さよなら、永遠の友達

万里

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 オレンジ色の夕闇が、体育館の床を長く、鋭く切り裂いていた。
 バッシュが床を叩くキュッという高い音と、重いバスケットボールが弾む音だけが、高い天井に反響しては消えていく。

「……もう一本だ! 舜一(しゅんいち)、ラスト!」
「基樹(もとき)、もう三十分オーバーしてる。集中力が切れた状態で続けても、怪我をするだけだ」

 基樹が放ったシュートがリングに弾かれ、乾いた音を立てて転がる。それを拾い上げた舜一が、感情の起伏を削ぎ落とした声で淡々と告げた。
 基樹は膝に手をついて肩で激しく息をしながら、額から流れる汗をユニフォームの袖で乱暴に拭った。

「まだやれる。次の試合、絶対に勝つ。お前だって副部長なら、俺についてこいよ」

 基樹がそう言えば、舜一は最後には折れる。昔からそうだった。
 舜一は、基樹とは正反対の男だ。常に冷静沈着、試合の流れを読むことに長けた最高の参謀。整った顔立ちはどこか冷ややかで、誰にも本心を見せない。ただ一人、基樹にだけは、呆れたような顔をして隣にいてくれる。

「ついていってるだろ。……お前の無茶には、昔から」

 舜一は小さく溜息をつき、手元のボールを軽く基樹に投げ返した。その僅かなやり取りだけで、基樹の胸は熱くなる。こいつがいれば、自分はどこまでも高く飛べる。基樹は本気でそう信じていた。

「はいはい、もう終わり! 舜一の言う通り、これ以上やったら明日の授業、寝る気でしょ?」

 明るい声と共に現れたのは、マネージャーの結子だった。
 基樹が太陽のように走り、舜一が月のようにそれを支え、結子が空のように包み込む。この歪みのない均衡が、基樹の世界のすべてだった。

「結子……。わかったよ、終わりだ」

 基樹は苦笑いしてボールを片付け始める。そんな基樹を見て、結子は「よし!」と満足げに笑い、彼の頭をタオルでわしゃわしゃと乱暴に撫でた。

「ほら、舜一も。お疲れ様」
「ああ、ありがとう」

 冷たいボトルを受け取る舜一の横顔を、基樹は傍らで眩しそうに眺めた。
 笑顔を向けてくれる結子の瞳も、一歩引いた場所からすべてを悟ったように佇む舜一の静かな存在感も。そのすべてが、基樹にとっては生きていくための酸素のようなものだった。

 結子と、舜一が隣にいる。
 そんな当たり前で、けれど何物にも代えがたい未来が、約束された明日としてやってくるのだと信じていた。
 このままずっと、三人でいられる。
 オレンジ色に染まる体育館の静寂の中で、基樹はそんな根拠のない確信に、深く、心地よく浸っていた。

 *

 しかし、季節は容赦なく巡り、三年生の冬が訪れた。

「……舜一! いるんだろ、開けろ!」

 夕闇が迫る頃、基樹は舜一の家の玄関先で、喉が裂けるほど叫んでいた。
 母親から「舜一くん、東京の大学に行くんだって」と聞かされた瞬間、頭の中は真っ白になった。何も聞いていない。相談どころか、そんな素振りさえ一度も見せなかった。ずっと地元の大学に一緒に行くのだと、そう信じ込んでいたのは自分だけだったのか。

 苛立ちを抑えきれずに階段を駆け上がると、自室から出てきた舜一と鉢合わせた。その瞳は、見たこともないほど氷のように冷めきっていた。

「なんだよ、大声出して。近所迷惑だろ」
「なあ、東京の大学に行くって……本当なのか!」
「……ああ、本当だ」

 あまりに淡々とした肯定に、基樹の頭に血が上る。

「なんで……なんで黙ってた! 俺たち、ずっと一緒にバスケやるって約束しただろ! 俺がこの町のチームに入って、お前がそれを支えて……二人でずっと組んでいくって、そう言ったじゃないか!」

 基樹の怒りは、裏切られた悲しみの裏返しだった。
 基樹にとって舜一は、単なる友人ではない。自分の背後を任せられる唯一無二の右腕であり、自分という人間を完成させるための、不可欠な半身なのだ。舜一がいない未来なんて、一瞬たりとも想像したことがなかった。

「ずっと一緒なんて、ガキの約束だろ。いつまで夢を見てるんだよ」

 舜一は、鼻で笑った。その冷笑が、二人の間にあった十数年の月日を無価値なものへと塗り替えていく。

「舜一……!」
「基樹、お前はここでヒーローになればいい。結子も、お前のそばにいる。……俺は、もうお前の無茶に付き合うのはうんざりなんだよ」

 その言葉は、基樹の胸に鋭いナイフを突き立てた。
 一番信頼し、背中を預けていた男から、心底拒絶されたのだと悟った。腹の底にたまっていた熱い怒りが、一瞬で凍りついていく。

「……わかった」

 基樹は、掴みかかろうとしていた拳を、力なく下ろした。
 視界が急激に滲んで、目の前にいるはずの舜一の顔が、歪んでよく見えない。

「お前がそう決めたなら、勝手にしろ」

 基樹は吐き捨てるように言うと、嵐のようにその場を去った。
 本当は、追いかけてきてほしかった。今の言葉は全部嘘だと、冗談だと笑って、いつものように自分の肩を叩いてほしかった。
 けれど、階段を駆け下りる基樹の背中に、彼を呼び止める声が届くことは、二度となかった。


 卒業式当日まで、二人が言葉を交わすことはなかった。
 式の後、喧騒の中でようやく一瞬だけ視線が交わった時、基樹は震える声を絞り出した。

「……ずっと、友達だからな。忘れるなよ」

 強がりのような、縋るようなその言葉に、舜一は一瞬だけ足を止めた。そして、突き放した時のような冷たい目ではなく、どこかひどく悲しそうな顔をして、力なく笑った。
 それが、基樹の記憶に残る「高校生の舜一」の最後の表情だった。

 結局、舜一は予定通り東京の大学へ進み、基樹は地元で就職した。
 物理的な距離は、二人の関係を確実に変えていった。

 それでも、年に何度か、ふと思い出したようにメッセージを送った。

『元気か?』
『生きてるか?』

『ああ』
『大丈夫だ』

 画面に並ぶのは、短く、素っ気ない言葉だけ。
 舜一がたまに地元へ帰ってきているという噂を耳にしても、実際に会うことはほとんどなかった。基樹が誘おうとしても、舜一は「忙しい」とだけ言って、決して自分たちの輪には加わらなかった。

 やがて、基樹は結子と結婚した。
 かつての三人の均衡は、二人の夫婦という形に収まり、数年後には息子の直樹も生まれた。
 家族に囲まれ、笑い、守るべきものが増えていく日常。それは紛れもなく幸福だった。
 けれど、ふとした瞬間に、体育館のオレンジ色の夕闇を思い出す。自分の背中を冷たく、けれど確かに守っていた、あの参謀の気配を探してしまう。

 幸せにならなきゃいけない。
 あいつに、見せつけるためにも。

 そう自分に言い聞かせながら、基樹は父親として、夫として、十年の月日を積み重ねてきたのだ。あの日、舜一が見せた悲しげな微笑みの意味を、一度も問い返せないまま。

 *

 その日は、冷たい雨が降っていた。
 芯まで冷えるような寒さで、視界は最悪だった。
 トラックの、前方不注意。
 けれど、だから、どうして――。
 いくつもの問いが頭を巡るが、答えをくれる者はどこにもいない。

 白い病院の廊下。基樹は、呆然と崩れ落ちていた。
 目の前には、白布をかけられた結子がいる。
 数時間前まで、「夕飯、何がいい?」と笑って電話をよこした妻が、今はもう、ぴくりとも動かない。

「パパ……? ママ、ねんね?」

 足元で、四歳になった息子の直樹が、基樹の服の裾を不安そうに引っ張っている。
 基樹は直樹を抱きしめることすらできなかった。指先まで震えが止まらない。
 結子のいない世界が、どうしようもなく怖い。明日からの歩き方も、息の吸い方も、何一つわからなくなってしまった。

 気づけば、基樹は震える指で、十年間一度もかけることのできなかった番号をタップしていた。

 呼び出し音。鼓動が耳の奥でうるさく打ち鳴らされる。
 繋がらないでくれ、と願う自分と、助けてくれ、と叫ぶ自分がせめぎ合う。
 数回目のコールの後、ふっと向こう側の空気が変わった。

『……もしもし、基樹か。電話なんて珍しいな』

 冷たく、けれど懐かしい、あの頃と同じ落ち着いた声。
 仕事中の静寂を背景にした、完璧にコントロールされた舜一の声だった。
 それを聞いた瞬間、基樹の中に張り詰めていた最後の一線が、音を立てて決壊した。

「っ……舜一……?」
『基樹? どうした、その声』
「結子が、死んだ……。事故で……さっき。俺、どうすればいいか……わかんねぇんだ。直樹が、泣いてるのに。俺……俺……っ」

 基樹は溢れ出す涙を必死に堪えたが、声の震えまでは隠せなかった。
 東京で働く親友にとって、地元の友人の泣き言なんて、本来なら迷惑でしかないはずだ。
 けれど、基樹にはもう、彼しかいなかった。この底なしの闇から、自分を引きずり上げてくれる男は。

「基樹、落ち着け。深呼吸しろ。……俺の声を聞け」
『助けて、舜一……』

 一瞬、受話器の向こうで息を吞むような、短い沈黙があった。
 そして、その後に続いたのは、迷いのない言葉だった。

「今から行く。……四時間、いや三時間半で行く」
『え……? でも、お前、仕事……』
「終わったところだ。気にするな。……結子の親御さんには連絡したのか? お前の親にも。とにかく……待ってろ」

 受話器越しに聞こえる、舜一の静かな、暴力的なまでの断定。
 その響きに、基樹は真っ暗な海で救命綱を掴んだような安堵を覚えた。
 ああ、そうだ。自分がピンチになった時、いつだって舜一が助けてくれた。
 あいつがいれば、自分はまた立っていられるかもしれない。

「わ、わかった……」

 基樹は電話を切ると、不安に顔を歪める直樹をようやく抱き寄せ、震える手で親族への連絡を始めた。
 舜一が来る。彼が来れば、この地獄のような状況をすべてなんとかしてくれる。
 そんな盲目的なまでの信頼が、基樹の絶望を僅かに繋ぎ止めていた。

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