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失った記憶はどんな色?
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ケンカのきっかけは、いつもほんの些細なことだった。 部屋が散らかっているとか、スマホの音がうるさいとか、言い方が少しきつかったとか―― そんなことで、火がつく。
今回も、いつも通りのケンカだった。 付き合っていても、自分たちはケンカばかりだ。
「うるせえっ…!」
拓海(たくみ)は、苛立ちを隠さず桐吾(とうご)を睨みつける。
「てめえっ、いい加減にしろよ…!」
「もう、別れる…!」
「……っ、ああそうかよ、勝手にしろ…!」
売り言葉に買い言葉。 お互いにイライラして、つい口にしてしまった言葉。 本心じゃないことくらい、わかっている。 でも、感情が先に出てしまう。
これまでも、何度もこんなやり取りをしてきた。 そのたびに、どちらからともなく妥協して、 拓海が桐吾の好きなコンビニスイーツを買ってきたりして、 何となく元に戻る。 少しずつ、お互いに歩み寄れるようになったと思っていた。
だから、今回もそうなると思っていた。 ケンカして、冷静になって、また笑い合える―― そう信じていた。
でも、今回は違った。
***
気がつくと、そこは真っ白な天井だった。 風に揺れるクリーム色のカーテンが、ぼんやりと視界に映る。
(どこだ……ここ……? 病院……?)
「っ……」
頭がガンガンと痛む。 体を動かそうとしても、思うように動かない。 まるで自分の体じゃないみたいだった。
「おい、大丈夫か……?」
声がして、誰かが桐吾の顔を覗き込んだ。 心底心配そうな顔――それは、シェアハウスで同室の、拓海だった。
「ああ……大丈夫だ……」
そう答えると、拓海は「はあ~っ」と大きく息を吐いて、 安堵の表情を浮かべながら、桐吾の胸に顔をうずめた。
その距離の近さに、桐吾は思わず目を見開いた。
いつもなら、罵倒されて「バカ」「アホ」と罵詈雑言を浴びせられるような関係なのに―― 一体、どうしたというのか。
拓海は、顔をうずめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……心配させんなよ……」
そして、顔を上げると、上目遣いでじっと桐吾を睨んだ。 その目は、怒っているようで、泣きそうなようで、なんとも言えない表情だった。
「……なんだよ、その顔」
桐吾がそう言うと、拓海はぷいっと顔をそらした。
「調子狂うんだよ……お前が意識失うとか、らしくねえし……」
「……てめえ、熱でもあんのか……?」
桐吾がぼそりと呟くと、拓海は「え……?」と間の抜けた声を返した。
「なんか、近くねえか……?」
その言葉に、拓海の顔が一瞬だけ強張ったように見えた。 目をそらすように、ゆっくりと身体を起こすと、 「なんで……?」と、小さな声で呟いた。
「……あ?」
「んでもねえよ……。大家さんに電話してくるわ……」
「あ、ああ」
そのとき、拓海の顔が一瞬だけ泣きそうに見えたのは――気のせいだったのだろうか。 けれど、拓海はそれ以上何も言わず、やけに静かに部屋を出ていった。 いつものような毒舌も、皮肉もなかった。
桐吾は、ぼんやりと天井を見つめながら、どうしてこうなったのかを思い出そうとした。 けれど、記憶は曖昧で、頭が痛むだけだった。
医師に聞いたところ―― 桐吾は、道路に飛び出した子どもを助けようとして、 バイクと衝突し、頭を強く打ったらしい。
意識を失ったまま救急搬送され、検査のため入院することになった。 幸いにも命に別状はなく、異常がなければすぐに退院できるとのことだった。
*
大学進学を機に、桐吾はシェアハウスに入居した。 一人暮らしには漠然とした不安があったし、大学の近くにあるその物件は、家賃も手頃で、何より「誰かがいる」という安心感があった。
もちろん、男ばかりの空間はまずまずむさくるしかった。 風呂上がりにタオル一枚でうろつくやつもいれば、冷蔵庫の中のプリンを勝手に食べるやつもいる。 だが、桐吾自身も女っけのない生活を送っていたので、特に気になることはなかった。
――ただ一つ、気になることと言えば。 同室になってしまった拓海の存在だった。
拓海は、桐吾とはまるで真逆の人間だった。 金髪にゆるくウェーブをかけ、耳には軟骨までピアスが光る。 派手な柄物のシャツばかりがクローゼットに並び、香水の匂いは常に部屋に漂っていた。 見た目も言動も、いわゆる“チャラ男”そのもの。 女をとっかえひっかえしているようで、夜遅くに香水の匂いをまとって帰ってくることもしばしばだった。
とはいえ、シェアハウスには「外部の人間を連れ込まない」という鉄壁の掟があり、拓海の彼女が部屋にいるなんてことは一度もない。 それだけは、ありがたかった。
意外にも、部屋の掃除をこまめにするのは拓海の方だった。 桐吾はというと、基本ずぼらで、靴下やパンツを床に放置する癖がある。 それが原因でケンカになったのは、一度や二度ではない。
「靴下放置すんなって言ってんだろ!」
「てめえはオレのおふくろかよ?!」
「はあ?!お前がちゃんとしねえからだろ!くせーんだよ!!」
「てめえの香水の方がくせえだろ!!」
「いい匂いがわかんねえのかよ、鼻腐ってんじゃねえの?」
「うるせえ、鼻は生きてんだよ!」
言い合いは、いつもこんな調子だった。 口を開けば罵り合い。 最初は本気で嫌いだった。 こんなめんどくさいやつと同室なんて、最悪だと思っていた。
でも、だんだんと人となりがわかってくるにつれ、 好きとまではいかないが、気にならなくなってきた。
拓海は、ブツブツと文句を言いながらも掃除機をかけてくれる。 桐吾が風邪をひいたときには、何も言わずにポカリを買ってきて、「飲めよ」とだけ言って、すぐに自分のベッドに戻っていった。
桐吾は映画なんて、これまでほとんど見てこなかった。 でも、拓海が部屋でよく観ているので、なんとなく一緒に観るようになった。 気づけば、自分の方が先に泣いていて、 拓海に「え、泣いてんの?マジ?」とぎょっとされ、 「うるせえ、目にゴミ入っただけだ!」とごまかした。
それなのに、次の日には「泣ける映画、他にもあるけど見る?」なんて言ってくる。 その言い方は軽いのに、気遣いが滲んでいて、桐吾は返事に困った。 チャラいくせに、難しそうな本を読んでいたりするから、 わからないことを聞けば、意外とちゃんと教えてくれる。 説明もわかりやすくて、少し悔しいくらいだった。
毎日の筋トレは欠かさない。 腕立て、腹筋、スクワット――黙々とこなす姿は、意外とストイックで、 桐吾は、拓海の外見だけを見て判断していた自分を、少し恥じた。 見た目や口調だけで「軽いやつ」と決めつけていたけれど、 その裏には、考えや習慣があって、 努力している部分もちゃんとあった。
最初はただの同居人。 うるさくて、面倒で、口ばっかり達者なやつ。 正直、関わるのも疲れると思っていた。
でも今は―― 拓海といることも、生活の一部だった。 朝起きて、ふわりと香水の香りがすること。 夜、映画を観ながらくだらない話をすること。 ときどき、些細なことでケンカすること。それらが、日常の中に自然に溶け込んでいた。
*
検査の結果、特に異常はなく、桐吾は何事もなく退院した。 シェアハウスに戻り、自分たちの部屋のドアを開けて「ただいま」と言うと、拓海はベッドに寝転びながら「ん…」と素っ気なく返した。
それはいつも通りの反応のはずだった。 けれど、何故か少し違和感を覚えた。 声のトーンも、目線も、どこかよそよそしい。
夕食後、皆が集まるリビングのソファには後輩の翔太と朔(さく)、そして拓海がいた。翔太と朔は何か課題をやっているようだ。拓海はだるそうにスマホをいじりながら、ソファにもたれかかっている。
「拓海さん、誰かかわいい女の子いないっすか~?紹介してくださいよ~」
翔太が甘えるように言うと、拓海は画面から目を離さずに答えた。
「オレだって彼女なんかいねえよ…」
「ぜってえウソっすよ~!いつも幸せそうな顔してるじゃないっすか~!その幸せ分けてくださいよ~!」
「はあ?違ぇし…!!」
拓海が眉間に皺を寄せて否定すると、朔が横からニヤニヤしながら口を挟んだ。
「そんなこと言って、桐吾さんと付き合ってたりして…?」
「え?!桐吾さんと…?!」
翔太が目を見開いて驚くと、拓海は朔を鋭く睨みつけた。
「はあ?!んなわけねえだろ…っ!気色悪ぃ…!!」
その怒鳴り声に、リビングの空気が一瞬凍りついた。 拓海は舌打ちして、ソファから立ち上がり、無言でリビングを出て行った。
「なんだよ、ただの冗談だったのに…!怒らなくてもいいじゃん…!」
朔は顔をしかめて不満げに言い、翔太が慌ててそれを宥めていた。
その様子を見ていた先輩の悠(ゆう)が、桐吾の近くで静かに言った。
「なんだか拓海くん、機嫌悪いね…。桐吾くん、早く仲直りしてあげてね」
「え…? なんでオレ…?」
突然自分に話が飛んできて、桐吾は戸惑いながら聞き返す。 すると悠は、何も言わずに苦笑した。
その笑顔が、何かを知っているようで―― 桐吾は、胸の奥が少しざわついた。
部屋に戻ると、拓海はまたベッドに寝転がってスマホゲームをしていた。 桐吾が入ってきても、何の反応もない。 画面を見つめたまま、指だけが淡々と動いている。
「おい、拓海……」
桐吾が声をかけても、拓海は黙ったままだった。
「……なんかあったのか……?」
「はあ……?」
拓海は気だるげに顔を上げ、桐吾の方をちらりと見た。 その目は、どこか疲れているようだった。
「悠さんに、てめえと仲直りしろって言われた。事故の前、ケンカしてたか……?」
そう尋ねると、拓海は桐吾を睨んだ。
「はあ……? ケンカなんてしょっちゅうしてんだろ……」
「まあ、そうだよな……」
「わけわかんねえこと言うな、バカ……!」
そう言って、拓海は桐吾から目を逸らし、再びスマホの画面に視線を戻した。
「ああ……」
それは、いつもの憎まれ口だった。 いつもの拓海のはずだった。
けれど、何故か違和感が残った。 言葉の端々に、どこか力がない。
何かがおかしい。 でも、何がおかしいのかは、はっきりとはわからなかった。
*
ただ―― 桐吾が退院してから、拓海は夜に眠れなくなった。 ご飯もほとんど喉を通らないようで、食卓に座っても箸が進まない。 日に日に、元気を失っていくのが、見ていてわかった。
顔色は悪く、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。 いつもならうるさいくらいに喋るのに、最近は口数もめっきり減った。 笑うことも、ほとんどなくなった。
それでも、拓海は何も言わない。 桐吾が何かを聞いても、いつもの調子で突っぱねるだけだった。
「……お前、最近寝てねえだろ?」
「寝てるよ。目、閉じてるし」
「それ、寝てるって言わねえだろ」
「うるせえ。てめえには関係ねえ」
「……なんで眠れねえんだよ?」
「知らね……」
その言葉に、桐吾は顔をしかめる。
拓海は、何かを隠しているように―― いや、何かを抱え込んでいるように見えた。
夜、ベッドに寝そべる拓海の背中は、いつもより小さく見えた。 映画はついているのに、目は画面を見ていない。 ただ、ぼんやりと空間を見つめているようで。
桐吾は、胸の奥に小さな不安を抱えながら、 拓海の背中を黙って見つめていた。
「……なあ」
「ん?」
「なんかあったなら、言えよ」
「別に。何もねえし」
「嘘つけ」
「……てめえには関係ねえよ」
「……なんで」
「言ってもどうせ無駄だ」
その言葉に、桐吾の胸がぎゅっと締めつけられた。 何を抱えているのかはわからない。
その背中に、手を伸ばしたくなる。 でも、触れてはいけないような。 桐吾は、ただ黙って隣に座った。
何かの映画の音だけが、静かに部屋に流れていた。
2
バイトの後、シャワーで汗を流した桐吾は、喉が渇いて水を飲もうとキッチンへ向かった。 すると、ちょうどそこにいた先輩の高臣に呼び止められた。
「桐吾、シュークリームあるけど食うか?」
「マジすか?!」
桐吾は目を輝かせた。冷蔵庫を開けると、コンビニの期間限定シュークリームが入っている。 パッケージには、桐吾が好きなブランドのロゴがしっかりと印刷されていた。
「あざっす!」
袋を開けて、大きな口でかぶりついたその瞬間―― 高臣がぽつりと呟いた。
「それ、拓海が買ってきたんだ。『間違えた』とか言ってたけど、桐吾のためだよな」
「……?」
あ、まただ。 また、あの“違和感”が胸に引っかかる。
「またケンカしたのか? 最近ケンカすると、拓海は桐吾に何か甘い物買ってくるよなぁ。拓海、元気ないしさ。早く仲直りしろよ…?」
「……」
悠もそうだった。 今度は高臣まで、そんなことを言う。
どうしてみんな、仲直りとか言うんだろう? オレたち、別に――
「どうして、仲直りとか言うんすか…? オレたち、別に仲いいわけじゃ……」
「どうしてって、お前たち付き合ってるだろ?」
「付き合っ……て、どこに……?」
「じゃなくて、恋人だろ?」
「んえっ? こ、こいび…っ!?」
思いもよらぬ高臣の返答に、桐吾は驚きすぎてシュークリームを喉に詰まらせ、むせた。
「だ、大丈夫か?」
高臣が慌てて水を差し出す。 桐吾はそれを受け取りながら、頭の中が真っ白になっていた。
恋人――? オレと拓海が……?
そんなこと、知らない。 好きだなんて言われたこともない。拓海からも、誰からも。 むしろ嫌われているだろう。じゃあなぜ、高臣は、そう思っているのか……?
「大丈夫か…?まあ、俺には隠さなくていいって…」
高臣は、どこか“わかってるから”というような苦笑を浮かべながら言った。
「桐吾が事故ったって聞いて、拓海は真っ青になって病院に飛んでったよ。桐吾が目を覚ますまで、ずっと傍にいて離れなくて。……愛されてるな、桐吾」
「え……それって、何かの冗談、すか……?」
「は……?」
高臣は首を傾げた。
「いや、だって……アイツ、オレのこと嫌って……」
「ここ1カ月くらい、拓海とずっとくっついてるだろ?一緒にどっか出かけたり、ケンカしてもこうやって甘い物買ってきて仲直りしてるし。三谷さんなんか、『拓海があんまりゲームに付き合ってくれなくなった』ってぼやいてたぞ」
「……」
桐吾は、眉間に皺を寄せた。 あまりにも知らないことばかりだった。
「わ、わかんないっす……」
「え? なんで……?」
「この前、頭打ったときから……なんかおかしくて……」
「ん……? どういうことだ……?」
「そんな記憶……全然ないっす……」
「え……?!」
高臣は目を見開いた。
「何それ……? 記憶喪失ってやつ……?」
桐吾は、困ったように首を傾げた。
「わかんないっす……でも、高臣さんが言ってることが、オレの中では全然わからなくて……。拓海とそんなに仲良かった記憶もないし、出かけた覚えもないし……」
高臣は、しばらく黙って桐吾の顔を見つめていた。 その表情には、驚きと戸惑い、そして不安が混ざっていた。
「なんか、おかしいなとは思ってたんすけど……オレの気のせいかと思って……」
桐吾がぽつりと漏らすと、高臣は長いため息をついた。 話をしながら整理してみると、どうやら桐吾はこの1ヶ月ほどの記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。
よくもまあ、それを「気のせい」で済ませていたものだ――と、高臣は呆れながらも、桐吾を責めることはしなかった。
「そのこと、拓海は知ってるのか……?」
「わかんないっす……」
「そうか……」
高臣は何やら神妙な顔をして、それっきり黙り込んだ。 キッチンの静けさが、妙に重く感じられる。
桐吾は、冷たい水を一口飲みながら、頭の中を整理しようとした。 けれど、考えれば考えるほど、混乱は深まるばかりだった。
(アイツと、付き合っていた……? 男同士なのに……? どうしてそうなった? アイツはオレのことを嫌っていたはずなのに……? 何かの間違いじゃないか?)
記憶がないという事実よりも、 その“記憶の中で起きていたらしいこと”の方が、よほど衝撃だった。
拓海のあの態度。 周囲の反応。 そして、このシュークリーム――
全部が、今の桐吾にはまるで別世界の出来事のようだった。
(……オレは、本当に拓海と、そんな関係だったのか?)
わからない。 けれど、確かに何かが起きていた。 それだけは、間違いなかった。
桐吾が退院してから、拓海は何事もなかったかのように振る舞っている。 いつも通りの憎まれ口、いつも通りの素っ気ない態度。
唯一、違っていたのは――病院で目を覚ましたとき。 あのときだけ、拓海は妙に距離が近かった。 胸に顔をうずめて、泣きそうな顔で「心配させんなよ」と言った。
その時の拓海の表情と仕草は、確かに“恋人だ”と言われれば合点がいく。 あの距離感、あの目の揺れ―― 今まで見たことのない拓海だった。
悠が「早く仲直りしてあげてね」と言ったことも、 その言葉の意味がようやく理解できた。 少なくとも高臣と悠は、ふたりが付き合っていると思っていた。 それは、きっと事実だったのだろう。
でも――納得できないのは、今の拓海の態度だった。
まるで、何もなかったかのように振る舞う。 桐吾が記憶を失っていることに気づいているのか、いないのか。 それとも、気づいていて、あえて触れないようにしているのか。
拓海は、何も言わない。 何も聞かない。 ただ、いつものように、不機嫌そうにしているだけだ。
(……なんで、何も言わないんだよ)
桐吾の胸の奥に、じわじわと疑問が広がっていく。 記憶が戻らないまま、拓海との距離だけが、どこか宙ぶらりんのままだった。
自室に戻ると、拓海はだるそうにベッドに寝転び、スマホをいじっていた。桐吾は、ふとその整った横顔を見つめる。 付き合っていたと言われても、何も思い出せない。 それでも、どこか胸がざわつく。
「なあ……」
「ん?」
「シュークリーム、食った」
「ああ……」
拓海はちらりと桐吾の方を見て、すぐに視線をスマホに戻した。
「てめえが買ってきたんだろ?」
「間違えただけだ……」
会話はそれきり途切れ、部屋に沈黙が流れる。 桐吾は、先ほど高臣に聞いた話が本当なのか、確かめたくて口を開いた。
「なあ……」
「んだよ……」
「お前は、オレが好きなのか?」
「は……?」
「オレと付き合ってるのか……?」
拓海の手が止まり、スマホから顔を上げて桐吾を睨み上げる。
「……何バカなこと言ってんだよ……」
「なんか、事故って記憶が飛んでるらしくて……高臣さんに色々聞いた……」
「ちっ……高臣のやつ、余計なこと言いやがって……」
拓海は舌打ちし、スマホを放り出すと、のろのろと身体を起こした。 その動きは、どこか重たく、言葉を選ぶようだった。
「ちげーよ。もう別れた……」
「……っ」
その言葉に、桐吾の胸に何かがチクッと刺さった気がした。 記憶にはないはずなのに、痛みだけがそこにある。 何か大切なものを失ったような、そんな感覚。
「……いつ?」
「お前が事故った日の、前の日」
「……なんでだ?」
拓海は答えなかった。 ただ、視線を逸らして、唇を噛んだ。 その仕草が、妙に苦しそうで、桐吾は息を呑んだ。
「もう、てめえには関係ねえだろ」
「いや、関係あるだろうが!なんで言わねえんだよ?!」
桐吾が怒鳴ると、拓海は黙り込んだ。 その沈黙が、逆に重くのしかかる。
「なんとか言えよ!」
「……お前さ……なかったことにしたかったんだろ……?」
拓海は俯いたまま、ぽつりと呟いた。 決して桐吾とは目を合わせようとしない。
「は……?」
「記憶なくなってんのも、忘れたかったんだろ? オレとのことなんか、全部。ケンカばっかで、うるさくて、面倒で…… お前にとって、オレはただの嫌な奴だったんじゃねえの?」
「そんなこと……!」
桐吾は言い返そうとしたが、言葉が詰まった。 ないとは言いきれない。 自分がどんな感情を持って拓海と付き合っていたのか、わからない。 本当に恋人だったという確証もない。
「付き合ったのも、単なる気の迷いだ……」
拓海の声は、静かすぎて、逆に痛かった。
「……」
桐吾は言葉を失った。 自分が“気の迷い”で誰かと付き合うなんて、そんなことあるはずがない。 それも、拓海と。
でも―― 今の自分には、何も思い出せない。 だからこそ、何も否定できない。
(どうしてオレは、コイツと付き合った……?)
「男同士で……気持ち悪ぃだろ……?」
拓海の言葉は、どこか自分自身を責めるような響きだった。 桐吾も、男同士で――ということに戸惑いがないわけではなかった。 でも、もし本当に付き合っていたのなら、それなりの理由があったはずだ。 気持ちが動いた瞬間が、確かにあったはずだ。
「ケンカばっかで、そろそろ別れようと思ってたし……。つか、もう別れてたし。だから、もういい……」
拓海は溜息をつきながら、言葉を吐き出すように続けた。 その声は、どこか諦めに満ちていた。
その言葉に、桐吾はなぜか胸の奥がざわついた。 苛立ちが込み上げてきて、思わず声を荒げた。
「よくねえだろ……!」
拓海は、驚いたように桐吾を睨んだ。だが、その瞳は涙で潤んでいた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……?!」
その声は、怒りではなく、苦しみだった。 拓海はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。 ドアが静かに閉まる音だけが、部屋に残った。
桐吾は、その背中を見送ることしかできなかった。 記憶はない。 でも、胸の痛みだけは、確かにそこにあった。
この気持ちは、何だ……? 胸の奥で、沸々と沸き立つ感情は、一体何なんだ……?
どうして「別れた」と言われて、こんなにも傷つく? 記憶がないはずなのに。 思い出せないはずなのに。 それでも、心が痛む。
忘れたくなかったんだ。 きっと、大切なものだったはずだ。 何気ない日々の中に、確かにあったはずの感情。きっとそれは、自分にとって、かけがえのないものだったはずなのに。
どうして、自分はそれを忘れてしまったんだろう。 どうして、思い出せないんだろう。 思い出せないのに、こんなにも苦しいのは、なぜなんだろう。
それから、拓海は部屋に帰ってこなくなった。
部屋は静かで、どこか空っぽだった。 いつもなら聞こえるはずのスマホのゲーム音も、 映画のセリフも、「バカ」「アホ」といった罵声も――何も聞こえない。
桐吾は、ひとりベッドに座りながら、拓海の使っていた机をぼんやりと見つめていた。
記憶にはないはずなのに、 その不在が、どうしようもなく寂しかった。
3
拓海は部屋には帰ってこない。 けれど、キッチンやリビングでは時折姿を見かける。シェアハウス内にはいるらしい。三谷の部屋に泊まってゲームでもしているのか、それとも別の誰かの部屋なのか―― 桐吾は、そんなことばかり考えてしまう。
夕飯を掻き込む手も、どこか落ち着かない。 この頃いつも、気がつくと拓海のことばかり考えている。 拓海のことばかり、目で追ってしまう。
今も――。
夕飯を食べ終えた桐吾は、リビングのソファに腰を下ろし、麦茶を飲みながらくつろぐ“ふり”をしていた。 視線の端には、拓海の姿がある。
拓海は夕飯の席に着いたものの、ほとんど食べずに皿を下げた。 その顔色は、明らかに悪かった。
「悪い。残して……」
今日の食事当番の高臣は心配そうな顔をしている。
「顔色悪いぞ。ここのところ、全然食べてないだろう……」
「ああ……でも、大丈夫……っ!」
突然、拓海が頭を押さえて座り込んだ。
「拓海……?!」
高臣の大きな声が響き、リビングにいたメンバーが一斉に振り返る。 拓海は、テーブルの端に手をつきながら、苦しそうに顔を歪めていた。
「わり……だいじょうぶ……。ちょっと貧血、かも……」
「……っ、今から病院行くか……?」
「いや、いい……」
拓海はそう言いながらも、立ち上がることができずにいた。 高臣がすぐに駆け寄り、心配そうに肩を貸す。
その姿を見て、桐吾の胸がぎゅっと締めつけられた。
桐吾は、居ても立ってもいられなかった。 飲みかけの麦茶をテーブルに置き、拓海のもとへ駆け寄ると、その身体を抱き上げた。
思っていたよりも、ずっと軽かった。 元々痩せているが、最近さらに細くなった気がする。 腕も、背中も、骨ばっていて――触れるだけで心配になるほどだった。
「なっ?! 離せ…! くそっ!」
「おいっ…、暴れんな…!」
拓海は腕を突っ張り、足をジタバタさせて、なんとかして降りようとする。 その抵抗は、必死だった。
「っ、オレに、触んな…っ!!」
怒鳴り声とともに、拓海の拳が桐吾の頬を打った。
「痛って…! 何すんだ?! 調子悪いんだろ…?! 部屋まで我慢しろ…!」
桐吾が怒鳴り返すと、拓海の目に涙が滲んだ。
「ひっ……嫌だっ! 離せっ! てめえと同じ部屋は嫌だ…!」
「んだと…?!」
その言葉に、桐吾の胸がズキリと痛んだ。 拒絶の言葉が、鋭く突き刺さる。
「…おい桐吾、危ないから一回降ろせって…!」
高臣が宥めるように声をかけたその時、桐吾の背後から、誰かがそっと肩を叩いた。
「桐吾くん……僕のところで拓海くんを休ませるから、降ろして」
悠だった。 その声は静かだったが、目は真剣だった。
「え? でも……」
桐吾は、自分たちの部屋まで拓海を連れて帰りたかった。 けれど、悠に「大丈夫だから。ね?」と言われ、しばらく迷った末に、「うす……」とだけ言って、拓海をそっと下ろした。
悠は、拓海の身体を優しく抱きしめ、背中をポンポンと擦る。すると、拓海はまた泣きそうな顔をして、悠に縋りついた。
「拓海くん、行こうか」
高臣と悠に身体を預け、拓海はそのままリビングを後にした。
「拓海……!」
桐吾は、思わず呼びかけた。 いつ、帰ってくる? そう、聞こうと思って近づいたその瞬間――
「触んな…!!」
拓海の鋭い声が、桐吾を一蹴した。
その場に残ったのは、静かに宥める悠の声だけだった。
「拓海くん、行こう……」
桐吾は、ただその背中を見送るしかなかった。 手を伸ばすことも、言葉をかけることもできずに。
悠の部屋に拓海が連れて行かれてから、桐吾は居ても立ってもいられなかった。 少しでも自分にできることはないか――そう考えて、拓海がよく飲んでいる炭酸水と、少しでも食べられるならと思いフルーツゼリーをコンビニで買ってきた。
(これを渡すだけだ……)
そう自分に言い聞かせながらも、心は落ち着かなかった。 どうしてこんなに拓海のことが気になるのか、自分でもわからない。
(放っておけばいいのに……)
そう思っても、気になって仕方がない。
コンビニの袋を手に、悠の部屋の前まで来ると、 中から静かな声が聞こえてきた。
「拓海くん、無理しないで」
「何が……?」
「泣いていいよ……」
「……っ!」
悠のやさしい声が、ドア越しに響く。 桐吾は、ノックしようとした手を止めた。
しばらくすると、嗚咽が聞こえてきた。 泣きじゃくるような、苦しげな声。 それが拓海のものだとすぐにわかった。
「うん、辛いよね」
「…っ……うう……っ」
「誰だって、忘れられたら、辛いよ。 それが、大切な人だったら、なおさら」
こんなふうに泣く拓海を、桐吾は今まで見たことがなかった。 いつも強気で、口が悪くて、誰にも弱さを見せない拓海。その拓海が、今、泣いている。
想像するだけで、胸が締め付けられた。
「あいつは、忘れたかったんだ! ……オレのことなんて、全部……!」
「それは、わからないよ。 桐吾くんも、きっと混乱してる。 記憶を失っても、心まで消えるわけじゃないよ」
「わかるよ! あいつのことは……! 元々、オレのことを好きで付き合ってくれたわけじゃない! もうオレのことなんか、どうでもいいんだ……!」
拓海の声は、怒りと悲しみが混ざり合っていた。 その叫びは、まるで桐吾と、そして自分自身を責めるようで、聞いているだけで胸が痛くなる。
「拓海くん……」
悠の声が、少しだけ揺れた。 それでも、優しさを失わずに、そっと言葉を続ける。
「今は、少しゆっくりしよう? 泣いてもいい。怒ってもいい。 でも、ちゃんと気持ちを整理する時間が必要だよ」
「……っ………っ」
沈黙の中に、拓海の呼吸が震えているのがわかった。 その静けさが、逆に感情の深さを物語っていた。
「まだ、桐吾くんのこと、好きなんでしょ?」
その言葉に、拓海は何も答えなかった。 けれど、返事の代わりに、微かな嗚咽が聞こえた。 涙に濡れた声が、ドア越しに響く。
桐吾は、その言葉の続きを聞くことができなかった。 ドアの向こうで、拓海がどんな顔をしているのか―― 想像するだけで、胸が苦しくなる。
手に持っていたコンビニの袋を、そっとドアノブにかける。それだけしかできない自分が、もどかしかった。
その場を離れながら、桐吾は先ほど抱き上げた拓海の身体を思い出していた。 あの細くて軽い身体。 腕の中で暴れながらも、力が入っていなかった。 殴る力も全力ではなかった。ただでさえ痩せているのに、最近は目に見えて痩せている気がする。 夜も眠れていないらしく、目の下のクマもひどかった。
(オレが……忘れたせいか……?)
自分の記憶が、誰かをこんなにも傷つけていた。 その事実が、桐吾の胸を締めつける。
どうして自分は、拓海との記憶を失ってしまったんだろう。 どうしてぽっかりと抜け落ちてしまったんだろう。
拓海の、泣く寸前の顔が頭から離れない。
『じゃあ、どうしろって言うんだよ……?!』
その一言が、何度も頭の中で反響する。 まるで、心の奥に突き刺さった棘のように。
(オレは……何を失ったんだ)
記憶だけじゃない。信頼も、愛情も、全部―― 自分の中からこぼれ落ちてしまった気がした。
ただ、胸の奥に残る痛みだけが、確かにそこにあった。
想像する。 自分と付き合っている拓海を。
優しくて、甘くて―― 拓海が笑っている顔。 少し照れたように目をそらして、でも嬉しそうに微笑んで。 「バカかよ」と言いながら、どこか幸せそうで。 そんな拓海の姿を、頭の中で描いてみる。
本当にそんな瞬間があったのだろうか。
でも――現実は違う。
今、桐吾の目に映る拓海は、泣きそうな顔ばかりだ。 拒絶の言葉。 潤んだ瞳。 震える声。
笑っていたはずの拓海が、今は泣いて苦しそうにしている。 その理由が、自分にあるかもしれないと思うと、胸が痛む。
記憶はない。 でも、感情はある。 拓海の笑顔を見たいという気持ちは、確かにここにある。
(……オレは、拓海の何を見ていたんだろう)
その答えを知るには、もう一度向き合うしかない。 でも、今の拓海は、桐吾を拒んでいる。
それでも―― 笑っている拓海を、もう一度見たい。 その想いだけが、桐吾の胸に静かに灯っていた。
*
しばらくの間、拓海は悠の部屋にいる――そう、高臣から聞いた。 拓海の不在が続き、桐吾ひとりで過ごすにはあまりにも部屋は静かだった。 映画の音も、スマホの通知も、拓海の舌打ちも聞こえない。 その静けさが、やけに耳に残る。
拓海は大学も休み、食事も悠の部屋で済ませているらしい。 風呂も時間をずらして入っているようで、桐吾は拓海の姿すら見ることができなくなった。
バイトを終え、風呂に入り、リビングのソファに腰を下ろす。 訳もなく時間を潰している。 1人の部屋に帰りたくない。 そして、ここにいれば拓海の姿を一目でも見られるかもしれない―― そんな一縷の望みにすがっていた。
だが、もう遅い時間だ。 リビングには誰も来ない。 静かな空間に、時計の音だけが響いている。
ふと、足音が近づいてきた。 顔を上げると、高臣がやってきた。
「桐吾? どうした……?」
高臣は驚いたように声をかけながら、冷蔵庫から缶ビールとチューハイを出して、桐吾の隣に腰を下ろす。
「まあ、飲めよ」
言いながら、甘いチューハイを桐吾に渡した。自分は缶ビールを開けている。
「あざっす……」
「眠れないのか……?」
「いや、そんなんじゃないっすけど……」
「お前まで体調崩すなよ……」
高臣は苦笑しながら言った。 その声が、少しだけ心に沁みた。
「……あの」
「ん?」
「拓海は、元気っすか……?」
桐吾は、少し迷いながらも口にした。悠と高臣は同室だ。桐吾も拓海のことが心配だった。 でも、また拒絶されたらと思うと、会いに行くのはどうしても躊躇われた。
「んー……どうかな……」
高臣は困ったように笑い、言葉を濁した。
「今は少し、時間が必要なんじゃないか……?」
「そっ、すか……」
桐吾は、ぽつりと答えた。 その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
時間が必要―― それは、わかっている。 でも、待つだけでは何も変わらない気がして、何もできない自分がもどかしい。
拓海の不在が、こんなにも苦しいとは思わなかった。
しばし沈黙が流れた。リビングの時計の針が、静かに時を刻む。 やがて、高臣が口を開いた。
「桐吾は、拓海のこと……どう思ってるんだ?」
桐吾は、少し考えてから答えた。
「心配……です……」
「うん」
「あと、……」
「うん?」
「なんか……イライラするっす」
「拓海のことが?」
「いや……」
桐吾は、言葉を詰まらせて、項垂れた。 自分でも、何にイライラしているのか、はっきりしない。
「……高臣さんに付き合ってるって聞いた日、拓海に『付き合ってたのか?』って聞いたら、『別れたから、もういい』とか言われて……。それなのに、あんなに痩せてて、泣いてて……。そんなあいつを見たくねえっす……。オレもどうしていいかよくわかんねえし」
「うん」
「なんか、すげえ……イライラする……」
言葉にしてみると、胸の奥に溜まっていた感情が少しずつ形になっていく。 それは、拓海を思う気持ちと、どうしていいかわからない自分への苛立ち。
高臣は、少しだけ目を細めて十座を見つめた。
「へえ……。桐吾は、どうしたいんだ?」
その問いに、桐吾は顔を上げた。 目は真っ直ぐで、少しだけ迷いながらも、はっきりと答えた。
「どうって……あいつが笑ってくれるなら……オレができることなら、なんでもしてやりたい……って……思う、けど、あいつはそれを望んでないかもしれない……」
言いながら、顔が熱くなるのを感じた。 自分でも、こんなことを言うなんて思っていなかった。 でも、口にしてしまった言葉は、嘘じゃなかった。
高臣は、そんな桐吾を見て、優しく笑った。
「な、なんすか……?」
「いや、今の気持ち、ちゃんと拓海に伝えてみな。俺が掛け合ってみるから」
その言葉は、静かだけど、力強かった。
(伝える……オレが……?)
まだ迷いはある。 でも、今のままでは何も変わらない。 拓海の涙も、痩せた背中も、見ているだけでは救えない。
桐吾は、拳をぎゅっと握った。
4
次の日、高臣が悠に話をしてくれて、桐吾は拓海と会えることになった。 部屋の入口で、悠に肩をそっと叩かれた。
「桐吾くん、拓海くんをお願い……」
その声は、優しくも真剣だった。桐吾は小さく頷き、部屋の中へと足を踏み入れた。
「出ていけ」
拓海は、開口一番そう言った。 悠の部屋の床に布団を敷いて寝ていた拓海は、目が真っ赤に腫れていた。 泣いていたのだろう。 前よりもさらにやつれて見えて、桐吾の胸が痛んだ。
「話、聞いてくれ……」
桐吾がそう言うと、拓海はしんどそうに身体を起こし、深く溜息をついた。
「オレは話すことなんてねえ……」
それでも桐吾は、拓海の傍に腰を下ろした。 距離は少しだけ近い。 それでも、拓海は目を合わせようとしない。
「なあ……帰ってきてくれねえか……?」
「はぁ……?」
拓海は眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠さずに返す。
「オレと……やり直せねえか……? てめえのこと、何とかしてえ……」
「……」
「てめえの泣いてる顔とか、体調崩してんの、見てらんねえ……」
拓海は鼻で笑った。
「んだよそれ、同情か……?」
「違う。お前が『別れた』って言ったとき……なんか嫌だった。俺は、別れたくねえ……」
その言葉に、拓海は俯いた。 唇を噛み、しばらく黙ったまま―― そして、ゆっくりと首を横に振った。
「嫌だ……」
「なんでだ……?」
桐吾の問いに、拓海は答えない。 ただ、肩を震わせながら、視線を落としたまま沈黙を続ける。
その沈黙が、何よりも苦しかった。 言葉にならない想いが、ふたりの間に重く漂っていた。
しばらくの沈黙の後、拓海はぽつぽつと口を開いた。
「……てめえは、『付き合ってた』って聞いて勘違いしてるだけだ。何を想像してんのか知らねえけど、オレたちの関係は『恋人』なんて言えるもんじゃなかった……」
「ウソだ……」
桐吾が即座に否定すると、拓海は鋭く睨み返した。
「ウソじゃねえ! 付き合ってもケンカばっかだし、別れるとか言ったら、てめえは『好きにしろ』って言うし…… オレのことなんか、何とも思ってなかったんだろ……!」
「違う……!」
じゃあ、この気持ちは何なんだ。 胸が苦しくて、拓海のことばかり考えてしまう。 笑ってほしいと思ってしまう。忘れていたはずなのに、こんなにも惹かれてしまうのは、どうしてだ。
拓海の細い肩が震えていた。 瞳には涙が溜まり、俯いたまま、またゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……どうせ、別れるつもりだった。 男同士だし、どっちみち上手くいくわけねえ……。 大学卒業したら、このシェアハウスも出ていく。それでサヨナラだ。 もう連絡もしねえ。だから……もう、オレに構うな……」
その言葉に、桐吾の中で何かがプツンと切れた。
(どうして……)
拓海は、頭がいい。だからこそいつも自己完結しようとする。全部自分で決めつけて、誰の意見も聞かずに、桐吾の前からいなくなろうとしている。 それだけは、どうしても許せなかった。
桐吾は拓海の胸倉を掴み、怒鳴った。
「ふざけんなっ……!! バカにしてんのか……?!」
「……あぁ?!」
拓海は顔を上げ、潤んだ目で桐吾を睨み返す。
「いつもそうだ!全部自分で決めつけて、オレの話なんて聞いてくれねえ!お前が逃げてんだろ……!!」
「逃げてねえし……!!」
ほら、また泣きそうだ。 そんな顔、見たくないのに―― 見てしまうと、どうしようもなく胸が痛む。
「オレのことが好きなんだろ……?!」
その瞬間、バシッと乾いた音が響いた。 桐吾の頬に鋭い痛みが走る。 拓海の手が、衝動的に振り上げられたのだ。
衝撃で、桐吾の手は拓海の胸倉から離れた。
「お前のせいだっ……!!!」
拓海の目から、何かが決壊したように、涙がボロボロと零れ落ちる。 手で顔を拭っても、次から次へと溢れて止まらない。
「全部、全部……お前のせいだ……! お前が忘れたせいで、こんな……こんなはずじゃなかったのに……っ」
震える唇。 崩れ落ちそうな声。 桐吾のせいで、こんなにも壊れそうになっている拓海。
桐吾は、思わず拓海の肩を抱き寄せた。
「……忘れて、悪かった……」
「……ちょ、離せ……っ!」
拓海は腕を突っ張り、力なく抵抗する。 でも、桐吾は離さなかった。
「てめえが泣いてるの、もう見たくねえ。 忘れても、気持ちは残ってる。別れたくねえ。だから、もう一度……やり直したい」
拓海は、桐吾の胸の中で震えながら、 それでも、ほんの少しだけ―― その腕の温もりに、身を委ねていた。
「泣くな……」
「……っ」
「てめえが泣くの、見たくねえ」
「んだよそれ……! 見なきゃいいだろっ……!」
「でも、気になってしょうがねえ……」
「……嫌だっ……!」
拓海は抵抗する。 けれど、桐吾はそっと拓海の涙を指で拭った。 嫌がる拓海の顔から、次々と涙が溢れてくる。 止めようとしても、止まらない。
「放っとけねえんだ……」
「……っ、……やめろって……!」
「オレが傍にいてやりてえ……」
ああ――やっと、分かった。 この感情の正体が。
「離せ……っ!」
拓海の声が震える。 それでも、桐吾は静かに言葉を重ねた。
「てめえが好きだ……」
拓海は目を見開いた。 その瞳に、驚きと戸惑いが浮かぶ。
桐吾は、一層強く拓海の身体を抱きしめた。 逃げられないように、でも壊さないように。
「ウソだ……」
拓海が呟く。
「ウソじゃねえ……」
桐吾は、まっすぐに答えた。
しばらく拓海は泣き続けた。 肩を震わせ、声を殺して、涙を流した。 そして、少しだけ落ち着いた頃―― ぽつりと、言葉をこぼした。
「お前なんか……嫌いだ……」
そう言いながら、拓海の額が桐吾の肩にそっと寄りかかった。
「……ああ、それでもいいから、てめえの傍にいさせてくれ」
拓海は何も返さなかった。 でも、拒絶もしなかった。
その夜―― 桐吾に手を引かれて、拓海は部屋に一緒に帰った。ベッドに一緒に入っても、言葉はなかった。 ただ、桐吾の腕の中で、泣き疲れた拓海は静かに眠った。
その寝息が、桐吾の胸に、少しだけ安らぎをくれた。
*
「てめえの傍にいさせてくれ」―― そう言ったから、桐吾は可能な限り拓海の傍にいた。
学校やバイトから帰ると、すぐに拓海のもとへ向かう。 部屋に入るなり、荷物を置いて、拓海の隣に腰を下ろす。 自分でも、どうかしていると思う。 でも、それ以上に拓海のことが心配で、片時もひとりにしたくなかった。
拓海が今、何を思っているのかはわからない。 けれど、文句は言わない。 拒絶もしない。 ただ、静かに受け入れているようだった。
さすがにトイレまでついて行こうとしたときは――
「着いてくるな!」
と怒鳴られて、トイレの前で待たされる羽目になった。 それでも、桐吾は文句ひとつ言わず、ドアの前でじっと立っていた。
夜になると、拓海のベッドにもぐり込む。桐吾はその背中にそっと腕を回し、後ろから抱きしめて眠った。
拓海は何も言わない。 ただ、静かに目を閉じている。
時折、拓海はうなされる。 苦しそうに眉を寄せて、震える声で――
「とう、ご……」
そう呟きながら、涙を流す。
桐吾は、その声に胸が締めつけられる。 そっと抱きしめる腕に力を込めて、耳元で囁く。
「ここにいる……」
すると、拓海は少しだけ力を抜いて、安心したように眠りについた。
その寝息を聞きながら、桐吾は思う。 拓海が笑える日が、また来るように。 そのためなら、何だってする。 何度でも、傍にいる。
桐吾は、今日の食事を抱えて部屋に帰る。拓海の胃に負担がかからないようにと、高臣が気を遣って作ってくれた優しい献立。 湯気の立つスープと、柔らかく煮込まれた野菜。 ローテーブルにトレイを乗せ、桐吾は拓海に声をかける。
「飯食えるか……?」
「ん……少しなら……」
拓海が身体を起こそうとした瞬間、ふらついてバランスを崩す。 桐吾はすぐに後ろから支えた。
「……っ」
「大丈夫か? 寄っかかってろ……」
「……ん」
「食べさせてやろうか……?」
断られるかと思った。 けれど、拓海は微かに頷いた。 桐吾の手から、少しずつ食事を摂る。
スプーンを口に運ぶたびに、拓海の表情が少しずつ和らいでいく。 日に日に食べられる量も増えていき、朝まで眠れるようになってきた。 顔色も良くなり、目の下のクマも薄れてきた。
その変化が、桐吾には何よりも嬉しかった。 少しずつ、拓海が戻ってきている――そんな気がした。
*
「……散歩でも行かねえか?」
バイトが休みの日、桐吾は拓海に声をかけた。拓海は、ベッドの上で本を読んでいた。元気にはなってきたが、外に出ることはまだなかった。
「……なんで?」
拓海の声は、かすれていた。 でも、拒絶ではなかった。
桐吾は少しだけ言葉を探してから、静かに答えた。
「……気分転換になるかなって思って。 部屋の中ばっかじゃ、息詰まるだろ?」
拓海は、しばらく黙っていた。 桐吾は、無理に急かさず、ただ隣に座って待った。
「……わかった」
その言葉に、桐吾は少しだけホッとした。
拓海が外に出るのは、久しぶりだった。 夕方と言えどアスファルトの照り返しに、少しだけ眩しそうに目を細める。
「暑くねえか?」
桐吾がそう言うと、拓海は短く答えた。
「……ああ」
歩幅を合わせて、ゆっくりと並んで歩く。 無理に話しかけることはしない。ただ、隣にいることを大事にした。
それからも、大学から帰った後や、バイトが終わった夜、拓海が少しでも元気そうなら、桐吾は散歩に誘った。
「ちょっとだけ外、歩かねえか?」そんなふうに、自然に。
緑地公園を一周して、自販機でジュースを買う。ベンチに腰を下ろして、並んでペットボトルを開ける。 ただそれだけのこと。
「今日、教授にめっちゃ怒られたんだよな」
桐吾がそう話すと、拓海はペットボトルを傾けながらぽつりと返す。
「……何やってんだよ」
「レポートの締切、完全に忘れてて……」
「……そうか」
桐吾は笑いながらペットボトルを振ってみせる。 次に蓋を開けるとき、炭酸が吹き出して、拓海が眉をひそめる。
「うわ!やっちまった!」
「……」
「でも、ちょっと笑ったろ?」
拓海は何も言わなかった。 けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
いつもと違い喋るのは、ほとんど桐吾だった。 桐吾はそう喋るのは得意じゃない。だが、拓海が「ああ」とか「別に」とか、短いながらも返事をしてくれる。 桐吾はそれだけでも嬉しかった。
同じ空を見上げながら、他愛もない話をする。
「……明日も、行けそうか?」
「……たぶん」
「よし」
「……無理すんな」
その言葉に、桐吾は少しだけ目を見開いて、すぐに笑った。
「無理してねえよ」
拓海は視線を逸らす。
風が吹いて、木々がざわめく。
ある日のことだった。 緑地公園を一周した帰り道、桐吾が「そろそろ戻るか」と言いかけたとき、拓海がぽつりと呟いた。
「……もう少し、歩いてもいいか?」
その言葉に、桐吾は驚いた。 いつもなら「疲れた」と言って、すぐに帰りたがるのに。 でも、すぐに頷いた。
「ああ。ゆっくり行こう」
ふたりは、街灯の少ない裏路地へと足を向けた。 もう夜になり、店はどこも閉まっている。 人通りもなく、静かな空気が漂っていた。
しばらく歩くと、拓海がふと足を止めた。 古びた木の扉の前。 一見するとカフェとはわからないような、控えめな外観。
「ここ、前にお前と来たことがある」
桐吾は、扉の上に小さく掲げられた看板を見た。 確かに、カフェらしい。 でも、記憶にはなかった。
「……覚えてねえな」
「付き合ってたとき。 一回だけ、来た」
拓海は、扉の向こうをじっと見つめていた。 中の照明は落ちていて、店内は暗い。 でも、窓越しに見えるインテリアは、確かにカフェのそれだった。
「ここ、チーズケーキが上手いんだ」
「……お前、甘いの苦手じゃなかったっけ?」
「ここのは、食べられる。 甘すぎなくて、ちょっと塩気がある。てめえは美味そうに食べてた」
拓海の声は、どこか懐かしさを含んでいた。その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「また今度、行くか?」
その言葉に、拓海は無言で首を振った。 ゆっくりと、はっきりと。
沈黙が落ちた。 夜の風が、ふたりの間を通り抜ける。
拓海は、少しだけ顔を伏せて、静かに言った。
「……なあ、もう辞めねえか?」
桐吾は、目を見開いた。
5
「……なあ、もう辞めねえか?」
拓海がそう言ったとき、桐吾は思わず息を呑んだ。街灯の明かりが、拓海の横顔を淡く照らしていた。
「は……?」
桐吾は、聞き返すように声を漏らした。 その言葉の意味はわかる。 でも、どうしてそんなふうに言うのかが、まったく理解できなかった。
「オレの調子も戻ってきたし、こんな茶番、そろそろ終わりにしようぜ…… 」
その言葉に、桐吾は顔をしかめた。 突き放すような響き。 まるで、ふたりで過ごした時間を否定されたような気がした。
桐吾は、拳を握りしめた。 言葉を選ぶ余裕はなかった。 ただ、感情が先に口を突いて出た。
「……ふざけんなよ」
拓海が、びくりと肩を震わせた。
「茶番って、なんだよ。 お前のこと考えて、一緒に飯食って、寝て、散歩して、ベンチでジュース飲んで…… それが“茶番”か?」
「……茶番だろ?」
「どういう意味だよ?!」
桐吾の声は、少しだけ荒れていた。 でも、それは怒りというより、悲しみに近かった。
「……ずっと、お前無理してんだろ?」
「してねえよ……」
「大学の課題も忘れるくらい、オレに付き合ってるだろ……」
「……」
その言葉に、桐吾は何も言い返せなかった。 確かに、課題の提出を忘れた日もあった。 バイトのシフトをずらしたこともあった。 でも、それは“無理”じゃない。 “必要”だったからだ。
「……オレがそばにいたいだけだ」
「それが、無理してるってことだよ。わかるだろ?」
拓海の声は、静かだった。 でも、その静けさが、桐吾の胸を刺した。
「勝手に決めんなよ」
桐吾は、拓海の腕を掴んだ。 その手は、少しだけ震えていて、すぐに振り払われた。
「オレはもう……もうこんだけで……一緒にいるだけで十分だ…… 今までありがとな…。楽しかった。もうオレ、シェアハウス出ていくから…」
拓海は、目を合わさなかった。 視線は地面に落ちたまま、声もどこか遠くにあるようだった。
(まただ)
桐吾は、胸の奥に苛立ちが込み上げてくるのを感じた。 言い訳だ。 また、逃げようとしている。
(なんで、そうやって誤魔化す……? なんで、素直にならねえ……?)
拓海の言葉は、優しさのようでいて、自分から距離を置こうとしているようにしか聞こえなかった。
「オレは!」
「……」
「まだまだ“足りねえ”って思ってる。 もっと話したいし、もっとお前に笑ってほしいって思ってる!」
拓海は何も言わなかった。 ただ、唇を噛んで、目を伏せていた。 その肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
「もういいだろ…?」
「よくねえだろ?! お前だって、もっとしたいことあんじゃねえのか?!」
拓海は一瞬目を見開いた。 街灯に照らされた顔が、赤くなった気がした。
「もう、ねえよ……」
「したいこと言えよ?! 言わなきゃわかんねえだろ!!」
「……」
「お前がしたいことは何でもするから…!恋人なんだろ!」
「っ…んなこと、今までだって、したことねえよ……!」
「あ……?」
「言っただろ……? 恋人らしいことなんか、何一つしてねえって。 手も繋いだこともねえし、キスもしたことねえよ……!」
「するか……?」
桐吾の問いに、拓海はすぐに首を横に振った。
「いやだ……っ」
「なんでだ……?」
桐吾は眉間に皺を寄せる。 拓海は唇をきゅっと結び、何も答えなかった。 沈黙が落ちる。
「怖いのか…?」
桐吾が静かに問いかけると、拓海の肩が小さく震えた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「ああ、そうだよ……。怖いに決まってるだろ……! いつか絶対、別れるのに……! お前は絶対に後悔するに決まってる……。きっと、あのとき付き合わなきゃよかったって思うんだ……。だから、もうこれで十分……。ここで終わりにしようっつってんだよ……! てめえも、ちょっとは考えろよ……!」
拓海の声は震えていた。
けれど――桐吾は、拓海の言葉にカチンときて怒鳴った。
「んなこと知るか……! オレは『今』、てめえと一緒にいてえんだ。 終わりにはしたくねえ……! てめえはどうなんだよ……?!」
拓海は、また口を閉ざした。 答えを出すことができず、ただ黙っていた。 その沈黙が、夜の空気に溶けていく。
このままでは埒が明かない―― そう思った桐吾は、拓海に一歩近づき、そっとその手を取った。
「な、なんだよ……?」
拓海は目を見開き、うろたえる。 桐吾はその指に、自分の指を絡ませた。
「なにす……?!」
拓海は慌てて手を振りほどこうとする。 けれど、桐吾はその手をしっかりと握り、拓海をこちらに向かせる。
そして―― 手を壁に押し付けるようにして、 そのまま、唇を重ねた。
一瞬、拓海の身体がびくりと震える。 けれど、桐吾は離さなかった。 その唇は、優しくも強く、拓海の心を揺らした。
「やめっ…!っ…!」
拓海が声を上げると、桐吾はその柔らかい唇をついばんで、離した。
「キスしたな…」
「バカ……! お前が後悔するんだぞ……!」
拓海は睨んで怒鳴った。 目は怒りに燃えているようで、どこか怯えてもいた。
「しねえ」
桐吾は、迷いのない声でそう言った。 その言葉に、拓海は舌打ちして唇を噛む。
「くそっ……こっちが、てめえの逃げ道用意してやってんだろ……!」
「誰がそんなこと頼んだ……? オレは逃げねえ……」
「……言い訳もできねえぞ……!」
「するつもりもねえ」
ああ言えばこう言う。 桐吾の真っ直ぐすぎる言葉に、拓海はなおも食い下がる。
「なんでそんなに?!」
「お前が好きだから。オレのできることを全部やりたいだけだ。 一緒に飯食って、散歩して、映画観て、手繋いで、キスして…… てめえが望むなら、何でもする。 それが、オレの“したいこと”だ」
拓海の耳から首まで赤く染まる。
「バカじゃねえの!!」
その叫びは、怒りというより、照れ隠しのようだった。 桐吾の言葉が、あまりにも真っ直ぐすぎて、どう受け止めていいかわからなかった。
「バカでいい。 てめえの隣にいられるなら、それでいい」
桐吾はただ、真剣な目で拓海を見つめる。その目には、計算も駆け引きもなかった。拓海を想う気持ちだけが、そこにあった。
拓海は、何も言わずに目を伏せた。
桐吾は、あんまり難しいことを考えていない。 でも、考えられる限りのことを考えて、 自分にできることを全部差し出そうとしている。 その“バカなりの誠実さ”が、拓海の心を強く揺さぶった。
「……今だけだ」
拓海は、ぽつりと呟いた。 桐吾が目を見開く。
「お前が飽きるまでなら、仕方ねえから付き合ってやる」
その言葉に、桐吾は一瞬、言葉を失った。 でも、拓海は続ける。 言葉の勢いに乗せるように、次々と条件を並べていく。
「でもな、飽きたらなるべく早く言えよ。 ダラダラされんの、性に合わねえから」
「……あ、ああ」
「あと、勝手に手ぇ繋ぐな。オレが許可したときだけだ。 キスも、勝手にすんな。次やったらぶん殴る」
「……ああ?」
桐吾は顔をしかめる。 その表情には、呆れと少しの苛立ちが混じっていた。 でも、拓海は止まらない。
「それと、デートとか言って甘いもんばっか連れてくなよ。 太るだろ。人混みとか嫌いだから混んでるところもパスだ。 コーヒーは砂糖もミルクもいらねえ、いい加減オレの好みくらい覚えろ」
桐吾の眉間に、深い皺が刻まれていく。 聞けば聞くほど、条件が増えていく。 けれど――その次の言葉が、空気を変えた。
「あと……軽々しく『別れる』とか言うな……」
その声は、急に弱々しくなった。 拓海は、目を伏せたまま、言葉を絞り出すように続ける。
「……本気で別れたいときだけ、言ってくれ……、オレもそうするから……」
沈黙が落ちた。 桐吾は、目を見開いたまま、拓海を見つめる。 拓海の口から、そんな言葉が出るなんて思ってもいなかった。
こんな拓海は知らない。 強がって、突き放して、いつも余裕ぶっていたはずの拓海が、今は不安を隠しきれずにいる。
(……本当に、オレのこと好きなんだ)
その気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
「条件、多いな……」
「うるせえ。仕方ねえからだっつってんだろ。 オレが“お前と付き合ってやる”って言ってんだから、ありがたく思えよ」
拓海は、顔をそむけた。 耳まで真っ赤だった。
桐吾は、しばらく黙っていたが―― やがて、ふっと笑った。
「ああ……ありがとな」
その言葉に、拓海はさらに顔をそむけた。 耳の赤みが、首元まで広がっている。
「……くそっ」
拓海は小さく呟いた。
その夜、ふたりはシェアハウスの近くまで、手をつないだまま帰った。 夜風が少し冷たくて、でも手の温もりがそれを忘れさせてくれる。
「……離せよ」
拓海がぼそりと言った。 でも、桐吾は手を離さなかった。
「……いやだ」
「は?なんでだよ」
「離したくないから」
拓海は、言葉に詰まった。 桐吾を睨む。
「……お前、条件聞いてたか?」
「聞いてたよ。許可が出たら繋いでいいって言ったろ? 今、怒ってないってことは、許可出てるってことでいいんだよな?」
「……勝手に解釈すんな」
「じゃあ、怒ってみろよ」
「……うるせえ」
拓海は、顔をそむけた。 でも、手はつながれたままだった。
そして、シェアハウスの玄関前。 拓海は、そっと手を引いた。
「……今日は、特別だ。勘違いすんなよ」
「ああ」
桐吾は頷いて、ドアを開けた。
番外編 失われた告白
その夜、拓海は大学の仲間と飲み会があったらしく、夜遅く帰ってきた。 珍しく酔っぱらっていて、いつもなら真っ先に風呂に行くのに、服も着替えないまま床に座り込んだ。
「たらいまー…。あー、さすがに飲みすぎた…」
「……ん」
桐吾は大学の課題に四苦八苦していた。 ちらりと拓海の方を見て、また課題に目を戻す。
拓海は、ふらふらと桐吾の傍ににじり寄ってきた。
「まだ課題できてねえのかよ…?」
ニヤリとしながら、桐吾の手から資料を奪う。 かかる息は、確かに酒臭い。
「返せ…っ!てめえ、酔っぱらってんなら、早く寝ろ。オレももう寝る…」
「待て…」
資料を取り返し、立ち上がろうとした桐吾の腕を、拓海が掴んだ。
「なんだ…?」
「…あー…」
呼び止めたくせに、なかなか話し出そうとしない。 顔は赤く、目はどこか泳いでいる。 かなり酔っているのか、それとも――
「早くしろ…」
桐吾は疲れと眠気で、大きなあくびをした。
「…あのさっ、」
「あ…?」
「少しでいいから…、付き合ってくんねえか?」
「……どこにだ?」
「……ああ…、てめえならそう来るよなあ…」
拓海はうなだれ、長い溜息をついた。 そして、少しだけ顔を上げて、そっぽを向いたまま言った。
「そうじゃねえ…、恋人になってくんねえかってハナシ…」
「はあ…?」
桐吾は、思わず聞き返した。 冗談かと思ったが、拓海の手は熱く、そして微かに震えていた。 その目は、酔っているはずなのに、どこか真剣だった。
「……お前、酔ってるだろ」
「……」
「……なんでオレなんだよ」
桐吾がそう問いかけると、拓海はぴたりと口を閉ざした。 沈黙が、部屋の空気を重くする。 埒が明かない。 またいつもの質の悪い冗談か。 酔っぱらいの戯言か。それとも、シェアハウス内での罰ゲームか――そんな考えが頭をよぎる。
だが、拓海の顔は笑っていなかった。 冗談を言うときの、あの軽い目つきじゃない。 言いにくそうに、唇を動かす。
「なんつーか…、てめえのことが…かも…」
その声は、掠れていた。 『スキ』と聞こえたような気がしたが、桐吾は確信が持てなかった。 聞き間違いかもしれない。 だが、拓海の表情は冗談とは思えない。
「……お試しでいい」
「……?」
「1カ月…いや、1週間でいい…。付き合ってみて、ダメなら、きっぱり無かったことにする…」
桐吾は言葉を失った。 目の前の拓海は、いつもの自信満々な男ではなかった。 肩を落とし、視線を泳がせながら、それでも言葉を絞り出している。
「気持ち悪かったら、このシェアハウスも出ていくし…、誰にも言わねえ…。 てめえには絶対、迷惑かけねえようにする…」
そこまで言うと、拓海は唇を噛んだ。 その仕草は、見ているこちらが痛くなるほどだった。
告白は、何度かされたことはある。 だが大学とバイトに手一杯だったし、恋愛に興味もなかった。 女とも付き合ったことがないのに、男と、しかも拓海となんて――どうすればいい?
「付き合うって…どうすんだ…?」
桐吾は、思ったままを口にした。 拓海の気持ちを否定するつもりはなかったが、どうしていいかわからなかった。 “恋人”という言葉から、自分たちはあまりにも遠い。
拓海は、少しだけ目を伏せて、ぽつりと答えた。
「…別に、付き合っても、恋人っぽいことが無理そうなら、何もしなくていい…。 ただ一緒にいてくれるだけでいい…」
その言葉は、まるで祈りのようだった。 それなら、今までと大して変わらない。 けれど、拓海の顔は可哀相なほど赤く染まり、今にも泣きそうな不安げな表情をしていた。 いつもの拓海からは想像できない――その姿に、桐吾は胸がざわついた。
桐吾が驚いて黙っていると、拓海は俯いて、桐吾の腕をパッと離した。
「…なーんてな、冗談、冗談…。早く寝て、今のは忘れろ…」
声は軽く装っていたが、手が震えていた。 ぎこちない動作で桐吾と反対を向くと、背中越しに伸びをして「風呂入ってくるか~」と呟く。
その背中に、桐吾はぽつりと声をかけた。
「……別にいいぞ」
「え…?」
拓海がゆっくりと振り返る。目を丸くして、桐吾を見つめた。
気がつけば、桐吾はそんなことを言っていた。 終わらない課題と、眠気で思考が鈍っていたのかもしれない。 でも――
『ただ一緒にいるだけでいい』 そう願う拓海の言葉に、嘘は感じなかった。 むしろ、あの震える手と、今にも泣きそうな顔が、何よりも本気を物語っていた。
「……試しに付き合ってみるか?」
拓海は目を見開いたまま、しばらく言葉が出なかった。その沈黙が、まるで時を止めたように感じられた。
「マジ…?」
「……ああ」
「……ん」
拓海は、はにかむように笑った。
赤く染まった顔が、心底嬉しそうで―― その笑顔を見た瞬間、桐吾の胸が、じんわりと熱くなった。 その時、この男を―― 『愛しい』と、思ったんだ。
番外編 失われた記憶
桐吾と初めて会ったとき、 自分の「人生チート状態」は、いとも簡単に打ち砕かれた。
何でもそつなくこなしてきた。 人付き合いも、勉強も、バイトも。 努力はしてきたけれど、どこかで「自分は器用な方だ」と思っていた。
だからこそ、桐吾の存在は衝撃だった。
不器用で、大雑把で。 なのに、妙に芯がある。 変なとこ真面目で、無口で、でも根は優しい。 自分とは、まるで正反対だった。
そんな桐吾と、シェアハウスで同室になった。
最初は、ただただイラついた。 服も靴下も脱ぎっぱなし、物も出しっぱなし、本や教科書は雑に置くし、会話も必要最低限。 「もう少し気を使えよ」と何度言ったたか、わからない。
でも――気がつけば、目で追っていた。
無口な桐吾が、ふと笑った瞬間。 自分の見ていた映画を横から見て、自分より先に泣いていたり。表現は不器用で下手くそだけど、意外と優しいところ。 そのすべてが、気になって仕方なかった。
腹立たしいのに、目が離せない。 思い通りにならないのが、悔しくて、苦しくて――でも、どうしてか惹かれていた。
気がつけば、バカみたいに好きになっていた。
でも、そんなことは言えるはずもなく、ずっとひた隠しにしてきた。
大学を卒業すれば、きっとこれから、自分たちの歩む道は違ってくる。 シェアハウスを出るメンバーもいて、いずれ自分も、桐吾も、ここを離れる。 そうなれば、彼との接点は何一つ無くなってしまうだろう。
今までだって、仲が良いわけではなかった。 同じ部屋だったからこそ、関わることができた。 それがなければ、きっと話すこともなかった。
いつも自分ばかりが話しかけて、突っかかっていって。 桐吾から絡んでくることは、ほとんどない。
脈どころか、何もないことはわかっていた。 それでも――
(何か一つでもいいから…、オレのこと覚えててくれねえかな…)
そう思った。 だから、苦肉の策で、酔ったフリをして告白した。何もしないではいられなかった。
振られたら、冗談にすればいい。 「酔ってたから」って言えば、全部なかったことにできる。 それでも、少しでも自分のことを、桐吾の記憶に残せるなら――それでいいと思っていた。
『……別にいいぞ』
その言葉に、心臓が止まりそうになった。世界がひっくり返った気がした。
まさか、OKされるなんて、思ってもいなかったんだ。
*
それからの拓海は、できる限りの時間を桐吾と一緒に過ごそうとした。
朝のランニング。 「お前、意外と走れるんだな」と桐吾が言ったとき、拓海はちょっとだけ得意げに笑った。 筋トレも一緒にしてみた。腕立て伏せの回数を競って、負けると悔しそうにする桐吾が、なんだか可愛かった。
一緒にご飯を食べたり、映画を見たり。 「この映画、意味わかんなかったな」と桐吾がぼそっと言うと、拓海は「それな」と笑って、ポテチを差し出した。
一度だけ、散歩がてらチーズケーキの美味しいカフェに連れて行ったときは、桐吾が目を丸くして「……うまい」と呟いた。 その一言が、拓海にはたまらなく嬉しかった。 自分も美味しかったけれど、それ以上に、桐吾が喜んでくれたことが嬉しかった。
雨の日には、傘を持って駅まで迎えに行った。 「なんで来たんだよ」と言われても、「コンビニのついでだ」と誤魔化した。 本当は、ただ二人の時間が過ごしたかっただけ。
ゲーム仲間の三谷さんとの時間も減らして、桐吾のバイトや課題の邪魔にならないように気をつけた。
自分でも、こんな自分がいるとは思わなかった。
拓海は、桐吾に言ったとおり、恋人らしいことは何も求めなかった。 手を繋ぐことも、キスも、ハグも――一切なかった。 ただ、傍にいるだけ。
時々、ふたりで出かけることもあった。 買い物のついでだったり、大学の用事だったり。 それはデートとは呼べないものだったが、拓海にとっては十分だった。
ケンカもしょっちゅうした。 拓海が余計なことを言ったり、桐吾が無口すぎて苛立ったり。 言い合いになって、気まずい空気が流れることもあった。
そんな時、拓海はコンビニスイーツを買って、部屋に帰った。 「……これ、やるよ」と言いたいのに、喋れば涙が出そうで、結局何も言えずに黙っていると――
「……悪かった」
桐吾がぽつりと呟いた。
拓海は、はっとして顔を上げた。
「……え?」
「言いすぎた」
「……別に」
拓海はその度に安堵した。また隣にいることを許されたのだと。お試しの一週間なんてとうに過ぎて、それでも桐吾から何も言われなくて、そのまま過ごしていた。
傍から見れば、ただの男友達。 それでも、桐吾の一番近くにいられることが、この上なく嬉しかった。
(あと何日、こうしていられるんだろうな…)
そう思いながら、拓海は桐吾の隣を歩いた。 肩が触れそうで、触れない距離。 それでも、心はずっと、桐吾のそばにあった。
*
桐吾が事故に遭ったと聞いたとき、拓海はすぐに病院へ駆けつけた。 白いシーツの上で静かに眠る桐吾の姿を見て、胸が締めつけられた。 そして、桐吾が目を覚ました瞬間――拓海はすぐに悟った。
「……なんか、近くねえか?」
その一言で、すべてが崩れた。
もしかしたら、ケンカしていたから、意地を張っているだけかもしれない。 ウソかもしれない。そう思いたかった。
だが、桐吾が器用にウソをつける人間ではないことを、拓海はよく知っていた。桐吾はいつだって真っ直ぐで、不器用で、誠実だった。
だからこれは――事実だ。
あんなに楽しかった時間が、一瞬で崩れ去る。 一緒に走った朝、並んで食べたスイーツ、何気ない会話。 全部、桐吾の中から消えてしまった。
(どうせ、いつまでも続くはずはないと思ってた)
拓海は、静かにそれを受け入れた。いずれ、離れる運命だったと。
それでも、心のどこかで―― 「もしかしたら、ずっと一緒にいられるかもしれない」 そんな希望を抱いてしまっていた。
だからこそ、今――
(もう、終わりにしないとな…)
拓海は、ぽつりと呟いた。
「…大家さんに電話してくるわ」
そう言って、拓海は病室を出た。 背中を向けた瞬間、涙がこぼれそうになった。
*
「拓海、どうした? 大丈夫か…?」
部屋で映画を見ながら、ふとボーッとしていた拓海に、桐吾が声をかけた。
「……別に」
拓海は、短く答えた。
あのとき失った記憶は、今も戻らない。 桐吾は、拓海と付き合った時間をすっかり忘れてしまった。告白も、一緒に過ごした日々も、笑ったことも、喧嘩していたことも――全部。
自分で『終わらせる』と決めた。それなのに、こんなにも心と体が悲鳴をあげるなんて、思ってもいなかった。
思い出すと胸が、ぎゅっと締めつけられる。 桐吾が忘れたくらいで、息もできないほど苦しくなるなんて―― そんな自分が、情けなくて仕方なかった。
「……顔色、悪いぞ。無理すんな」
桐吾が、少しだけ眉を寄せて言った。
「……うるせえな。ちょっと寝不足なだけだ」
終わらせようとしていたときは、苦しくて、でも―― 諦めきれないほど、桐吾が好きだった。
「なあ、桐吾…」
「……あ?」
「てめえは、オレのどこが好きなんだ…?」
桐吾は止まり、拓海の顔をじっと見つめた。 目が合った瞬間、拓海は思わず視線を逸らした。
沈黙が、じわじわと重くなる。
「いや…、やっぱなんでもねえ。別にいいや…」
拓海は、慌てて言葉を打ち消した。 聞いた自分がバカだったと、後悔しかけたそのとき――
桐吾が、そっと拓海の頬に触れた。
「……なんでも器用にこなすのに」
「っ…?」
拓海は、驚いて桐吾を見た。
「時々、不器用になるところ…?」
「はぁ…?! てめえのが不器用だろっ…!」
恥ずかしさが込み上げて、拓海は踵で桐吾の脛を軽く蹴った。
「痛ぇ…っ!」
桐吾は少しだけ眉をしかめたが、すぐに続けた。
「あと、いつも澄ましてるのに… 時々、俺の前でする顔とか…?」
「……顔って、どんなだよ」
「……なんか、いつもは素直じゃねえけど、素直な顔。オレしか知らねえんじゃねえかって思うと、悪くない」
「……っ」
拓海は、言葉を失った。 胸の奥が、じわりと熱くなる。
桐吾に見られているのがわかり、拓海は思わず顔を隠そうとした。 だが、桐吾がそっとその手を止めた。
「……ああ、そういう顔。 かわいいと……思う」
「……~~~っ?!?!」
拓海は、今、自分がどんな顔をしているのか――絶対に知りたくない。 きっと情けなくて、照れくさくて、目も当てられない顔だ。
それなのに、それを『かわいい』なんて言われるなんて――
「……てめえ、何言ってんだよ…」
拓海は、声を絞り出すように言った。 けれど、桐吾は真剣な目で拓海を見つめていた。
「なあ、ここを出たら、一緒に住むか?」
「え…?」
「一緒に住むだろ?」
桐吾は、まるで当たり前のことのように言った。 その言葉に、拓海は一瞬、言葉を失った。
「…っ!だから…!てめえ、本当に逃げ道無くすぞ…!」
「逃げねえって言ってるだろ。てめえこそ、オレと離れるの無理だろ…?」
「っ…!」
「離れたら、また飯食えなくなるだろ」
「食えるし…!」
「夜も眠れなくなって、泣くだろ」
「泣かねえよ…っ!!」
「ウソつけ…」
桐吾が溜息を吐いた瞬間、拓海の肩が小さく震えた。
「ウソじゃねえよ…! 一生一緒になんて…、いられるわけねえだろ…!」
声は荒い。 でも、その奥にあるのは、恐れだった。 期待してしまう自分が怖い。 信じてしまう自分が、何より怖かった。
「でも、一緒にいてえんだろ…?」
桐吾は、静かに拓海の顔を覗き込む。 その目は、まっすぐに、拓海だけを見ていた。
拓海は唇を噛んだ。 言葉が出ない。 心が、ぐちゃぐちゃだった。
「…っ、…クソッ…!!」
そう言って、桐吾の胸を拳で叩く。 力は入っていない。 けれど、感情はこもっていた。
「痛ってえな…」
桐吾は顔をしかめながらも、拓海の身体を抱き寄せた。 その腕は、迷いなく、優しかった。
「おいっ!」
「拓海」
「んだよ!」
「……好きだ」
その言葉に、拓海は息を呑んだ。 心臓が跳ねる。 頭が真っ白になる。
拓海は、何と答えていいかわからず、口を噤んだ。 でも、桐吾の腕の中は、あたたかかった。
(コイツが飽きるまででいい。 もう少しでいい。 こうしていたい…)
「ん…」
拓海は、桐吾の胸に顔を埋めながら、小さく頷いた。 その「ん」は、照れ隠しでもあり、覚悟でもあった。
おしまい
ケンカのきっかけは、いつもほんの些細なことだった。 部屋が散らかっているとか、スマホの音がうるさいとか、言い方が少しきつかったとか―― そんなことで、火がつく。
今回も、いつも通りのケンカだった。 付き合っていても、自分たちはケンカばかりだ。
「うるせえっ…!」
拓海(たくみ)は、苛立ちを隠さず桐吾(とうご)を睨みつける。
「てめえっ、いい加減にしろよ…!」
「もう、別れる…!」
「……っ、ああそうかよ、勝手にしろ…!」
売り言葉に買い言葉。 お互いにイライラして、つい口にしてしまった言葉。 本心じゃないことくらい、わかっている。 でも、感情が先に出てしまう。
これまでも、何度もこんなやり取りをしてきた。 そのたびに、どちらからともなく妥協して、 拓海が桐吾の好きなコンビニスイーツを買ってきたりして、 何となく元に戻る。 少しずつ、お互いに歩み寄れるようになったと思っていた。
だから、今回もそうなると思っていた。 ケンカして、冷静になって、また笑い合える―― そう信じていた。
でも、今回は違った。
***
気がつくと、そこは真っ白な天井だった。 風に揺れるクリーム色のカーテンが、ぼんやりと視界に映る。
(どこだ……ここ……? 病院……?)
「っ……」
頭がガンガンと痛む。 体を動かそうとしても、思うように動かない。 まるで自分の体じゃないみたいだった。
「おい、大丈夫か……?」
声がして、誰かが桐吾の顔を覗き込んだ。 心底心配そうな顔――それは、シェアハウスで同室の、拓海だった。
「ああ……大丈夫だ……」
そう答えると、拓海は「はあ~っ」と大きく息を吐いて、 安堵の表情を浮かべながら、桐吾の胸に顔をうずめた。
その距離の近さに、桐吾は思わず目を見開いた。
いつもなら、罵倒されて「バカ」「アホ」と罵詈雑言を浴びせられるような関係なのに―― 一体、どうしたというのか。
拓海は、顔をうずめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「……心配させんなよ……」
そして、顔を上げると、上目遣いでじっと桐吾を睨んだ。 その目は、怒っているようで、泣きそうなようで、なんとも言えない表情だった。
「……なんだよ、その顔」
桐吾がそう言うと、拓海はぷいっと顔をそらした。
「調子狂うんだよ……お前が意識失うとか、らしくねえし……」
「……てめえ、熱でもあんのか……?」
桐吾がぼそりと呟くと、拓海は「え……?」と間の抜けた声を返した。
「なんか、近くねえか……?」
その言葉に、拓海の顔が一瞬だけ強張ったように見えた。 目をそらすように、ゆっくりと身体を起こすと、 「なんで……?」と、小さな声で呟いた。
「……あ?」
「んでもねえよ……。大家さんに電話してくるわ……」
「あ、ああ」
そのとき、拓海の顔が一瞬だけ泣きそうに見えたのは――気のせいだったのだろうか。 けれど、拓海はそれ以上何も言わず、やけに静かに部屋を出ていった。 いつものような毒舌も、皮肉もなかった。
桐吾は、ぼんやりと天井を見つめながら、どうしてこうなったのかを思い出そうとした。 けれど、記憶は曖昧で、頭が痛むだけだった。
医師に聞いたところ―― 桐吾は、道路に飛び出した子どもを助けようとして、 バイクと衝突し、頭を強く打ったらしい。
意識を失ったまま救急搬送され、検査のため入院することになった。 幸いにも命に別状はなく、異常がなければすぐに退院できるとのことだった。
*
大学進学を機に、桐吾はシェアハウスに入居した。 一人暮らしには漠然とした不安があったし、大学の近くにあるその物件は、家賃も手頃で、何より「誰かがいる」という安心感があった。
もちろん、男ばかりの空間はまずまずむさくるしかった。 風呂上がりにタオル一枚でうろつくやつもいれば、冷蔵庫の中のプリンを勝手に食べるやつもいる。 だが、桐吾自身も女っけのない生活を送っていたので、特に気になることはなかった。
――ただ一つ、気になることと言えば。 同室になってしまった拓海の存在だった。
拓海は、桐吾とはまるで真逆の人間だった。 金髪にゆるくウェーブをかけ、耳には軟骨までピアスが光る。 派手な柄物のシャツばかりがクローゼットに並び、香水の匂いは常に部屋に漂っていた。 見た目も言動も、いわゆる“チャラ男”そのもの。 女をとっかえひっかえしているようで、夜遅くに香水の匂いをまとって帰ってくることもしばしばだった。
とはいえ、シェアハウスには「外部の人間を連れ込まない」という鉄壁の掟があり、拓海の彼女が部屋にいるなんてことは一度もない。 それだけは、ありがたかった。
意外にも、部屋の掃除をこまめにするのは拓海の方だった。 桐吾はというと、基本ずぼらで、靴下やパンツを床に放置する癖がある。 それが原因でケンカになったのは、一度や二度ではない。
「靴下放置すんなって言ってんだろ!」
「てめえはオレのおふくろかよ?!」
「はあ?!お前がちゃんとしねえからだろ!くせーんだよ!!」
「てめえの香水の方がくせえだろ!!」
「いい匂いがわかんねえのかよ、鼻腐ってんじゃねえの?」
「うるせえ、鼻は生きてんだよ!」
言い合いは、いつもこんな調子だった。 口を開けば罵り合い。 最初は本気で嫌いだった。 こんなめんどくさいやつと同室なんて、最悪だと思っていた。
でも、だんだんと人となりがわかってくるにつれ、 好きとまではいかないが、気にならなくなってきた。
拓海は、ブツブツと文句を言いながらも掃除機をかけてくれる。 桐吾が風邪をひいたときには、何も言わずにポカリを買ってきて、「飲めよ」とだけ言って、すぐに自分のベッドに戻っていった。
桐吾は映画なんて、これまでほとんど見てこなかった。 でも、拓海が部屋でよく観ているので、なんとなく一緒に観るようになった。 気づけば、自分の方が先に泣いていて、 拓海に「え、泣いてんの?マジ?」とぎょっとされ、 「うるせえ、目にゴミ入っただけだ!」とごまかした。
それなのに、次の日には「泣ける映画、他にもあるけど見る?」なんて言ってくる。 その言い方は軽いのに、気遣いが滲んでいて、桐吾は返事に困った。 チャラいくせに、難しそうな本を読んでいたりするから、 わからないことを聞けば、意外とちゃんと教えてくれる。 説明もわかりやすくて、少し悔しいくらいだった。
毎日の筋トレは欠かさない。 腕立て、腹筋、スクワット――黙々とこなす姿は、意外とストイックで、 桐吾は、拓海の外見だけを見て判断していた自分を、少し恥じた。 見た目や口調だけで「軽いやつ」と決めつけていたけれど、 その裏には、考えや習慣があって、 努力している部分もちゃんとあった。
最初はただの同居人。 うるさくて、面倒で、口ばっかり達者なやつ。 正直、関わるのも疲れると思っていた。
でも今は―― 拓海といることも、生活の一部だった。 朝起きて、ふわりと香水の香りがすること。 夜、映画を観ながらくだらない話をすること。 ときどき、些細なことでケンカすること。それらが、日常の中に自然に溶け込んでいた。
*
検査の結果、特に異常はなく、桐吾は何事もなく退院した。 シェアハウスに戻り、自分たちの部屋のドアを開けて「ただいま」と言うと、拓海はベッドに寝転びながら「ん…」と素っ気なく返した。
それはいつも通りの反応のはずだった。 けれど、何故か少し違和感を覚えた。 声のトーンも、目線も、どこかよそよそしい。
夕食後、皆が集まるリビングのソファには後輩の翔太と朔(さく)、そして拓海がいた。翔太と朔は何か課題をやっているようだ。拓海はだるそうにスマホをいじりながら、ソファにもたれかかっている。
「拓海さん、誰かかわいい女の子いないっすか~?紹介してくださいよ~」
翔太が甘えるように言うと、拓海は画面から目を離さずに答えた。
「オレだって彼女なんかいねえよ…」
「ぜってえウソっすよ~!いつも幸せそうな顔してるじゃないっすか~!その幸せ分けてくださいよ~!」
「はあ?違ぇし…!!」
拓海が眉間に皺を寄せて否定すると、朔が横からニヤニヤしながら口を挟んだ。
「そんなこと言って、桐吾さんと付き合ってたりして…?」
「え?!桐吾さんと…?!」
翔太が目を見開いて驚くと、拓海は朔を鋭く睨みつけた。
「はあ?!んなわけねえだろ…っ!気色悪ぃ…!!」
その怒鳴り声に、リビングの空気が一瞬凍りついた。 拓海は舌打ちして、ソファから立ち上がり、無言でリビングを出て行った。
「なんだよ、ただの冗談だったのに…!怒らなくてもいいじゃん…!」
朔は顔をしかめて不満げに言い、翔太が慌ててそれを宥めていた。
その様子を見ていた先輩の悠(ゆう)が、桐吾の近くで静かに言った。
「なんだか拓海くん、機嫌悪いね…。桐吾くん、早く仲直りしてあげてね」
「え…? なんでオレ…?」
突然自分に話が飛んできて、桐吾は戸惑いながら聞き返す。 すると悠は、何も言わずに苦笑した。
その笑顔が、何かを知っているようで―― 桐吾は、胸の奥が少しざわついた。
部屋に戻ると、拓海はまたベッドに寝転がってスマホゲームをしていた。 桐吾が入ってきても、何の反応もない。 画面を見つめたまま、指だけが淡々と動いている。
「おい、拓海……」
桐吾が声をかけても、拓海は黙ったままだった。
「……なんかあったのか……?」
「はあ……?」
拓海は気だるげに顔を上げ、桐吾の方をちらりと見た。 その目は、どこか疲れているようだった。
「悠さんに、てめえと仲直りしろって言われた。事故の前、ケンカしてたか……?」
そう尋ねると、拓海は桐吾を睨んだ。
「はあ……? ケンカなんてしょっちゅうしてんだろ……」
「まあ、そうだよな……」
「わけわかんねえこと言うな、バカ……!」
そう言って、拓海は桐吾から目を逸らし、再びスマホの画面に視線を戻した。
「ああ……」
それは、いつもの憎まれ口だった。 いつもの拓海のはずだった。
けれど、何故か違和感が残った。 言葉の端々に、どこか力がない。
何かがおかしい。 でも、何がおかしいのかは、はっきりとはわからなかった。
*
ただ―― 桐吾が退院してから、拓海は夜に眠れなくなった。 ご飯もほとんど喉を通らないようで、食卓に座っても箸が進まない。 日に日に、元気を失っていくのが、見ていてわかった。
顔色は悪く、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。 いつもならうるさいくらいに喋るのに、最近は口数もめっきり減った。 笑うことも、ほとんどなくなった。
それでも、拓海は何も言わない。 桐吾が何かを聞いても、いつもの調子で突っぱねるだけだった。
「……お前、最近寝てねえだろ?」
「寝てるよ。目、閉じてるし」
「それ、寝てるって言わねえだろ」
「うるせえ。てめえには関係ねえ」
「……なんで眠れねえんだよ?」
「知らね……」
その言葉に、桐吾は顔をしかめる。
拓海は、何かを隠しているように―― いや、何かを抱え込んでいるように見えた。
夜、ベッドに寝そべる拓海の背中は、いつもより小さく見えた。 映画はついているのに、目は画面を見ていない。 ただ、ぼんやりと空間を見つめているようで。
桐吾は、胸の奥に小さな不安を抱えながら、 拓海の背中を黙って見つめていた。
「……なあ」
「ん?」
「なんかあったなら、言えよ」
「別に。何もねえし」
「嘘つけ」
「……てめえには関係ねえよ」
「……なんで」
「言ってもどうせ無駄だ」
その言葉に、桐吾の胸がぎゅっと締めつけられた。 何を抱えているのかはわからない。
その背中に、手を伸ばしたくなる。 でも、触れてはいけないような。 桐吾は、ただ黙って隣に座った。
何かの映画の音だけが、静かに部屋に流れていた。
2
バイトの後、シャワーで汗を流した桐吾は、喉が渇いて水を飲もうとキッチンへ向かった。 すると、ちょうどそこにいた先輩の高臣に呼び止められた。
「桐吾、シュークリームあるけど食うか?」
「マジすか?!」
桐吾は目を輝かせた。冷蔵庫を開けると、コンビニの期間限定シュークリームが入っている。 パッケージには、桐吾が好きなブランドのロゴがしっかりと印刷されていた。
「あざっす!」
袋を開けて、大きな口でかぶりついたその瞬間―― 高臣がぽつりと呟いた。
「それ、拓海が買ってきたんだ。『間違えた』とか言ってたけど、桐吾のためだよな」
「……?」
あ、まただ。 また、あの“違和感”が胸に引っかかる。
「またケンカしたのか? 最近ケンカすると、拓海は桐吾に何か甘い物買ってくるよなぁ。拓海、元気ないしさ。早く仲直りしろよ…?」
「……」
悠もそうだった。 今度は高臣まで、そんなことを言う。
どうしてみんな、仲直りとか言うんだろう? オレたち、別に――
「どうして、仲直りとか言うんすか…? オレたち、別に仲いいわけじゃ……」
「どうしてって、お前たち付き合ってるだろ?」
「付き合っ……て、どこに……?」
「じゃなくて、恋人だろ?」
「んえっ? こ、こいび…っ!?」
思いもよらぬ高臣の返答に、桐吾は驚きすぎてシュークリームを喉に詰まらせ、むせた。
「だ、大丈夫か?」
高臣が慌てて水を差し出す。 桐吾はそれを受け取りながら、頭の中が真っ白になっていた。
恋人――? オレと拓海が……?
そんなこと、知らない。 好きだなんて言われたこともない。拓海からも、誰からも。 むしろ嫌われているだろう。じゃあなぜ、高臣は、そう思っているのか……?
「大丈夫か…?まあ、俺には隠さなくていいって…」
高臣は、どこか“わかってるから”というような苦笑を浮かべながら言った。
「桐吾が事故ったって聞いて、拓海は真っ青になって病院に飛んでったよ。桐吾が目を覚ますまで、ずっと傍にいて離れなくて。……愛されてるな、桐吾」
「え……それって、何かの冗談、すか……?」
「は……?」
高臣は首を傾げた。
「いや、だって……アイツ、オレのこと嫌って……」
「ここ1カ月くらい、拓海とずっとくっついてるだろ?一緒にどっか出かけたり、ケンカしてもこうやって甘い物買ってきて仲直りしてるし。三谷さんなんか、『拓海があんまりゲームに付き合ってくれなくなった』ってぼやいてたぞ」
「……」
桐吾は、眉間に皺を寄せた。 あまりにも知らないことばかりだった。
「わ、わかんないっす……」
「え? なんで……?」
「この前、頭打ったときから……なんかおかしくて……」
「ん……? どういうことだ……?」
「そんな記憶……全然ないっす……」
「え……?!」
高臣は目を見開いた。
「何それ……? 記憶喪失ってやつ……?」
桐吾は、困ったように首を傾げた。
「わかんないっす……でも、高臣さんが言ってることが、オレの中では全然わからなくて……。拓海とそんなに仲良かった記憶もないし、出かけた覚えもないし……」
高臣は、しばらく黙って桐吾の顔を見つめていた。 その表情には、驚きと戸惑い、そして不安が混ざっていた。
「なんか、おかしいなとは思ってたんすけど……オレの気のせいかと思って……」
桐吾がぽつりと漏らすと、高臣は長いため息をついた。 話をしながら整理してみると、どうやら桐吾はこの1ヶ月ほどの記憶がすっぽり抜け落ちているらしい。
よくもまあ、それを「気のせい」で済ませていたものだ――と、高臣は呆れながらも、桐吾を責めることはしなかった。
「そのこと、拓海は知ってるのか……?」
「わかんないっす……」
「そうか……」
高臣は何やら神妙な顔をして、それっきり黙り込んだ。 キッチンの静けさが、妙に重く感じられる。
桐吾は、冷たい水を一口飲みながら、頭の中を整理しようとした。 けれど、考えれば考えるほど、混乱は深まるばかりだった。
(アイツと、付き合っていた……? 男同士なのに……? どうしてそうなった? アイツはオレのことを嫌っていたはずなのに……? 何かの間違いじゃないか?)
記憶がないという事実よりも、 その“記憶の中で起きていたらしいこと”の方が、よほど衝撃だった。
拓海のあの態度。 周囲の反応。 そして、このシュークリーム――
全部が、今の桐吾にはまるで別世界の出来事のようだった。
(……オレは、本当に拓海と、そんな関係だったのか?)
わからない。 けれど、確かに何かが起きていた。 それだけは、間違いなかった。
桐吾が退院してから、拓海は何事もなかったかのように振る舞っている。 いつも通りの憎まれ口、いつも通りの素っ気ない態度。
唯一、違っていたのは――病院で目を覚ましたとき。 あのときだけ、拓海は妙に距離が近かった。 胸に顔をうずめて、泣きそうな顔で「心配させんなよ」と言った。
その時の拓海の表情と仕草は、確かに“恋人だ”と言われれば合点がいく。 あの距離感、あの目の揺れ―― 今まで見たことのない拓海だった。
悠が「早く仲直りしてあげてね」と言ったことも、 その言葉の意味がようやく理解できた。 少なくとも高臣と悠は、ふたりが付き合っていると思っていた。 それは、きっと事実だったのだろう。
でも――納得できないのは、今の拓海の態度だった。
まるで、何もなかったかのように振る舞う。 桐吾が記憶を失っていることに気づいているのか、いないのか。 それとも、気づいていて、あえて触れないようにしているのか。
拓海は、何も言わない。 何も聞かない。 ただ、いつものように、不機嫌そうにしているだけだ。
(……なんで、何も言わないんだよ)
桐吾の胸の奥に、じわじわと疑問が広がっていく。 記憶が戻らないまま、拓海との距離だけが、どこか宙ぶらりんのままだった。
自室に戻ると、拓海はだるそうにベッドに寝転び、スマホをいじっていた。桐吾は、ふとその整った横顔を見つめる。 付き合っていたと言われても、何も思い出せない。 それでも、どこか胸がざわつく。
「なあ……」
「ん?」
「シュークリーム、食った」
「ああ……」
拓海はちらりと桐吾の方を見て、すぐに視線をスマホに戻した。
「てめえが買ってきたんだろ?」
「間違えただけだ……」
会話はそれきり途切れ、部屋に沈黙が流れる。 桐吾は、先ほど高臣に聞いた話が本当なのか、確かめたくて口を開いた。
「なあ……」
「んだよ……」
「お前は、オレが好きなのか?」
「は……?」
「オレと付き合ってるのか……?」
拓海の手が止まり、スマホから顔を上げて桐吾を睨み上げる。
「……何バカなこと言ってんだよ……」
「なんか、事故って記憶が飛んでるらしくて……高臣さんに色々聞いた……」
「ちっ……高臣のやつ、余計なこと言いやがって……」
拓海は舌打ちし、スマホを放り出すと、のろのろと身体を起こした。 その動きは、どこか重たく、言葉を選ぶようだった。
「ちげーよ。もう別れた……」
「……っ」
その言葉に、桐吾の胸に何かがチクッと刺さった気がした。 記憶にはないはずなのに、痛みだけがそこにある。 何か大切なものを失ったような、そんな感覚。
「……いつ?」
「お前が事故った日の、前の日」
「……なんでだ?」
拓海は答えなかった。 ただ、視線を逸らして、唇を噛んだ。 その仕草が、妙に苦しそうで、桐吾は息を呑んだ。
「もう、てめえには関係ねえだろ」
「いや、関係あるだろうが!なんで言わねえんだよ?!」
桐吾が怒鳴ると、拓海は黙り込んだ。 その沈黙が、逆に重くのしかかる。
「なんとか言えよ!」
「……お前さ……なかったことにしたかったんだろ……?」
拓海は俯いたまま、ぽつりと呟いた。 決して桐吾とは目を合わせようとしない。
「は……?」
「記憶なくなってんのも、忘れたかったんだろ? オレとのことなんか、全部。ケンカばっかで、うるさくて、面倒で…… お前にとって、オレはただの嫌な奴だったんじゃねえの?」
「そんなこと……!」
桐吾は言い返そうとしたが、言葉が詰まった。 ないとは言いきれない。 自分がどんな感情を持って拓海と付き合っていたのか、わからない。 本当に恋人だったという確証もない。
「付き合ったのも、単なる気の迷いだ……」
拓海の声は、静かすぎて、逆に痛かった。
「……」
桐吾は言葉を失った。 自分が“気の迷い”で誰かと付き合うなんて、そんなことあるはずがない。 それも、拓海と。
でも―― 今の自分には、何も思い出せない。 だからこそ、何も否定できない。
(どうしてオレは、コイツと付き合った……?)
「男同士で……気持ち悪ぃだろ……?」
拓海の言葉は、どこか自分自身を責めるような響きだった。 桐吾も、男同士で――ということに戸惑いがないわけではなかった。 でも、もし本当に付き合っていたのなら、それなりの理由があったはずだ。 気持ちが動いた瞬間が、確かにあったはずだ。
「ケンカばっかで、そろそろ別れようと思ってたし……。つか、もう別れてたし。だから、もういい……」
拓海は溜息をつきながら、言葉を吐き出すように続けた。 その声は、どこか諦めに満ちていた。
その言葉に、桐吾はなぜか胸の奥がざわついた。 苛立ちが込み上げてきて、思わず声を荒げた。
「よくねえだろ……!」
拓海は、驚いたように桐吾を睨んだ。だが、その瞳は涙で潤んでいた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……?!」
その声は、怒りではなく、苦しみだった。 拓海はゆっくりと立ち上がり、何も言わずに部屋を出て行った。 ドアが静かに閉まる音だけが、部屋に残った。
桐吾は、その背中を見送ることしかできなかった。 記憶はない。 でも、胸の痛みだけは、確かにそこにあった。
この気持ちは、何だ……? 胸の奥で、沸々と沸き立つ感情は、一体何なんだ……?
どうして「別れた」と言われて、こんなにも傷つく? 記憶がないはずなのに。 思い出せないはずなのに。 それでも、心が痛む。
忘れたくなかったんだ。 きっと、大切なものだったはずだ。 何気ない日々の中に、確かにあったはずの感情。きっとそれは、自分にとって、かけがえのないものだったはずなのに。
どうして、自分はそれを忘れてしまったんだろう。 どうして、思い出せないんだろう。 思い出せないのに、こんなにも苦しいのは、なぜなんだろう。
それから、拓海は部屋に帰ってこなくなった。
部屋は静かで、どこか空っぽだった。 いつもなら聞こえるはずのスマホのゲーム音も、 映画のセリフも、「バカ」「アホ」といった罵声も――何も聞こえない。
桐吾は、ひとりベッドに座りながら、拓海の使っていた机をぼんやりと見つめていた。
記憶にはないはずなのに、 その不在が、どうしようもなく寂しかった。
3
拓海は部屋には帰ってこない。 けれど、キッチンやリビングでは時折姿を見かける。シェアハウス内にはいるらしい。三谷の部屋に泊まってゲームでもしているのか、それとも別の誰かの部屋なのか―― 桐吾は、そんなことばかり考えてしまう。
夕飯を掻き込む手も、どこか落ち着かない。 この頃いつも、気がつくと拓海のことばかり考えている。 拓海のことばかり、目で追ってしまう。
今も――。
夕飯を食べ終えた桐吾は、リビングのソファに腰を下ろし、麦茶を飲みながらくつろぐ“ふり”をしていた。 視線の端には、拓海の姿がある。
拓海は夕飯の席に着いたものの、ほとんど食べずに皿を下げた。 その顔色は、明らかに悪かった。
「悪い。残して……」
今日の食事当番の高臣は心配そうな顔をしている。
「顔色悪いぞ。ここのところ、全然食べてないだろう……」
「ああ……でも、大丈夫……っ!」
突然、拓海が頭を押さえて座り込んだ。
「拓海……?!」
高臣の大きな声が響き、リビングにいたメンバーが一斉に振り返る。 拓海は、テーブルの端に手をつきながら、苦しそうに顔を歪めていた。
「わり……だいじょうぶ……。ちょっと貧血、かも……」
「……っ、今から病院行くか……?」
「いや、いい……」
拓海はそう言いながらも、立ち上がることができずにいた。 高臣がすぐに駆け寄り、心配そうに肩を貸す。
その姿を見て、桐吾の胸がぎゅっと締めつけられた。
桐吾は、居ても立ってもいられなかった。 飲みかけの麦茶をテーブルに置き、拓海のもとへ駆け寄ると、その身体を抱き上げた。
思っていたよりも、ずっと軽かった。 元々痩せているが、最近さらに細くなった気がする。 腕も、背中も、骨ばっていて――触れるだけで心配になるほどだった。
「なっ?! 離せ…! くそっ!」
「おいっ…、暴れんな…!」
拓海は腕を突っ張り、足をジタバタさせて、なんとかして降りようとする。 その抵抗は、必死だった。
「っ、オレに、触んな…っ!!」
怒鳴り声とともに、拓海の拳が桐吾の頬を打った。
「痛って…! 何すんだ?! 調子悪いんだろ…?! 部屋まで我慢しろ…!」
桐吾が怒鳴り返すと、拓海の目に涙が滲んだ。
「ひっ……嫌だっ! 離せっ! てめえと同じ部屋は嫌だ…!」
「んだと…?!」
その言葉に、桐吾の胸がズキリと痛んだ。 拒絶の言葉が、鋭く突き刺さる。
「…おい桐吾、危ないから一回降ろせって…!」
高臣が宥めるように声をかけたその時、桐吾の背後から、誰かがそっと肩を叩いた。
「桐吾くん……僕のところで拓海くんを休ませるから、降ろして」
悠だった。 その声は静かだったが、目は真剣だった。
「え? でも……」
桐吾は、自分たちの部屋まで拓海を連れて帰りたかった。 けれど、悠に「大丈夫だから。ね?」と言われ、しばらく迷った末に、「うす……」とだけ言って、拓海をそっと下ろした。
悠は、拓海の身体を優しく抱きしめ、背中をポンポンと擦る。すると、拓海はまた泣きそうな顔をして、悠に縋りついた。
「拓海くん、行こうか」
高臣と悠に身体を預け、拓海はそのままリビングを後にした。
「拓海……!」
桐吾は、思わず呼びかけた。 いつ、帰ってくる? そう、聞こうと思って近づいたその瞬間――
「触んな…!!」
拓海の鋭い声が、桐吾を一蹴した。
その場に残ったのは、静かに宥める悠の声だけだった。
「拓海くん、行こう……」
桐吾は、ただその背中を見送るしかなかった。 手を伸ばすことも、言葉をかけることもできずに。
悠の部屋に拓海が連れて行かれてから、桐吾は居ても立ってもいられなかった。 少しでも自分にできることはないか――そう考えて、拓海がよく飲んでいる炭酸水と、少しでも食べられるならと思いフルーツゼリーをコンビニで買ってきた。
(これを渡すだけだ……)
そう自分に言い聞かせながらも、心は落ち着かなかった。 どうしてこんなに拓海のことが気になるのか、自分でもわからない。
(放っておけばいいのに……)
そう思っても、気になって仕方がない。
コンビニの袋を手に、悠の部屋の前まで来ると、 中から静かな声が聞こえてきた。
「拓海くん、無理しないで」
「何が……?」
「泣いていいよ……」
「……っ!」
悠のやさしい声が、ドア越しに響く。 桐吾は、ノックしようとした手を止めた。
しばらくすると、嗚咽が聞こえてきた。 泣きじゃくるような、苦しげな声。 それが拓海のものだとすぐにわかった。
「うん、辛いよね」
「…っ……うう……っ」
「誰だって、忘れられたら、辛いよ。 それが、大切な人だったら、なおさら」
こんなふうに泣く拓海を、桐吾は今まで見たことがなかった。 いつも強気で、口が悪くて、誰にも弱さを見せない拓海。その拓海が、今、泣いている。
想像するだけで、胸が締め付けられた。
「あいつは、忘れたかったんだ! ……オレのことなんて、全部……!」
「それは、わからないよ。 桐吾くんも、きっと混乱してる。 記憶を失っても、心まで消えるわけじゃないよ」
「わかるよ! あいつのことは……! 元々、オレのことを好きで付き合ってくれたわけじゃない! もうオレのことなんか、どうでもいいんだ……!」
拓海の声は、怒りと悲しみが混ざり合っていた。 その叫びは、まるで桐吾と、そして自分自身を責めるようで、聞いているだけで胸が痛くなる。
「拓海くん……」
悠の声が、少しだけ揺れた。 それでも、優しさを失わずに、そっと言葉を続ける。
「今は、少しゆっくりしよう? 泣いてもいい。怒ってもいい。 でも、ちゃんと気持ちを整理する時間が必要だよ」
「……っ………っ」
沈黙の中に、拓海の呼吸が震えているのがわかった。 その静けさが、逆に感情の深さを物語っていた。
「まだ、桐吾くんのこと、好きなんでしょ?」
その言葉に、拓海は何も答えなかった。 けれど、返事の代わりに、微かな嗚咽が聞こえた。 涙に濡れた声が、ドア越しに響く。
桐吾は、その言葉の続きを聞くことができなかった。 ドアの向こうで、拓海がどんな顔をしているのか―― 想像するだけで、胸が苦しくなる。
手に持っていたコンビニの袋を、そっとドアノブにかける。それだけしかできない自分が、もどかしかった。
その場を離れながら、桐吾は先ほど抱き上げた拓海の身体を思い出していた。 あの細くて軽い身体。 腕の中で暴れながらも、力が入っていなかった。 殴る力も全力ではなかった。ただでさえ痩せているのに、最近は目に見えて痩せている気がする。 夜も眠れていないらしく、目の下のクマもひどかった。
(オレが……忘れたせいか……?)
自分の記憶が、誰かをこんなにも傷つけていた。 その事実が、桐吾の胸を締めつける。
どうして自分は、拓海との記憶を失ってしまったんだろう。 どうしてぽっかりと抜け落ちてしまったんだろう。
拓海の、泣く寸前の顔が頭から離れない。
『じゃあ、どうしろって言うんだよ……?!』
その一言が、何度も頭の中で反響する。 まるで、心の奥に突き刺さった棘のように。
(オレは……何を失ったんだ)
記憶だけじゃない。信頼も、愛情も、全部―― 自分の中からこぼれ落ちてしまった気がした。
ただ、胸の奥に残る痛みだけが、確かにそこにあった。
想像する。 自分と付き合っている拓海を。
優しくて、甘くて―― 拓海が笑っている顔。 少し照れたように目をそらして、でも嬉しそうに微笑んで。 「バカかよ」と言いながら、どこか幸せそうで。 そんな拓海の姿を、頭の中で描いてみる。
本当にそんな瞬間があったのだろうか。
でも――現実は違う。
今、桐吾の目に映る拓海は、泣きそうな顔ばかりだ。 拒絶の言葉。 潤んだ瞳。 震える声。
笑っていたはずの拓海が、今は泣いて苦しそうにしている。 その理由が、自分にあるかもしれないと思うと、胸が痛む。
記憶はない。 でも、感情はある。 拓海の笑顔を見たいという気持ちは、確かにここにある。
(……オレは、拓海の何を見ていたんだろう)
その答えを知るには、もう一度向き合うしかない。 でも、今の拓海は、桐吾を拒んでいる。
それでも―― 笑っている拓海を、もう一度見たい。 その想いだけが、桐吾の胸に静かに灯っていた。
*
しばらくの間、拓海は悠の部屋にいる――そう、高臣から聞いた。 拓海の不在が続き、桐吾ひとりで過ごすにはあまりにも部屋は静かだった。 映画の音も、スマホの通知も、拓海の舌打ちも聞こえない。 その静けさが、やけに耳に残る。
拓海は大学も休み、食事も悠の部屋で済ませているらしい。 風呂も時間をずらして入っているようで、桐吾は拓海の姿すら見ることができなくなった。
バイトを終え、風呂に入り、リビングのソファに腰を下ろす。 訳もなく時間を潰している。 1人の部屋に帰りたくない。 そして、ここにいれば拓海の姿を一目でも見られるかもしれない―― そんな一縷の望みにすがっていた。
だが、もう遅い時間だ。 リビングには誰も来ない。 静かな空間に、時計の音だけが響いている。
ふと、足音が近づいてきた。 顔を上げると、高臣がやってきた。
「桐吾? どうした……?」
高臣は驚いたように声をかけながら、冷蔵庫から缶ビールとチューハイを出して、桐吾の隣に腰を下ろす。
「まあ、飲めよ」
言いながら、甘いチューハイを桐吾に渡した。自分は缶ビールを開けている。
「あざっす……」
「眠れないのか……?」
「いや、そんなんじゃないっすけど……」
「お前まで体調崩すなよ……」
高臣は苦笑しながら言った。 その声が、少しだけ心に沁みた。
「……あの」
「ん?」
「拓海は、元気っすか……?」
桐吾は、少し迷いながらも口にした。悠と高臣は同室だ。桐吾も拓海のことが心配だった。 でも、また拒絶されたらと思うと、会いに行くのはどうしても躊躇われた。
「んー……どうかな……」
高臣は困ったように笑い、言葉を濁した。
「今は少し、時間が必要なんじゃないか……?」
「そっ、すか……」
桐吾は、ぽつりと答えた。 その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
時間が必要―― それは、わかっている。 でも、待つだけでは何も変わらない気がして、何もできない自分がもどかしい。
拓海の不在が、こんなにも苦しいとは思わなかった。
しばし沈黙が流れた。リビングの時計の針が、静かに時を刻む。 やがて、高臣が口を開いた。
「桐吾は、拓海のこと……どう思ってるんだ?」
桐吾は、少し考えてから答えた。
「心配……です……」
「うん」
「あと、……」
「うん?」
「なんか……イライラするっす」
「拓海のことが?」
「いや……」
桐吾は、言葉を詰まらせて、項垂れた。 自分でも、何にイライラしているのか、はっきりしない。
「……高臣さんに付き合ってるって聞いた日、拓海に『付き合ってたのか?』って聞いたら、『別れたから、もういい』とか言われて……。それなのに、あんなに痩せてて、泣いてて……。そんなあいつを見たくねえっす……。オレもどうしていいかよくわかんねえし」
「うん」
「なんか、すげえ……イライラする……」
言葉にしてみると、胸の奥に溜まっていた感情が少しずつ形になっていく。 それは、拓海を思う気持ちと、どうしていいかわからない自分への苛立ち。
高臣は、少しだけ目を細めて十座を見つめた。
「へえ……。桐吾は、どうしたいんだ?」
その問いに、桐吾は顔を上げた。 目は真っ直ぐで、少しだけ迷いながらも、はっきりと答えた。
「どうって……あいつが笑ってくれるなら……オレができることなら、なんでもしてやりたい……って……思う、けど、あいつはそれを望んでないかもしれない……」
言いながら、顔が熱くなるのを感じた。 自分でも、こんなことを言うなんて思っていなかった。 でも、口にしてしまった言葉は、嘘じゃなかった。
高臣は、そんな桐吾を見て、優しく笑った。
「な、なんすか……?」
「いや、今の気持ち、ちゃんと拓海に伝えてみな。俺が掛け合ってみるから」
その言葉は、静かだけど、力強かった。
(伝える……オレが……?)
まだ迷いはある。 でも、今のままでは何も変わらない。 拓海の涙も、痩せた背中も、見ているだけでは救えない。
桐吾は、拳をぎゅっと握った。
4
次の日、高臣が悠に話をしてくれて、桐吾は拓海と会えることになった。 部屋の入口で、悠に肩をそっと叩かれた。
「桐吾くん、拓海くんをお願い……」
その声は、優しくも真剣だった。桐吾は小さく頷き、部屋の中へと足を踏み入れた。
「出ていけ」
拓海は、開口一番そう言った。 悠の部屋の床に布団を敷いて寝ていた拓海は、目が真っ赤に腫れていた。 泣いていたのだろう。 前よりもさらにやつれて見えて、桐吾の胸が痛んだ。
「話、聞いてくれ……」
桐吾がそう言うと、拓海はしんどそうに身体を起こし、深く溜息をついた。
「オレは話すことなんてねえ……」
それでも桐吾は、拓海の傍に腰を下ろした。 距離は少しだけ近い。 それでも、拓海は目を合わせようとしない。
「なあ……帰ってきてくれねえか……?」
「はぁ……?」
拓海は眉間に皺を寄せ、苛立ちを隠さずに返す。
「オレと……やり直せねえか……? てめえのこと、何とかしてえ……」
「……」
「てめえの泣いてる顔とか、体調崩してんの、見てらんねえ……」
拓海は鼻で笑った。
「んだよそれ、同情か……?」
「違う。お前が『別れた』って言ったとき……なんか嫌だった。俺は、別れたくねえ……」
その言葉に、拓海は俯いた。 唇を噛み、しばらく黙ったまま―― そして、ゆっくりと首を横に振った。
「嫌だ……」
「なんでだ……?」
桐吾の問いに、拓海は答えない。 ただ、肩を震わせながら、視線を落としたまま沈黙を続ける。
その沈黙が、何よりも苦しかった。 言葉にならない想いが、ふたりの間に重く漂っていた。
しばらくの沈黙の後、拓海はぽつぽつと口を開いた。
「……てめえは、『付き合ってた』って聞いて勘違いしてるだけだ。何を想像してんのか知らねえけど、オレたちの関係は『恋人』なんて言えるもんじゃなかった……」
「ウソだ……」
桐吾が即座に否定すると、拓海は鋭く睨み返した。
「ウソじゃねえ! 付き合ってもケンカばっかだし、別れるとか言ったら、てめえは『好きにしろ』って言うし…… オレのことなんか、何とも思ってなかったんだろ……!」
「違う……!」
じゃあ、この気持ちは何なんだ。 胸が苦しくて、拓海のことばかり考えてしまう。 笑ってほしいと思ってしまう。忘れていたはずなのに、こんなにも惹かれてしまうのは、どうしてだ。
拓海の細い肩が震えていた。 瞳には涙が溜まり、俯いたまま、またゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……どうせ、別れるつもりだった。 男同士だし、どっちみち上手くいくわけねえ……。 大学卒業したら、このシェアハウスも出ていく。それでサヨナラだ。 もう連絡もしねえ。だから……もう、オレに構うな……」
その言葉に、桐吾の中で何かがプツンと切れた。
(どうして……)
拓海は、頭がいい。だからこそいつも自己完結しようとする。全部自分で決めつけて、誰の意見も聞かずに、桐吾の前からいなくなろうとしている。 それだけは、どうしても許せなかった。
桐吾は拓海の胸倉を掴み、怒鳴った。
「ふざけんなっ……!! バカにしてんのか……?!」
「……あぁ?!」
拓海は顔を上げ、潤んだ目で桐吾を睨み返す。
「いつもそうだ!全部自分で決めつけて、オレの話なんて聞いてくれねえ!お前が逃げてんだろ……!!」
「逃げてねえし……!!」
ほら、また泣きそうだ。 そんな顔、見たくないのに―― 見てしまうと、どうしようもなく胸が痛む。
「オレのことが好きなんだろ……?!」
その瞬間、バシッと乾いた音が響いた。 桐吾の頬に鋭い痛みが走る。 拓海の手が、衝動的に振り上げられたのだ。
衝撃で、桐吾の手は拓海の胸倉から離れた。
「お前のせいだっ……!!!」
拓海の目から、何かが決壊したように、涙がボロボロと零れ落ちる。 手で顔を拭っても、次から次へと溢れて止まらない。
「全部、全部……お前のせいだ……! お前が忘れたせいで、こんな……こんなはずじゃなかったのに……っ」
震える唇。 崩れ落ちそうな声。 桐吾のせいで、こんなにも壊れそうになっている拓海。
桐吾は、思わず拓海の肩を抱き寄せた。
「……忘れて、悪かった……」
「……ちょ、離せ……っ!」
拓海は腕を突っ張り、力なく抵抗する。 でも、桐吾は離さなかった。
「てめえが泣いてるの、もう見たくねえ。 忘れても、気持ちは残ってる。別れたくねえ。だから、もう一度……やり直したい」
拓海は、桐吾の胸の中で震えながら、 それでも、ほんの少しだけ―― その腕の温もりに、身を委ねていた。
「泣くな……」
「……っ」
「てめえが泣くの、見たくねえ」
「んだよそれ……! 見なきゃいいだろっ……!」
「でも、気になってしょうがねえ……」
「……嫌だっ……!」
拓海は抵抗する。 けれど、桐吾はそっと拓海の涙を指で拭った。 嫌がる拓海の顔から、次々と涙が溢れてくる。 止めようとしても、止まらない。
「放っとけねえんだ……」
「……っ、……やめろって……!」
「オレが傍にいてやりてえ……」
ああ――やっと、分かった。 この感情の正体が。
「離せ……っ!」
拓海の声が震える。 それでも、桐吾は静かに言葉を重ねた。
「てめえが好きだ……」
拓海は目を見開いた。 その瞳に、驚きと戸惑いが浮かぶ。
桐吾は、一層強く拓海の身体を抱きしめた。 逃げられないように、でも壊さないように。
「ウソだ……」
拓海が呟く。
「ウソじゃねえ……」
桐吾は、まっすぐに答えた。
しばらく拓海は泣き続けた。 肩を震わせ、声を殺して、涙を流した。 そして、少しだけ落ち着いた頃―― ぽつりと、言葉をこぼした。
「お前なんか……嫌いだ……」
そう言いながら、拓海の額が桐吾の肩にそっと寄りかかった。
「……ああ、それでもいいから、てめえの傍にいさせてくれ」
拓海は何も返さなかった。 でも、拒絶もしなかった。
その夜―― 桐吾に手を引かれて、拓海は部屋に一緒に帰った。ベッドに一緒に入っても、言葉はなかった。 ただ、桐吾の腕の中で、泣き疲れた拓海は静かに眠った。
その寝息が、桐吾の胸に、少しだけ安らぎをくれた。
*
「てめえの傍にいさせてくれ」―― そう言ったから、桐吾は可能な限り拓海の傍にいた。
学校やバイトから帰ると、すぐに拓海のもとへ向かう。 部屋に入るなり、荷物を置いて、拓海の隣に腰を下ろす。 自分でも、どうかしていると思う。 でも、それ以上に拓海のことが心配で、片時もひとりにしたくなかった。
拓海が今、何を思っているのかはわからない。 けれど、文句は言わない。 拒絶もしない。 ただ、静かに受け入れているようだった。
さすがにトイレまでついて行こうとしたときは――
「着いてくるな!」
と怒鳴られて、トイレの前で待たされる羽目になった。 それでも、桐吾は文句ひとつ言わず、ドアの前でじっと立っていた。
夜になると、拓海のベッドにもぐり込む。桐吾はその背中にそっと腕を回し、後ろから抱きしめて眠った。
拓海は何も言わない。 ただ、静かに目を閉じている。
時折、拓海はうなされる。 苦しそうに眉を寄せて、震える声で――
「とう、ご……」
そう呟きながら、涙を流す。
桐吾は、その声に胸が締めつけられる。 そっと抱きしめる腕に力を込めて、耳元で囁く。
「ここにいる……」
すると、拓海は少しだけ力を抜いて、安心したように眠りについた。
その寝息を聞きながら、桐吾は思う。 拓海が笑える日が、また来るように。 そのためなら、何だってする。 何度でも、傍にいる。
桐吾は、今日の食事を抱えて部屋に帰る。拓海の胃に負担がかからないようにと、高臣が気を遣って作ってくれた優しい献立。 湯気の立つスープと、柔らかく煮込まれた野菜。 ローテーブルにトレイを乗せ、桐吾は拓海に声をかける。
「飯食えるか……?」
「ん……少しなら……」
拓海が身体を起こそうとした瞬間、ふらついてバランスを崩す。 桐吾はすぐに後ろから支えた。
「……っ」
「大丈夫か? 寄っかかってろ……」
「……ん」
「食べさせてやろうか……?」
断られるかと思った。 けれど、拓海は微かに頷いた。 桐吾の手から、少しずつ食事を摂る。
スプーンを口に運ぶたびに、拓海の表情が少しずつ和らいでいく。 日に日に食べられる量も増えていき、朝まで眠れるようになってきた。 顔色も良くなり、目の下のクマも薄れてきた。
その変化が、桐吾には何よりも嬉しかった。 少しずつ、拓海が戻ってきている――そんな気がした。
*
「……散歩でも行かねえか?」
バイトが休みの日、桐吾は拓海に声をかけた。拓海は、ベッドの上で本を読んでいた。元気にはなってきたが、外に出ることはまだなかった。
「……なんで?」
拓海の声は、かすれていた。 でも、拒絶ではなかった。
桐吾は少しだけ言葉を探してから、静かに答えた。
「……気分転換になるかなって思って。 部屋の中ばっかじゃ、息詰まるだろ?」
拓海は、しばらく黙っていた。 桐吾は、無理に急かさず、ただ隣に座って待った。
「……わかった」
その言葉に、桐吾は少しだけホッとした。
拓海が外に出るのは、久しぶりだった。 夕方と言えどアスファルトの照り返しに、少しだけ眩しそうに目を細める。
「暑くねえか?」
桐吾がそう言うと、拓海は短く答えた。
「……ああ」
歩幅を合わせて、ゆっくりと並んで歩く。 無理に話しかけることはしない。ただ、隣にいることを大事にした。
それからも、大学から帰った後や、バイトが終わった夜、拓海が少しでも元気そうなら、桐吾は散歩に誘った。
「ちょっとだけ外、歩かねえか?」そんなふうに、自然に。
緑地公園を一周して、自販機でジュースを買う。ベンチに腰を下ろして、並んでペットボトルを開ける。 ただそれだけのこと。
「今日、教授にめっちゃ怒られたんだよな」
桐吾がそう話すと、拓海はペットボトルを傾けながらぽつりと返す。
「……何やってんだよ」
「レポートの締切、完全に忘れてて……」
「……そうか」
桐吾は笑いながらペットボトルを振ってみせる。 次に蓋を開けるとき、炭酸が吹き出して、拓海が眉をひそめる。
「うわ!やっちまった!」
「……」
「でも、ちょっと笑ったろ?」
拓海は何も言わなかった。 けれど、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
いつもと違い喋るのは、ほとんど桐吾だった。 桐吾はそう喋るのは得意じゃない。だが、拓海が「ああ」とか「別に」とか、短いながらも返事をしてくれる。 桐吾はそれだけでも嬉しかった。
同じ空を見上げながら、他愛もない話をする。
「……明日も、行けそうか?」
「……たぶん」
「よし」
「……無理すんな」
その言葉に、桐吾は少しだけ目を見開いて、すぐに笑った。
「無理してねえよ」
拓海は視線を逸らす。
風が吹いて、木々がざわめく。
ある日のことだった。 緑地公園を一周した帰り道、桐吾が「そろそろ戻るか」と言いかけたとき、拓海がぽつりと呟いた。
「……もう少し、歩いてもいいか?」
その言葉に、桐吾は驚いた。 いつもなら「疲れた」と言って、すぐに帰りたがるのに。 でも、すぐに頷いた。
「ああ。ゆっくり行こう」
ふたりは、街灯の少ない裏路地へと足を向けた。 もう夜になり、店はどこも閉まっている。 人通りもなく、静かな空気が漂っていた。
しばらく歩くと、拓海がふと足を止めた。 古びた木の扉の前。 一見するとカフェとはわからないような、控えめな外観。
「ここ、前にお前と来たことがある」
桐吾は、扉の上に小さく掲げられた看板を見た。 確かに、カフェらしい。 でも、記憶にはなかった。
「……覚えてねえな」
「付き合ってたとき。 一回だけ、来た」
拓海は、扉の向こうをじっと見つめていた。 中の照明は落ちていて、店内は暗い。 でも、窓越しに見えるインテリアは、確かにカフェのそれだった。
「ここ、チーズケーキが上手いんだ」
「……お前、甘いの苦手じゃなかったっけ?」
「ここのは、食べられる。 甘すぎなくて、ちょっと塩気がある。てめえは美味そうに食べてた」
拓海の声は、どこか懐かしさを含んでいた。その表情は、ほんの少しだけ柔らかかった。
「また今度、行くか?」
その言葉に、拓海は無言で首を振った。 ゆっくりと、はっきりと。
沈黙が落ちた。 夜の風が、ふたりの間を通り抜ける。
拓海は、少しだけ顔を伏せて、静かに言った。
「……なあ、もう辞めねえか?」
桐吾は、目を見開いた。
5
「……なあ、もう辞めねえか?」
拓海がそう言ったとき、桐吾は思わず息を呑んだ。街灯の明かりが、拓海の横顔を淡く照らしていた。
「は……?」
桐吾は、聞き返すように声を漏らした。 その言葉の意味はわかる。 でも、どうしてそんなふうに言うのかが、まったく理解できなかった。
「オレの調子も戻ってきたし、こんな茶番、そろそろ終わりにしようぜ…… 」
その言葉に、桐吾は顔をしかめた。 突き放すような響き。 まるで、ふたりで過ごした時間を否定されたような気がした。
桐吾は、拳を握りしめた。 言葉を選ぶ余裕はなかった。 ただ、感情が先に口を突いて出た。
「……ふざけんなよ」
拓海が、びくりと肩を震わせた。
「茶番って、なんだよ。 お前のこと考えて、一緒に飯食って、寝て、散歩して、ベンチでジュース飲んで…… それが“茶番”か?」
「……茶番だろ?」
「どういう意味だよ?!」
桐吾の声は、少しだけ荒れていた。 でも、それは怒りというより、悲しみに近かった。
「……ずっと、お前無理してんだろ?」
「してねえよ……」
「大学の課題も忘れるくらい、オレに付き合ってるだろ……」
「……」
その言葉に、桐吾は何も言い返せなかった。 確かに、課題の提出を忘れた日もあった。 バイトのシフトをずらしたこともあった。 でも、それは“無理”じゃない。 “必要”だったからだ。
「……オレがそばにいたいだけだ」
「それが、無理してるってことだよ。わかるだろ?」
拓海の声は、静かだった。 でも、その静けさが、桐吾の胸を刺した。
「勝手に決めんなよ」
桐吾は、拓海の腕を掴んだ。 その手は、少しだけ震えていて、すぐに振り払われた。
「オレはもう……もうこんだけで……一緒にいるだけで十分だ…… 今までありがとな…。楽しかった。もうオレ、シェアハウス出ていくから…」
拓海は、目を合わさなかった。 視線は地面に落ちたまま、声もどこか遠くにあるようだった。
(まただ)
桐吾は、胸の奥に苛立ちが込み上げてくるのを感じた。 言い訳だ。 また、逃げようとしている。
(なんで、そうやって誤魔化す……? なんで、素直にならねえ……?)
拓海の言葉は、優しさのようでいて、自分から距離を置こうとしているようにしか聞こえなかった。
「オレは!」
「……」
「まだまだ“足りねえ”って思ってる。 もっと話したいし、もっとお前に笑ってほしいって思ってる!」
拓海は何も言わなかった。 ただ、唇を噛んで、目を伏せていた。 その肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
「もういいだろ…?」
「よくねえだろ?! お前だって、もっとしたいことあんじゃねえのか?!」
拓海は一瞬目を見開いた。 街灯に照らされた顔が、赤くなった気がした。
「もう、ねえよ……」
「したいこと言えよ?! 言わなきゃわかんねえだろ!!」
「……」
「お前がしたいことは何でもするから…!恋人なんだろ!」
「っ…んなこと、今までだって、したことねえよ……!」
「あ……?」
「言っただろ……? 恋人らしいことなんか、何一つしてねえって。 手も繋いだこともねえし、キスもしたことねえよ……!」
「するか……?」
桐吾の問いに、拓海はすぐに首を横に振った。
「いやだ……っ」
「なんでだ……?」
桐吾は眉間に皺を寄せる。 拓海は唇をきゅっと結び、何も答えなかった。 沈黙が落ちる。
「怖いのか…?」
桐吾が静かに問いかけると、拓海の肩が小さく震えた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「ああ、そうだよ……。怖いに決まってるだろ……! いつか絶対、別れるのに……! お前は絶対に後悔するに決まってる……。きっと、あのとき付き合わなきゃよかったって思うんだ……。だから、もうこれで十分……。ここで終わりにしようっつってんだよ……! てめえも、ちょっとは考えろよ……!」
拓海の声は震えていた。
けれど――桐吾は、拓海の言葉にカチンときて怒鳴った。
「んなこと知るか……! オレは『今』、てめえと一緒にいてえんだ。 終わりにはしたくねえ……! てめえはどうなんだよ……?!」
拓海は、また口を閉ざした。 答えを出すことができず、ただ黙っていた。 その沈黙が、夜の空気に溶けていく。
このままでは埒が明かない―― そう思った桐吾は、拓海に一歩近づき、そっとその手を取った。
「な、なんだよ……?」
拓海は目を見開き、うろたえる。 桐吾はその指に、自分の指を絡ませた。
「なにす……?!」
拓海は慌てて手を振りほどこうとする。 けれど、桐吾はその手をしっかりと握り、拓海をこちらに向かせる。
そして―― 手を壁に押し付けるようにして、 そのまま、唇を重ねた。
一瞬、拓海の身体がびくりと震える。 けれど、桐吾は離さなかった。 その唇は、優しくも強く、拓海の心を揺らした。
「やめっ…!っ…!」
拓海が声を上げると、桐吾はその柔らかい唇をついばんで、離した。
「キスしたな…」
「バカ……! お前が後悔するんだぞ……!」
拓海は睨んで怒鳴った。 目は怒りに燃えているようで、どこか怯えてもいた。
「しねえ」
桐吾は、迷いのない声でそう言った。 その言葉に、拓海は舌打ちして唇を噛む。
「くそっ……こっちが、てめえの逃げ道用意してやってんだろ……!」
「誰がそんなこと頼んだ……? オレは逃げねえ……」
「……言い訳もできねえぞ……!」
「するつもりもねえ」
ああ言えばこう言う。 桐吾の真っ直ぐすぎる言葉に、拓海はなおも食い下がる。
「なんでそんなに?!」
「お前が好きだから。オレのできることを全部やりたいだけだ。 一緒に飯食って、散歩して、映画観て、手繋いで、キスして…… てめえが望むなら、何でもする。 それが、オレの“したいこと”だ」
拓海の耳から首まで赤く染まる。
「バカじゃねえの!!」
その叫びは、怒りというより、照れ隠しのようだった。 桐吾の言葉が、あまりにも真っ直ぐすぎて、どう受け止めていいかわからなかった。
「バカでいい。 てめえの隣にいられるなら、それでいい」
桐吾はただ、真剣な目で拓海を見つめる。その目には、計算も駆け引きもなかった。拓海を想う気持ちだけが、そこにあった。
拓海は、何も言わずに目を伏せた。
桐吾は、あんまり難しいことを考えていない。 でも、考えられる限りのことを考えて、 自分にできることを全部差し出そうとしている。 その“バカなりの誠実さ”が、拓海の心を強く揺さぶった。
「……今だけだ」
拓海は、ぽつりと呟いた。 桐吾が目を見開く。
「お前が飽きるまでなら、仕方ねえから付き合ってやる」
その言葉に、桐吾は一瞬、言葉を失った。 でも、拓海は続ける。 言葉の勢いに乗せるように、次々と条件を並べていく。
「でもな、飽きたらなるべく早く言えよ。 ダラダラされんの、性に合わねえから」
「……あ、ああ」
「あと、勝手に手ぇ繋ぐな。オレが許可したときだけだ。 キスも、勝手にすんな。次やったらぶん殴る」
「……ああ?」
桐吾は顔をしかめる。 その表情には、呆れと少しの苛立ちが混じっていた。 でも、拓海は止まらない。
「それと、デートとか言って甘いもんばっか連れてくなよ。 太るだろ。人混みとか嫌いだから混んでるところもパスだ。 コーヒーは砂糖もミルクもいらねえ、いい加減オレの好みくらい覚えろ」
桐吾の眉間に、深い皺が刻まれていく。 聞けば聞くほど、条件が増えていく。 けれど――その次の言葉が、空気を変えた。
「あと……軽々しく『別れる』とか言うな……」
その声は、急に弱々しくなった。 拓海は、目を伏せたまま、言葉を絞り出すように続ける。
「……本気で別れたいときだけ、言ってくれ……、オレもそうするから……」
沈黙が落ちた。 桐吾は、目を見開いたまま、拓海を見つめる。 拓海の口から、そんな言葉が出るなんて思ってもいなかった。
こんな拓海は知らない。 強がって、突き放して、いつも余裕ぶっていたはずの拓海が、今は不安を隠しきれずにいる。
(……本当に、オレのこと好きなんだ)
その気持ちが、言葉の端々から伝わってくる。
「条件、多いな……」
「うるせえ。仕方ねえからだっつってんだろ。 オレが“お前と付き合ってやる”って言ってんだから、ありがたく思えよ」
拓海は、顔をそむけた。 耳まで真っ赤だった。
桐吾は、しばらく黙っていたが―― やがて、ふっと笑った。
「ああ……ありがとな」
その言葉に、拓海はさらに顔をそむけた。 耳の赤みが、首元まで広がっている。
「……くそっ」
拓海は小さく呟いた。
その夜、ふたりはシェアハウスの近くまで、手をつないだまま帰った。 夜風が少し冷たくて、でも手の温もりがそれを忘れさせてくれる。
「……離せよ」
拓海がぼそりと言った。 でも、桐吾は手を離さなかった。
「……いやだ」
「は?なんでだよ」
「離したくないから」
拓海は、言葉に詰まった。 桐吾を睨む。
「……お前、条件聞いてたか?」
「聞いてたよ。許可が出たら繋いでいいって言ったろ? 今、怒ってないってことは、許可出てるってことでいいんだよな?」
「……勝手に解釈すんな」
「じゃあ、怒ってみろよ」
「……うるせえ」
拓海は、顔をそむけた。 でも、手はつながれたままだった。
そして、シェアハウスの玄関前。 拓海は、そっと手を引いた。
「……今日は、特別だ。勘違いすんなよ」
「ああ」
桐吾は頷いて、ドアを開けた。
番外編 失われた告白
その夜、拓海は大学の仲間と飲み会があったらしく、夜遅く帰ってきた。 珍しく酔っぱらっていて、いつもなら真っ先に風呂に行くのに、服も着替えないまま床に座り込んだ。
「たらいまー…。あー、さすがに飲みすぎた…」
「……ん」
桐吾は大学の課題に四苦八苦していた。 ちらりと拓海の方を見て、また課題に目を戻す。
拓海は、ふらふらと桐吾の傍ににじり寄ってきた。
「まだ課題できてねえのかよ…?」
ニヤリとしながら、桐吾の手から資料を奪う。 かかる息は、確かに酒臭い。
「返せ…っ!てめえ、酔っぱらってんなら、早く寝ろ。オレももう寝る…」
「待て…」
資料を取り返し、立ち上がろうとした桐吾の腕を、拓海が掴んだ。
「なんだ…?」
「…あー…」
呼び止めたくせに、なかなか話し出そうとしない。 顔は赤く、目はどこか泳いでいる。 かなり酔っているのか、それとも――
「早くしろ…」
桐吾は疲れと眠気で、大きなあくびをした。
「…あのさっ、」
「あ…?」
「少しでいいから…、付き合ってくんねえか?」
「……どこにだ?」
「……ああ…、てめえならそう来るよなあ…」
拓海はうなだれ、長い溜息をついた。 そして、少しだけ顔を上げて、そっぽを向いたまま言った。
「そうじゃねえ…、恋人になってくんねえかってハナシ…」
「はあ…?」
桐吾は、思わず聞き返した。 冗談かと思ったが、拓海の手は熱く、そして微かに震えていた。 その目は、酔っているはずなのに、どこか真剣だった。
「……お前、酔ってるだろ」
「……」
「……なんでオレなんだよ」
桐吾がそう問いかけると、拓海はぴたりと口を閉ざした。 沈黙が、部屋の空気を重くする。 埒が明かない。 またいつもの質の悪い冗談か。 酔っぱらいの戯言か。それとも、シェアハウス内での罰ゲームか――そんな考えが頭をよぎる。
だが、拓海の顔は笑っていなかった。 冗談を言うときの、あの軽い目つきじゃない。 言いにくそうに、唇を動かす。
「なんつーか…、てめえのことが…かも…」
その声は、掠れていた。 『スキ』と聞こえたような気がしたが、桐吾は確信が持てなかった。 聞き間違いかもしれない。 だが、拓海の表情は冗談とは思えない。
「……お試しでいい」
「……?」
「1カ月…いや、1週間でいい…。付き合ってみて、ダメなら、きっぱり無かったことにする…」
桐吾は言葉を失った。 目の前の拓海は、いつもの自信満々な男ではなかった。 肩を落とし、視線を泳がせながら、それでも言葉を絞り出している。
「気持ち悪かったら、このシェアハウスも出ていくし…、誰にも言わねえ…。 てめえには絶対、迷惑かけねえようにする…」
そこまで言うと、拓海は唇を噛んだ。 その仕草は、見ているこちらが痛くなるほどだった。
告白は、何度かされたことはある。 だが大学とバイトに手一杯だったし、恋愛に興味もなかった。 女とも付き合ったことがないのに、男と、しかも拓海となんて――どうすればいい?
「付き合うって…どうすんだ…?」
桐吾は、思ったままを口にした。 拓海の気持ちを否定するつもりはなかったが、どうしていいかわからなかった。 “恋人”という言葉から、自分たちはあまりにも遠い。
拓海は、少しだけ目を伏せて、ぽつりと答えた。
「…別に、付き合っても、恋人っぽいことが無理そうなら、何もしなくていい…。 ただ一緒にいてくれるだけでいい…」
その言葉は、まるで祈りのようだった。 それなら、今までと大して変わらない。 けれど、拓海の顔は可哀相なほど赤く染まり、今にも泣きそうな不安げな表情をしていた。 いつもの拓海からは想像できない――その姿に、桐吾は胸がざわついた。
桐吾が驚いて黙っていると、拓海は俯いて、桐吾の腕をパッと離した。
「…なーんてな、冗談、冗談…。早く寝て、今のは忘れろ…」
声は軽く装っていたが、手が震えていた。 ぎこちない動作で桐吾と反対を向くと、背中越しに伸びをして「風呂入ってくるか~」と呟く。
その背中に、桐吾はぽつりと声をかけた。
「……別にいいぞ」
「え…?」
拓海がゆっくりと振り返る。目を丸くして、桐吾を見つめた。
気がつけば、桐吾はそんなことを言っていた。 終わらない課題と、眠気で思考が鈍っていたのかもしれない。 でも――
『ただ一緒にいるだけでいい』 そう願う拓海の言葉に、嘘は感じなかった。 むしろ、あの震える手と、今にも泣きそうな顔が、何よりも本気を物語っていた。
「……試しに付き合ってみるか?」
拓海は目を見開いたまま、しばらく言葉が出なかった。その沈黙が、まるで時を止めたように感じられた。
「マジ…?」
「……ああ」
「……ん」
拓海は、はにかむように笑った。
赤く染まった顔が、心底嬉しそうで―― その笑顔を見た瞬間、桐吾の胸が、じんわりと熱くなった。 その時、この男を―― 『愛しい』と、思ったんだ。
番外編 失われた記憶
桐吾と初めて会ったとき、 自分の「人生チート状態」は、いとも簡単に打ち砕かれた。
何でもそつなくこなしてきた。 人付き合いも、勉強も、バイトも。 努力はしてきたけれど、どこかで「自分は器用な方だ」と思っていた。
だからこそ、桐吾の存在は衝撃だった。
不器用で、大雑把で。 なのに、妙に芯がある。 変なとこ真面目で、無口で、でも根は優しい。 自分とは、まるで正反対だった。
そんな桐吾と、シェアハウスで同室になった。
最初は、ただただイラついた。 服も靴下も脱ぎっぱなし、物も出しっぱなし、本や教科書は雑に置くし、会話も必要最低限。 「もう少し気を使えよ」と何度言ったたか、わからない。
でも――気がつけば、目で追っていた。
無口な桐吾が、ふと笑った瞬間。 自分の見ていた映画を横から見て、自分より先に泣いていたり。表現は不器用で下手くそだけど、意外と優しいところ。 そのすべてが、気になって仕方なかった。
腹立たしいのに、目が離せない。 思い通りにならないのが、悔しくて、苦しくて――でも、どうしてか惹かれていた。
気がつけば、バカみたいに好きになっていた。
でも、そんなことは言えるはずもなく、ずっとひた隠しにしてきた。
大学を卒業すれば、きっとこれから、自分たちの歩む道は違ってくる。 シェアハウスを出るメンバーもいて、いずれ自分も、桐吾も、ここを離れる。 そうなれば、彼との接点は何一つ無くなってしまうだろう。
今までだって、仲が良いわけではなかった。 同じ部屋だったからこそ、関わることができた。 それがなければ、きっと話すこともなかった。
いつも自分ばかりが話しかけて、突っかかっていって。 桐吾から絡んでくることは、ほとんどない。
脈どころか、何もないことはわかっていた。 それでも――
(何か一つでもいいから…、オレのこと覚えててくれねえかな…)
そう思った。 だから、苦肉の策で、酔ったフリをして告白した。何もしないではいられなかった。
振られたら、冗談にすればいい。 「酔ってたから」って言えば、全部なかったことにできる。 それでも、少しでも自分のことを、桐吾の記憶に残せるなら――それでいいと思っていた。
『……別にいいぞ』
その言葉に、心臓が止まりそうになった。世界がひっくり返った気がした。
まさか、OKされるなんて、思ってもいなかったんだ。
*
それからの拓海は、できる限りの時間を桐吾と一緒に過ごそうとした。
朝のランニング。 「お前、意外と走れるんだな」と桐吾が言ったとき、拓海はちょっとだけ得意げに笑った。 筋トレも一緒にしてみた。腕立て伏せの回数を競って、負けると悔しそうにする桐吾が、なんだか可愛かった。
一緒にご飯を食べたり、映画を見たり。 「この映画、意味わかんなかったな」と桐吾がぼそっと言うと、拓海は「それな」と笑って、ポテチを差し出した。
一度だけ、散歩がてらチーズケーキの美味しいカフェに連れて行ったときは、桐吾が目を丸くして「……うまい」と呟いた。 その一言が、拓海にはたまらなく嬉しかった。 自分も美味しかったけれど、それ以上に、桐吾が喜んでくれたことが嬉しかった。
雨の日には、傘を持って駅まで迎えに行った。 「なんで来たんだよ」と言われても、「コンビニのついでだ」と誤魔化した。 本当は、ただ二人の時間が過ごしたかっただけ。
ゲーム仲間の三谷さんとの時間も減らして、桐吾のバイトや課題の邪魔にならないように気をつけた。
自分でも、こんな自分がいるとは思わなかった。
拓海は、桐吾に言ったとおり、恋人らしいことは何も求めなかった。 手を繋ぐことも、キスも、ハグも――一切なかった。 ただ、傍にいるだけ。
時々、ふたりで出かけることもあった。 買い物のついでだったり、大学の用事だったり。 それはデートとは呼べないものだったが、拓海にとっては十分だった。
ケンカもしょっちゅうした。 拓海が余計なことを言ったり、桐吾が無口すぎて苛立ったり。 言い合いになって、気まずい空気が流れることもあった。
そんな時、拓海はコンビニスイーツを買って、部屋に帰った。 「……これ、やるよ」と言いたいのに、喋れば涙が出そうで、結局何も言えずに黙っていると――
「……悪かった」
桐吾がぽつりと呟いた。
拓海は、はっとして顔を上げた。
「……え?」
「言いすぎた」
「……別に」
拓海はその度に安堵した。また隣にいることを許されたのだと。お試しの一週間なんてとうに過ぎて、それでも桐吾から何も言われなくて、そのまま過ごしていた。
傍から見れば、ただの男友達。 それでも、桐吾の一番近くにいられることが、この上なく嬉しかった。
(あと何日、こうしていられるんだろうな…)
そう思いながら、拓海は桐吾の隣を歩いた。 肩が触れそうで、触れない距離。 それでも、心はずっと、桐吾のそばにあった。
*
桐吾が事故に遭ったと聞いたとき、拓海はすぐに病院へ駆けつけた。 白いシーツの上で静かに眠る桐吾の姿を見て、胸が締めつけられた。 そして、桐吾が目を覚ました瞬間――拓海はすぐに悟った。
「……なんか、近くねえか?」
その一言で、すべてが崩れた。
もしかしたら、ケンカしていたから、意地を張っているだけかもしれない。 ウソかもしれない。そう思いたかった。
だが、桐吾が器用にウソをつける人間ではないことを、拓海はよく知っていた。桐吾はいつだって真っ直ぐで、不器用で、誠実だった。
だからこれは――事実だ。
あんなに楽しかった時間が、一瞬で崩れ去る。 一緒に走った朝、並んで食べたスイーツ、何気ない会話。 全部、桐吾の中から消えてしまった。
(どうせ、いつまでも続くはずはないと思ってた)
拓海は、静かにそれを受け入れた。いずれ、離れる運命だったと。
それでも、心のどこかで―― 「もしかしたら、ずっと一緒にいられるかもしれない」 そんな希望を抱いてしまっていた。
だからこそ、今――
(もう、終わりにしないとな…)
拓海は、ぽつりと呟いた。
「…大家さんに電話してくるわ」
そう言って、拓海は病室を出た。 背中を向けた瞬間、涙がこぼれそうになった。
*
「拓海、どうした? 大丈夫か…?」
部屋で映画を見ながら、ふとボーッとしていた拓海に、桐吾が声をかけた。
「……別に」
拓海は、短く答えた。
あのとき失った記憶は、今も戻らない。 桐吾は、拓海と付き合った時間をすっかり忘れてしまった。告白も、一緒に過ごした日々も、笑ったことも、喧嘩していたことも――全部。
自分で『終わらせる』と決めた。それなのに、こんなにも心と体が悲鳴をあげるなんて、思ってもいなかった。
思い出すと胸が、ぎゅっと締めつけられる。 桐吾が忘れたくらいで、息もできないほど苦しくなるなんて―― そんな自分が、情けなくて仕方なかった。
「……顔色、悪いぞ。無理すんな」
桐吾が、少しだけ眉を寄せて言った。
「……うるせえな。ちょっと寝不足なだけだ」
終わらせようとしていたときは、苦しくて、でも―― 諦めきれないほど、桐吾が好きだった。
「なあ、桐吾…」
「……あ?」
「てめえは、オレのどこが好きなんだ…?」
桐吾は止まり、拓海の顔をじっと見つめた。 目が合った瞬間、拓海は思わず視線を逸らした。
沈黙が、じわじわと重くなる。
「いや…、やっぱなんでもねえ。別にいいや…」
拓海は、慌てて言葉を打ち消した。 聞いた自分がバカだったと、後悔しかけたそのとき――
桐吾が、そっと拓海の頬に触れた。
「……なんでも器用にこなすのに」
「っ…?」
拓海は、驚いて桐吾を見た。
「時々、不器用になるところ…?」
「はぁ…?! てめえのが不器用だろっ…!」
恥ずかしさが込み上げて、拓海は踵で桐吾の脛を軽く蹴った。
「痛ぇ…っ!」
桐吾は少しだけ眉をしかめたが、すぐに続けた。
「あと、いつも澄ましてるのに… 時々、俺の前でする顔とか…?」
「……顔って、どんなだよ」
「……なんか、いつもは素直じゃねえけど、素直な顔。オレしか知らねえんじゃねえかって思うと、悪くない」
「……っ」
拓海は、言葉を失った。 胸の奥が、じわりと熱くなる。
桐吾に見られているのがわかり、拓海は思わず顔を隠そうとした。 だが、桐吾がそっとその手を止めた。
「……ああ、そういう顔。 かわいいと……思う」
「……~~~っ?!?!」
拓海は、今、自分がどんな顔をしているのか――絶対に知りたくない。 きっと情けなくて、照れくさくて、目も当てられない顔だ。
それなのに、それを『かわいい』なんて言われるなんて――
「……てめえ、何言ってんだよ…」
拓海は、声を絞り出すように言った。 けれど、桐吾は真剣な目で拓海を見つめていた。
「なあ、ここを出たら、一緒に住むか?」
「え…?」
「一緒に住むだろ?」
桐吾は、まるで当たり前のことのように言った。 その言葉に、拓海は一瞬、言葉を失った。
「…っ!だから…!てめえ、本当に逃げ道無くすぞ…!」
「逃げねえって言ってるだろ。てめえこそ、オレと離れるの無理だろ…?」
「っ…!」
「離れたら、また飯食えなくなるだろ」
「食えるし…!」
「夜も眠れなくなって、泣くだろ」
「泣かねえよ…っ!!」
「ウソつけ…」
桐吾が溜息を吐いた瞬間、拓海の肩が小さく震えた。
「ウソじゃねえよ…! 一生一緒になんて…、いられるわけねえだろ…!」
声は荒い。 でも、その奥にあるのは、恐れだった。 期待してしまう自分が怖い。 信じてしまう自分が、何より怖かった。
「でも、一緒にいてえんだろ…?」
桐吾は、静かに拓海の顔を覗き込む。 その目は、まっすぐに、拓海だけを見ていた。
拓海は唇を噛んだ。 言葉が出ない。 心が、ぐちゃぐちゃだった。
「…っ、…クソッ…!!」
そう言って、桐吾の胸を拳で叩く。 力は入っていない。 けれど、感情はこもっていた。
「痛ってえな…」
桐吾は顔をしかめながらも、拓海の身体を抱き寄せた。 その腕は、迷いなく、優しかった。
「おいっ!」
「拓海」
「んだよ!」
「……好きだ」
その言葉に、拓海は息を呑んだ。 心臓が跳ねる。 頭が真っ白になる。
拓海は、何と答えていいかわからず、口を噤んだ。 でも、桐吾の腕の中は、あたたかかった。
(コイツが飽きるまででいい。 もう少しでいい。 こうしていたい…)
「ん…」
拓海は、桐吾の胸に顔を埋めながら、小さく頷いた。 その「ん」は、照れ隠しでもあり、覚悟でもあった。
おしまい
89
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