愛か、運命か(仮)

万里

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番外編「運命のその先で」3

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 翌日、湊は割れるような頭痛と、吐き気を催すほどの自己嫌悪の中で、仕事を早退した。

 自分がβであることを卑下していたわけではない。ただ、鷹志という男が自分に向けていた、あの「不自然なまでの丁寧さ」の正体が、失った番への罪滅ぼしに過ぎなかったのだと思い知らされたことが、何よりも耐え難かった。 自分に向けられた慈しみも、案じるような視線も、すべては自分を透過して「かつての影」に捧げられていたもの。そう自覚した瞬間、湊のプライドは修復不能なほどに粉砕されたのだ。

 あてもなく街を歩き、気がつけばオフィス街の喧騒から遠く離れた、路地裏の静かな一角に紛れ込んでいた。 ふと目に留まった、手書きの小さなカフェの看板。吸い寄せられるように重いドアを開けると、そこには深く芳醇なコーヒーの香りと共に、一人の青年が立っていた。

「いらっしゃいませ。……窓際の席、空いてますよ」

 奥の厨房から、店主らしき男の落ち着いた声が掛かる。 

「凪くん、まだ病み上がりなんだから、無理しなくていいよ」 
「大丈夫です。……これくらい、やらせてください」

 その「名前」が耳に届いた瞬間、湊は全身の血が逆流し、心臓が跳ね上がるような錯覚に陥った。 目の前にいる青年。そのすらりとした背格好、少し跳ねた柔らかな髪、そして何より――顔の造作。 鏡を見ているような不気味さと、それ以上の圧倒的な既視感。昨夜、鷹志があれほど切実に、そして残酷に呼んだ「名」の主そのものが、そこに立っていた。

「あの……お客様? どうかされましたか。顔色が凄く悪いですよ」

 青年――凪は、トレイを抱えたまま、心配そうに湊を覗き込んだ。 湊は言葉を失い、ただ呆然と彼を見つめることしかできなかった。
 自分の存在を否定した元凶が、これほどまでに優しく、そして自分に似ている。 湊はめまいに襲われ、思わずカウンターに手を突いた。

「椅子に座れますか?それとも横になった方がいいですか?」

 凪の差し出した手が、湊の腕に触れる。 鷹志がかつて「運命」という鎖で縛り上げ、手折ろうとした白い指先。 その感触は、鷹志が執着していた毒々しい過去などどこにも存在しないかのように、ただひたすらに清らかだった。


 湊は導かれるようにカウンター席に座り、運ばれてきた水を一気に飲み干した。喉に刺さるような冷たさが、いくらか正気を取り戻させてくれる。

「……凪、さん?」 
「はい。……えっ?」

 凪は驚いたように目を丸くした。その反応はあまりに無垢で、湊の胸をチリリと焼く。湊は、昨夜から心の中で渦巻いていたどろどろとした感情を、整理もつかないまま吐き出した。

「あの……七條鷹志って人を、知っていますか?」

 その名が出た瞬間、凪の肩が微かに揺れた。怯えではない。それは、遠い記憶の頁をめくるような、懐かしさと苦さが混じったような反応だった。 

「えと、知ってます、けど……。あなたは……?」

 湊は、自分が鷹志と仕事をしていること、食事に誘われて何度も会ったこと、そして――昨夜、決定的に破綻したことを、まるで膿を出すように話し始めた。ベッドの中での出来事だとは流石に言えなかったが、「親密な瞬間に、無意識に別の男の名前を呼び間違えられた」という屈辱は、隠しようもなく言葉に滲み出た。

 自分のことを、過去の亡霊を投影するための「身代わり」にしていた男のこと。自分という人間を見ているふりをして、その実、背後の幻影を追い続けていた傲慢な男のこと。

 凪は、時折小さな溜息をつき、静かに湊の話を聞いていた。 

「……本当に、傲慢で、強引で。自分が一番だと思っていて、人の気持ちを察するのが致命的に下手な……最悪の人ですよね、あの人は」

 凪が困ったように笑いながら零した「悪口」に、湊は思わず毒気を抜かれた。 

「そ、そうなんだよ! 本当に自分勝手なんだ。人の好みは面接官みたいに聞きまくるくせに、自分のことはほとんど話さないし。町中華に連れて行けば、浮きまくったスーツで必死にビール注いでるような、変な奴なんだ」

「はは、不器用なんですよね、本当に」

 凪と二人、鷹志の欠点を挙げ連ねているうちに、湊の心にこびりついていた棘が少しずつ溶けていくのを感じた。だが、不思議なことに、悪口を言えば言うほど、脳裏に浮かぶのは必死に自分に歩み寄ろうとしていた鷹志の、あの情けないほどの「必死さ」だった。

「……でも、あいつ、後悔してるみたいだった。凪さんに、取返しのつかないことをしたって。だから、次は間違えないようにって、変わろうとしてるみたいで……」

 気づけば、湊は自分を傷つけたはずの鷹志を弁護していた。 凪はそれを見て、微笑みを浮かべた。

「そうなんですね。……よかった。あの人も、前に進もうとしているんですね」

 凪は遠くを見るような瞳で、ゆっくりと言葉を繋いだ。 

「俺との関係は、確かにダメでした。今思えば、俺もあの人を傷つけたと思う……。でも、最後は、彼は俺の気持ちを一番に尊重してくれました。俺を『番』としてではなく、一人の人間として扱ってくれた。きっと、その一瞬は、俺のことを心から愛してくれたんだと思います」

 凪の言葉は、湊の胸に深く沈み込んだ。 自分を縛り付けていた鎖を、鷹志は自らの手で断ち切ったのだ。

「俺は、結局凪さんの代わりでしかない……。あいつの目には、俺を通してあなたが映ってるんだ」

 湊が自嘲気味に呟くと、凪は優しく首を振った。

「俺はΩだから、それだけじゃないかもしれないけど、どうしても彼とは『対等な関係』にはなれなかった。でもあなたは違う。あなたとなら変われるかもって……彼も、そう思ってるんじゃないでしょうか」

 凪の瞳が、湊の揺れる心を真っ直ぐに射抜く。

「あなたは俺の代わりなんかじゃない。あの人が、必死になってでも変わろうとしているほどの、特別な人なんだと思いますよ」

「……」

「……よかったら、……もう一度、彼と『下手くそな会話』をしてあげてくれませんか?」

 凪は幸せそうに笑った。その時、店の奥から「凪くん、ちょっと手伝ってくれる?」と、彼を呼ぶ声が響く。

「あ、はい! ……言い忘れてましたけど、俺には今、とても素敵な恋人がいるんです。だから、鷹志さんとはもう、これっぽっちも何の関係もありませんから。そこは安心してくださいね」

 奥へと歩いていく凪の後ろ姿を、湊は呆然と見送った。 壊れてしまったと聞かされていた「過去の亡霊」は、今、自分の力で光の中を歩いている。それに引き換えあの男は、今も独り、止まった時間の中で溺れているのだ。

 湊は、先ほどからコートのポケットの中で振動しているスマホを取り出した。 画面を点灯させると、眩い光と共に、通知欄を埋め尽くすほどの不在着信とメッセージが表示される。

(……何十件入れてんだよ、馬鹿が)

 最後の一件は、数分前。 

『すまない。本当に、最低なことをした。君と会って、話がしたい』

 湊は小さく舌打ちをすると、震える指でその番号をタップし、耳に押し当てた。

 自分のためではない。 あの、自分を憎むことしかできず、勝手に絶望して殻に籠もっている、救いようのない傲慢な男を――今度こそ正面から向き合わせて、思い切り殴ってやるために。

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