さよなら、永遠の友達

万里

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 深夜のアパートは、冷たい静寂に支配されていた。
 基樹は、布団で眠る直樹の体温を感じながら、壁の時計を凝視していた。

 両親たちには、連絡を終え、一度それぞれの自宅に戻り、結子の着替えや葬儀に必要なものを持って、明朝また合流することになっている。

 時が止まればいい。針が逆回転して、いつもの夕方に戻ってくれればいい。そんな子どもじみた願いだけが、泥のように頭の中を回っていた。

 不意に、玄関をコンコンとノックする音が聞こえる。
 重い体を引きずるようにして鍵を開けると、そこにはスーツ姿の男が立っていた。

「……舜一」

 その名を呼んだ基樹の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 東京から車を飛ばして来たのだろう。駐車場から走ってきたのか、舜一は肩で息をしながら、基樹の濡れた瞳をじっと見つめている。

「基樹。……遅くなった」

 舜一はリビングに上がり、基樹の隣に腰を下ろすと、大きな手をその震える肩に置いた。
 その手の熱に触れた瞬間、基樹は危うくその場で声を上げて泣きそうになった。十年前、放課後の体育館で、あるいは卒業式の日に失ったはずの「右腕」が、今、絶望の淵にいる自分を支えている。

「あとのことは、俺がやる。お前は直樹くんと、少しでもいいから休め」

 弁護士という職業柄か、舜一の立ち振る舞いは驚くほど冷静で、かつ完璧だった。
 病院への支払いや死亡診断書の受け取り、葬儀社への手配、そして役所への届け出の段取り。混乱して何一つ手がつかない基樹に代わり、舜一はすべての事務作業を淡々と、かつ迅速に片付けていった。

 それは、かつて部活の参謀として、基樹の無茶な作戦を現実的な勝利へと導いていたあの頃の姿そのものだった。

 *

 通夜から葬儀までの三日間、舜一はずっと基樹の傍らにいた。
 地元の友人や親戚が入れ替わり立ち替わり訪れる喧騒の中、舜一は「東京から駆けつけた親友」という立場を崩さず、常に一歩引いた場所で完璧に基樹をサポートし続けた。

 疲労困憊し、食事を摂ることさえ忘れている基樹の傍に、さりげなくゼリー飲料や喉を通りやすい軽食を置く。まだ「死」という概念を理解できずにぐずる直樹の遊び相手も、彼は自ら買って出た。

「シュンちゃん、だっこ」

 直樹が舜一に懐くのは驚くほど早かった。
 舜一は、スーツの皺も厭わず慣れない手つきで直樹を抱き上げ、静かな低音で絵本を読み聞かせていた。その光景は、側から見ればあまりに自然で、かえって基樹の胸を強く締め付けた。もし、今ここに彼がいなかったら――自分は今頃、この絶望の泥濘(ぬかるみ)に飲み込まれていただろう。

 葬儀の最中、基樹は一度も泣かなかった。
 喪主として、そして遺された子の父親として、「しっかりしなければならない」という強迫観念が、彼を冷たい緊張の檻に閉じ込めていた。

 出棺の時も、火葬場の空へ吸い込まれていく薄い煙を見上げる時も、基樹はただ奥歯を噛み締め、真っ直ぐ前だけを見つめていた。その隣で、舜一が同じ空を、言葉もなく見つめていることだけが、彼を現世に繋ぎ止める唯一の錨だった。

 *

 すべての儀式が終わり、親族たちもそれぞれの帰路についた。
 祭壇に飾られた結子の遺影だけが、静まり返ったアパートのリビングに白く浮かび上がっている。激動の三日間を終え、ようやく深い眠りに落ちた直樹を寝かしつけ、舜一が寝室から戻ってきた。

「直樹くん、寝たよ」

 ソファに力なく座り込む基樹に、舜一が静かに声をかける。

「……ありがとう、舜一。本当に、何から何まで……。お前がいなかったら、俺……」
「いいんだ。俺たちは、友達だろう」

 舜一がキッチンから持ってきた水のグラスを差し出し、二人の指先が触れ合う。その微かな熱に触れた刹那、基樹の中で張り詰めていた最後の一線が、音を立てて断ち切れた。

「……っ、あ……、……」

 最初の一滴が零れると、もう止められなかった。
 喪主として、父親として、一度も周りに涙を見せずに耐え抜いた三日間。いや、事故の知らせを受けてからのすべての絶望が、濁流となって溢れ出した。基樹は顔を覆い、子どものように声を上げて泣いた。情けないほどに、肺の中の空気をすべて吐き出すように。

「結子……っ」
「うん……」
「結子が、いないなんて。舜一。明日から、どうすればいい? 俺一人で、あいつのいないこの部屋で……ッ」

 嗚咽が言葉を分断する。
 崩れ落ちそうな基樹を、舜一は何も言わずに抱き寄せた。折れそうなほど強く、その肩を自身の胸へと閉じ込める。

「……うん、泣けばいい。我慢しなくていい、基樹」

 舜一の低い声が、鼓膜を震わせる。
 基樹は舜一のシャツの胸元に顔を埋め、その温もりに縋りついた。十年前のあの日、自ら突き放したはずの手が、今は自分を世界で一番優しく包んでいる。

 夜が明けるまで、舜一は一度も腕を解かなかった。基樹が泣き疲れ、その胸の中で泥のような眠りに落ちるまで、彼は静かに、ただ一晩中抱きしめ続けていた。


 翌朝の光は、残酷なほどに透き通っていた。
 東京での急ぎの案件を抱える舜一は、夜明けとともに身支度を整えていた。ネクタイを締め直し、仕事の顔に戻っていく彼を、基樹は複雑な思いで見つめる。

「本当にありがとう。……お前がいなかったら、俺、今頃どうなっていたか分からない」

 玄関先で、基樹は力なく笑って見送りの言葉を口にした。まだ眠りから覚めたばかりの直樹が、不安を察知したのか基樹の足にしがみついて離れない。舜一は無機質な手つきで眼鏡のブリッジを押し上げ、短く頷いた。

「気にするな。……じゃあ」
「……ああ」

 舜一が背を向け、一歩外へ踏み出した。その背中が遠ざかろうとした瞬間、基樹の胸に耐え難いほどの孤独と、冷たい恐怖が濁流となって押し寄せた。
 このドアが閉まれば、世界は再び静止する。結子のいない、色のない、音のない、幼い息子と二人きりの果てしない日常に取り残される。

「舜一!」

 無意識に、基樹はその広い背中に向かって声を絞り出していた。
 舜一が足を止め、ゆっくりと振り返る。その理知的な瞳と視線がぶつかった。

「……お前が、ずっとここにいてくれたらいいのにな」

 口にしてから、血の気が引くのを感じた。

「基樹……?」

 困惑したように眉を寄せる舜一を見て、基樹は慌てて乾いた笑い声を漏らす。

「な、なんてな。ごめん、冗談。……今の、忘れてくれ。仕事、大変だろ? 気を付けて帰れよ」

 基樹は力なく手を振り、おどけて見せた。あまりに身勝手で、あまりに子どもじみた甘えだ。東京で華々しいキャリアを築く親友を、田舎に引き留める道理なんてどこにもないのだ。

 しかし、舜一は笑わなかった。
 彼は基樹を射抜くようにじっと見つめ、何かを深く、深く吟味するように沈黙した。

「……少し、時間をくれ」

「え?」

 聞き返そうとした基樹の言葉を遮るように、舜一は静かに、だが拒絶を許さないトーンで続けた。

「……仕事の整理をつける時間を」

 そう言い残すと、舜一は今度こそ迷いのない足取りで去っていった。
 残された基樹は、その言葉の真意を測りかねたまま、遠ざかる車のエンジン音を聞いていた。
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