愛か、運命か(仮)

万里

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番外編「運命のその先で」1

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 凪を解き放ち、彼を本当の居場所へと見送ってから、一年という月日が流れた。

 鷹志の生活は、以前にも増して徹底した無機質さへと塗り潰されていた。 早朝、会社に行き、深夜、街の灯が消える頃までモニターの光に照らされる。感情を一切排し、ただ数字と契約書、そして企業の行く末だけを冷徹に捌き続ける日々。 完璧なαとしての立ち振る舞いは、鋭利な刃物のような美しさを増し、周囲に絶対的な畏怖を抱かせた。だが、そこに血の通った温もりはない。部下たちは彼の背後にある孤独の深さに怯え、誰もその領域に踏み込もうとはしなかった。

 仕事を終え、静まり返った広すぎるマンションに帰宅しても、迎えるのは管理の行き届いた無人の冷たい静寂だけだ。 指紋一つない大理石のカウンター、常に完璧な温度に保たれた空気。かつて、そこに絶望に濡れた瞳をした一人のΩがいたという事実は、今や剥げ落ちた壁紙の跡のように、鷹志の胸の奥にだけ消えない染みとなってこびりついていた。

(……もう、どこにもいないというのに)

 独りごちる声が、虚しく高い天井に吸い込まれていく。 無意識のうちに、鷹志は今も「残像」を探していた。 雑踏を歩けば、群衆の中に自分より背の低い、細身の男の影を追い、レストランに入れば、うつむき加減にフォークを動かす人物の横顔に、ありもしない幻影を重ねる。

 どれほど富を築こうと、どれほど力を誇示しようと、凪という存在が抜けた心の空洞は、何を持ってしても埋めることはできなかった。凪の幻影を追うのをやめられない己の未練に、鷹志は深い、底知れぬ嫌悪を抱いていた。

 *

 そんな折だった。 新たな基幹システムの導入を巡る打ち合わせの席で、その男――湊(みなと)と出会ったのは。

「失礼します。今回、開発チームのリーダーを務めさせていただきます、早坂湊です。よろしくお願いします、七條次長」

 会議室のドアが開き、男が入ってきた瞬間、鷹志の思考は白く飛んだ。 すらりとした、折れそうなほどではないがしなやかな背格好。少し癖のある黒髪が額にかかり、その隙間から覗く意志の強い瞳。 

(凪……?) 

 一瞬、心臓が脈動を忘れた。呼吸が止まり、指先が微かに震える。あまりの酷似に、止まっていた時間が猛烈な勢いで逆流し始めるのを感じた。

 だが、すぐに強烈な違和感がやってくる。 その男からは、Ω特有の、あの本能を掻き乱すような甘く心許ないフェロモンは一切漂ってこなかった。彼は、この世界で最も数が多い、平凡で、しかし頑強な個体――βだった。

「次長? 僕の顔に、何か付いていますか?」

 湊が不審げに眉を寄せた。その、遠慮のない物言いと、真っ直ぐに自分を射抜く視線。 鷹志という「絶対的なα」を前にしても、媚びることも怯えることもないその態度は、かつての凪と重なった。

(似ている……)

 凪は運命というものに引き裂かれながらも、その奥にある魂までは決して支配させてはくれなかった。

「……いや。失礼した。君の、その瞳が少し気になっただけだ」

「瞳、ですか?変な人ですね。視力は良い方ですよ、こう見えて」

 湊は鼻で笑うと、淀みなくプレゼンテーションを始めた。専門用語が飛び交い、理路整然とした説明が進む。鷹志は手元の資料に目を落としながらも、視線はどうしても湊の動く唇や、ペンを持つ指先に吸い寄せられた。 凪に似ている。けれど、凪よりもずっと、この男は「自分」というものを確立している気がした。 それは、運命に翻弄されることのないβという属性ゆえの強さなのか、それとも彼自身の資質なのか。

 *

 打ち合わせを重ねる中で、鷹志は自分でも制御しきれない衝動に突き動かされていた。 会議室で湊が意見を述べるたび、その声の響きや、時折見せる負けん気の強い口角の歪みに、かつての凪が命を懸けて自分に抗った瞬間の残光を見てしまう。

(もっと、声が聴きたい……)

 それはαとしての支配欲というよりは、砂漠で水を探す旅人のような、切実な渇望に近かった。数回目の定例会議が終わった後、鷹志は去り際の湊を、努めて冷静な声で呼び止めた。

「早坂くん。……少し、時間はあるか」 
「はい? どうしました、次長。何か仕様変更でも?」

 湊が怪訝そうに振り返る。その飾らない、しかしどこか鋭い視線に、鷹志は喉の奥が微かに熱くなるのを感じた。

「あの……断ってくれても構わない。君のチームの働きに興味があるんだ。もしよければ、今夜食事でもどうだろうか」

「次長」という立場を使えば、断らせない誘い方などいくらでもできた。だが、今の鷹志はあえて、一人の男として、どこか言葉を選びながら誘った。

 湊は意外そうに目を丸くし、それから少しだけ唇を尖らせて考え込んだ。 

「ええと…直々のお誘いを断る勇気はありませんけど……僕、高い店は落ち着かないので。その辺の居酒屋でいいですか?」


 連れて行かれたのは、ガード下の喧騒が激しい、赤提灯の並ぶ店だった。 鷹志には、初めての場所。油の混じった煙が立ち込め、隣の客の笑い声が怒号のように響く。

「……ここか?」 
「はい。安くて美味い。αの方々が好む店より、僕はこっちの方が肌に合います。……次長には、不釣り合いでしたか?」

 湊は試すように笑って、パイプ椅子に座った。鷹志は無言で、その隣の椅子に腰を下ろした。

「……いや。悪くない」

 運ばれてきた、キンキンに冷えたジョッキのビール。湊はそれを慣れた手つきで煽り、「ぷはぁ!」と幸せそうに息を吐く。その無防備な姿は、かつて鷹志が与えた食事を、毒薬でも飲むような目で見つめていた凪とは決定的に違っていた。

「で、次長。仕事っていうのは名目でしょ? 一体、何が聞きたいんですか?」

 湊は早々に核心を突いてきた。 鷹志は一瞬、言葉に詰まる。凪を喜ばせようと服や宝石のような贈り物を用意したことはある。だが、こうして対等な立場の人間と、雑踏の中で言葉を交わす「作法」を、彼は知らなかったのだ。

「……君の、好きなものは何だ?」

「……は?」 

 唐突な問いに、蓮は枝豆を口に運ぶ手を止めた。 

「……唐突ですね。肉ですけど、何か?」 

「肉か。……そうか。休日は何を?」 

「寝てます。それか、近所の公園を散歩するとか。……これ、何の質問ですか?」

「いや……ただ、君のことが、気になって……」

 嘘ではなかった。だが、その「気になる」という感情の正体が、目の前の男自身なのか、それとも彼の向こう側に透けて見える亡霊なのか。

 鷹志は冷えたジョッキを握りしめた。凪もまた、湊のように肉を好んだだろうか。こんな騒がしい場所でなら、もっと自由に笑ってくれただろうか。かつて「運命」という鎖で縛り上げ、マンションに閉じ込めていたあの頃、自分は一度でも凪に、こんな質問をしたことがあっただろうか。

「すまない……あまり、こういう会話には慣れていなくて……」 

「確かに。会話が絶望的に下手ですね」

 湊は呆れたように息を吐き、追加の注文を店員に告げた。 

「いいですか?相手のことを知りたいなら、面接官みたいな質問はやめてください。もっと、自分のことも話してください。じゃないと、こっちは尋問されてる気分だ」

 鷹志は絶句した。 支配でも従属でもない、ただの「対話」。 ずっと欲していたはずのそれを、皮肉にも、自分を全く恐れないβの男から教えられようとしていた。今まで、これほどまでに率直に、かつ対等に物を言う人間がこれまでにいただろうか。

 凪を力で支配していた時、自分は相手の「言葉」など求めていなかった。ただ自分の色に染め、屈服させ、そこに「在る」ことだけを求めた。その結果、凪の心は壊れ、自分のもとから去った。対等であることを拒み、神の如く振る舞った代償は、あまりにも重い孤独だった。

(……対話、か)

 鷹志は冷えた指先で、安っぽいグラスの縁を弄んだ。 つれない態度も、時折見せる射抜くような鋭い視線も、確かに凪に似ている。だが、湊は鷹志に媚びない代わりに、彼を拒絶し切ることもなかった。彼は鷹志の「属性」ではなく、目の前にいる「不器用な男」そのものを見定めている。

「……すまない。俺の話も聞いてくれるか。君のことを聞くばかりではなく」

 鷹志がどこか祈るような心地でそう口にすると、湊は少しだけ意外そうに目を見開いた。それから、呆れたような、けれどどこか楽しげな笑みを浮かべる。

「仕方ないですね。いいですよ、聞いてあげます。……もちろん、奢りですよね? 次長」

 湊は飲み干したジョッキをテーブルに置いた。 その屈託のない笑顔を見つめながら、鷹志の胸の中に、かつて抱いたことのない奇妙な高鳴りが生じていた。

 それは、暴力的な支配欲でも、歪んだ独占欲でもない。もっと泥臭く、不器用で、しかし瑞々しい。

(彼のことを、知りたい)

 かつて自分が弱者の戯言だと蔑んでいたその感情が、今、鷹志の乾いた心に確かな体温を宿らせていた。
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