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オフィスビルの非常階段。冷え切ったコンクリートの踊り場で、水原七瀬(みずはらななせ)は煙草を指に挟み、静かに紫煙をくゆらせていた。 鉄の匂いを孕んだ冷気が肌を刺す。重い鉄扉の向こうから、縋るような足音と、それを突き放す冷ややかな気配が交錯して伝わってくる。七瀬は煙を吐き出し、半開きの扉の隙間から踊り場を覗き見た。
「……和弥、今までありがとう」
和泉(いずみ)の声は、どこか晴れやかで、決意を帯びていた。 村上和弥(むらかみかずや)は一瞬、言葉を詰まらせる。喉の奥で何かが詰まったように、声が出ない。だがすぐに、震える唇を無理やり引き上げ、「営業用」の笑みを作った。
「ああ。良かったな……好きな人と、上手く行きそうで」
その笑みは、痛々しいほどに薄っぺらい。だが彼にとっては、それが唯一の防御だった。
「お前のおかげだよ。お前が背中を押してくれたから…」
和泉の言葉は、残酷なほどに優しい。和弥の胸を鋭く抉りながらも、表面だけは柔らかく包み込む。
「……そうか」
和弥の声は、情けないほどに震えていた。それでも彼は、自分の役割を全うしようと必死に言葉を紡ぐ。
「また、寂しいときには……相手してやるよ。俺で良ければ」
その言葉は、冗談のようでもあり、哀願にも似ていた。だが和泉は首を横に振り、静かに微笑む。
「いや、いいよ。もうそういうのは終わりにする…。和弥も、いい人が見つかるといいな」
和泉は残酷なほど優しく微笑み、和弥の肩を一度だけ叩いた。
「じゃあな」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、決意の固さを物語る歩調でエレベーターへと去っていく和泉。その背中は、和弥にとって永遠に届かない光のように遠ざかっていく。
和弥はその場に立ち尽くし、笑みを貼り付けたまま、崩れ落ちそうな膝を必死に支えていた。胸の奥では、愛着と執着がボロボロとこぼれ落ち、冷えた踊り場の空気に溶けていく。
七瀬は煙草の火を指先で弾き、灰を落とした。 その視線の先で、和弥の背中はひどく小さく、孤独に見えた。
「……あーあ。見てらんないね」
静寂を切り裂いたのは、氷のように冷たい七瀬の声だった。 鉄扉を乱暴に押し開け、七瀬が姿を現す。指に挟んだ煙草から、一筋の煙が立ち昇り、冷え切った踊り場の空気に溶けていく。
「な……水原、課長」
和弥の声は驚きと怯えを混ぜ、壁際に追い詰められた獣のように震えていた。
七瀬は口の端を吊り上げ、わざとらしく鼻で笑う。
「脈も何もあったもんじゃないな。あんなに一途に尽くして、最後は『いい人が見つかるといいな』だってさ。完全にゴミ箱行きだね、お前の気持ち」
七瀬は一歩、また一歩と和弥に詰め寄る。煙草の匂いと冷気が混じり合い、和弥は後退り、背中を冷たいコンクリートの壁に打ち付けた。
「……黙ってください。あんたには、関係ない」
必死に絞り出した声は弱々しく、反論というより懇願に近かった。
「関係あるだろ」
七瀬は即座に切り捨てる。
「お前がそんな惨めなツラしてると、職場の空気が濁るんだよ。それに、今のやり取り、何だ? 『寂しい時は相手してやる』? 吐き気がするね。そんな卑屈な言葉を優しさだと思ってるなら、お前の脳みそ、一回洗ってきたほうがいいよ」
「うるせえな……ッ!」
和弥が低い声で吠える。営業スマイルを剥ぎ取られ、剥き出しの憎悪が瞳に宿る。
「何も知らないくせに……! 俺がどんな気持ちで、あいつを支えてきたか……!」
和弥の声は震え、怒りと絶望が入り混じっていた。
七瀬は煙を吐き出し、冷笑を浮かべる。
「お前はただの、便利な予備だった。和泉が本命と上手くいくまでの、暇つぶしの道具。それを『純愛』なんて綺麗な言葉で塗り固めて、自分を誤魔化してるだけだ」
七瀬はさらに一歩踏み込み、和弥の顔すれすれまで近づいた。煙草の火が赤く揺れ、二人の間に張り詰めた空気を照らす。 「……お前みたいな当て馬が、主役になれる物語なんて存在しないんだよ。お前は一生、選ばれない側の人間だ。哀れだな、村上。お前の『愛』は、相手を幸せにするどころか、ただ息苦しくさせるだけだ」
和弥の拳が震える。殴りたい衝動と、崩れ落ちそうな絶望がせめぎ合い、彼の全身を硬直させていた。七瀬はその憎悪を心ゆくまで味わい、満足そうに目を細める。
七瀬の声は冷たく、しかしどこか甘美な響きを孕んでいた。
「お前は、和泉の幸せの影で惨めに指をくわえて見てればいい。……指をくわえて待ってれば、またいつか、あいつが『寂しい時』に呼んでくれるかもしれないしな? その程度の扱いがお前にはお似合いだ」
「……上司じゃなきゃ、今すぐ殴り倒してるところだ」
和弥の声は震え、怒りと屈辱が混じっていた。
七瀬は一歩踏み込み、挑発を重ねる。
「やれるもんなら、やってみれば…? 殴ってみろよ。お前の腐った脳みそが少しでもマシになるなら安いもんだ。……でもな、殴ったところで何も変わらない。和泉はお前を選ばない。……あー、本当、見てるだけで吐き気がするほど惨めだね」
「……消えろよ。あんたなんか、嫌いだ」
和弥は七瀬を突き放すと、逃げるように階段を駆け下りていった。足音が遠ざかるたびに、踊り場の静寂はより濃く、より冷たく沈んでいく。
だが、本当は、その怒りに焼かれそうなのは七瀬の方だった。 和弥が和泉に向ける情熱の、たった一滴でもいいから自分に向けてほしい。こんなに近くにいて、お前のすべてを見ている自分を選べと叫びたい。だが、部下に対して抱くにはあまりに重すぎるこの執着を、七瀬は「嫌悪」というオブラートに包んでぶつけるしかできない。
独り残された踊り場で、七瀬は自分の胸を押さえた。心臓がうるさいほどに脈打っている。 彼に嫌われるたびに、自分だけが彼を正しく、深く傷つけられるという歪んだ全能感が押し寄せる。去り際、隠しきれずに溢れた和弥の涙を、七瀬は誰よりも早く、そして一人占めして見ていた。
「……本当、バカだよな。お前も、俺も」
七瀬は独り言を漏らすと、和弥がほんの少し触れた手首を愛おしそうに、そして自嘲気味に強く握りしめた。
*
七瀬が、新入社員として配属されてきた和弥を「気に入らない」と思ったのは、彼が初めて営業スマイルを見せた瞬間だった。
「村上和弥です! 一刻も早く戦力になれるよう、精一杯頑張ります!」
眩しいほどの清潔感と、迷いのない真っ直ぐな瞳。 その笑顔は、誰もが好感を抱くであろう「正しさ」に満ちていた。七瀬はその時、心のどこかで悟った。――自分のような濁った人間が触れてはいけないものだ、と。だからこそ、わざと冷たくあしらった。
だが、教育担当として彼を間近で見続けるうちに、七瀬の胸には「嫌悪」とは別の、もっと厄介な感情が根を張り始めていた。
和弥は有能だった。仕事の吸収も早く、努力を惜しまない。だが、彼がその完璧な営業スマイルではない、本当の笑顔を向けている相手は、七瀬でもクライアントでもなかった。
(……また、和泉か)
会議室でも、休憩室でも、和弥の視線はいつも同僚の和泉を追っていた。 和泉と話す時の和弥は、仕事中の顔とはまるで違う。熱を帯び、ひどく無防備で、少年のように素直な表情を見せる。七瀬はその「和弥の真実の顔」を一番近くで、誰よりも敏感に察知してしまった。
自分に向けられるのは、完璧な部下としての笑顔。 和泉に向けられるのは、一人の男としての、湿り気を帯びた執着。
その格差が、七瀬の心に一滴ずつ、黒い毒を垂らしていった。 最初はただの苛立ちだった。だが次第に、和弥の視線が和泉に向かうたびに、胸の奥で何かが軋み、焼け付くような痛みを覚えるようになった。
――自分には決して向けられない顔。
――自分には決して与えられない熱。
それを知ってしまった瞬間から、七瀬の「嫌悪」は、和弥への執着へと形を変えていった。 彼を突き放す言葉の裏で、心臓は不快なほどに脈打ち、和弥の存在を求めてしまう。
七瀬は煙草を深く吸い込み、吐き出した煙の向こうに和弥の横顔を見た。 その笑顔が自分に向けられることはないと知りながら――それでも、目を逸らすことができなかった。
ある日の残業中。忘れ物を取りに戻ったオフィスで、七瀬は見てしまった。 月明かりだけが差し込む資料室の奥――そこには、和弥が和泉を壁に押し付け、唇を重ねている姿があった。
和泉は困ったように笑いながらも、和弥の背中に手を回している。拒絶ではなく、受け入れでもなく、曖昧な仕草。だが二人の間に流れる空気は、長年積み重ねてきた関係の重さを物語り、外部の人間を寄せつけない甘美な結界のようだった。
七瀬は影に隠れ、息を潜める。爪が手のひらに食い込んでいることにも気づかない。心臓は激しく波打ち、喉の奥からせり上がってくるのは、猛烈な「吐き気」だった。
(ああ、なんだ……。お前、そんな顔もできるんじゃないか)
和泉に縋り付き、愛を乞う和弥の姿は、ひどく惨めで、それでいて美しかった。剥き出しの欲望と弱さ。七瀬はその表情に目を奪われ、同時に胸を焼かれるような痛みを覚える。
――その顔を、俺に向けろ。
――俺の前で、そんな風に壊れてみせろ。
――和泉なんかに、お前の一番汚くて綺麗な顔を見せるな。
嫉妬は鋭い刃となり、七瀬の内側を切り裂いていく。
その瞬間、七瀬の中で「嫌悪」は完全に姿を変えた。 激しい嫉妬が、黒く濁った執着へと形を変え、彼の心臓を締め付ける。
七瀬は煙草を取り出すことも忘れ、ただ影の中で和弥を凝視し続けた。
「……和弥、今までありがとう」
和泉(いずみ)の声は、どこか晴れやかで、決意を帯びていた。 村上和弥(むらかみかずや)は一瞬、言葉を詰まらせる。喉の奥で何かが詰まったように、声が出ない。だがすぐに、震える唇を無理やり引き上げ、「営業用」の笑みを作った。
「ああ。良かったな……好きな人と、上手く行きそうで」
その笑みは、痛々しいほどに薄っぺらい。だが彼にとっては、それが唯一の防御だった。
「お前のおかげだよ。お前が背中を押してくれたから…」
和泉の言葉は、残酷なほどに優しい。和弥の胸を鋭く抉りながらも、表面だけは柔らかく包み込む。
「……そうか」
和弥の声は、情けないほどに震えていた。それでも彼は、自分の役割を全うしようと必死に言葉を紡ぐ。
「また、寂しいときには……相手してやるよ。俺で良ければ」
その言葉は、冗談のようでもあり、哀願にも似ていた。だが和泉は首を横に振り、静かに微笑む。
「いや、いいよ。もうそういうのは終わりにする…。和弥も、いい人が見つかるといいな」
和泉は残酷なほど優しく微笑み、和弥の肩を一度だけ叩いた。
「じゃあな」
背筋を真っ直ぐに伸ばし、決意の固さを物語る歩調でエレベーターへと去っていく和泉。その背中は、和弥にとって永遠に届かない光のように遠ざかっていく。
和弥はその場に立ち尽くし、笑みを貼り付けたまま、崩れ落ちそうな膝を必死に支えていた。胸の奥では、愛着と執着がボロボロとこぼれ落ち、冷えた踊り場の空気に溶けていく。
七瀬は煙草の火を指先で弾き、灰を落とした。 その視線の先で、和弥の背中はひどく小さく、孤独に見えた。
「……あーあ。見てらんないね」
静寂を切り裂いたのは、氷のように冷たい七瀬の声だった。 鉄扉を乱暴に押し開け、七瀬が姿を現す。指に挟んだ煙草から、一筋の煙が立ち昇り、冷え切った踊り場の空気に溶けていく。
「な……水原、課長」
和弥の声は驚きと怯えを混ぜ、壁際に追い詰められた獣のように震えていた。
七瀬は口の端を吊り上げ、わざとらしく鼻で笑う。
「脈も何もあったもんじゃないな。あんなに一途に尽くして、最後は『いい人が見つかるといいな』だってさ。完全にゴミ箱行きだね、お前の気持ち」
七瀬は一歩、また一歩と和弥に詰め寄る。煙草の匂いと冷気が混じり合い、和弥は後退り、背中を冷たいコンクリートの壁に打ち付けた。
「……黙ってください。あんたには、関係ない」
必死に絞り出した声は弱々しく、反論というより懇願に近かった。
「関係あるだろ」
七瀬は即座に切り捨てる。
「お前がそんな惨めなツラしてると、職場の空気が濁るんだよ。それに、今のやり取り、何だ? 『寂しい時は相手してやる』? 吐き気がするね。そんな卑屈な言葉を優しさだと思ってるなら、お前の脳みそ、一回洗ってきたほうがいいよ」
「うるせえな……ッ!」
和弥が低い声で吠える。営業スマイルを剥ぎ取られ、剥き出しの憎悪が瞳に宿る。
「何も知らないくせに……! 俺がどんな気持ちで、あいつを支えてきたか……!」
和弥の声は震え、怒りと絶望が入り混じっていた。
七瀬は煙を吐き出し、冷笑を浮かべる。
「お前はただの、便利な予備だった。和泉が本命と上手くいくまでの、暇つぶしの道具。それを『純愛』なんて綺麗な言葉で塗り固めて、自分を誤魔化してるだけだ」
七瀬はさらに一歩踏み込み、和弥の顔すれすれまで近づいた。煙草の火が赤く揺れ、二人の間に張り詰めた空気を照らす。 「……お前みたいな当て馬が、主役になれる物語なんて存在しないんだよ。お前は一生、選ばれない側の人間だ。哀れだな、村上。お前の『愛』は、相手を幸せにするどころか、ただ息苦しくさせるだけだ」
和弥の拳が震える。殴りたい衝動と、崩れ落ちそうな絶望がせめぎ合い、彼の全身を硬直させていた。七瀬はその憎悪を心ゆくまで味わい、満足そうに目を細める。
七瀬の声は冷たく、しかしどこか甘美な響きを孕んでいた。
「お前は、和泉の幸せの影で惨めに指をくわえて見てればいい。……指をくわえて待ってれば、またいつか、あいつが『寂しい時』に呼んでくれるかもしれないしな? その程度の扱いがお前にはお似合いだ」
「……上司じゃなきゃ、今すぐ殴り倒してるところだ」
和弥の声は震え、怒りと屈辱が混じっていた。
七瀬は一歩踏み込み、挑発を重ねる。
「やれるもんなら、やってみれば…? 殴ってみろよ。お前の腐った脳みそが少しでもマシになるなら安いもんだ。……でもな、殴ったところで何も変わらない。和泉はお前を選ばない。……あー、本当、見てるだけで吐き気がするほど惨めだね」
「……消えろよ。あんたなんか、嫌いだ」
和弥は七瀬を突き放すと、逃げるように階段を駆け下りていった。足音が遠ざかるたびに、踊り場の静寂はより濃く、より冷たく沈んでいく。
だが、本当は、その怒りに焼かれそうなのは七瀬の方だった。 和弥が和泉に向ける情熱の、たった一滴でもいいから自分に向けてほしい。こんなに近くにいて、お前のすべてを見ている自分を選べと叫びたい。だが、部下に対して抱くにはあまりに重すぎるこの執着を、七瀬は「嫌悪」というオブラートに包んでぶつけるしかできない。
独り残された踊り場で、七瀬は自分の胸を押さえた。心臓がうるさいほどに脈打っている。 彼に嫌われるたびに、自分だけが彼を正しく、深く傷つけられるという歪んだ全能感が押し寄せる。去り際、隠しきれずに溢れた和弥の涙を、七瀬は誰よりも早く、そして一人占めして見ていた。
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七瀬は独り言を漏らすと、和弥がほんの少し触れた手首を愛おしそうに、そして自嘲気味に強く握りしめた。
*
七瀬が、新入社員として配属されてきた和弥を「気に入らない」と思ったのは、彼が初めて営業スマイルを見せた瞬間だった。
「村上和弥です! 一刻も早く戦力になれるよう、精一杯頑張ります!」
眩しいほどの清潔感と、迷いのない真っ直ぐな瞳。 その笑顔は、誰もが好感を抱くであろう「正しさ」に満ちていた。七瀬はその時、心のどこかで悟った。――自分のような濁った人間が触れてはいけないものだ、と。だからこそ、わざと冷たくあしらった。
だが、教育担当として彼を間近で見続けるうちに、七瀬の胸には「嫌悪」とは別の、もっと厄介な感情が根を張り始めていた。
和弥は有能だった。仕事の吸収も早く、努力を惜しまない。だが、彼がその完璧な営業スマイルではない、本当の笑顔を向けている相手は、七瀬でもクライアントでもなかった。
(……また、和泉か)
会議室でも、休憩室でも、和弥の視線はいつも同僚の和泉を追っていた。 和泉と話す時の和弥は、仕事中の顔とはまるで違う。熱を帯び、ひどく無防備で、少年のように素直な表情を見せる。七瀬はその「和弥の真実の顔」を一番近くで、誰よりも敏感に察知してしまった。
自分に向けられるのは、完璧な部下としての笑顔。 和泉に向けられるのは、一人の男としての、湿り気を帯びた執着。
その格差が、七瀬の心に一滴ずつ、黒い毒を垂らしていった。 最初はただの苛立ちだった。だが次第に、和弥の視線が和泉に向かうたびに、胸の奥で何かが軋み、焼け付くような痛みを覚えるようになった。
――自分には決して向けられない顔。
――自分には決して与えられない熱。
それを知ってしまった瞬間から、七瀬の「嫌悪」は、和弥への執着へと形を変えていった。 彼を突き放す言葉の裏で、心臓は不快なほどに脈打ち、和弥の存在を求めてしまう。
七瀬は煙草を深く吸い込み、吐き出した煙の向こうに和弥の横顔を見た。 その笑顔が自分に向けられることはないと知りながら――それでも、目を逸らすことができなかった。
ある日の残業中。忘れ物を取りに戻ったオフィスで、七瀬は見てしまった。 月明かりだけが差し込む資料室の奥――そこには、和弥が和泉を壁に押し付け、唇を重ねている姿があった。
和泉は困ったように笑いながらも、和弥の背中に手を回している。拒絶ではなく、受け入れでもなく、曖昧な仕草。だが二人の間に流れる空気は、長年積み重ねてきた関係の重さを物語り、外部の人間を寄せつけない甘美な結界のようだった。
七瀬は影に隠れ、息を潜める。爪が手のひらに食い込んでいることにも気づかない。心臓は激しく波打ち、喉の奥からせり上がってくるのは、猛烈な「吐き気」だった。
(ああ、なんだ……。お前、そんな顔もできるんじゃないか)
和泉に縋り付き、愛を乞う和弥の姿は、ひどく惨めで、それでいて美しかった。剥き出しの欲望と弱さ。七瀬はその表情に目を奪われ、同時に胸を焼かれるような痛みを覚える。
――その顔を、俺に向けろ。
――俺の前で、そんな風に壊れてみせろ。
――和泉なんかに、お前の一番汚くて綺麗な顔を見せるな。
嫉妬は鋭い刃となり、七瀬の内側を切り裂いていく。
その瞬間、七瀬の中で「嫌悪」は完全に姿を変えた。 激しい嫉妬が、黒く濁った執着へと形を変え、彼の心臓を締め付ける。
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