不器用なαと素直になれないΩ

万里

文字の大きさ
5 / 7

5

しおりを挟む
 十和と衝突したあの日から、三日が経っていた。

 碧人は、一度も大学に行けていない。アパートの薄暗い部屋で、カーテンを閉め切ったまま、布団の中で時間を過ごしていた。あの晩の出来事が、脳裏から一時も離れない。
 十和の剥き出しの激情、自分の絶望的な拒絶、そしてあの未遂の暴力――すべてが、彼の心と体を深く疲弊させていた。十和のαフェロモンで支配されかけた、首筋の熱い感触が、今も幻のように残っている。

 城崎からの連絡は、その後一切なかった。碧人は、スマートフォンを握りしめながら、安堵と、それに勝る深い焦燥を感じていた。
(結局、俺はまた、何も手に入れられなかった…)
 夢は、果てしなく遠く、手の届かない場所へと遠のいてしまった。

 そして、十和との関係は、きっと修復不可能になった。
(あのとき、拒否しなければよかったのか…? いや、あんな形で抱かれるくらいなら、今の方がマシだ…)
 碧人は、何度も自問自答する。自分自身が、αとΩの本能に無理やり結びつけられるのは耐えられなかった。何よりも、好きな人に、怒りや所有欲の対象として一方的に扱われるのは、魂を傷つけられるのと同じだった。
(馬鹿だな、俺は…)
 碧人は、冷たい布団の中で呟いた。夢のチャンスも、対等な関係も、すべて失った。

 *

 昼下がり。カーテンを閉め切った部屋で、碧人が自室でうずくまっていると、インターホンが鳴った。静寂を破る突然の音に、碧人の心臓が跳ねる。
 こんな時に訪ねてくる人間など、思い当たらなかった。恐る恐るドアスコープを覗くと、そこに立っていたのは、あの日と同じ、深刻な表情をした十和だった。
 碧人は一瞬、ドアを開けることをためらった。再びあの激情に晒されるのが怖かった。しかし、十和のフェロモンは、あの日のような荒々しいものではなく、静かで、むしろ深い自責の念を帯びているように感じられた。
 意を決して、碧人はドアを開けた。
「……何…?」 
 碧人は、冷たく、感情のこもらない声で問いかけた。十和の顔を見るのは、あの日の記憶が蘇り、心底辛かった。
 十和は、碧人のその青白い顔と、憔悴しきった目に気づき、さらに顔を曇らせた。彼の表情は、苦痛に歪んでいる。
「この前は……本当に悪かった」 
 十和は、深く頭を下げた。その姿は、いつもの様子とはかけ離れていた。
「謝罪なんて、要らねえよ…」 
 碧人は、十和の顔を見ようとせず、ドアを閉めようとした。
「待ってくれ!」 
 その時、十和は手に持っていた紙袋を、碧人に差し出した。中には、高級感のある黒い箱が入っている。
「これ、やる」
「……は?なんだよ」 
 碧人が戸惑いながら中身を見ると、箱には、『Ωプロテクト:抑制カラー』と、金の箔押しで書かれてあった。
 それは、Ωが首筋につける、ヒート時のフェロモン放出を抑え、他のαからの強制的な番を防ぐための医療器具だ。厳重なロック機能がついており、一度装着すれば、パスワードを知る者以外には外せない。それは大学生が気軽に買うには随分と高価な代物だった。
「これ、すげえ高いやつじゃん…」 
 碧人は、思わず呟いた。
「ちゃんと着けとけよ…」
「は?なんで……?」
 十和の言葉は、酷く重く、真摯な響きを持っていた。
「俺にはもう、お前の傍にいる資格がない…」
 十和は、碧人の瞳をまっすぐ見つめた。
「自分の体を大切にしろ。本当にお前を守ってくれる、信頼できるパートナーができるまで、外すんじゃねえぞ…」
 碧人の胸に、激しい動揺が走った。彼の言葉は、一体何を意味しているのだろうか。城崎に利用されるのが嫌なのか、それとも、ただΩという弱い立場を利用されることが嫌なのか。
(……なんで、こんなものをくれるんだ?)
 碧人は、十和の言葉の裏にある感情を読み取ることができなかった。彼の言葉は、優しさというにはあまりにも一方的で、突き放しているようにも聞こえた。
「これをつけて、俺を支配するつもりか…? 俺に、夢を諦めろって、言いたいのか…?」
「違う!」 
 十和は、声を荒げた。
「お前が監督になる夢は、俺だって心から応援している。だが、お前がその夢を追うために、自分の体を安売りするのは、見たくない。お前に、傷ついてほしくない…」 
 彼は、紙袋を碧人の手に無理やり押し付けた。
「……じゃあ、俺はどうすればいいんだよ?!」 
 碧人は、藁にもすがる思いで、十和に尋ねた。この男が、自分の夢を切り開く唯一の道を知っている気がしたからだ。
 十和は、深く息を吐き出した。
「それは、お前自身で見つけろ。俺はもう、口出ししない。……俺は、お前と会わない方がいい」
 十和の言葉は、別れの宣告だった。その重みに、碧人の呼吸が止まる。
「……なん、で?」
 碧人の声は、震えていた。ようやく、自分の卒業制作を心から評価し、夢を馬鹿にしない、唯一の理解者だと思えた相手。ようやく、自分の気持ちに気づいたというのに。
「俺が、お前と一緒にいると、また同じことをするかもしれない…。俺は、自分をコントロールできない…」 
 十和は、碧人の視線から逃れるように目を逸らした。
「俺は、海外へ行く。向こうのフォトグラファーの下で修行する…」 
 十和は、碧人から、物理的にも精神的にも距離を取ることを決意していた。このままでは、彼はいつか、自分のαとしての感情に呑まれて、碧人を傷つけ、城崎と同じように利用してしまうかもしれない。それは、彼が最も恐れることだった。
「俺たちはもう会わない方がいい。お互いに…」
 その言葉は、まるで鋭い刃物のように、碧人の胸を深く切り裂いた。
 十和は、碧人の返事を待たずに、静かに背を向けた。
「カラーは、必ず着けろ。……じゃあな」
 バタン。
 ドアが閉まり、十和の足音が遠ざかるのを聞きながら、碧人はその場に崩れ落ちた。床に膝をつき、両手で顔を覆う。
 玄関に漂う十和の微かなαの残り香だけが、彼が本当に去ってしまったことを、冷徹に示していた。

 *

 十和が、予定通り海外へ旅立ったという噂を映像学科の友人から聞いたのは、その数週間後だった。その報せは、碧人の心に、永遠の別れを突きつけた。
 碧人は、彼のいない世界で、再び一人になった。しかし、十和が残していった言葉の断片だけが、今、彼を奮い立たせる唯一の燃料となっていた。
『お前じゃなかったら、あんな映像作品はできなかった』 
(ああ、あの不器用な男が好きだ…。十和が好きだ…。自分の人生を変えてくれた…)
 碧人は、黒いカラーの冷たい感触を確かめながら、静かに感情を認めた。

 その日から、アルバイトや大学での課題に取り組む時でさえ、彼は肌身離さずカラーをつけている。それはまるで、十和との無言の約束のようだった。
 彼の夢である「監督」への道は、依然として閉ざされたままだった。しかし、碧人はもう、城崎のような危うい手段に手を出す気はなかった。十和が、あんなにも守ろうとしてくれた、自分というものを、二度と安売りしたくなかった。
 十和が自分のことを心から大切にしてくれた。
 それだけで、もういい。
 十和が戻ってくる日があるかはわからない。だが、碧人は、彼が再び自分の前に現れた時、体ではなく、自分の力で手に入れた夢を差し出せるよう、静かに、そして熱く、孤独な戦いを始めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ビジネス婚は甘い、甘い、甘い!

ユーリ
BL
幼馴染のモデル兼俳優にビジネス婚を申し込まれた湊は承諾するけれど、結婚生活は思ったより甘くて…しかもなぜか同僚にも迫られて!? 「お前はいい加減俺に興味を持て」イケメン芸能人×ただの一般人「だって興味ないもん」ーー自分の旦那に全く興味のない湊に嫁としての自覚は芽生えるか??

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

αとβじゃ番えない

庄野 一吹
BL
社交界を牽引する3つの家。2つの家の跡取り達は美しいαだが、残る1つの家の長男は悲しいほどに平凡だった。第二の性で分類されるこの世界で、平凡とはβであることを示す。 愛を囁く二人のαと、やめてほしい平凡の話。

闇を照らす愛

モカ
BL
いつも満たされていなかった。僕の中身は空っぽだ。 与えられていないから、与えることもできなくて。結局いつまで経っても満たされないまま。 どれほど渇望しても手に入らないから、手に入れることを諦めた。 抜け殻のままでも生きていけてしまう。…こんな意味のない人生は、早く終わらないかなぁ。

ずっと、貴方が欲しかったんだ

一ノ瀬麻紀
BL
高校時代の事故をきっかけに、地元を離れていた悠生。 10年ぶりに戻った街で、結婚を控えた彼の前に現れたのは、かつての幼馴染の弟だった。 ✤ 後天性オメガバース作品です。 ビッチング描写はありません。 ツイノベで書いたものを改稿しました。

サンタからの贈り物

未瑠
BL
ずっと片思いをしていた冴木光流(さえきひかる)に想いを告げた橘唯人(たちばなゆいと)。でも、彼は出来るビジネスエリートで仕事第一。なかなか会うこともできない日々に、唯人は不安が募る。付き合って初めてのクリスマスも冴木は出張でいない。一人寂しくイブを過ごしていると、玄関チャイムが鳴る。 ※別小説のセルフリメイクです。

プリンなんだから食えばわかる

てぃきん南蛮
BL
海外で定食屋を開くことを夢見て、留学をした董哉。 留学先の紹介で軍事食堂の手伝いをしているが、 アジア人嫌いのオメガ嫌いであるフレッドという兵士から嫌がらせを受ける。 ある日、初めてメイン料理を提供した董哉だったが、フレッドに何癖を付けられる。 料理を貶された董哉は流石に腹が立ち、フレッドに対して────…… 後日、流石に後悔した董哉だったが、 何故かその日からフレッドの態度が軟化し始めて……? 最悪な印象から始まる、偏見持ち海外軍人のα×軍人食堂の日本人バイト留学生Ω

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *不定期連載です。

処理中です...