロモンの香りが碧人を包み込み、碧人の心臓は、またしても異常なリズムを刻む。
「……余計なお世話だ…」
碧人は反射的に、その優しさを突き放した。彼の優しさに触れるたび、自分の中の弱いΩの部分が露呈してしまうようで、怖かった。
十和は何も言わず、ただ碧人を見つめた。
「そうか」
十和はそう言って、再び車の中へ入るよう促した。
碧人は十和のパーカーを握りしめながら、車に入る。十和は、自分がバイトを断られ続けていることを知らないはずだ。もし知ったら、きっと「だからΩは」とまでは言わないだろうが、彼の態度に憐憫の色が混じるかもしれない。それは、碧人にとって一番避けたいことだった。
*
撮影は順調に進み、十和の制作は、学内でも高い評価を得た。碧人自身も、監督としての手応えを感じていた。
しかし、その成功は、現実の壁を崩すには至らなかった。
「羽賀くん、卒業後の進路はどうするんだ?うちの助監督として、まずは経験を積まないか?」
指導教授が、碧人に声をかけてきた。
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
碧人は、ようやく掴んだチャンスだと、目を輝かせた。
だが、教授の言葉はすぐにトーンダウンした。
「ただな、君はΩだから、ヒートの時期は外して出勤してもらうことになる。撮影現場には、君一人に付きっきりで配慮できるβのスタッフを常に配置する。……もちろん、その分、君の給与は他の学生より低くなるが、仕方ないだろう?」
「それは……」
碧人は言葉を詰まらせた。
「仕方ないんだ、羽賀くん。君のバース性は、他の学生たちを刺激する可能性がある。うちのスタジオは特にαが多いから、こればかりは、我々もリスクを負えない」
教授の言葉は、悪意のない差別だった。才能を認めながらも、バースという一点で、彼は他の学生よりも低い位置に置かれてしまう。
「俺は、抑制剤を欠かしたことはありません!他のβと同じように働けます!」
「君の努力は認めるが、問題は君の意思だけではないんだよ。わかるだろう?」
碧人は、教授の言葉を振り払うように、その場を立ち去った。
(なんだ、結局はこれか……!俺がΩというだけで理不尽だ!)
激しい怒りと悔しさが、碧人の全身を駆け巡った。
*
その日の夕方、碧人は大学近くの馴染みの居酒屋で、カウンターの隅に腰を下ろし、一人でグラスを傾けていた。琥珀色の液体は、彼の心に巣食う焦燥を、わずかにも溶かしはしなかった。
すると、ガラリと扉が開き、明るい喧騒とともに数人のグループが入ってきた。その中に、十和の姿を見つけた時、碧人は反射的に顔を伏せた。しかし、十和は彼を一瞬で見つけ出し、目を丸くして立ち止まった。写真学科の友人らしき面々が訝しげにしているのを他所に、十和はすぐに彼らの輪を離れ、碧人の隣の席に腰を下ろした。
「珍しいな」
十和は、座るなり率直に言った。
「……放っとけよ」
碧人は、グラスの氷をカランと鳴らし、目を合わせようとしない。不機嫌を通り越した、自嘲にも似た苛立ちが声に滲んだ。
十和はそれを気に留める様子もなく、静かに自分の飲み物を頼むと、再び碧人に向き直った。
「卒業制作、お前のおかげでうまくいった。ありがとうな」
その言葉はストレートで、余計な装飾が一切ない。碧人は面食らったように少しだけ顔を上げた。
「別に、それくらい誰でもできる…」
「相変わらずだな…」
十和は小さく笑った。その笑みは、周囲の明るい喧騒とは裏腹に、少しだけ寂しそうに見えた。
「何かあったのか…?」
突然、十和が静かに言った。その声は、居酒屋のざわめきの中でも、碧人の耳にだけはっきり届いた。
「は?なんで?」
「いや、なんか…、落ち込んでるみたいだ」
碧人は、十和の勘の鋭さに、ぎくりとした。まるで自分の心の奥底を覗き込まれたような感覚に、思わず身体が強張る。なぜ、この男はいつも、自分の弱々しい本質を見透かそうとするのだろうか。
「てめえには、関係ないだろ」
「まあな…」
十和は一度引いたものの、碧人の様子から何かを察したのか、静かに次の言葉を待った。そして、碧人は堰を切ったように、心の奥の苦しみを吐き出した。
「何も上手くいかない…」
「……」
十和は何も言わず、ただ静かにグラスを回す碧人を見つめている。その沈黙が、碧人の内なる叫びを引き出した。
「俺は、自分の夢のためなら、何でもするっつーのに、何もさせてもらえない…」
十和はピクリと眉を動かした。その次の瞬間、「何でも……?」と発せられた声は、居酒屋の喧騒の中でも、妙なほどに低く、引き締まっていた。
十和の眼差しが、急に鋭利な刃物のように鋭くなった。その瞳は、碧人の奥底にある危うい決意を穿つように見つめている。彼が纏うαのフェロモンが、微かに、しかし確実に強まり始めた。その場の空気が、一瞬にして圧力を増したように変わる。
Ωである碧人の身体は、反射的にビクリと強張るのを感じた。肌が粟立ち、息が浅くなる。
「ああ、そうだよ。何でもだ!」
碧人は、身体の震えを隠すように、無理やり強い言葉を吐き出した。
「監督になるためなら、どんな汚い仕事だってやるつもりだ。誰かの踏み台にされようが、利用されようが構わない。チャンスさえ掴めるなら、魂だって売ってやる」
彼はそこで言葉を切り、喉の奥から絞り出すような、深く、熱いため息をついた。
「でも、Ωだからって理由で、書類選考で弾かれるし、面接で蔑まれる。βよりも下に見られて、見下されて…Ωだってだけで理不尽だ。俺なんて、この社会のヒエラルキーの前では、ゴミなんだよ…」
碧人は、グラスを乱暴にカウンターに置き、氷の塊が勢いよくぶつかってカランと高い音を立てた。その音は、彼の胸中に渦巻く、怒り、悔しさ、そしてどうしようもない絶望が混ざり合った、どろどろとした感情の爆発を代弁していた。彼の瞳は、夢への焦燥と社会への憎悪で燃えていた。
「お前はゴミじゃねえよ」
碧人は、「…っ」と言葉を詰まらせた。十和が、自分の痛々しい感情を正面から否定したことに、反発と同時に、小さな動揺を覚える。
「…卒業制作のカメラワークとか、光の捉え方。あれは、素人の域を超えていた。特に、あのラストシーンの大胆なフレーム構成は、お前のセンスだ」
十和は、目を逸らさずに続けた。それは、ただの慰めではない。率直な評価だった。
「お前じゃなかったら、あんな映像作品はできなかった」
「お世辞はいい…」
碧人は、顔をそむけながら、毒づくように言った。
「お世辞じゃねえ」 十和は断言する。
「だから、あまり自分を卑下するのをやめろ。あと――」
十和は声のトーンをわずかに落とした。
「危ないことはするな」
それは、まるで呪文のように、低く、しかし明確な命令の響きを持っていた。碧人が口にした「何でもする」「魂だって売る」という言葉に対する、αとしての、有無を言わせぬ牽制だった。
「なんだ、それ。別に俺の勝手だろ」
碧人は、この一方的な優しさと牽制に耐えられず、再び反発するように言い返す。感情をこれ以上、十和に踏み込ませたくなかった。
「ああ、そうだな。でも、自分のことは大切にしろよ」
十和は、碧人の反発を一蹴するでもなく、ただその言葉を繰り返した。その言葉には、理屈ではない、強い情が込められていた。
十和はそれ以上、続けなかった。言葉ではもう届かないと判断したかのように、彼はゆっくりと手を伸ばした。
そして、碧人のウエーブのかかった髪を、軽く、しかし強い力で一撫でした。
その手のひらから伝わる熱と、不器用で、一方的な優しさに、碧人の心はまた乱された。脳裏に、十和の鋭いフェロモンの残像と、今の温かい手の感覚が同時に残り、矛盾した感情が渦巻く。
(何なんだ、こいつは。俺のことなんて、どうでもいいだろ…)
碧人は、十和の真意を理解できないまま、ただただ、この不器用で、強引な男の存在に、心の防御壁が崩されていくのを感じていた。
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