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城崎との取引を承諾してから、碧人にとっての一週間は、地獄のような時間だった。
大学の講義にも身が入らない。友人たちと交わす何気ない会話も、自分が抱えている秘密の前では、すべてが虚構に感じられた。鏡に映る自分自身の顔は、青白く、目の下には濃いクマができていた。
(俺は、これから自分の体を売って、夢を買うんだ)
その事実は、彼の心を深く蝕んでいた。抑制剤を規定量飲んでいるにもかかわらず、不安からくる動悸が止まらない。
週末の約束の日。土曜日の午後。
碧人は、城崎から指定された都心の高級ホテルの住所を、スマートフォンで何度も見つめていた。画面の光が、彼の蒼白な顔を照らしている。
(佐伯監督……憧れの監督に会える。この一線を越えれば、俺は、夢に一歩近づけるんだ)
そう言い聞かせても、身体の奥底から湧き上がる嫌悪感と恐怖は消えない。城崎のあのねっとりとした眼差し、甘い言葉の裏に隠された捕食者の匂い。すべてが、碧人のΩの本能に激しい警鐘を鳴らしていた。夢への渇望が、その警報を無理やり抑えつけている。
碧人が、アパートを出ようとした、その時だった。
「おい!」
背後から、荒々しく、感情を剥き出しにした怒声が響いた。碧人は心臓が飛び跳ねるほどの衝撃を受け、反射的にその場に立ち尽くし、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、十和だった。
彼の顔には、普段の冷静さや皮肉めいた余裕は微塵もなかった。怒り、焦燥、そして嫉妬にも似た激しい感情が渦巻いていた。走ってきたのか、呼吸は乱れ、冬だというのに額にはうっすらと汗がにじんでいる。彼の強いαのフェロモンが、制御されずに周囲に放たれ、碧人の全身を圧迫した。
「お前……!なんで、ここに……」
碧人は、フェロモンの圧力と、十和のただならぬ気迫に、思わず後ずさる。
「映像学科のやつらに聞いた!お前、あの城崎って男に会う気なら辞めとけ…!」
「な、何のことだ…?」
碧人は、無意識にスマートフォンを握りしめながら、顔を強張らせてしらばくれた。
「とぼけるな…!」
十和の放つαフェロモンが、周囲の空気をビリビリと震わせる。その圧力は、碧人の心臓を鷲掴みにするようだった。
「誘われたんだろ?!あの男は、若い男のΩを見つけると、食い物にすることで有名なんだ!お前が目を着けられたって、とっくに噂になってる!」
「そんな噂、聞いたことねえよ…!」
碧人は、十和の鋭い視線から逃れるように顔を背けた。
「城崎さんは、ただ俺の卒業制作を評価して、佐伯監督を紹介してくれるだけだ! 俺の才能を、本気で認めてくれたんだ!」
碧人は、自分の選択を正当化するように、必死で叫び返した。そう信じなければ、この恐怖に打ち勝てない。
「んなわけねえだろ!!」
十和は、一歩踏み込み、碧人の肩を掴んだ。
「お前、正気か?! お前は、自分の夢をそんな形で汚していいと思ってるのか!」
十和の言葉は、碧人の心臓を抉った。しかし、長引く不遇の中で麻痺していた碧人の心は、十和の批判を、自分の苦しみを理解しない者からの傲慢な干渉として跳ね返した。
「汚いって誰が決めたんだよ?! 何もねえかもしれねえだろ!お前に関係ない…!」
碧人は、必死に自分の選択を擁護する。そうでなければ、今までの絶望と城崎に屈しようとした絶望が、すべて意味のないものになってしまう。
「馬鹿かお前は…!!」
十和は、碧人との距離を一気に詰め、感情を爆発させた。彼の全身から放たれるαのフェロモンが、空気を振動させる。
「体売って仕事もらって、それでいいのかよ?!お前のすげえ才能を、たった一夜で売り飛ばして、それで本当に監督になれるとでも思ってんのか!!」
十和の、まるで胸ぐらを掴むかのような激しい口調に、碧人はぐらついた。夢への焦燥と、十和の必死な言葉が、彼の心を激しく引き裂く。
「でも、他に方法なんかねえんだよ…!!」
碧人は叫んだ。その声は、怒りというより、助けを求めるような悲痛な響きを帯びていた。
「これ以外に、どんな方法があるんだよ?! てめえに何がわかる?!てめえはαだから、Ωの…俺の苦労なんかわかんねえだろうが…!!」
碧人の魂の叫びは、十和の胸に突き刺さった。しかし、十和はそれを静かに受け止め、冷徹な目で碧人を見つめた。
「もう俺にはこうするしかねえんだよ!!」
碧人は、十和の手を振り払おうと、必死にもがいた。その行動が、十和の激情の導火線となった。
「これしかないなんて、嘘をつくな!」
十和は、碧人の肩を掴み、強く揺さぶった。
「もし、本当に手段がこれしかないなら――!」
十和の激情は、もはや理性のタガを外れ、ピークに達していた。彼は、抵抗する碧人の体を強引に抱き上た。
「おい!何すんだよ?!」
碧人の怒鳴り声を無視して、碧人のアパートのドアを乱暴に開け、中へと引きずり込む。
ドン!
玄関の壁に、碧人の背中が激しく打ち付けられた。鈍い衝撃と、十和の熱、そして制御不能な強いαのフェロモンが、狭い空間に充満し、碧人を完全に支配した。
「俺だっていいだろう!」
「は…?な、に…?」
碧人は、フェロモンの圧力で思考が麻痺しかけていた。
十和は、碧人の顔を覗き込み、荒い息遣いで言った。彼の瞳は、怒りと、見知らぬ激しい感情に燃えている。
「俺だって、お前が憧れている佐伯監督とのつながりくらい、これから作れる! お前が体を売る必要なんてない!」
十和は、まるで自分自身に言い聞かせるように叫び、碧人の首筋に顔を埋めた。その熱い息と、乱れたαフェロモンが、Ωの最も敏感な部分を激しく刺激する。
「やっ…!!」
碧人の口から、短く、情けない声が漏れた。
「俺がなんとかしてやる…! だから、俺のものになれ…!!」
彼から発せられるαのフェロモンは、碧人のΩとしての本能を強く揺さぶった。体が勝手に熱くなり、頭の中が白く濁っていく。彼の理性は、本能の波に押し流されそうになっていた。
「や、やめろっ……!触るな!」
碧人は、最後の理性を振り絞り、必死に抵抗した。
十和は、碧人の抵抗を無視し、彼の服に乱暴に手をかけた。シャツのボタンが引きちぎられ、碧人の柔らかな素肌が露わになる。十和の熱を持った大きな手が、遠慮なくその肌を滑っていく。触れられた場所から、火が付いたような熱が全身に広がり、碧人の意識を支配しようとする。
「誰にもやらない…」
十和は、獲物を追い詰めた獣のように唸り、碧人の耳元で囁いた。
「俺の番になれ…!」
その言葉は、優しさとはかけ離れた、強烈な所有欲と激情に満ちていた。碧人が自らを卑しめる行為への怒り、そして十和自身の抑えきれない欲望が、彼を理性のタガから完全に外れさせたのだ。
「嫌だ…っ!!」
碧人は、全身の力を振り絞って、十和の胸を押し返した。十和は体勢を崩さず、碧人を玄関の固い床に押し倒した。
「嫌だって…!離せ…!!」
その叫びは、悲鳴にも似た、悲痛な響きを伴っていた。
(こいつだけには、こんな形で抱かれたくない…!)
十和が碧人の上に覆いかぶさってきて、碧人は目を見開いた。十和が彼の首筋に吸い付こうと頭を下げた、そのとき、碧人の身体が本能的にそれを拒否した。
「嫌だ…、嫌ぁっ…!」
彼は両手で首を覆い隠し、足をバタつかせて激しく抵抗する。碧人は、止めどなく冷や汗が流れるのを感じた。
(こいつが好きだ…。好きなのに…)
今、この極限の恐怖の中で、碧人は自分の感情の正体に気づいた。多分、初めて会った時からずっと。だが、それは単なるΩの本能だと気づかないふりをした。認めたくなかった。認めてしまえば、十和と対等ではいられなくなる。ただのαとΩの本能に負けた、情けない自分になりたくなかったのだ。
(こいつはただ、αの本能で求めているだけなのに…)
それでも、自分の作品を誰よりも強く認めてくれる十和に惹かれる気持ちはずっとあった。でも、もし、こんな激情に任せて抱かれてしまったら?十和は碧人の気持ちを知ったら、どうするのだろう。きっと、もう、今の対等な友人関係ではいられない。
それだけはイヤだ。
「て、てめぇだけは、絶対に嫌だ…!」
十和の動きが、一瞬、完全に止まった。彼は眉間に深い皺を刻み、冷たい目で碧人を見下ろす。その瞳には、激しい動揺と、裏切られたような感情が浮かんでいた。
「なんでだ…? 夢のためなら、何でもするんだろ…?」
十和は碧人の両腕を掴み直し、固い床に縫い付けた。
「違っ…、でも、…」
「……理由を言え」
十和の声は、怒りよりも切実な響きを帯びていた。
「お前…、だけは…っ」
碧人の身体はガタガタと震え、その目には止めどなく涙が滲んだ。身体は熱いのに、心臓は凍りついたように冷たい。
好きだから、抱かれたくない。抱かれて、この大切な関係を終わらせたくない。だが、碧人にそんなことは決して言えなかった。
「頼む…、おねが…だから…、やめ…っ!」
ぼろぼろと涙が零れる。情けない。こうやって哀願することしかできない。力では敵わない。そんな弱い自分に嫌気がさした。
十和は、碧人の腕を握る力を緩めた。数秒間、その泣き顔を動かずに見つめた。その刹那、彼の目から怒りの炎が急速に引いていった。
「くそっ…!」
十和は、苛立ちと葛藤を隠さず、碧人の顔の横にある床を思い切り殴りつけた。鈍い音とともに、彼の感情が爆発する。
「おい、スマホ出せ」
十和は荒い息で命じた。
「なんで…」
「あいつに断れ。今、この場で」
碧人は震える指で、ポケットからスマートフォンを取り出し、城崎の番号へ電話をかけた。手が震えて、画面が見えない。
『羽賀くん、どうした?そろそろ時間だが』
城崎のねっとりとした甘い声が、スピーカーから漏れる。
「す、すみません…、急用ができて…行けなくなってしまいました…」
『そうか。…残念だが、わかったよ。…紹介の話もなかったことにさせてもらうよ』
碧人は、歯を食いしばる。彼の夢への扉は、目の前で音を立てて閉じられた。
「わかり、ました…」
通話が終わると、ごとりと力なくスマートフォンを床に落とした。
「二度とそいつに関わるな…!」
十和は、低い声で念を押した。
碧人が無言で頷く。
十和は碧人の体から身を離すと、一度も振り返ることなく、アパートのドアを乱暴に開け、外へと飛び出していった。
残されたのは、碧人の震える息遣いと、十和のαフェロモンの圧倒的な残滓が充満した、静まり返った玄関だけだった。
大学の講義にも身が入らない。友人たちと交わす何気ない会話も、自分が抱えている秘密の前では、すべてが虚構に感じられた。鏡に映る自分自身の顔は、青白く、目の下には濃いクマができていた。
(俺は、これから自分の体を売って、夢を買うんだ)
その事実は、彼の心を深く蝕んでいた。抑制剤を規定量飲んでいるにもかかわらず、不安からくる動悸が止まらない。
週末の約束の日。土曜日の午後。
碧人は、城崎から指定された都心の高級ホテルの住所を、スマートフォンで何度も見つめていた。画面の光が、彼の蒼白な顔を照らしている。
(佐伯監督……憧れの監督に会える。この一線を越えれば、俺は、夢に一歩近づけるんだ)
そう言い聞かせても、身体の奥底から湧き上がる嫌悪感と恐怖は消えない。城崎のあのねっとりとした眼差し、甘い言葉の裏に隠された捕食者の匂い。すべてが、碧人のΩの本能に激しい警鐘を鳴らしていた。夢への渇望が、その警報を無理やり抑えつけている。
碧人が、アパートを出ようとした、その時だった。
「おい!」
背後から、荒々しく、感情を剥き出しにした怒声が響いた。碧人は心臓が飛び跳ねるほどの衝撃を受け、反射的にその場に立ち尽くし、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、十和だった。
彼の顔には、普段の冷静さや皮肉めいた余裕は微塵もなかった。怒り、焦燥、そして嫉妬にも似た激しい感情が渦巻いていた。走ってきたのか、呼吸は乱れ、冬だというのに額にはうっすらと汗がにじんでいる。彼の強いαのフェロモンが、制御されずに周囲に放たれ、碧人の全身を圧迫した。
「お前……!なんで、ここに……」
碧人は、フェロモンの圧力と、十和のただならぬ気迫に、思わず後ずさる。
「映像学科のやつらに聞いた!お前、あの城崎って男に会う気なら辞めとけ…!」
「な、何のことだ…?」
碧人は、無意識にスマートフォンを握りしめながら、顔を強張らせてしらばくれた。
「とぼけるな…!」
十和の放つαフェロモンが、周囲の空気をビリビリと震わせる。その圧力は、碧人の心臓を鷲掴みにするようだった。
「誘われたんだろ?!あの男は、若い男のΩを見つけると、食い物にすることで有名なんだ!お前が目を着けられたって、とっくに噂になってる!」
「そんな噂、聞いたことねえよ…!」
碧人は、十和の鋭い視線から逃れるように顔を背けた。
「城崎さんは、ただ俺の卒業制作を評価して、佐伯監督を紹介してくれるだけだ! 俺の才能を、本気で認めてくれたんだ!」
碧人は、自分の選択を正当化するように、必死で叫び返した。そう信じなければ、この恐怖に打ち勝てない。
「んなわけねえだろ!!」
十和は、一歩踏み込み、碧人の肩を掴んだ。
「お前、正気か?! お前は、自分の夢をそんな形で汚していいと思ってるのか!」
十和の言葉は、碧人の心臓を抉った。しかし、長引く不遇の中で麻痺していた碧人の心は、十和の批判を、自分の苦しみを理解しない者からの傲慢な干渉として跳ね返した。
「汚いって誰が決めたんだよ?! 何もねえかもしれねえだろ!お前に関係ない…!」
碧人は、必死に自分の選択を擁護する。そうでなければ、今までの絶望と城崎に屈しようとした絶望が、すべて意味のないものになってしまう。
「馬鹿かお前は…!!」
十和は、碧人との距離を一気に詰め、感情を爆発させた。彼の全身から放たれるαのフェロモンが、空気を振動させる。
「体売って仕事もらって、それでいいのかよ?!お前のすげえ才能を、たった一夜で売り飛ばして、それで本当に監督になれるとでも思ってんのか!!」
十和の、まるで胸ぐらを掴むかのような激しい口調に、碧人はぐらついた。夢への焦燥と、十和の必死な言葉が、彼の心を激しく引き裂く。
「でも、他に方法なんかねえんだよ…!!」
碧人は叫んだ。その声は、怒りというより、助けを求めるような悲痛な響きを帯びていた。
「これ以外に、どんな方法があるんだよ?! てめえに何がわかる?!てめえはαだから、Ωの…俺の苦労なんかわかんねえだろうが…!!」
碧人の魂の叫びは、十和の胸に突き刺さった。しかし、十和はそれを静かに受け止め、冷徹な目で碧人を見つめた。
「もう俺にはこうするしかねえんだよ!!」
碧人は、十和の手を振り払おうと、必死にもがいた。その行動が、十和の激情の導火線となった。
「これしかないなんて、嘘をつくな!」
十和は、碧人の肩を掴み、強く揺さぶった。
「もし、本当に手段がこれしかないなら――!」
十和の激情は、もはや理性のタガを外れ、ピークに達していた。彼は、抵抗する碧人の体を強引に抱き上た。
「おい!何すんだよ?!」
碧人の怒鳴り声を無視して、碧人のアパートのドアを乱暴に開け、中へと引きずり込む。
ドン!
玄関の壁に、碧人の背中が激しく打ち付けられた。鈍い衝撃と、十和の熱、そして制御不能な強いαのフェロモンが、狭い空間に充満し、碧人を完全に支配した。
「俺だっていいだろう!」
「は…?な、に…?」
碧人は、フェロモンの圧力で思考が麻痺しかけていた。
十和は、碧人の顔を覗き込み、荒い息遣いで言った。彼の瞳は、怒りと、見知らぬ激しい感情に燃えている。
「俺だって、お前が憧れている佐伯監督とのつながりくらい、これから作れる! お前が体を売る必要なんてない!」
十和は、まるで自分自身に言い聞かせるように叫び、碧人の首筋に顔を埋めた。その熱い息と、乱れたαフェロモンが、Ωの最も敏感な部分を激しく刺激する。
「やっ…!!」
碧人の口から、短く、情けない声が漏れた。
「俺がなんとかしてやる…! だから、俺のものになれ…!!」
彼から発せられるαのフェロモンは、碧人のΩとしての本能を強く揺さぶった。体が勝手に熱くなり、頭の中が白く濁っていく。彼の理性は、本能の波に押し流されそうになっていた。
「や、やめろっ……!触るな!」
碧人は、最後の理性を振り絞り、必死に抵抗した。
十和は、碧人の抵抗を無視し、彼の服に乱暴に手をかけた。シャツのボタンが引きちぎられ、碧人の柔らかな素肌が露わになる。十和の熱を持った大きな手が、遠慮なくその肌を滑っていく。触れられた場所から、火が付いたような熱が全身に広がり、碧人の意識を支配しようとする。
「誰にもやらない…」
十和は、獲物を追い詰めた獣のように唸り、碧人の耳元で囁いた。
「俺の番になれ…!」
その言葉は、優しさとはかけ離れた、強烈な所有欲と激情に満ちていた。碧人が自らを卑しめる行為への怒り、そして十和自身の抑えきれない欲望が、彼を理性のタガから完全に外れさせたのだ。
「嫌だ…っ!!」
碧人は、全身の力を振り絞って、十和の胸を押し返した。十和は体勢を崩さず、碧人を玄関の固い床に押し倒した。
「嫌だって…!離せ…!!」
その叫びは、悲鳴にも似た、悲痛な響きを伴っていた。
(こいつだけには、こんな形で抱かれたくない…!)
十和が碧人の上に覆いかぶさってきて、碧人は目を見開いた。十和が彼の首筋に吸い付こうと頭を下げた、そのとき、碧人の身体が本能的にそれを拒否した。
「嫌だ…、嫌ぁっ…!」
彼は両手で首を覆い隠し、足をバタつかせて激しく抵抗する。碧人は、止めどなく冷や汗が流れるのを感じた。
(こいつが好きだ…。好きなのに…)
今、この極限の恐怖の中で、碧人は自分の感情の正体に気づいた。多分、初めて会った時からずっと。だが、それは単なるΩの本能だと気づかないふりをした。認めたくなかった。認めてしまえば、十和と対等ではいられなくなる。ただのαとΩの本能に負けた、情けない自分になりたくなかったのだ。
(こいつはただ、αの本能で求めているだけなのに…)
それでも、自分の作品を誰よりも強く認めてくれる十和に惹かれる気持ちはずっとあった。でも、もし、こんな激情に任せて抱かれてしまったら?十和は碧人の気持ちを知ったら、どうするのだろう。きっと、もう、今の対等な友人関係ではいられない。
それだけはイヤだ。
「て、てめぇだけは、絶対に嫌だ…!」
十和の動きが、一瞬、完全に止まった。彼は眉間に深い皺を刻み、冷たい目で碧人を見下ろす。その瞳には、激しい動揺と、裏切られたような感情が浮かんでいた。
「なんでだ…? 夢のためなら、何でもするんだろ…?」
十和は碧人の両腕を掴み直し、固い床に縫い付けた。
「違っ…、でも、…」
「……理由を言え」
十和の声は、怒りよりも切実な響きを帯びていた。
「お前…、だけは…っ」
碧人の身体はガタガタと震え、その目には止めどなく涙が滲んだ。身体は熱いのに、心臓は凍りついたように冷たい。
好きだから、抱かれたくない。抱かれて、この大切な関係を終わらせたくない。だが、碧人にそんなことは決して言えなかった。
「頼む…、おねが…だから…、やめ…っ!」
ぼろぼろと涙が零れる。情けない。こうやって哀願することしかできない。力では敵わない。そんな弱い自分に嫌気がさした。
十和は、碧人の腕を握る力を緩めた。数秒間、その泣き顔を動かずに見つめた。その刹那、彼の目から怒りの炎が急速に引いていった。
「くそっ…!」
十和は、苛立ちと葛藤を隠さず、碧人の顔の横にある床を思い切り殴りつけた。鈍い音とともに、彼の感情が爆発する。
「おい、スマホ出せ」
十和は荒い息で命じた。
「なんで…」
「あいつに断れ。今、この場で」
碧人は震える指で、ポケットからスマートフォンを取り出し、城崎の番号へ電話をかけた。手が震えて、画面が見えない。
『羽賀くん、どうした?そろそろ時間だが』
城崎のねっとりとした甘い声が、スピーカーから漏れる。
「す、すみません…、急用ができて…行けなくなってしまいました…」
『そうか。…残念だが、わかったよ。…紹介の話もなかったことにさせてもらうよ』
碧人は、歯を食いしばる。彼の夢への扉は、目の前で音を立てて閉じられた。
「わかり、ました…」
通話が終わると、ごとりと力なくスマートフォンを床に落とした。
「二度とそいつに関わるな…!」
十和は、低い声で念を押した。
碧人が無言で頷く。
十和は碧人の体から身を離すと、一度も振り返ることなく、アパートのドアを乱暴に開け、外へと飛び出していった。
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