消えることのない残像

万里

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 六月の空は、恨めしいほどに透き通っていた。
 吸い込まれそうなほど深い青は、地上の喧騒など知らぬげにどこまでも広がり、チャペルの高い天窓から無慈悲なまでの陽光を投げ落としている。降り注ぐ光の粒子は、磨き上げられたバージンロードの白さを残酷なまでに際立たせ、そこに集う人々の無垢な祝福――弾けるような笑顔や、感動に濡れた瞳――を、舞台照明のように眩しく照らし出していた。

 志貴は、親族席の最前列で、窮屈な学ランに身を包んで立っていた。
 六月の湿り気を帯びた重たい空気に、厚手の黒い詰襟がじっとりと肌に張り付く。それは、この場に相応しくない感情を抱く自分を罰する、拘束具のようだった。
 周囲の大人たちが纏う漆黒の礼服や、風に揺れるパステルカラーの華やかなドレス。その色彩の奔流の中で、自分だけが「子ども」という記号を背負わされた、無力な制服姿。それが、大貴との間に横たわる、決して越えられない絶対的な境界線のようで、志貴は逃げるように自分の足元へ視線を落とした。

 視界の端で、純白のシルクが波打つ。
 そこには、幸福を絵に描いたような義姉の姿。そしてその隣で、世界で一番誇らしげに、慈しむように目を細める兄・大貴がいた。

(ああ、綺麗だな……)

 その感嘆は、隣に立つ花嫁に向けられたものではなかった。
 タキシードに身を包み、凛とした立ち姿で見知らぬ誰かを見つめる、その男。
 いつも自分にだけ向けられていた、少しだけ垂れた優しい目。幼い頃、幾度となく頭を撫でてくれた大きな掌。低いけれど、羽毛のように柔らかく心を包み込んでくれた、あの声。
 そのすべてが、今日この瞬間、神と参列者の前で「誰かのもの」になったのだ。
 いや、最初から何一つ自分のものではなかったのだと、突きつけられている。

 光溢れるこの聖域で、志貴だけが、出口のない深い夜の底に取り残されていた。


 志貴が大貴への想いを「恋」だと自覚したのは、あろうことか一ヶ月前の夜だった。

 もちろん、兄に恋人がいることは以前から知っていた。
 この一年ほど、何度か家に挨拶に来ていた女性だ。彼女はいつも、志貴に「志貴くん、これ好きだったよね」と、兄から教わったらしい好物の菓子を差し出し、優し気な微笑みを浮かべていた。
 兄が選んだ、非の打ち所のない女性。志貴はその度に、喉に刺さった魚の骨のような不快感を覚えながら、愛想笑いで応えてきた。
 けれど、どこかで信じていたのだ。
 どれほど親しくなろうとも、自分と大貴を繋ぐ「血」という揺るぎない絆が、外から来た彼女に脅かされることなどないのだと。

 だが、兄の言葉によって、それは一変した。

『彼女と結婚するんだ』

 いつもの優しい声で告げられた瞬間、志貴の心臓は直接素手で握りつぶされた。
 ドクン、という鼓動が耳の奥で爆ぜ、視界が真っ白に明滅する。
 「おめでとう」という、世の中に溢れかえっているはずの、たった五文字の言葉。それが鋭利な破片となって喉の奥で凝固し、どうしても出てこない。

 その時初めて、突きつけられた。
 自分が大貴を「兄」として誇らしく思っていたのではなく、一人の「男」として、狂おしいほどに焦がれていたのだと。
 彼女に向けられる愛も、共に築くはずの未来も、そのすべてを奪い去りたいほどに独占したかったのだと。

 自覚と同時に、それは永遠に叶うことのない「失恋」へと無惨に形を変えた。
 志貴の恋は、産声を上げた瞬間に、最愛の兄の手によってその息の根を止められたのだ。


 大貴は、いつだって優しすぎた。
 厳格な父と忙殺される母。静まり返った家の中で、大貴だけが志貴の居場所だった。テストの点数が振るわず俯いていれば、黙って隣に座り、半分に割ったアイスを差し出してくれた。熱に浮かされた夜は、志貴が眠りに落ちるまで、その大きな掌でずっと背中をさすり続けてくれた。

『志貴は俺の自慢の弟だよ』

 そう言って笑う大貴の言葉が、志貴にとっては唯一の存在証明であり、生きる意味そのものだった。
 その優しさに満ちた手が今、自分ではない女の指に、冷ややかな銀色の輪を滑り込ませている。

「――健やかなるときも、病めるときも……」

 神父の朗々とした声が、高い天井に反響して降ってくる。天から降り注ぐその言葉は、志貴にとっては祝福などではなく、心臓に一寸の狂いもなく打ち込まれる銀の楔だった。
 
 志貴は学ランのポケットの中で、爪が手のひらに食い込み、血が滲むほどに拳を握りしめていた。
 視線の先では、大貴が慈しむような手つきで彼女の指先を取り、その髪を、壊れ物を扱うかのような優しさで撫でている。
 大貴が彼女に向ける、熱を帯びた微笑。
 大貴が彼女の肌に触れる、迷いのない指先。
 そのすべてが、志貴の胸を容赦なく締めつけた。

(……この気持ちは、なんだ……)

 それは、今まで知っていたどんな感情とも違っていた。ドロドロとした黒い澱のようなものが、腹の底からせり上がってくる。自分に向けられていたはずの「特別」が、目の前で他人のものへと書き換えられていく絶望。
 「嫉妬」という醜くも激しい感情を、志貴はこの時初めて、骨身に染みるほど知った。

 もし、自分があの白いドレスを着た女性だったら。
 もし、自分たちが「兄弟」という呪縛を持たずに出会っていたら。
 泥濘のような「もしも」が、頭の中を濁流となって駆け巡る。

 誓いのキスが交わされる瞬間、志貴はたまらず目を逸らした。
 視界が急激に歪み、熱い雫が頬を伝って零れ落ちる。それを周囲に悟られぬよう、奥歯を噛み締め、俯いた。胸の奥には、真っ赤に焼けた鉄を押し当てられたような、灼熱の痛みが居座り続けていた。

 割れんばかりの拍手が沸き起こる。フラワーシャワーの色鮮やかな花びらが、雪のように舞い散る中を、二人が腕を組んで歩いてくる。
 志貴の目の前を通る瞬間、大貴がふと足を止め、弟へと視線を落とした。

「志貴」

 大貴が、悪戯っぽく、それでいてこの上なく愛おしそうに目を細める。

「お前も、きっといつか、いい人に出会えるよ」

 その言葉は、優しさという名の鋭利なナイフとなって志貴の心臓を抉った。
 大貴は何も知らない。志貴がどれほどの絶望を抱えて、この眩しい光の中に立っているのか。
 志貴にとっての「いい人」は、世界にただ一人。今、別の誰かと手を繋いで笑っている、兄だけなのに。

「……うん。おめでとう、兄貴」

 志貴は、頬の筋肉を引きつらせて精一杯の笑顔を作った。
 詰襟のホックを今すぐ引きちぎりたい衝動を抑え、歪んでいく視界を必死に堪えながら、心の中でだけ、一番言いたかった言葉を深く飲み込んだ。



 あの日から一年が経ち、六月の透き通る空の代わりに、産院の白い天井が志貴を迎え入れた。
 兄の息子。律樹(りつき)と名付けられたその赤子は、大貴の息子であり、両親にとって初めての孫だった。

 産院のロビーは、春の陽だまりのような幸福感で満ちていた。
 母は浮かれたように看護師を呼び止めては孫の話をし、厳格だった父は珍しく口元を緩ませて、饒舌に未来を語っている。その中心に立つ大貴は、ガラス越しに小さな命を見つめながら、一年前のあの日と同じ、どこか誇らしげで眩しい笑顔を浮かべていた。

「志貴、ほら。……抱っこするか?」

 大貴に促され、そっと差し出された律樹を腕に受け止める。
 腕に伝わるのは、羽毛のような軽さと、火を灯したばかりの蝋燭のような、儚くも確かな熱量。ふにゃりと泣き声を上げたその小さな顔を見た瞬間、志貴の心臓が不規則な音を立てた。

 律樹は、じっと志貴を見つめていた。
 まだ焦点も定まらない、混じりけのない瞳。

 自分は、これからどこに立てばいいんだろう。
 幸せを絵に描いたようなこの家族の中で、祝福の輪に加われない自分は何者なのだろう。
 「叔父」という、また新しい記号を背負わされた自分の居場所を、どこにも見つけられずにいた。

 その時、律樹の小さな手が、志貴の指をぎゅっと握りしめた。
 驚くほど柔らかな、けれど意外なほど強いそのぬくもり。

 指先に伝わる脈動に、なぜか涙が溢れそうになった。
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