愛か、運命か(仮)

万里

文字の大きさ
1 / 4

1

しおりを挟む
 夕暮れ時、都心の喧騒から少し外れた古いアパートの一室。凪(なぎ)は狭いキッチンに立ち、スーパーの半額シールが貼られた鶏肉をフライパンで炒めていた。 換気扇の回る音、焦げた醤油の香ばしい匂い。それらは凪にとって、何物にも代えがたい「平穏」の証だった。

「ただいまー。……あー、今日も腰にきたわ」

 玄関のドアが開く音と、少し野太い、けれど安心させる声。大和(やまと)が帰ってきたのだ。土木施工管理の仕事をしている大和は、いつも作業着をコンクリートの粉で白く汚し、汗と外気の匂いをさせて帰ってくる。

「おかえり。……何その顔、ニヤニヤして。気持ち悪い。こっち寄るな、埃が舞うだろ」 
「はは、手厳しいな。でも、飯の匂いと凪の声がすると、ようやく今日が終わって生きてるなーって思うんだわ。ほら、これお土産」

 大和が差し出したのは、人気店のロゴが入ったコンビニの新作スイーツだった。凪は「無駄遣いすんな、貧乏人のくせに!」と悪態をつきながらも、差し出された袋をひったくるように受け取る。

「……一個しかないのかよ」 
「俺はいいんだ。凪が旨そうに食ってんの見るのが、俺の幸せだからな」 
「……ふん。勝手にすれば」

 凪はそっぽを向きながら、皿をテーブルに並べる。口では冷たく突き放すが、その頬は隠しきれずに緩んでいた。


 この世界には、男女という性別の他に、三つの「属性」が存在する。 社会の頂点に立つ支配者層、強大な力とカリスマ性を持つα(アルファ)。 全人口の約八割を占め、平穏な一生を送るβ(ベータ)。 そして、数こそ少ないが、αを惹きつける特殊なフェロモンを放ち、生殖の道具として扱われてきたΩ(オメガ)。


 凪はΩ(オメガ)だ。中学生の頃に発現して以来、世界中の何よりも自分の属性を呪ってきた。けれど、β(ベータ)である大和だけは違った。

 三年前、雨の降る夜。 強烈なヒートで動けなくなっていた凪に、仕事帰りだった大和が声をかけた。Ωのフェロモンを一切感知しない大和は、凪が放つ「毒」をものともせず、自分の分厚い作業着を凪に被せたのだ。

『……おい、大丈夫か? 顔真っ赤だぞ、熱あんのか』

『や、やめろ……!俺、Ωなんだよ……! 近寄るな!』 

『あ? 悪い、俺βだからそういうの分かんねえんだわ。それよりお前、震えてんじゃん。……ほら、捕まってろ。病院連れてくから安心しろ』

 鉄と砂の匂い。重くて、不格好で、けれど驚くほど温かいその上着に包まれた瞬間、凪を支配していた「恐怖」は、大和という「体温」に溶かされて消えたのだ。大和の大きな背中で流した涙を、凪は今でも覚えている。



 それ以来、二人はこのボロアパートで寄り添うように暮らしている。 凪の細い首には、常に黒いレザーのカラー(首輪)が巻かれている。それは大和が凪を守るために買った、番防止用のカラーだった。他のαから身を守るための、凪にとっては命の次に大切な盾だ。

「ほら、大和。風呂先に入れ。冷めるだろ」
「おお。……あ、凪。カラー、外すか?」

 大和が、大きな手で凪の首元に触れる。その手の中には、小さな銀色の鍵が握られていた。 このカラーは、鍵を持つ大和にしか外せない。外に出る時は「守るため」に締め、家の中では「苦しくないように」と大和が外してくれる。それが二人の、言葉にしない約束だった。

 カチリ、と小さな金属音がして、ずっと首に馴染んでいた重みが消える。 解放感と共に、大和の手の熱が直接肌に伝わって、凪は少しだけ耳を赤くした。

「……なあ、一緒に風呂入るか?」 
「はぁ!? バーカ! 誰がお前みたいな暑苦しいのと入るかよ、狭いだろ!」

 凪は真っ赤になって大和を突き放す。 

「そんなに赤くなんなくてもいいじゃねーか。減るもんじゃないだろ」 

 笑いながらタオルを掴む大和に、凪は「うるさい、早く行け!」と脱衣所へ押し込んだ。

 バタン、とドアが閉まる音。 一人になったキッチンで、凪は自分の首元をそっと撫でる。 鍵を預けている。それは、自分の命も心も、すべてを大和に委ねているということだ。

「……一緒に入るわけないだろ、のぼせちゃうじゃんか……」

 消え入るような声で独り言をこぼしながら、凪は幸せな溜息をついた。運命なんて、本能なんて、知ったことか。 俺は、この泥臭くて温かい体温だけを信じて生きていく。凪はスイーツの袋を大切そうに冷蔵庫へしまった。

 *

 翌日。凪はいつものように、路地裏にある落ち着いたカフェで働いていた。 そこは、Ωに対して理解のある初老の店主が経営する、凪にとって唯一の「外の居場所」だった。抑制剤さえ飲んでいれば、一人の店員として扱ってもらえる。

「凪くん、テラス席の片付けをお願いできるかな?」 
「あ、はい。今行きます」

 昼下がりの混雑が一段落し、店内には穏やかなジャズが流れている。凪がトレイを手にテラスへ出た、その時だった。

 空気が、一瞬で凍りついた。

 道を通りすがった男。仕立ての良いスリーピースのスーツを纏う男から、暴力的なまでのαのフェロモンが放たれていた。

(……何だ、この人……っ)

 凪の指先が、目に見えて震え始める。 これまで出会ってきたどんなαとも違う。高級なシガーと、どこか冷たい雪のような香り。それが肺の奥まで入り込み、凪の細胞を一つ残らず服従させようと暴れ出す。

 男――鷹志(たかし)が、不意にこちらに視線を向けた。 眼鏡の奥の鋭い瞳と、凪の瞳が真っ向からぶつかる。

 その瞬間、世界から音が消えた。 凪の項にある腺が、ドクン、と大きく脈打つ。 「運命の番」。 物語の中でしか聞いたことのないその言葉が、雷に打たれたような衝撃を伴って凪の脳を焼き切った。凪の手からトレイが滑り落ちる。相手も同じだということは、鷹志の瞳が獲物を定めた猛獣のように細まったことで、すぐに分かった。

「……こんなところにいたのか、俺の運命は」

 鷹志の声は低く、凪の脊髄に直接響くような重圧を持っていた。

「な、何を言ってるんですか……っ。勘違いです」 
「嘘をつけ。お前も、気づいているんだろう?俺たちが『運命の番』だということに」 
「意味がわからないです、失礼します……!」

 凪は逃げるように踵を返そうとした。だが。

「待て」

 その一言は、短いながらも絶対的な「命令」だった。αの強い意志が乗った言葉に、凪の身体は自分の意思を裏切って、石のように固まってしまう。

「ひ……っ」 
「俺の番になれ」
「い、嫌だ!」
「お前にとっても悪いことじゃないだろう?」

 鷹志はゆっくりと近づいた。鷹志の大きな体が、凪に巨大な影を落とす。彼は懐から取り出した名刺を、凪の震える胸ポケットへねじ込んだ。

「仕事が終わったら、連絡しろ。迎えに来る」 
「す、するわけないだろ……!」

 凪は必死に声を絞り出す。

「お、俺には……付き合ってる人がいるんだ! だからあんたなんて、必要ない……!」

「……付き合っているだと? ならば、どうして番になっていない」

 鷹志は凪の震える瞳を覗き込み、形の良い唇を冷たく歪めた。

「相手はβか。……無意味だな。βが、Ωの渇きを癒せるとでも思っているのか? そんな安物のカラーをつけて何の意味がある?」

「う、うるさい!! 大和を……俺の大切な人を馬鹿にするな!」

 凪は声を荒らげたが、身体は裏腹に、鷹志の放つ猛烈なフェロモンに屈服しかけていた。膝がガクガクと震え、意識が遠のきそうになる。

「悪いようにはしない。これはお互いのためだ。本能に逆らう必要はない」

 鷹志は一歩踏み出し、凪をテラスの壁際へと追い詰めた。至近距離で浴びせられる圧倒的な支配者の香りに、凪の呼吸が浅くなる。

「必ず、連絡をしろ。……さもなければ、今この場で、無理やり番にしてやろうか。そうなれば、お前の大切な人とやらは、二度と触れられないだろうな」

 耳元で囁かれた低く残酷な脅しに、凪の顔から血の気が引いた。

「……っ、……あ……」

 鷹志は満足げに目を細めると、凪の強張った頬を指先で一度だけ、愛おしむように撫でた。

「待っている」

 鷹志はそれだけを残し、一分の隙もない足取りで雑踏の中へと消えていった。

 取り残された凪は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。 胸ポケットには、冷たい呪いのような名刺。そこから漏れ出す鷹志の残香が、まるで首輪とは別の見えない鎖のように凪を縛り付けている。

 首元のカラーは、持ち主である大和の助けを呼ぶように、いつまでも熱く、激しく脈打っていた。



 大和が帰ってきたとき、凪は玄関の床に座り込んで震えていた。

「ただいま、凪。悪い、ちょっと遅く……って、凪!?」
「大和……、大和……っ!」

 凪は大和に抱きつき、声を上げて泣き出した。大和は驚き、凪を抱き上げて居間のソファに座らせる。その震える手を、大きな掌で包み込んだ。

「何があった? 落ち着いたら話してくれ」 
「……っ、運命、が……運命の、番が……っ。今日、バイト先に来て……名刺を渡されたんだ。連絡しろって、逆らったら、その場で番にするって、脅されて……」

 凪は泣きながら、床に落ちた名刺を指差した。 

「でも連絡なんてしてない! 俺が好きなのは大和だけなんだ。αなんか、運命なんて関係ない、俺は大和がいいんだ……っ。だから、捨てないで、お願い……っ、俺を嫌いにならないで……!」

「――何言ってんだ」

 大和は凪の言葉を遮るように、その逞しい腕で凪を強く抱きしめた。

「わかってる。わかってるよ、凪。お前を捨てるわけねぇだろ……!」

 大和の作業着からは、いつものように安らぐ木の匂いと、今日一日の労働を物語る汗の匂いがする。 一番愛している匂い。世界で一番、安心するはずの場所。

 けれど、大和に強く抱きしめられるたびに、凪の身体は残酷な反応を返してしまう。 Ωの本能が疼き、「あの男」の香りを思い出させようとする。細胞の一つ一つが、番であるαを呼べと狂ったように叫び、大和の腕の中でもがこうとするのだ。

 心は愛を叫んでいるのに、身体が愛する人を拒絶しようとする絶望。

「俺が、お前を離さない。たとえ運命が相手でも、絶対にだ」

 大和の言葉を聞きながら、凪はただ、止まらない涙を流し続けた。 自分たちの温かな日常が、たった一夜で、音を立てて崩れ去っていくようだった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

不器用なαと素直になれないΩ

万里
BL
美術大学に通う映画監督志望の碧人(あおと)は、珍しい男性Ωであり、その整った容姿から服飾科のモデルを頼まれることが多かった。ある日、撮影で写真学科の十和(とわ)と出会う。 十和は寡黙で近寄りがたい雰囲気を持ち、撮影中もぶっきらぼうな指示を出すが、その真剣な眼差しは碧人をただの「綺麗なモデル」としてではなく、一人の人間として捉えていた。碧人はその視線に強く心を揺さぶられる。 従順で可愛げがあるとされるΩ像に反発し、自分の意思で生きようとする碧人。そんな彼の反抗的な態度を十和は「悪くない」と認め、シャッターを切る。その瞬間、碧人の胸には歓喜と焦燥が入り混じった感情が走る。 撮影後、十和は碧人に写真を見せようとするが、碧人は素直になれず「どうでもいい」と答えてしまう。しかし十和は「素直じゃねえな」と呟き、碧人の本質を見抜いているように感じさせる。そのことに碧人は動揺し、彼への特別な感情を意識し始めるのだった。

αとβじゃ番えない

庄野 一吹
BL
社交界を牽引する3つの家。2つの家の跡取り達は美しいαだが、残る1つの家の長男は悲しいほどに平凡だった。第二の性で分類されるこの世界で、平凡とはβであることを示す。 愛を囁く二人のαと、やめてほしい平凡の話。

運命じゃない人

万里
BL
旭は、7年間連れ添った相手から突然別れを告げられる。「運命の番に出会ったんだ」と語る彼の言葉は、旭の心を深く傷つけた。積み重ねた日々も未来の約束も、その一言で崩れ去り、番を解消される。残された部屋には彼の痕跡はなく、孤独と喪失感だけが残った。 理解しようと努めるも、涙は止まらず、食事も眠りもままならない。やがて「番に捨てられたΩは死ぬ」という言葉が頭を支配し、旭は絶望の中で自らの手首を切る。意識が遠のき、次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。

【創作BLオメガバース】優しくしないで

万里
BL
壮士(そうし)は男のΩ。幼馴染の雅人(まさと)にずっと恋をしていた。雅人は太陽のように眩しくて、壮士の世界を変えてくれた存在。彼の影を追うように、同じスポーツを始め、同じ高校に進学し、ずっと傍にいた。 しかし、壮士のヒートのせいで、雅人も充てられて発情してしまう。壮士は必死に項を守り、番になることを拒む。好きだからこそ、こんな形では結ばれたくなかった。壮士は彼の幸せを願って別の大学へ進学する。 新しい環境で出会ったのは、α・晴臣(はるおみ)。彼もまた、忘れられない人がいるという。 互いに“好きな人”を抱えたまま始まる関係。心の隙間を埋め合うふたり。けれど、偽りのはずだったその関係に、いつしか本物の感情が芽生えていく?

明日、また

万里
BL
大学時代からのライバルが死んだ。 亡くなる1か月前に、会ったばかりだったのに。 周りの人間は知っているのに、どうして自分だけが伝えてもらえなかったのか…。

愛と猛毒(仮)

万里
BL
オフィスビルの非常階段。冷え切った踊り場で煙草をくゆらせる水原七瀬(みずはらななせ)は、部下たちのやり取りを静かに見守っていた。 そこでは村上和弥(むらかみかずや)が、長年想い続けてきた和泉に別れを告げられていた。和泉は「ありがとう」と優しく微笑みながらも、決意をもって彼を突き放す。和弥は矜持を守ろうと、営業スマイルを貼り付けて必死に言葉を紡ぐが、その姿は痛々しいほどに惨めだった。 和泉が去った後、七瀬は姿を現し、冷徹な言葉で和弥を追い詰める。 「お前はただの予備だった」「純愛なんて綺麗な言葉で誤魔化してるだけだ」――七瀬の毒舌は、和弥の心を抉り、憎悪を引き出す。和弥は「嫌いだ」と叫び、七瀬を突き放して階段を駆け下りていく。 「……本当、バカだよな。お前も、俺も」 七瀬は独り言を漏らすと、和弥が触れた手首を愛おしそうに、そして自嘲気味に強く握りしめた。 その指先に残る熱は、嫌悪という仮面の下で燃え盛る執着の証だった。 毒を吐き続けることでしか伝えられない――「好きだ」という言葉を、七瀬は永遠に飲み込んだまま、胸の奥で腐らせていた。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

夜が明けなければいいのに(洋風)

万里
BL
大国の第三皇子・ルシアンは、幼い頃から「王位には縁のない皇子」として育てられてきた。輝く金髪と碧眼を持つその美貌は、まるで人形のように完璧だが、どこか冷ややかで近寄りがたい。 しかしその裏には、誰よりも繊細で、愛されたいと願う幼い心が隠されている。 そんなルシアンに、ある日突然、国の命運を背負う役目が降りかかる。 長年対立してきた隣国との和平の証として、敵国の大公令嬢への婿入り――実質的な“人質”としての政略結婚が正式に決まったのだ。 「名誉ある生贄」。 それが自分に与えられた役割だと、ルシアンは理解していた。 部屋に戻ると、いつものように従者のカイルが静かに迎える。 黒髪の護衛騎士――幼い頃からずっと傍にいてくれた唯一の存在。 本当は、別れが怖くてたまらない。 けれど、その弱さを見せることができない。 「やっとこの退屈な城から出られる。せいせいする」 心にもない言葉を吐き捨てる。 カイルが引き止めてくれることを、どこかで期待しながら。 だがカイルは、いつもと変わらぬ落ち着いた声で告げる。 「……おめでとうございます、殿下」 恭しく頭を下げるその姿は、あまりにも遠い。 その淡々とした態度が、ルシアンの胸に鋭く突き刺さる。 ――おめでとうなんて、言わないでほしかった。 ――本当は、行きたくなんてないのに。 和風と洋風はどちらも大筋は同じようにしようかと。ところどころ違うかもしれませんが。 お楽しみいただければ幸いです。

処理中です...