不器用なαと素直になれないΩ

万里

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 十和と居酒屋で会ったあの日から、碧人の焦燥感はピークに達していた。
 大学卒業まで、残りわずか半年。周囲のαやβの友人は、続々と大手制作会社やスタジオへの就職を決めている。しかし、碧人の手元にあるのは、監督の夢を追うためとはいえ、雑用スタッフとしてのバイトさえ不採用通知ばかりだった。すべて、彼がΩであるという理由で。
(このままじゃ、本当に夢で終わる。この世界は、Ωじゃどうにもならないのか……)
 碧人は、自分のセンスや技術には自信を持っていた。撮りたいもの、見せたい世界、伝えるべきメッセージ。そのビジョンは、誰よりも明確だった。それなのに、自分のバース性のせいで、スタートラインにすら立てない。その壁はあまりにも高かった。
 抑制剤はヒートを抑えてくれるが、社会の偏見を抑えてはくれない。
 十和の言葉が、脳裏を過る。
『危ないことはするな』
(何を言ってるんだ、あいつは。危ないことだってなんだってしないと、どうにもならないだろうが……)
 碧人は、十和の言葉を、心の壁の内側に押し込めた。あれは、きっとαの優越感からくる憐みだ。自分を対等な人間として見てくれるのは嬉しいが、結局は自分を「守られるべきΩ」として扱っているに過ぎない。

 *

 ある日、大学で開催された映画業界の交流会。卒業を控えた学生たちが、少しでもコネクションを作ろうと必死になっている場所だった。
 碧人も意を決して参加したが、やはりここでも、彼のΩというバースは影を落としていた。名刺交換を試みても、彼らは社交辞令の笑顔を貼り付けるだけで、深く関わろうとはしない。
「君、名前は…?」
 不意に背後から、低い落ち着いた声がかけられた。
 碧人が振り返ると、そこに立っていたのは、年の頃は四十代半ばか、スーツに身を包んだ男がいた。彼の眼差しには、人を射抜くような鋭さがあった。
「羽賀と言います。あの、あなたは……?」 
 碧人が少し緊張した面持ちで尋ねる。 
「失礼、私は城崎と言います」 
 城崎は、高級なレザーの名刺入れから、洗練されたデザインの名刺を取り出し、碧人と交換した。名刺には、『株式会社シネマ・フロンティア』という名前が印字されていた。
「映画とは少し畑違いですが、業界には顔が利く。特に、佐伯(さえき)監督とは、個人的な付き合いがあってね」 
 佐伯監督。その名前を聞いた瞬間、碧人の心臓は大きく跳ねた。佐伯監督は、碧人が最も尊敬し、その映像哲学に深く影響を受けてきた、日本を代表する映像の巨匠だった。いつか、自分の作品を見てもらい、共に仕事をしたいと、それこそ魂を焦がすほどに願ってきた人物だ。
「本当ですか!?」 
 碧人は、興奮で一瞬にして理性を失い、目を見開いた。
 城崎は、碧人の前の椅子を引き、まるで彼の心の動きを見透かしているかのように、満足げに微笑んだ。 
「君の作品をいくつか拝見した。特に、あの学祭の時に撮った短編『水底の光』。若さの中に、確固たるビジョンと、類まれな映像センスを感じたよ。君は、紛れもなく才能がある」
 碧人は、全身に熱いものが流れ込むのを感じた。心臓がドクドクと大きく脈打つ。自分の才能を、ここまでまっすぐに、専門的な言葉で評価してくれる人間は、これまでの人生で初めてだった。 
「あ、ありがとうございます……!」
 城崎は、優雅に身を乗り出した。 
「だが、君はΩだ。この業界の古くからの人間は、君のバースに対して、まだ根強い偏見を持っている。君の才能が、その体のせいで潰されてしまうのは、あまりにも惜しい…」 
 城崎は、そう言って、まるで碧人のこれまで味わってきた苦悩を全て理解し、共有しているかのように、深く、共感を示すように頷いた。
「私は、佐伯監督の次期大作の助監督として、君を直接紹介してあげることができる。君の才能を開花させるには、最高の舞台だろう」 
 それは、碧人にとって夢の扉が開かれる音だった。
「その代わり…」
 碧人の手が、テーブルの下で微かに震えた。喉がカラカラに渇き、唾を飲み込むことさえできない。この世の中に、ただで手に入るものなどないことを、彼は痛いほど知っていた。
「その、代わり、……?」 
 碧人は、か細い声で、恐る恐る尋ねた。
 城崎の口元が、わずかに歪んだ。その笑みは、さきほどの紳士的な仮面の下に隠されていた、別の顔を覗かせたように見えた。彼は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、碧人の真横に回り込む。そして、スーツの袖口から覗く手が、静かに碧人の椅子の背を伝い、彼の腰に回った。
「ああ、簡単なことだよ。君がその才能に見合うだけの誠意を示してくれればいい。わかるだろう?」
 城崎の声は低く、蜜のように甘かったが、その手のひらの熱と、響く言葉は、碧人の全身に悪寒を走らせた。夢への階段と、足元に広がる泥沼が、同時に彼の目の前に現れた瞬間だった。
 一瞬、碧人の頭の中は真っ白になった。
(そんな……!)
 彼の心臓は、激しい嫌悪感と、同時にどうしようもない諦念で警鐘を鳴らした。この種の誘いは、これまでにも何度かあった。Ωとしての才能を認められた直後に、決まって差し伸べられる「汚い手」。しかし、今回は憧れの佐伯監督との仕事という、あまりにも大きく、眩しすぎる餌が、彼の理性を麻痺させようとしていた。
「……何を、言っているんですか?」 
 声が震えた。それは、怒りというよりは、恐怖との絶望からくる震えだった。
 城崎は、動じない。回していた腰の手を緩めることなく、もう一方の手を伸ばし、碧人の顎を優しく、しかし有無を言わさぬ力で持ち上げた。無理やり顔を上げさせられ、彼の冷たい瞳と向かい合わされる。
「そんな顔をするな。一度だけでいい。君の夢を叶えるためだ。この程度の取引で、夢の入り口が手に入るなら、安いものじゃないか」
「あの……、俺は……、そんなことは…!」 
 碧人は、かろうじて抵抗の声を上げた。自分の体を道具として利用するような真似は、したくない。そのプライドが、最後の防波堤となって立ちはだかっていた。
「ふむ…。しかし、君には、他の道があるのかな?」 
 城崎は、微笑みを崩さず、冷徹な現実を突きつける。顔をさらに近づけ、彼の耳元で、まるで秘密を共有するかのように囁いた。その息が、碧人の耳朶をくすぐり、不快な感覚が全身を走った。
「監督になりたいんだろう…?君が正当なルートで佐伯監督に辿り着くまでに、何年かかる?その間に、君の才能は、この業界の冷たい空気の中で枯れてしまうかもしれない。君が燻っている間に、才能のあるたくさんのαやβの若者が出てくるだろう。考えてみたまえ。この業界で、Ωが独力で上に昇りつめた例は、皆無だ」
「……」 
 城崎の言葉は、碧人がこれまで散々、世間から浴びせられてきた、残酷な真実そのものだった。
 城崎は、碧人の揺らぎを見逃さなかった。腰に回した手に、わずかに力を込める。 
「私は、君の才能を評価している。だからこそ、君を特別扱いしてあげたいんだ。君のΩという特性は、君の障害ではない。むしろ、君の最高の武器なんだよ。使えるものは使わないと。そうでなければ、君の夢は、一生ただの夢で終わってしまう」
 城崎の誘惑は、あまりにも甘美で、あまりにも現実的だった。夢を諦めるか、それとも、この泥にまみれる取引を受け入れるか。碧人の理性と本能は、激しく軋み合った。
「君が私と一夜を過ごせば、私は佐伯監督への強力な紹介状を書いてあげよう。君の夢は、一気に現実のものとなる。その監督が君の才能を認めれば、君はもう、誰にも文句を言われることなく、監督の道を歩めるんだ」
 城崎は、碧人の耳元で、この卑劣な取引の最終的な条件を、甘い毒のように囁いた。
 碧人は、目の前で、まるで神の手にかけられたように天秤にかけられた自分の人生を見た。
 一方には、自分の見知らぬ男に体を差し出すという、生涯消えないであろう屈辱と自己嫌悪が。もう一方には、憧れの佐伯監督に会える、夢への最短ルートが。その光と闇の対比は、あまりにも極端で、残酷だった。
(どうすればいい?ここで断ったら、また不採用通知を受け取り続ける日々に戻るだけだ。誰にも理解されず、才能だけを腐らせていくのか?Ωだからという理由だけで…)
 十和の顔が、またもや碧人の脳裏を過った。 
『自分のことを大切にしろ』 
 警告の言葉。しかし、碧人はすぐさまその声を打ち消した。 
(……でも、あいつは俺の夢を叶えてはくれない。俺なんて、どうせあいつにとっては、ただのΩでしかないんだ。警告されたところで、結局俺は、この社会の底辺にいる…)
 碧人は、涙が滲むのを、必死で堪えた。監督の夢は、彼にとって、自分のΩというコンプレックスを乗り越えるための、唯一の存在証明だった。この夢を失うくらいなら、この屈辱を受け入れる方がマシだと、麻痺した心が囁いた。この取引は、彼にとって、夢という名の麻薬だった。
「……わか、りまし、た。佐伯監督に会えるのなら……」
 碧人は、震える声で、かろうじてそう告げた。その瞬間、彼の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた気がした。それは、純粋な夢、そしてΩとしての最後の尊厳だったかもしれない。彼の瞳から、一筋の光が消え、暗く澱んだ諦めの色が宿った。
 城崎は、碧人の腰を抱いていた手を強く引き寄せ、満足そうに微笑んだ。その笑みは、紳士的な装いとは裏腹に、獲物を手に入れた捕食者のようだった。
「賢明な判断だ。では、週末に、また連絡を入れるよ」
 城崎は、彼の耳元に再び唇を寄せ、「楽しみにしているよ」と囁くと、その熱を残したまま、優雅に立ち去った。
 碧人は、その後しばらく、椅子から動けなかった。冷え切った自分の手のひらをじっと見つめ、その上に落ちてくる自分の涙に、ようやく気づいた。

 交流会からの帰り道、碧人は体が鉛のように重く感じた。
(自分を売った…。夢のためとはいえ、あいつが釘を刺したことは、こういうことだ…)
 心の中の十和の存在が、今の彼の選択を、容赦なく責め立てた。
 碧人は自分の体には、まだ誰も触れさせていなかった。ヒートの管理も厳重に行い、抑制剤も欠かしたことがない。
 碧人は、十和にこのことを話すべきか、一瞬考えた。
(無理だ…!話せるわけがない!話したら、俺はきっと軽蔑される。「結局、夢のために体を売るのか」と、俺を馬鹿にするに決まっている)
 十和は不器用だが、真っ直ぐな男だ。不正や裏切りを嫌う。そんな彼に、この卑劣な取引を知られたら、きっと二度と顔を合わせてはくれないだろう。
 碧人は、心の中に秘密を固く閉じ込めた。この取引は、誰にも知られてはいけない。自分の夢のため、たった一度の、必要な犠牲なのだと、自分に言い聞かせた。
 しかし、彼の理性とは裏腹に、Ωとしての不安と恐怖が、夜の闇のように押し寄せてきた。
(嫌だ…。あんなやつに、触られたくない……)
 その夜、碧人は眠れなかった。十和のパーカーから嗅いだ、あの微かなαのフェロモンの香りを、無意識のうちに求めている自分に気づき、さらに自己嫌悪に陥る。
 夢への希望と、屈辱への絶望。その二つの感情の板挟みで、碧人の心は、深く暗い沼へと沈んでいくのだった。週末までの時間が、あまりにも長く感じられた。

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