不器用なαと素直になれないΩ

万里

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 大学を卒業してから、五年の歳月が流れていた。
 碧人は、あの嵐のような別れの日からも、監督の夢を諦めてはいなかった。しかし、現実の壁は厚く、すぐに監督として活動することは叶わなかった。彼はまず、業界の仕組みを学び、資金を稼ぐために、その整った容姿と、男性Ωという稀有な存在感を活かして、モデルとして活動する道を選んだ。
(いつか、必ず自分の作品を撮る。これは、そのための資金稼ぎだ)
 碧人は、常にそう自分に言い聞かせ、仕事に取り組んだ。彼のモデルとしての評価は高く、その鋭い美しさと、ファッションに対する研ぎ澄まされたセンス、そして徹底したプロ意識で、ファッション界で頭角を現していた。

 首筋には、別れ際に十和から渡された、黒革のカラーが、今も肌身離さず巻かれていた。
 それは、彼の「誰の物にもならない」という強い意志の象徴であり、同時に、彼の心の中で消えることのない十和の存在を証明するものでもあった。
 周囲からは、彼のカラーについて、「特別な番がいるのではないか」「何らかの契約の証ではないか」など、様々な憶測が流れたが、碧人は一切口を開かなかった。彼のオーラは、その秘密めいたカラーによって、さらに深まっていた。
(十和…)
 撮影の合間、あるいは夜の静寂の中で、カラーに触れるたび、十和への複雑な想いが蘇る。
 あの日の激情的な怒り、遠い海外へ旅立った彼への募る恋しさ、そして、「てめぇだけはイヤだ」と突き放してしまった、あの時素直になれなかった自分への後悔。碧人の心の中には、埋めがたい空虚感が、常に渦巻いていた。

 *

 その日は、海外の有名ファッション誌の日本特集の撮影だった。
 撮影場所は、歴史ある洋館スタジオ。スタッフも国際色豊かで、現場は張り詰めたプロフェッショナルな緊張感に包まれていた。
 碧人は、完璧にメイクを終え、複雑なライティングが施されたセットの前に立った。その佇まいには、五年間の経験がもたらした自信が漂っている。彼の首筋には、いつも通り、黒いカラーがしっかりと巻かれていた。

 そこに、ディレクターが声をかけてきた。
「碧人、今日のフォトグラファーを紹介するよ。知っているかもしれないが、彼は近年ヨーロッパで最も注目されている若手だ。君の個性を最大限に引き出してくれるはずだ」
 ディレクションルームから、一人の長身の男が、入ってきた。男は、変わらない鋭い眼差しと、鍛え上げられた体躯で、以前よりもずっと大人びていた。
 碧人の呼吸が、一瞬で止まった。
 十和だ。
 彼は、一切の私情を排したプロの顔つきで碧人の方へ歩み寄ってきた。彼の視線は、碧人の顔でも体でもなく、ファインダー越しに見るモデルとしての素材を測るものだった。
 十和は、碧人の目の前で立ち止まり、静かに言った。その声は、以前より低く落ち着いていて、数年の時が流れたこと、そして彼が異国で成功を収めたことを感じさせた。
「久しぶりだな、碧人」
 碧人は、動揺を悟られまいと、大学時代から着慣れた強がりを、反射的に纏った。
「……ああ、そうだな」
「よろしく頼む」 
 十和は、仕事上の挨拶を交わすかのように、形式的に右手を差し出した。
 碧人は、その手を握り返すことなく、冷たく言い放った。
「そういうのいいから、早く始めろよ…」
 二人の間に、張り詰めた沈黙が降りた。

 撮影が始まった。
 十和は、昔と変わらず、しかし格段に洗練された技術で、碧人を撮り続けた。シャッターを切るリズムは軽快で、彼の指示は的確。光と影の使い方は、まさに芸術的だった。十和が世界でどれだけの経験を積んできたか、その一枚一枚のカットが雄弁に物語っていた。
 碧人は、モデルとして十和の要求に完璧に応えながら、その横顔を盗み見る。
(本当に、有名になったんだな……。あの時、海外へ行ったのは、間違いじゃなかった)
 十和が夢を叶えて活躍している姿は、碧人の心に、誇らしさと、拭いきれない寂しさをもたらした。自分も夢を追い続けているが、彼の成功を目の当たりにすると、取り残されたような気持ちになる。

 撮影の合間、十和は碧人から少し距離を取り、カメラのデータを真剣な表情でチェックしていた。
「……きれいだ」
 不意に、十和が呟いた。それは、データを見ているのか、碧人に話しかけているのか、判別できないほどの小さな声だった。だが、碧人の耳には、その言葉がはっきりと届いた。
 碧人は、五年前の記憶がフラッシュバックし、思わず顔を顰める。自分に激情を露わにした男からの「きれいだ」という言葉は、仕事の評価なのか、それとも個人的な感情なのか、判別がつかず、動揺を誘った。
 彼は、強い口調で返す。
「うるせえな。 モデルなんだから、当たり前だろ」
 その生意気で尖った口調は、五年前に十和に向けていたものと、何も変わっていなかった。
「まあ……色々気をつけてるし…」
 十和は軽く頷いた。
「へえ」
「食生活とか、筋トレも毎日してるし…」
「そうか」
「てめぇも、ちゃんと気をつけてんのか?」
「……ああ」
「ジャンクなもんばっか食ってんじゃねえだろうな?」
「……ん」
 碧人だけが、他愛もないことをペラペラと喋り、十和は相槌を打つだけだった。 それでも、会話が続いていることが、どこか嬉しかった。まるで、二人の関係だけが、この五年間、時間が止まっていたかのように。
 十和は、レンズから目を離し、碧人の目を見た。
「相変わらずだな」
「お前に言われる筋合いはない」 
 碧人は、すぐに視線を逸らした。この再会が、彼の心の奥底に硬く封印していた感情を、一気に呼び覚まそうとしているのがわかったからだ。これ以上、感情を揺さぶられるのが怖かった。

「……体調は、大丈夫か?」
 碧人は、少し驚いたように目を見開いた。 十和の声は静かで、けれど優しさを含んでいた。 気遣うような、確かめるような響き。
 その問いに、碧人はすぐには答えなかった。 代わりに、ゆっくりと手を伸ばし、自分の首元に触れる。 そこには、今も変わらず身につけているカラーがあった。
 碧人の指先が、無意識にその革の縁をなぞる。
「……ん、まあ、大丈夫…」
「そのカラー、まだ着けてるんだな」
 その問いかけは、感情を読み取れない平坦なトーンだった。十和の真意がわからず、碧人は反射的に皮肉を言う。
「着けてちゃ悪いのかよ…?」
 碧人の声には、少しだけ棘が混じっていた。 防御のような、反射のような響き。 十和は首を横に振る。
「いや…」
 十和は、それ以上何も言わず、そう短く答えると、再びカメラに集中した。
 碧人には、十和がカラーの存在に何を思っているのか、本心が掴めない。彼はただ、碧人が約束を守っていることに安堵しているのか、それとも、自分の支配が続いていることに満足しているのか…。
 十和は、シャッターを切りながら、碧人の核心に触れる質問を投げかけた。
「監督の夢は、どうした」
「……変わらずだ。でも、モデルで稼いだ金で、もうすぐ自主制作しようと思ってる」 
 その言葉は、嘘偽りのない、碧人の今の全てだった。この五年間の努力の結晶だ。
「そうか。お前の野心は、変わらないな。安心した」
 十和の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは、昔、彼が自分の夢を語った時に、碧人に向けてくれた、あの優しい笑顔だった。
 碧人の胸が、また痛んだ。彼の視線に、憐憫も軽蔑も、今は感じられない。そこにあるのは、純粋な評価と敬意、そして――あの時断ち切ろうとした微かな愛情の残滓のようなものだった。
「お前の作品を、楽しみにしている」 
 十和は、そう言って、再びカメラのファインダーを覗き込んだ。


 撮影が終わり、スタッフたちが慌ただしく撤収作業を始めた。
 碧人は、着替えを済ませ、スタジオのドアへ向かう。十和は、まだディレクションルームで、データの確認に集中しているようだった。
(これで、終わりだ)
 碧人は、そう安堵しようとした。しかし、その時、背後から低く、落ち着いた声がした。
「碧人」
「……あ?」 
 碧人は、振り返った。十和は、真っ直ぐに碧人の方へ歩み寄ってきた。
 十和は、一瞬ためらった後、言葉を紡いだ。
「あの時は、悪かった」
「……」
「お前の夢を、自分のエゴで邪魔しようとした。俺は、お前を助けたかった……。だがそれは、俺の勝手なエゴだ」 
 十和は、ただ謝罪した。そこには、何の要求も、見返りも、そしてあの日のような激情もなかった。ただ、五年間抱え続けた自責の念だけがあった。
 碧人は、この五年間、十和に言いたかった、最も聞きたい言葉を、喉の奥で飲み込んだ。
『どうして、そうまでして俺を止めたんだ?』 
『なぜ、俺と会わないなんて言ったんだ?』
 代わりに、口から出たのは、またしても素直になれない強がりだった。
「今更、そんな謝罪、必要ねえよ。まあ、あのとき止められたから、自分の力でここまで来るしかなかったんだ。……これで、貸し借りなしだな」
 碧人の言葉は、十和の心に、また一つ高い壁を作った。十和は、静かに頷いた。
「そうか。お前が、無事だったなら、それでいい」
 十和は、それ以上、碧人を引き止めなかった。二人は、五年前と同じように、不器用な言葉と、伝えられない想いを抱えたまま、再び永遠の別れを迎えようとしていた。
 碧人は、スタジオのドアノブに手をかけた。
(きっと、これで最後だ。もう二度と、会うことはないだろう)
 彼の心は、凍えるように冷たかった。十和への恋心は、まだ生きている。しかし、その恋心は、永遠に叶えられない片想いとして、彼の心に焼き付くのだろう。
 その時、十和のフェロモンが、一瞬だけ、強く揺れた。
「……一つだけ」
 十和は、碧人を振り返らせた。
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