運命じゃない人

万里

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運命じゃない人

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 それは、ちょうど一か月ほど前のことだった。 旭(あさひ)が番に、別れを告げられたのは―― あまりにも突然で、現実とは思えなかった。
 25歳で番になり、そこから7年間、共に暮らしてきた。 子どもはできなかったが、それなりに仲良くしていると思っていた。 喧嘩もしたし、すれ違いもあった。 それでも、互いに歩み寄って、乗り越えてきたつもりだった。
 だからこそ、その日彼が口にした言葉は、あまりにも衝撃だった。
「別れてほしい」
 その一言に、旭は思わず言葉を詰まらせた。
「な、なんで……?」
 声が震えた。 心臓が、どくんと大きく鳴る。
 彼は、少しだけ目を伏せてから、静かに言った。
「運命の番がいたんだ」
 その声は穏やかで。 怒りも、迷いも、悲しみもなかった。 ただ、確信を持って告げられた。
 けれど、その言葉は、旭の胸を鋭く貫いた。 まるで、心臓に直接突き刺さるような痛みだった。
 彼は出会ってしまった。 “運命の番”に――。
 その言葉の意味を、旭は知っていた。 運命の番とは、生涯をかけて結ばれるべき存在。 本能が引き寄せ合い、理屈では抗えない絆。
「だから、ごめん……別れよう」
 彼は深々と頭を下げた。 その姿は、どこか他人のようだった。 7年間隣にいたはずの人が、急に遠くへ行ってしまったような――そんな感覚。
 旭は、何も言えなかった。 言葉が、喉の奥で固まって動かなかった。 頭では理解しようとしていた。 運命の番に出会ったのなら、仕方がない。 誰も悪くない。責めることはできない。
 でも、心は追いつかなかった。 ただ、静かに崩れていった。
 その瞬間、7年という時間が、たった一言で瓦解した。 積み重ねてきた日々も、思い出も、未来の約束も―― すべてが、彼の「運命」という言葉にかき消された。

 *

 人は、生まれながらにして三つの性に分かれている。 α(アルファ)、β(ベータ)、そしてΩ(オメガ)。

 αは、支配者の性。 強い意志と高い能力を持ち、群れの頂点に立つ者。 βは、最も多く、最も平凡。 特別ではないが、安定した日常を築く者。 そして――Ω。 Ωは、ヒート(発情期)を持ち、男性であっても妊娠が可能な性。 ヒートの際にはフェロモンを放ち、αを強く惹きつける。 だが、αと番(つがい)ったΩは、フェロモンが番にしか効かなくなる。 他を誘惑することはなくなり、その絆は本能によって守られる。

 そして、この世界には―― “運命の番”という、特別な絆が存在する。

 それは偶然ではなく、必然。 出会うべくして出会い、惹かれ合うべくして惹かれ合う、唯一無二の存在。 運命の番同士は、互いの存在を深く感じ取る。 距離が離れれば、胸が痛み、 傷つけば、まるで自分が傷ついたかのように苦しむ。 その絆は、言葉を超え、理屈を超え、 魂の奥底で繋がっている。

 けれど、その絆は、美しいだけではない。

 すでに番がいる者が、運命の番に出会ってしまったとき―― その瞬間、すべてが崩れる。 築いてきた日々も、誓った未来も、 運命の前では、あまりにも脆い。

 それでも、人は運命の番を求める。 それは、愛の究極の形だから。 この世界で、たった一人だけの、かけがえのない存在だから。

 *

 ほどなくして、正式に番は解消された。 書類にサインをし、手続きが終わったその瞬間、 旭は“捨てられた”のだと、ようやく実感した。
 部屋には、彼の荷物がもうなかった。 食卓に並ぶ皿はひとつだけ。 夜の静けさが、やけに耳に痛かった。
 番だった。 確かに、番だった。 でも、それはもう過去の話だ。
 残されたのは、首の痕と、心の奥にぽっかり空いた穴だけだった。

 運命の番がいたのだから、仕方がない―― そう、頭では理解していた。 誰も責められない。 彼が悪いわけじゃない。 そう思おうとしていた。
 それでも、涙は止まらなかった。
 仕事に行くこともできず、食欲もなく、 眠ろうとしても、うまく眠れなかった。 ただただ、うずくまって、彼のことを思い出しては泣いた。
 身体から水分がなくなってしまうのではと思うほど、泣いた。 何をする気力も沸いてこなかった。 テレビの音も、スマホの通知も、すべてが遠く感じた。
 いつ自分は死ぬのだろうか―― ぼうっとした頭で、そんなことばかり考えていた。
「番に捨てられたΩは死ぬのだ」
 どこかで聞いたことがある言葉だった。 それが迷信でも、噂でも、今の自分には真実のように思えた。
 自分は死ぬのだ。 いや、死ぬべきなのだ。
 そう思った。 そして、旭は自分の手首を切った。
 痛みは、あったのかもしれない。 でも、覚えていない。 ただ、静かに意識が遠のいていった。

 *

 次に目を覚ましたとき、そこは病院のベッドの上だった。
 天井の白さが、やけに眩しかった。 重い頭を、ゆっくりと左手に向ける。
 左の手首には、包帯が巻かれていた。 まだ、生きている。
 その事実が、なぜか少しだけ苦しかった。

「あなた、一体何してるんですかっ!」
 病室に怒声が響き渡った。 扉を勢いよく開けて飛び込んできたのは、高校時代からの悪友――相田だった。 白衣の裾が揺れ、眉間には深い皺。旭は思わず眉をひそめる。
「番に捨てられたΩは死ぬって……聞いたから……」
 声は次第に小さくなり、最後はほとんど囁きのようだった。 自分でも、言っていて情けないと思った。 それでも、誰かに言わずにはいられなかった。
「番を解消されたくらいで、Ωは死にませんよ!」
 相田は怒りを隠そうともしない。 その瞳は、医師としての冷静さよりも、旧友としての苛立ちに満ちていた。
「Ωをなめないでください!」 さらに声を荒げる。
 旭は目を伏せた。 責められて当然だと思った。 

 相田も、珍しい男性Ωだった。 高校時代、特別仲が良かったわけではないが、時折話をした。 卒業後は医学の道に進み、今ではΩ専門医として病院に勤務している。 番もいる。 そして今、旭が運び込まれたこの病院で、相田が担当医となった。
 説教を受けているのは、まさにその最中だった。

「……そうなのか」
 旭は、ぽつりと呟いた。 その声には、少しだけ安堵が混じっていた。
 相田は、ため息をつきながら言葉を続ける。
「全く……あの人が見つけてくれなかったら、あなた本当に死んでましたよ」
(別に死んでもよかったのに……)
 そう思ったが、口には出さなかった。 言えば、また説教が長くなるのは目に見えていた。
「……あの人?大誠(たいせい)のことか?」
「ええ、あの背の高い、黒髪の格好いい男性です。私の好みではないですがね」
 相田は、いちいち必要のないことまで挟み込んでくる。 だが、旭の心は、別のところに引っかかっていた。
「あいつが、見つけたのか…?」
「彼から聞いてないんですか? たまたまあなたの家に行ったところ、自殺未遂に出くわして、救急車を呼んでくれたんですよ」
 たまたま――? 何年も音信不通だった人が、たまたま家に来るだろうか? いくら子どもの頃に仲が良かったとはいえ、そんな偶然があるだろうか?
「救急車でここに来たとき、あなたと同じくらい真っ青な顔していましたよ。あの人」
 相田の言葉が、静かに胸に響いた。
 大誠が、真っ青な顔で―― 自分を見つけて、救急車を呼んでくれた。
 その姿を、想像するだけで胸が少しだけ痛んだ。

 *

 最初に目を覚ましたとき、左手に温もりを感じた。 大きな手のひらが、そっと自分の手を包んでいる。
 まさか―― そんな期待が、胸をよぎる。
 視線を上げる。 けれど、そこに、期待した姿はなかった。
 代わりにいたのは―― 今にも泣き出しそうな顔の、大誠(たいせい)だった。
「旭っ……!」
 大きな男が、縮こまるようにして、旭の手を大切そうに握っていた。 その目は真っ赤で、唇は震えていた。
 大誠は10歳年下の幼なじみ。 実に、7年ぶりの再会だった。
「……たい、せい……?」
 声にならないほどのかすれた声で、旭は目の前の男の名を呼んだ。 あまりに久しぶりで、一瞬誰なのか分からなかった。 けれど、顔には小さい頃の面影が少し残っている。 くせのある黒髪。 たれ目。 

 小川大誠―― 旭の家の隣に住んでいた、あの子どもだった。
 小さい頃は、少女のように可愛らしくて、 「あさひ!いっしょにあそぼっ!」と無邪気に言われると、悪い気はしなかった。 大誠の両親が忙しいときなど、よく預かって一緒に遊んだ。 砂場で泥だらけになったり、絵本を読んであげたり。 あの頃の大誠は、いつも笑っていた。
 それが、小学生になるとぐんぐん背が伸びて、 たくましい野球少年になった。 試合のときには「絶対に見に来てくれよ!」と言われ、 ユニフォーム姿で活躍する姿は、年下ながらに格好よかったのを覚えている。
 それから―― 最後に会ったのは、旭に番ができて、結婚する前だった。

 その頃、大誠はまだ中学三年生で、身長も旭より低かった。 あのとき、ふとした瞬間に言われた言葉を思い出す。
『なあ、俺があんたよりデカくなったら聞いて欲しいことがあるんだけど…』
 唐突で、意味がよく分からなかった。 でも、どこか真剣な顔だった。 結局、その言葉の続きを聞くことはなかった。
 旭に番ができてからは、連絡もとっていない。 互いの生活が離れていくのは、自然なことだと思っていた。

 なのに―― どうして今、こんなところにいるのか?
 病院のベッドの上。 包帯の巻かれた左手首。 握られている左手の温もり。
 まだ、もやのかかった頭ではうまく考えられなかった。 でも、確かにそこに大誠がいた。
「まだ薬効いてるから、ゆっくり寝てな」
 優しい低音が、耳に心地よく響いた。 瞼が、ゆっくりと閉じていく。 意識が、また遠のいていく。
 その瞬間、左手をぎゅっと握られた。 そして、微かに聞こえた。
「生きてて……良かった……っ……」
 その言葉が、胸の奥にじんわりと染みていく。 涙は出なかった。
 眠りの中で、旭は静かに思った。
(……死ねなかったのか…)

 *

 旭は、ぼんやりと天井を見つめていた。 まだ、もやのかかった頭ではうまく整理できない。 けれど、何かが引っかかった。
 小さな違和感が、じわじわと積み重なっていく。 それが何なのかは、まだ言葉にできない。 ただ、胸の奥がざわついていた。
 押し黙る旭を余所に、相田の言葉は止まらない。
「……あの人、あなた結構好みじゃないんですか?フリーのαでしょう。 あなたもちょうどフリーになったことですし、番にしてもらえばいいじゃないですか」
「……は?」
 あまりにも唐突な言葉に、旭は一瞬呆気にとられた。 眉をひそめ、相田を睨む。
「何言ってる!10才も年下だぞ!あいつが子どもの頃から知ってる…!」
「へえ、若いんですね。(そうは見えませんでしたが)」 
 相田は肩をすくめて、にっこりと嘘くさい笑顔を浮かべる。 その軽さが、逆に腹立たしい。
「でももう大人なんだから、良いじゃありませんか。 年齢なんて、気にするほどのことじゃないでしょう?」
 旭は、睨みつけるように視線を向けた。
「やめろ。大誠と番うなど考えたこともない。弟みたいなものだ」
 そう言って、目をそらす。 
 相田は、少しだけ眉をひそめた。
「……あっちはそうは思ってないかもしれませんよ」
 その言葉は、小さな声だった。 旭にはよく聞こえず、思わず聞き返す。
「なんだ?」
「いいえ、なんでも。 私もね、私なりにはあなたのことを心配してるんですよ。 助けていただいたんですから、一言あの人にお礼くらい言っておきなさいよ」
 相田は、はあっとため息をつきながら病室をあとにした。

 旭は、静かに息を吐いた。 病室の静けさが、妙に重く感じる。
 番に捨てられ、自殺しようとしたところを助けられた―― その事実だけでも十分に情けないのに、 助けてくれたのは、自分よりもぐっと年下の男だった。
 しかも、昔は弟のように思っていた存在。 それが今、自分の命を救ってくれた。 
(……大誠は、今、何を思っているんだろう)
 旭は、そっと目を閉じた。 その瞼の裏に浮かんだのは、真っ青な顔で自分を抱きかかえていた――大誠の姿だった。
 10歳も年下の幼なじみ。 子どもの頃から知っている。 守ってきたつもりだった。
 なのに、今は―― 自分が守られている。
(……一体、どんな顔して会えばいいんだ)
 情けなさと、戸惑いと、ほんの少しの温もり。 それらが胸の奥で混ざり合って、形にならないまま、静かに沈んでいった。


 2

 退院の日。 誰にも伝えていなかったはずなのに、病院の玄関前には黒い軽自動車が停まっていた。 運転席には、大誠が座っていた。
(……相田の仕業だな)
 旭は、心の中でため息をついた。 

 入院中、大誠は毎日見舞いに来ていた。 何かを語ることはなかったが、旭の様子を確認しては、「何かできることはないか」と真顔で尋ねてきた。
「学校や仕事はいいのか?」と聞いた時も、「問題ない」とだけ答えた。 大誠が今、何をしているのか――旭にはよくわからなかった。 
 それにしても―― 会っていない間に、身長は20センチ近くも追い抜かれていた。 うっすらとヒゲも生えていて、声も低くなっている。 もはや、旭の知っている“子どもの頃の大誠”とは別人だった。 相田の言った通り、いい男になっている。 きっと、モテるだろう。

 旭は、少しだけ顔をしかめて言った。
「……なんでいる?」
 大誠は運転席から降りて、静かに答えた。
「……あんたが心配だから」
 その言葉に、旭は小さくため息をついて、視線を逸らした。
「俺はもう大丈夫。もう……その……しないから」
 “自殺は”という言葉は、喉の奥で飲み込んだ。 それでも、大誠には伝わったようだった。
 彼は眉をひそめ、少し苛立ったような顔をした。 そして、無言で助手席のドアを開けると、大きな手のひらで旭の背中を押した。
「いいから乗れよ」
「いや、でも……」
「面倒くさいこと言うな。荷物もあるだろ」
「ひ、ひとりで帰れる!」
 そう言った瞬間、バタンと助手席のドアが閉められた。 為す術もなく、車は発進する。
 エンジンの音が、妙に響く。 車内には、言葉がない。 
(……心配、か)
 その言葉が、胸の奥でじんわりと残っていた。

 だが、マンションに近づくにつれ、旭の心臓はバクバクと音を立て始めた。 鼓動がうるさくて、車のエンジン音すら遠くに感じる。 7年――彼と一緒に暮らした場所。 思い出が染みついた空間。 その玄関の前に立つだけで、胸が締めつけられる。

 車を降りると、大誠は黙って旭の後を着いてきた。 「どうして着いてくるのか」と思ったが、それを言葉にする余裕はなかった。 カバンの中から鍵を探す。 指先が震えて、なかなか見つけられない。
「……っ」
 ようやく鍵を掴んだが、その手は明らかに震えていた。 悟られまいと、ぐっと握りしめる。 それでも、震えは止まらない。 胸がズキン、ズキンと痛み、目頭が熱くなる。
(落ち着け……落ち着け……)
 入院中は、少しは落ち着いていたはずだった。 それなのに、玄関にすら入れない。 精神は、再び闇へと引きずり込まれていく。
 そのとき――ふわりと、良い香りが旭を包んだ。 懐かしくて、安心するような香り。 
「……え」
 背後から、柔らかく、でもしっかりと抱きしめられていた。 大誠の腕だった。
「無理すんな……」
 低く、優しい声が耳元に落ちる。 旭は、言葉を返そうとした。
「そんなこと……」
 ない――と言いたかった。 でも、声は掠れて、うまく出なかった。 喉の奥が詰まり、言葉が出ない。
 大誠は、少し間を置いてから、静かに言った。
「俺の家で暮らさないか」
 その言葉に、匂いに、声に――旭は安心してしまう自分がいた。 でも、年下の男にこれ以上甘えるわけにはいかない。 情けなさが、胸を締めつける。
「……っ、おまえに迷惑をかけたくない」
 そう言うと、大誠は少し怒ったような声で返した。
「迷惑なんかじゃねえよ!」
 その言葉に、旭の身体がビクリと反応した。 怒鳴られたわけではない。 でも、心が揺れた。
「……わり……」
 大誠はぽつりと謝ると、深く深呼吸して、気持ちを落ち着ける。 そして、また穏やかな声で言った。
「頼む。俺があんたのことが心配なんだ。あんたのこと……放っておけない」
「……」
 返事のない旭の手を、そっと引っ張る。 その手は大きくて、温かかった。 旭は、少しだけ力を抜いて、その手に身を委ねた。
 そして、ふたりはもう一度、車へと向かった。 

 大誠の家は旭のマンションからそれほど遠くない、静かな住宅街の一角にあるアパートだった。 外観は質素だが、どこか落ち着いた雰囲気がある。 玄関前には小さな植木が並び、手入れの行き届いた空気が漂っていた。

 玄関に入り、扉が閉まった瞬間、旭は口を開いた。
「なあ……」
 声は、思ったよりも震えていた。 大誠は振り返り、黙って旭を見つめた。
「なんで助けたんだ……」
 その言葉に、大誠は何も言わなかった。 ただ、じっと旭の目を見つめていた。 その沈黙が、逆に旭の胸を締めつける。
「おまえが助けなかったら、死ねたのに……っ」
 病院では言えなかった言葉。 本当は言うつもりはなかった。 だが、先ほどマンションの玄関の前で闇に引きずり込まれた感覚が、まだ残っていた。 一度吐き出してしまうと、もう止まらなかった。
「……誰にも迷惑かけずに、静かに終われたのに。 なのに、なんで……なんで引き戻したんだよ……」
 旭の声は、次第にかすれていった。 言葉の端に、怒りとも悲しみともつかない感情が滲んでいた。
 大誠は、ゆっくりと息を吐いた。 そして、静かに言った。
「……あんたが死んだら、俺が後悔するからだよ」
 旭は、目を伏せた。
「俺が死んだからって、お前が後悔なんてするわけないだろ……」
「するよ」
 大誠の声は、揺るぎなかった。
「俺は、あんたに生きててほしい」
 旭は、拳を握りしめた。 涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
「嫌だ…、死にたい……」
 旭の声は、まるで壊れかけた機械のように、途切れ途切れだった。 大誠は、何も言わなかった。 
「……もう俺には、生きている意味なんかないんだ……」
 言葉は、空気に溶けるように消えていく。 あの人に、もう想われていない。 番だったはずなのに、捨てられた。 その事実が、旭の存在を根底から否定していた。
 旭は、冷たい玄関の床にへたり込んだ。うなだれる。 肩が小刻みに震えていた。
 捨てられた心の傷は、思っていたよりも深かった。 えぐられたまま、癒えることなく、またダラダラと血を流し始める。 誰にも見せたくなかった傷。 でも今は、隠す気力すら残っていなかった。
「あるだろ……」
 大誠の声が、静かに響いた。 彼もしゃがみ込み、旭と目線の高さを合わせる。 その瞳は、まっすぐだった。 逃げもせず、ただ旭の痛みを受け止めようとしていた。
「……死にたい」
 旭の瞳が濡れていた。 涙が、ぽつりと床に落ちる。 その音が、やけに大きく感じられた。
「……ダメだ」
 大誠は、そっと旭の髪を撫でた。 サラサラとした髪が、指の間をすり抜ける。 その仕草は、どこまでも優しく、どこまでも切なかった。
「死なせて……っ」
 うなだれたまま、旭は絞り出すように言った。 死に損ないの自分。 こんなことを言ってしまう自分。 大誠の前では、どこまでも情けない。 そんな自分にも、嫌気がさしていた。
「……俺が許さない」
 大誠の声は、静かだったが、はっきりしていた。 
 旭は、顔を上げられなかった。
「……大誠には関係ない……」
「……関係あんだよ……!」
 大誠の声は低く、怒りを含んでいた。 その声に、空気が一瞬で張り詰める。 眉間に深く刻まれた皺に、旭は気づかなかった。 ただ、次の瞬間――
 大誠は旭の肩を掴み、玄関扉に押し付けた。 驚きで目を見開いた旭に、大誠は言った。
「俺の前で、二度とそんなこと言うな」
 その声は、怒りと悲しみが混ざっていた。 怒鳴っているわけではない。 でも、言葉の一つ一つが、胸に突き刺さるほど強かった。
 「……え?…何…?」
 大誠の体重がかかる。どうしていきなりこんなことをしているのか、事態が把握できない。
 「おい、やめっ! 痛いっ…!」
 じたばたと抵抗しても弱々しく、大誠の力には抗えない。
 頭を押さえつけられ、大誠の顔が近づく気配がし、首元に唇が這う。そこで、大誠が何をしようとしているのか旭は察した。
 「やっ!…いやだっ……あっ!」
 明確な意志を持って行き来する唇。
 大誠は旭のうなじを噛もうとしている。それはつまり、番になろうとしているのだ。
 旭は噛まれまいと両手でうなじを守るも、大誠の強いフェロモンを嗅ぐと、力が抜けてしまう。両手首を片手で扉に押さえつけられた。
 「そんなに死にたきゃ俺にくれよ、あんたの全部」
 「…大誠! お願っ…、やめっ…!」
 「俺のために生きろ」
 「イヤだ!…イヤっ!…離せっ!…やあっ…!」
 大きな手のひらに首を掴まれ、逃れられない恐怖に震えた。大誠の硬い歯が、旭のうなじに当たる。冷や汗が伝う。
 「あ…ダメ!ダメだっ!…噛むなぁっ!」
 無駄だと分かっていても抵抗せずにはいられない。旭の目から勝手に涙がこぼれ落ちる。
 「ーーーーーーーーっ!」
 声にならない悲鳴、ビリビリと背筋に何かが伝い、うなじに痛みが走る。旭は大誠にうなじを噛まれ、そのまま気を失った…。


 3

 身体が熱い―― うなじが、燃えるように熱い。 まるで火傷でもしたかのように、じんじんと痛む。
 旭は、息を荒げながら目を開けた。 視界がぼやけている。 何が起きたのか、すぐには思い出せない。
「…痛っ」
 思わず声が漏れる。 痛みに、眉をしかめる。 身体が重い。 まるで誰かに押さえつけられていたような感覚が、まだ残っている。いつの間にベッドに寝たのか。だが、自分のベッドではない。
「……俺、何が……」
 旭は、はっとしてうなじに手を当てた。 そこは、異様なほど熱を帯びていた。 指先が触れるだけで、びくりと身体が反応する。
 そのとき、背後から静かな声が聞こえた。
「目、覚めたか」
 振り返ると、大誠がベッドの端に座っていた。 表情は読めない。 ただ、じっと旭を見つめていた。
「……何をした?!」
 旭の声は震えていた。 怒りとも恐怖ともつかない、混乱の色が濃く滲んでいた。
 大誠は、少しだけ目を伏せた。 そして、静かに言った。
「…番っただけだ」
「番っただけって……何を、勝手に……!」
 目を見開いた旭の脳裏に、ある感覚がよみがえる。 αが強い意志を持ってΩの項を噛めば、番は成立する。 
 旭は奥歯をギリと噛みしめた。 項に走る痛みと、体の奥から湧き上がる熱。 ――この感覚。前にも、確かに感じたことがある。
 この番は、もう成立してしまったのだ。
「 合意もなしに番ったことは悪かった……でも……」
 大誠の声は、何かを伝えようとしている。 その思いが、言葉の端々に滲んでいた。
 彼はゆっくりと、旭の頬に手を伸ばした。 その指先は、触れる寸前で――
 ――バシッ!
 乾いた音が部屋に響く。 旭は、ありったけの力を込めてその手をはねのけた。 目を見開き、怒りに満ちた瞳で大誠を睨みつける。
「触るなっ!」
 大誠は、はねのけられた手を宙にさまよわせたまま、しばらく動かなかった。 その表情には、悲しみが滲んでいた。 けれど、旭にはそれを見ている余裕はない。 今の自分の感情で、いっぱいいっぱいだった。
 ベッドの反対側、壁の方へと身を寄せる。 身体が震えていた。 怒りだけではない。 恐怖と混乱が、旭の中で渦を巻いていた。
「来るなっ!最悪だ!……おまえは最低だっ! なんでこんなことをした!」
 ヒステリックな声が、部屋の空気を震わせる。 細い足で、大誠を蹴った。 それでも、大誠は何も言わなかった。 蹴られた衝撃に少しだけ身体を揺らしながらも、ただ黙って旭を見つめていた。
「……今すぐ番を解消しろっ!」
 旭の声は、怒りに濡れていた。 でもその奥には、深い傷があった。 なんだか、裏切られたような気がしていた。
 番になるのも、解消するのも――αの意志だ。 Ωには、その決定権がない。 それが、この世界の理不尽なルール。それが、旭の胸をさらに締めつけた。 自分の意志が、何も通らない。 ただ、選ばれるだけ。 ただ、従わされるだけ。
「……こんなの、ただの支配じゃないか……!」
 大誠は、しばらく黙っていた。  そして、静かに言った。
「……番は解消しない」
「なんでだっ?!」
 旭は叫ぶように問いかけた。 けれど、大誠はすぐには答えなかった。
「……なんでだろうな……」
 その言葉は、独り言のように空気に溶けた。 大誠はベッドから立ち上がり、ドアの方へと歩いていく。
「飯と、抑制剤、鎮痛剤もここに置いておく。 俺は今から出かけるから、欲しいものがあれば連絡してくれ。夕方には戻る」
 淡々と、必要事項だけを告げる。 旭と目を合わせようともしない。 その態度が、逆に胸を締めつける。
 ベッドの傍の小さなテーブルには、コンビニのサンドイッチやパン、おにぎり、ペットボトルの水、ゼリー飲料。 そして、Ωのヒート抑制剤、鎮痛剤、旭のスマートフォン―― 所狭しと並べられていた。
「……なんで、そんな……」
 旭の声は、震えていた。 怒りの熱が、涙に変わりそうだった。
 大誠は、ドアの前で立ち止まり、振り返った。 
「俺が帰るまで、『生きて』ちゃんと待ってろよ」
 今度は、大誠が旭の目をまっすぐに見て言った。 その瞳は冷たく、しかし揺るぎない意志を宿していた。 旭は、ぶるっと身体を震わせた。 その言葉が、命令のように響いた。
 Ωは、番のαに言われたことには逆らえない。 それが、この世界の絶対的な力。 そう――大誠が「生きろ」と言えば、従わなければならない。 もう、勝手に死ぬことは許されないのだ。
「……そんなの、……」
 旭は、かすれた声で呟いた。 けれど、大誠は何も言わず、静かに寝室を後にした。
 ドアが静かに閉まる音が、やけに重く響いた。 その音が、まるで自分を閉じ込める檻の鍵のように感じられた。
 残された旭は、手で口を押さえ、真っ青になっていた。 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。 息がうまくできない。 心臓が、痛いほど脈打っていた。
(……俺は、もう自由じゃない)
 その事実が、静かに、確かに、心に突き刺さった。死ぬことすら、自分の意思では選べない。 それが、番という関係の現実。
 大誠のいないうちに、逃げ出せばいい――そう考えた。 この部屋から出て、どこか遠くへ。 もう二度と会わないように。 誰にも見つからず、誰にも縛られず、ただ消えるように。
 だが。
『待ってろよ』
 その言葉にも逆らえない。
(……閉じ込められるのか?)
 そう思った瞬間、息が詰まりそうになった。
「……くそっ……」
 涙が、頬を伝って落ちた。 それは怒りでも悲しみでもなく、ただ、どうしようもない無力感だった。

 けれど、ひとしきり思考を巡らせているうちに、ふとお腹が空いてきた。 人間というのは、どんなに落ち込んでいても、腹は減るものらしい。
 いや、待て。 前までは、食欲すら湧かなかった。 何も食べられず、ただ水だけを飲んでいた日々。 だから、こんなに痩せてしまった。
(……大誠と番になったから、か?)
 生きろ、と言われた。 それだけで、身体が反応しているのかもしれない。 食欲が湧く。それは、番の力なのか――それとも、誰かに必要とされたからなのか。
 旭は、のそのそとベッドから降りた。 テーブルの上に置かれたサンドイッチの封を開け、ゆっくりと食べ始める。
 パンの柔らかさ。 ハムの塩気。 マヨネーズのまろやかさ。 それらが、口の中に広がっていく。
 久しぶりに「味」を感じた気がした。 食べるという行為が、こんなにも生きている実感をくれるとは思わなかった。
(……こんな状況で、うまい、なんて……)
 でも、確かにそうだった。 食べている。味を感じている。 それは、ついこの前まではなかった感覚だった。
 旭は、もう一口サンドイッチをかじった。 

 *

 心とは裏腹に、旭は少しずつ元気を取り戻していた。 食欲がわき、眠れるようになった。 それだけで、身体は随分と楽になる。 そして、身体に引きずられるように、心も少しずつ穏やかになっていた。
 まだ、完全に癒えたわけではない。 傷は残っている。 痛みも、時折顔を出す。 それでも――今は、食べている。 生きている。 それだけで、少しだけ前に進める気がした。
 大誠の世話は、決してかいがいしいものではなかった。 むしろ、不器用で、無言で、さりげない。 それでも、気づけば――あれやこれやと、手を差し伸べてくれていた。

 朝になると、テーブルには簡単な朝食が並んでいる。 パンとゆで卵、インスタントのスープ。 「食えよ」 それだけ言って、大誠は黙々とコーヒーを飲み、自分の朝食を食べる。 旭がスプーンを手に取るまで、何も言わない。 
 洗濯物は、いつの間にか干されていた。 薬の時間になると、何も言わずにテーブルに置いてくれる。 「飲んだか?」と聞かれることはない。 
 買い物に行くときも、「何か欲しいもんあるか?」と一言だけ。 旭が首を振れば、それ以上は何も言わない。 でも、帰ってくると、好物のアイスや、好きだった銘柄の紅茶が袋に入っていた。
 押しつけがましくない。 腫れものに触れるような扱いはせず、ただ普通に接してくれた。それが、逆に心に沁みた。

 最初は、戸惑った。 どうしてここまでしてくれるのか、わからなかった。 番だから? 責任だから? それとも――
 ある夜、旭はふと口を開いた。
「……なんで、こんなことするんだ?」 
 大誠は、少しだけ眉を動かしたが、すぐに視線を外した。
「別に。あんたが食って、寝て、ちゃんと生きてりゃ、それでいい」 
 それだけ言って、ソファに沈み込む。 テレビの音が、静かに部屋を満たしていた。
 旭は、言葉の意味をすぐには理解できなかった。 
 それでも、少しずつ。 ほんの少しずつ、旭の心はほどけていった。 食事を口にする回数が増え、夜も深く眠れるようになった。


 4

 身体と心が元気になってくると、今まで気にも留めなかったものが急に気になり始める。 一度気になり出すと、もう気になって仕方がなかった。
 視界の端にちらつく埃、積み重なった書類、雑然とした空間―― それらが、旭の心をじわじわと圧迫していた。
 以前なら、見て見ぬふりをしていた。 けれど今は違う。 少しずつ回復してきた心が、整った空間を欲していた。 
「なあ……大誠」
 旭が声をかけると、大誠はノートパソコンから顔を上げた。 彼は在宅で仕事をしているのか、それとも大学の課題に取り組んでいるのか―― 旭には、画面を見ただけではわからなかった。
 出かけていく時間もまちまちで、朝早くに出ていく日もあれば、昼過ぎまで部屋にいる日もある。 何をしているのか、どこへ行っているのか、旭はあえて聞かないようにしていた。 けれど、今はその曖昧な生活リズムさえも、部屋の空気の乱れの一部に感じられた。
「ん?」
 大誠が短く返す。
 少し躊躇いながら、旭は言葉を選ぶ。 
「掃除を、してもいいか?あと……模様替えもしたいんだが」
 大誠は一瞬きょとんとした顔をした。 
「え…、そんなに汚いか…?」
「いや、別に汚いというわけではないんだが……なんか、落ち着かない…」
 旭の言葉に、大誠はしばらく考えるように視線を泳がせた。 床の隅には埃が溜まり、棚の上には手つかずの書類が山のように積まれている。リビングも、物が多くて視界が騒がしい。
「……あ、ああ。頼む…」 
 少し驚いたような声だったが、拒否の色はなかった。
 その返事を聞いた瞬間、旭の目が輝いた。 
 旭は掃除機をかけ、雑巾で床を磨き、棚の書類を大誠に確認しながら分類して処分した。 家具の配置を換え、テレビの位置を変え、ソファの向きを調整する。
 作業が終わる頃には、部屋の空気がまるで別物のように澄んでいた。 大誠はぽかんとした顔で、変わった部屋を見渡す。
「……なんか、広くなった気がするな」 
「だろ?」 
 旭は得意げに頷いた。

 だが、それだけでは満足できず、旭はキッチンにも手を伸ばした。 調味料の位置、食器の並び、使い勝手を考えて整え直す。 すべてが見違えるように整然とした。 
 ふと、前の番との生活を思い出す。 彼のために掃除を欠かさず、食事にもこだわっていた日々。 子どもも、欲しかったがついにできなかった。その記憶が胸をよぎり、旭は少しだけ目を伏せた。 
 大誠は料理をほとんどしない。 朝は簡単なものを出してくれるが、昼も夜も弁当や総菜を買ってきて済ませることが多い。
 旭も料理が得意というわけではないが、できる範囲で作ろうと思った。 だが、冷蔵庫の中にはめぼしい食材はほとんど入っていない。 野菜室は空っぽで、調味料も最低限。これでは何も始められない。
 旭は、先ほど処分した不要な書類の束からいらない紙を取り出し、黙々と必要なものを書き出していった。 野菜、肉、魚、調味料、乾物――気づけば、紙面はびっしりと埋まっていた。
「買い物に行くなら、これだけ買うぞ」 
 そう言ってメモを差し出すと、大誠は目をぱちくりと瞬いた。
「……え、これ全部?」 
「全部だ。最低限だぞ、これでも」 
「最低限……?」 
「ああ。金は俺が出す」
 大誠はメモを見つめながら、苦笑いを浮かべた。 
「いや、俺が出すけど。俺、スーパーでこんなに買い物したことないかも」
「じゃあ、今日が初めてだな。ついでに野菜の見分け方も教えてやる」
 旭は立ち上がり、カバンを手に取る。 大誠も少し戸惑いながらも、後を追った。

 ただふたり、並んで歩く。 無理やり番にされて、監禁されるのでは――そんな不安もあったが、旭が少しずつ元気を取り戻すにつれ、「一緒に散歩するか?」などと声をかけてくれるようになった。
 まだ旭自身も体調の心配があり一人で外出したことはないが、近くのコンビニやスーパーには、何度か一緒に出かけた。 手を繋ぐわけでもない。 ほんの少しの距離感が、ずっとそこにあった。
 大誠が何を考えているのかは、いまひとつ掴めない。 番になったとはいえ、触れ合いらしい触れ合いはほとんどなく、その関係は、むしろただの同居人と呼ぶ方がしっくりきた。

 夕方。 テーブルに並べた料理を前に、大誠が目を丸くした。
「えっ、これ……あんたが作ったのか?」
 その反応に、少しだけ肩の力が抜ける。 
「……ああ。総菜や弁当ばかりじゃ不健康だし、金もかかるだろ。自分の分のついでにお前のも作ってやる」
 本当は、ただ何かしていないと落ち着かなかっただけかもしれない。 でも、それでいいと思った。
「いや、無理しなくても……」
 彼の言葉に、少しだけ胸が詰まる。 
「お前に世話をかけてばかりではいられないからな。暖かいうちに食べろ」
 それ以上、何か言われる前に促すように言った。 
「あんたはそんなこと、気にしなくていいのに」
 大誠は小さな声で何かを呟いたが、聞き取れなかった。
「……いただきます」
 箸を手に取った彼が、ほうれん草の胡麻和えをひと口食べた瞬間、目を輝かせた。
「うまい!」
 その一言に、思わず胸が熱くなる。 豆腐とわかめの味噌汁や焼いただけの肉、切っただけのサラダ。お世辞にも料理上手とは言えない献立だが、ガツガツと食べ進める姿を見て、少しだけ笑みがこぼれた。
 お代わりまでして、あっという間に完食した。味噌汁は多めに作ったつもりだったが、鍋の底が見えた。二十歳くらいの食欲とはこんなものだっただろうかと、旭は少し慄いた。
「ごちそうさん。うまかった。料理できるなんてすごいな!」 
 食べ終わって、そんなことを言いながら、大誠はふわりと微笑んだ。
 その笑顔を見た瞬間――旭の胸が、きゅっと締め付けられた。 再会してから、初めて見た笑顔だった。 あの頃の面影が、そこにあった。
「ま、前の番が、食べ物にうるさくてな。…簡単なものだけだが、自然と覚えた」
 その言葉に、大誠は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに顔を上げて言った。
「今日は俺のために作ってくれたんだろ?」
「ま、まあ……自分のついでだ!ついで!」
 笑顔のまま話しかけられて、思わずどもってしまう。 言葉がうまく出てこない。 
「ありがとうな」
 心臓がうるさい。 鼓動が、耳の奥で鳴り響いている。
(くそっ、なんだこれ……。早く治まれ!)
「……別に、大したもんじゃない」
「それでも、俺には十分すぎるくらいだ」
 大誠は、空になった茶碗を手に取り、少し照れくさそうに笑った。 
 その言葉に、旭は思わず目を細めた。 
「……お前が、ちゃんと食うなら、また作ってやってもいい」
「楽しみにしてる」
 その一言が、さらに胸に響いた。
「あ……ちょ、ちょっと風呂、沸かしてくる」
 これ以上、大誠の笑顔を直視できない。 そう思って、旭は慌ててその場から逃げ出した。
 背中に、大誠の視線を感じる。 でも、振り返ることはできなかった。
 湯気の立つ浴室の中で、旭はそっと胸に手を当てた。
(……なんなんだよ、ほんとに)
 自分でも、よくわからなかった。 

 *

 あの日、大誠は――無理やり、旭を番にした。 その瞬間の衝撃は、今でも身体の奥に残っている。 
 前の番の噛み痕は、いつの間にか消えていた。 代わりに、大誠の痕がくっきりと残っている。 まるで、過去が上書きされたように。
 もう、前の彼の匂いも、声も、思い出せなくなっていた。 どんな顔だったかも、曖昧になっていく。 記憶の中で、彼はぼやけていき、大誠の存在がその隙間を埋めていく。

 けれど、それからの大誠は――驚くほど、何もしてこなかった。
 旭は大誠の寝室のベッドで眠り、大誠はリビングのソファで寝る。 同じ屋根の下にいるのに、別々の世界にいるようだった。
 日常生活で触れることはない。キスも、ハグも、手を握ることすらない。番になったというのに、他人のような距離感だった。

 初めてのヒート(発情期)がやってきた。 お互いに抑制剤を飲み、何かあれば相田に電話するということで話はついていた。 理性的に、冷静に、ただの生理現象として処理しようとした。
 だが、ヒートはΩの本能だ。 理性では押さえきれない衝動が、体の奥からじわじわと湧き上がる。 番を求める――それは、抑制剤を飲んでいても変わらない。
(自分から求めてしまうかもしれない。それに、こいつに求められたら拒めないだろう)
 そんな不安が胸を締めつける。 番に抱かれれば、ヒートは軽く収まる。 それを知っているからこそ、余計に怖かった。 自分の意思が、自分の体に裏切られるのではないかと。
 どうなるのかと、内心ビクビクしていた。 けれど――驚くほど、あっけなくヒートは終わった。
 目が覚めたとき、彼のシャツを羽織っていた。 それ以外には、何の痕跡もなかった。
(どうして……)
 大誠が何を求めているのか、わからなかった。 彼は優しい。 いつも穏やかで、気遣いもある。
 けれど、旭には触れてはこない。
『無理しなくていい』
 その言葉が、やけに耳に残る。 優しさなのか、距離なのか。 その境界が、わからない。
 好きだと言われたこともない。 大誠がどういう気持ちで自分と番になったのか――それが、まったく見えない。
 それが、逆に苦しかった。
 怒りとも、悲しみとも違う。 言葉にできないもどかしさが、胸の奥でじんわりと広がっていく。
(……俺は、どうして番にされたんだ?)
 そんな疑問が、ふと頭をよぎる。 あの日の行動は、衝動だったのか。 それとも、何か理由があったのか。
 大誠は何も語らない。 ただ、静かに日々を過ごしている。
 その沈黙が、旭の心を少しずつ蝕んでいく。 言葉にしてくれれば、何かが変わるかもしれないのに。 触れてくれれば、安心できるかもしれないのに。


 5

 体調が回復してきて、旭は仕事に復帰した。 まだ本調子とは言えないが、身体は動く。 何より、旭の性格上じっとしていることが、どうにも落ち着かなかった。
「無理しなくていい」
 大誠はそう言ってくれた。 低く、穏やかな声で。 その言葉には、心配と優しさが滲んでいた。
 けれど、旭は首を振った。大誠にも旭の性格は分かっていたのだろう。 それ以上、何も言わなかった。
 大誠には言わなかったが―― 旭は、心の中で静かに思っていた。
(これ以上、大誠に甘えるわけにはいかない)
 助けられた。 救われた。 守られた。
 それは、確かに感謝している。 でも、ずっとこのままではいけない。 自分の足で立たなければ。 自分の意思で、前に進まなければ。
 大誠の家にいることも、いつかは終わらせなければ。 その時が来るまでに、少しずつ準備をしておきたい。 そう思っていた。

 朝、スーツに袖を通す。 鏡の前でネクタイを締める。 その一つひとつが、少しずつ「日常」を取り戻していくようだった。
 大誠は、何も言わずに見送ってくれる。 ただ、玄関で「行ってらっしゃい。気をつけてな」と言うだけ。
 旭は「ああ」とだけ言って玄関を出た。

 久しぶりに会社へ向かう朝。 スーツの襟を整えながら、旭は深く息を吐いた。
 オフィスの扉を開けると、懐かしい空気が迎えてくれた。 コピー機の音、キーボードを叩く音、誰かの笑い声。 そのすべてが、少しだけ遠く感じた。
「長瀬くん、久しぶり!」
 明るい声が響く。 同僚の青山が笑顔で手を振ってきた。相変わらず爽やかで、社内でも人気のあるαだ。まだ番はおらず、Ωに限らず全方位から狙われているらしい。
「長い間休んで迷惑をかけた」
 旭は手を振り返さず、青山の近くまで歩いていく。青山は「あれ?」と首を傾げた。
「匂い変わった?」
 その一言に、旭はドキリとした。αは他のαの匂いに敏感だ。 番になったばかりの旭の匂いの変化を、瞬時に嗅ぎ取ったのだろうか。
(まさか……一瞬でわかるのか?)
 Ωの旭には、そんな感覚はわからない。だが、青山の目は確かに何かを察していた。
「は?……そ、そんなわけないだろう」
 視線を逸らしながら、自分のデスクに荷物を置く。 イスに座り、素知らぬフリをする。 けれど、心臓はバクバクと音を立てていた。
 青山は、そんな旭を見て、くすりと笑った。
 その笑みが、どこか底知れなくて、旭はますます落ち着かなくなった。
「ねえ、今日久しぶりだし飲みに行こう!」
 青山の誘いに、旭は嫌な予感しかしなかった。
(……絶対、何か聞かれる)
 青山は、明るくて気さくで、誰にでも優しい。 でも、その裏には鋭い観察力と、容赦ない洞察がある。
 逃げられない。 そう思った瞬間、旭は小さくため息をついた。

「それで?新しい番さんとはどんな感じ?」
 居酒屋のテーブル越しに、青山が軽い調子で問いかけてきた。 旭に程よく酔いが回ってきたタイミングを見計らってのことだ。 長い付き合いだ。 旭が酔うとおしゃべりになることを、青山はよく知っている。
「どんな感じ……?」
 グラスを傾けながら、旭は言葉を探す。 けれど、胸の奥に溜まっていたものが、思わず口をついて出た。
「俺は……なりたくて番ったんじゃない!あいつが勝手に噛んだんだ!」
 ダンッと拳をテーブルに叩きつける。 周囲が一瞬静まり返るほどの勢いだった。
「え?合意じゃないの?」
 青山はギョッとした顔で身を乗り出す。
「番防止用のカラーは?着けてなかったの?」
「……前のやつと番ってから、ずっと着けてなかったから……」
 言いながら、旭は自分の首元を無意識に触れた。 
「そういえば、なんで前の番さんとは別れたの?」
 青山の問いに、旭は一瞬言葉を詰まらせた。 そして、ぽつりと呟いた。
「別れたんじゃない……俺は……前のやつに捨てられて……っ」
 酒のせいか、久しぶりに思い出して目頭が熱くなる。 ずび、と鼻をすすりながら、グラスを握りしめる。
「ちょ、ちょっと待って。捨てられたって?仲良かったじゃないか。どうして?」
 青山は混乱していた。 この数ヶ月、旭に何があったのか―― 連絡は何度か送ったが、返事はなかった。 迷惑をかけたくなくて、旭はずっと黙っていた。
「……運命の番が……いたんだって……」
 か細い声で、ようやく言葉にする。 青山は目を丸くした。
「へえ、運命の番か~、ロマンチックだねぇ」
 あまりにも無邪気なその言葉に、旭は苛立ちを覚えた。
「お、おまえもαだろ……運命に会ったら、そのとき番のΩのことはどうでも良くなるんだ! おまえもどうせΩを捨てるんだろうっ!αなんか最低だ!」
 声がだんだんと高くなり、ヒートアップしていく。 今にも胸ぐらを掴みかかりそうな勢いだった。
 青山は苦笑いを浮かべながら、グラスを置いた。
「長瀬くん、落ち着いて……」
 怒りの裏にあるのは、ただの悲しみだった。 捨てられた痛み。 信じていたものが崩れた喪失感。 それを、誰かにぶつけずにはいられなかった。青山は、黙ってグラスを傾けた。 
「運命の番がいたんじゃ仕方ないって、分かってる……」
 グラスの中で氷が静かに揺れる。 旭は、うつむいたまま言葉を続けた。
「でも、俺、捨てられて……仕事も何もできなくなって……自殺しようとして……あいつに助けられて……」
「自殺?!」
 青山の声が、ひときわ大きく響いた。 また新しいワードが飛び出してきて、彼の表情が驚きに染まる。
 旭は、黙ってうつむいた。 その言葉を口にするだけで、胸が苦しくなる。
「でも……あいつに噛まれてから、俺は元気にはなったんだ。 『ちゃんと生きろ』って言われて、死にたい気持ちが消えて…… Ωは番のαには逆らえないから……」
「うん……」
 青山は、静かに頷いた。 その目は、真剣だった。
「でも……今度は何もしてこないんだ。手も繋がないし、触りもしない。 本当になんなんだ、あいつは!」
 声がだんだんと高くなる。 感情が溢れて、抑えきれなくなっていた。
「ちょっと声が大きい!」
 青山は慌てて制し、店員にお冷やを頼んだ。 グラスが届くと、旭の前にそっと置く。
「その人のことは、よくわからないけど……」
「ん……」
「長瀬くんは、新しい番さんのこと、好きなの?」
「……好、き?」
 その言葉に、旭は顔を上げた。 目を見開き、みるみるうちに顔が赤くなる。
「触って欲しいって思ってるんでしょ?」
「好きなわけないだろう!き、嫌いだ!あんなやつ!」
 声が裏返る。 青山は、ニヤニヤと笑った。
「へ~……でもさ、運命は、意外と近くにいるっていうじゃない?」
 その笑みが、どこか楽しげで、からかうようで―― 
「くそ。じゃあ、お前の運命はどこにいるんだよ?」
「絶賛募集中だよ」
 旭の胸は、ザワザワとしていた。 否定したはずなのに、心臓がうるさい。 顔が熱い。 言葉が、うまく出てこない。
(……なんなんだよ、ほんとに)

「帰るときは連絡しろ」
 そう言われていたから、素直に連絡を入れた。 すると、大誠は最寄りの駅まで迎えに来てくれていた。
「おかえり」
 季節は秋になろうとしていた。蒸し暑さは残るが、ほんの少しだけ秋の風を感じる。大誠と一緒に暮らし始めてから半年が経っていた。
「ん……」
 返事をするのが精一杯だった。 「ただいま」と言うのは、なんだか気恥ずかしくて、口にできない。 大人げない――そう思いながらも、言葉が喉に引っかかる。
『好きなの?』
 青山の言葉が、頭の中で何度も反響する。 それを思い出すだけで、大誠にどう接していいかわからなくなる。
「貸せよ」
 大誠は、旭の荷物をひょいと奪い取った。 そして、何も言わずに車道側を歩く。 旭の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれる。
 コンビニの袋が揺れる。 中には、旭の好きなアイスが入っていた。 大誠自身は甘いものを好まないくせに―― それでも、いつも買ってくる。
(なんなんだ、こいつは?)
 何を考えている? どうして、こんなに優しい? でも、横を歩くだけで、手を繋ごうとはしない。 まるで、見えない壁があるようだった。
 番だから? 番のΩだから、大切に扱っているだけ? それとも、αの本能なのか……?
 俺は……? 俺の気持ちは、Ωの本能なのか?
 考えれば考えるほど、わからなくなる。 胸が苦しくなる。 大誠の横顔をちらりと見るだけで、心臓が跳ねる。

 その夜、ベッドに入っても、旭の頭はぐちゃぐちゃだった。 目を閉じても、大誠の声が、笑顔が、歩く足音が、頭の中を巡る。
 眠れない。 ただ、静かな部屋の中で、心臓の音だけが響いていた。
 布団の中で、何度も寝返りを打った。 目を閉じても、頭の中は静まらない。 
(俺は……どうしたいんだ?)
 無理やり番にされた。 それは、事実だ。 合意のない番だった。 だからこそ、心の奥にしこりが残っている。
 それでも、大誠は優しい。 無理に触れてこない。世話も押しつけがましくない。 ただ、そばにいてくれる。
(……触れてほしいのか?)
 自分でも、わからなかった。 
(好きなのか……?)
 その言葉を、心の中で繰り返す。否定したはずなのに、胸がざわつく。 顔が熱くなる。 心臓がうるさい。 
(……くそ)
 枕に顔を埋めて、旭は小さく唸った。 自分の気持ちが、わからない。 


 6

 土曜日。今日は仕事が休みだ。 旭は久しぶりに目覚ましをかけずに眠り、ゆっくりと目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光が眩しく、まぶたの裏にじわりと染み込んでくる。
 寝室のドアを開けて、リビングへと向かう。 ドアの向こうには、いつもの風景が広がっていた。
 大誠はすでに起きていた。 ソファに座り、スマホを眺めている。 テレビからはニュース番組の音が、静かに部屋に流れていた。
「おはよう」
 大誠が振り返り、笑顔を向けてくる。 その笑顔は、いつも通り――なのに、旭の胸はまた高鳴った。
「はよ……」
 短く返事をしながら、思わず目を逸らす。 視線を合わせるのが、照れくさかった。
(ああ、もう俺の心臓はどうなってるんだ……)
 最近、大誠の笑顔を見るだけで、胸がざわつく。 鼓動が早くなる。顔が熱くなる。
「よく眠れたか?」
 大誠が、穏やかな声で尋ねる。 旭は頷きながら、キッチンへ向かう。
「まあ……」
「そうか」
 冷蔵庫を開けながら、旭はちらりと大誠の横顔を盗み見る。 優しくて、穏やかで。 その表情を見るたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
 この感情は――何なのか、旭も薄々分かっていた。 でも、認めたくなかった。
(きっと、Ωの本能なだけだ)
 番になったから。αに守られているから。 だから、身体が勝手に反応しているだけ。
 そう思い込もうとしていた。 そうすれば、楽になれる気がした。
 でも――大誠の笑顔は、ただの本能で片付けられるものじゃなかった。 その優しさに触れるたび、心が揺れる。 
(……本能だけじゃ、こんなに苦しくならない)
 その思いが、静かに心の奥に沈んでいった。 
「なあ、この前、あんたが気になるって言ってたパン屋でも行ってみるか?」
 大誠がふとそう言った。 旭は、思わず顔を上げる。
「パン屋……行く」
 それは、ほんの数日前。 近所に新しくできたパン屋の前を通ったとき、 「ちょっと気になる」と、何気なく口にしただけだった。
 それを、大誠が覚えていた。 その些細なことが、妙に嬉しかった。
(……覚えてたのか)
 言葉にしなくても、気にしてくれていた。 それだけで、胸の奥が温かくなる。
「じゃ、行くか」
 大誠は立ち上がり、軽く伸びをする。 旭は、慌てて身支度を整え始めた。
 服を選ぶ手が、少しだけ浮ついている気がした。 まるで、デートにでも行くような気分だった。
(……何浮かれてんだよ)
 自分にツッコミを入れながらも、口元が緩むのを止められなかった。
 玄関で靴を履くと、大誠がドアを開けて待っていた。 
「行くぞ」
 その声に、旭は小さく頷いた。

 秋の陽射しは柔らかく、木々の葉は色づき始め、歩道には落ち葉がちらほらと舞っている。
 ふたりは散歩がてら、並んで歩いていた。 目的地に近づくと、焼きたてのパンの香りが漂い、思わず顔がほころぶ。
「……いい匂いだな」 
 大誠が言い、旭は頷いた。
 いくつかパンを選び、近くの公園へ。 ベンチに腰掛け、紙袋を開ける。 ほんのり温かいパンを手に取り、ふたりはゆっくりと食べ始めた。
 穏やかな時間。 風が心地よく、遠くで鳥の声が響いている。 子どもたちの笑い声が、木々の間をすり抜けて届いてくる。
 ふと、近くの子どもたちが騒ぎ始めた。 どうやら、サッカーボールが木に引っかかってしまったようだ。
「ちょっと行ってくる」 
 そう言って、大誠は手にしていたパンを紙袋に戻し、すっと立ち上がった。
 旭がベンチに座ったまま見守る中、彼はゆったりとした足取りで子どもたちのもとへ向かっていく。 
 木の下で困っていた子どもたちに軽く声をかけると、大誠は迷いなく木の幹に手をかけた。 長身を活かして、枝に体を預けるようにして登ると、引っかかっていたサッカーボールに手を伸ばす。
 ほんの数秒。 まるでそれが当たり前のように、彼はボールをひょいと回収して、地面に降り立った。
「ありがとう、おっちゃん!」
「おっちゃんじゃねーよ!おにーさんだ!」
 大誠は笑いながら言い返す。 子どもたちはケラケラと笑い、すぐに打ち解けた。
「おにーさんもサッカーやろう!」
「いいぜ」
 大誠は振り返り、旭に声をかける。
「ちょっと、子どもたちとサッカーしてくる」
「分かった」
 旭は頷きながら、大誠の背中を見送った。 風に舞う落ち葉が、彼の足元をさらりと撫でていく。
(……ほんと、誰にでも好かれるよな)
 ベンチに残された旭は、パンをひと口かじりながら、大誠の姿を目で追った。 子どもたちの輪の中で笑う彼は、いつもより少しだけ遠く感じた。 けれど、その笑顔を見ているだけで、胸の奥がじわりと温かくなる。
(……あんなふうに、必要とされるやつなんだよな)
 芝生の上で、子どもたちとボールを追いかける大誠。 笑顔が眩しくて、どこか懐かしかった。 子どもの頃の彼を見ているようでもあり―― もし、自分たちにも子どもができたら、こんなふうに大誠は楽しそうに遊ぶのだろうか、と考えた。
 男性Ωの妊娠率は低い。 実際、前の番との間には子どもは授からなかった。 年齢的にも、確率はどんどん落ちていくだろう。
 でも、大誠はまだ若い。 まだ、他にも番を探せる。
 不意に、思った。
(もしも、今度は大誠が“運命の番”に出会ってしまったら……?)
 旭の手が、カタカタと震えた。
 ちょうどそのとき、大誠が戻ってきた。
「ふー、動くとまだ暑いな!……おい、旭?大丈夫か?顔色悪いぞ?」
 隣に座った大誠が、心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫だ……。おまえは、その……子ども、好きなのか?」
 問いかけに、大誠はキョトンとした顔をした。
「まあ、嫌いじゃねえな。生意気だけど、かわいいだろ」
「そうか……」
 旭はうつむいた。 胸の奥が、じわりと痛む。
「旭…?」
 大誠の声が優しく響く。 でも、旭は何も答えなかった。

 帰り道。大誠が黙って歩いているのをいいことに、旭の思考は悪い方向へ転がり始めた。
(そういえば、大誠は誰にでも分け隔てなく優しい。子どもの頃からそうだった)
 目の前に困っている人がいれば、必ず助ける。 それが、大誠の性格だ。
(俺も、そうだったのか……?)
 番のαに捨てられて、死にそうな、かわいそうな幼馴染のΩがいたから―― だから、番にしたのか?
(……なんて情けない)
 ははと、笑ってみたけれど、心は少しも軽くならなかった。
 そうだ。 だから、触りもしないのだ。 それで、納得がいく。
 αは番だからΩを守る。 番だからΩの世話をする。 でも、それ以上は望まない。 それが、大誠のスタンスなのだろう。
 子どもも、嫌いではないと言っていた。 けれど―― きっと、自分との子どもはいらないんだ。
 旭の胸が、ズキズキと痛んだ。 身体の芯から冷えていくようだった。
(……ああ、大誠のこと、好きだと思ったのに)
 自分の気持ちを、ようやく認めた。 否定しても、誤魔化しても、もう隠しきれない。 大誠の笑顔に、声に、優しさに―― 心が揺れていた。
 でも、それはもう叶わない。 そう感じた。
 大誠は、誰にでも優しい。 困っている人を放っておけない。 だから、自分を助けた。 だから、番になった。
 それだけだ。 それ以上の感情は、きっとない。
(自分の気持ちが、手遅れにならないうちに――別れないと)
 もう、捨てられたくない。 次に大誠に捨てられたら、今度こそ―― 本当に、死んでしまう気がする。
 今なら、まだ大丈夫。 まだ、心が動けるうちに。 まだ、耐えられるうちに。
 きっと、どこかに大誠の“運命の番”もいるはずだ。 その人と出会えば、大誠は迷わずそちらへ行くだろう。
 そうなる前に。 その瞬間が来る前に。
(俺から、離れよう)
 そう思った瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。 秋の風が目に染みて、涙が滲んだ。


 7

「話したいことがある」
 夕食後、食器を洗い終えたタイミングで、旭は静かに切り出した。大誠はソファに座っていたが、旭がリビングの床に正座すると、大誠も黙って床にあぐらをかいて向き合った。
 空気が張り詰める。 テレビの音も、時計の針の音も、遠くに感じる。
「番を解消してくれ」
 頭を下げて、できるだけ淡々と言い放った。 声が震えないように、必死に感情を押し殺す。
「……なんでだ?」
 大誠の声は冷めていた。 その温度に、旭の背筋がヒヤリと冷える。
「もう、おまえがいなくても大丈夫だからだ。元気になったし、仕事にも行けるようになった……」
 うつむいたまま、ぎゅっと目をつぶる。 言葉を絞り出すように続けた。
「お前には感謝している」
「……番は解消しない」
 少し間を置いて、大誠はそう言った。 その言葉は、重く、揺るぎなかった。
「じゃあ、明日ここを出て行く」
 まだ前に住んでいたマンションはそのまま残してある。 住む場所はある。生活に必要なものは揃っている。きっと、大誠がいなくてもやっていける――そう思いたかった。
「ダメだ」
 大誠の声が、少し苛立ちを含んでいた。 その感情が、旭の胸をざわつかせる。
「今まで世話になった」
 それだけ言って、旭は立ち上がろうとした。 けれど、大誠の手が腕を掴んだ。
「は、離せっ……!」
 腕を振り回す。だが、大誠の大きな手はびくともしない。 力では敵わない。 そのまま、また床に座らされる。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
 大誠の声が、少しだけ震えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか――旭には、わからなかった。
 ただ、心臓がうるさくて、呼吸が浅くなる。
 大誠は、手を離さない。 その手の温度が、痛いほどに伝わってくる。
「……なあ、俺じゃダメなのか?」
 大誠が、うなだれてそう言った。滅多に見えない大誠の頭頂部が見える。その姿は、どこか子どものようで―― 思わず、頭を撫でたくなる衝動を、旭は必死に堪えた。
「お前はまだ若いし、女にもモテるだろう? 普通に結婚して、子どもも作れる……俺じゃなくてもいいだろう?」
 旭は言葉を絞り出すように言う。 自分を納得させるための理屈だった。
「んなこと聞いてねえんだよ!」
 大誠の怒鳴り声が、壁を揺らすほどに響いた。 旭の身体がビクリと震える。
 次の瞬間、両手首を掴まれ、床に押し倒されていた。 背中に冷たいフローリングの感触。 逃げようとした足が、力を失って動かない。
「――あんたは俺のこと、どう思ってる?!」
 視線がぶつかる。 αのグレア――威圧。 その瞳に射抜かれるだけで、呼吸が浅くなる。 空気に混じるフェロモンの匂いが、旭の本能を揺さぶる。 逃げられない。 抗えない。
「あ……」
 声にならない声が漏れた。 唇をギリと噛む。
 大誠の目は、問いかけていた。 言葉ではなく、視線で。 本心をさらけ出せと、強く、真っ直ぐに。
 旭は、目を逸らせなかった。 その瞳に、嘘も、逃げも、通用しない。心を隠すことが許されない。
「お、お前は優しいから……お情けで俺を番にしてくれたんだろうが……でも……お前は俺の運命じゃない」
 旭の声は震えていた。 大誠は唇を噛みしめ、怒りを押し殺すようにして叫んだ。
「いい加減にしろよ……っ!!」
「……お前には、お前の運命がいるだろ? きっとそいつと番った方が、幸せになれる…」
「そんなもの……!!」
 言いかけた瞬間、大誠の目が見開かれた。
「でも……、お前が、好きだ……」
 旭の目から、涙が堰を切ったように落ちる。 止めようとしても、止まらなかった。
「このまま、お前と一緒にいたら…… 優しくされたら……もっと好きになる…… 離れられなくなるっ……」
 大誠は、旭の手首をそっと離した。 その指先で、こぼれ落ちた涙をすくう。
「離れなくていい……」
 その声は、優しくて、あたたかかった。 まるで、すべてを包み込むように。
 旭は、イヤだとばかりに首を振った。 両手で泣き顔を覆い隠す。
「……お、お前も……運命の番に出会ったら…… きっと、俺は捨てられる……今度こそ本当に死んでしまう……っ」
 うわあっと、子どものように泣き声を上げた。 涙と嗚咽が混じって、言葉にならない。
「お前が……俺の運命だったら良かったのに……!」
 その言葉は、祈りのようで、呪いのようだった。
(ああ、本当に……どこまでも、情けない……)
 そのとき――大誠の大きな手のひらが、旭の髪を撫でた。優しく、ゆっくりと。 その手から、大誠の匂いがふわりと広がる。
 良い匂いだった。 安心する、大誠の匂いだった。
 まだ嗚咽しながら、恐る恐る旭は大誠の顔を見た。大誠は、困ったように笑っていた。
 その笑顔が、どこか優しくて、切なくて―― 
「……俺の運命はあんただろ」
 その言葉に、旭は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「は……?」
 思わず聞き返す。 大誠は、真っ直ぐな目で旭を見つめていた。
「いい加減気づけよ……」
「俺、が……?」
「ああ」
 大誠は頷いた。 その動きが、妙に重く感じられた。
「おまえの運命……?」
 もう一度問いかけると、大誠はまた迷うことなく頷いた。
 自分が――大誠の運命の番? そんな、まさか。 信じられない。 でも、大誠の目は冗談ではなかった。
「俺が中学のとき……あんたが運命だって分かった。あんたも優しかったから、分かってるんだと思って…… あんたより背が伸びたら告白しようと思ってたのに、勝手に別のやつと番になりやがって……」
 思い出したのか、大誠は長いため息をついた。その吐息に、旭の胸がじんと痛む。
「で、でも……俺には運命なんて……」
「……医者に聞いたら、年の差があるとわかりにくいこともあるって…… あんときは、自分が10才も年下なのを呪ったよ。前のやつから奪おうにも、中学生じゃ養えねえし」
 大誠は、ゆっくりと旭を抱き起こした。 そのまま、腕の中に包み込む。
 ドク、ドク―― 大誠の心臓の音が、耳元で静かに響いていた。
「でも、あの日……あんたが自殺しようとした日、分かったんだ。 あんたが死にそうだって。 運命の番だと、お互いのそういうの、分かるらしい」
 大誠の声は静かだった。 けれど、その言葉は旭の胸の奥に深く突き刺さる。
 大誠の手が、旭の髪をそっと撫でる。 指先が髪をすくい、優しく流れるように触れるたび、 旭の心がほぐれていく。
 その感触が、あまりにも心地よくて―― 涙が、また滲みそうになる。
 本当に。 本当に、自分が運命の番なのだろうか。 信じていいのだろうか。
「好きになってもらってから番にしようと思ってた。 けど、あんたがあんまり死にたいとかぬかすから…… 無理矢理噛んじまった……あれは、悪かった……」
 大誠の声には、後悔が混じっていた。 旭は、大誠の胸に顔を埋めたまま、そっと首を振る。
 あの時、番になっていなければ―― きっと、自分は立ち直ることができなかった。 あの絶望から、抜け出すことはできなかった。
 今、大誠の腕の中は、あたたかく、優しい。
 このまま、ここにいたい。 このぬくもりに包まれていたい。
「ずっと、大切にしたかった」
 大誠の言葉は、静かで――けれど確かな熱を帯びていた。 その声に、旭は思わず問い返す。
「たい……せつ……?」
 その言葉の意味を、確かめるように。 信じたいけれど、まだ少し怖くて。
 大誠が腕に力を込める。 ぎゅっと抱きしめられた瞬間、旭の身体に熱が広がった。 心臓の音が、どくどくと耳の奥で鳴り響く。
「あんたの気持ちに整理がつくまで、触らないようにしてた。 結婚とか、子どもとか、そういうのも……全部、待とうと思ってた」
「……!」
 その言葉に、旭は目を見開いた。 そうだ。番にされたこと以外、大誠は、ずっと――自分を尊重してくれていた。
「あんたが好きだ」
 耳元で囁かれたその言葉に、身体がゾクゾクと震えた。 声の温度が、肌に染み込むようだった。
「ずっと、好きだった」
 耳がくすぐったくて、こそばゆくて―― でも、嬉しくて、涙がにじみそうになる。
「ん……」
 小さく声を漏らすと、大誠がそっと問いかけてきた。
「このままずっと、俺と一緒にいてほしい…」
 旭は、コクコクと小さく頷いた。 言葉にはできなかったけれど、心は確かに応えていた。
「……キス、していいか…?あんたが好きだって言ってくれるまで、我慢してた……」
 その言葉に、旭はゆっくりと顔を上げる。 大誠の目を見つめる。
 そこには、長い年月の想いが宿っていた。 大誠は、微笑んだ。 その笑顔は、あたたかくて、どこまでも優しかった。
 そして――ふわりと、唇が触れる。旭は、目を閉じてその瞬間を受け止めた。
(……ああ、俺は――)
 ようやく、心に張り詰めていたものが、溶けていく。
(大誠の運命なんだ…)
 旭は恐る恐る、彼の背中を抱きしめた。 

 *

 翌朝、旭が先に目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む柔らかな光が、部屋を淡く照らしている。
 ベッドの隣では、大誠が静かに寝息を立てていた。 そのクセのある髪が、枕に広がっている。 旭は、そっと指先でその髪を撫でた。
(夢じゃない……)
 昨日のことが、身体に残っていた。 腰は重く、目元は腫れ、喉にも少し痛みがあった。
 それでも――
(ああ、幸せだ……)
 心から、そう思えた。 胸の奥が、満たされていく。
(ありがとう……)
 旭は、大誠の眠る唇にそっと口づけた。 触れるだけの、静かなキス。
 愛しい運命の人。 
 大誠は微かに眉を動かしたが、目を覚ますことはなかった。 その寝顔を見つめながら、旭は静かに微笑んだ。
 この朝が、ずっと続けばいい。 このぬくもりが、永遠であればいい。
 そう願いながら、旭はもう一度、大誠の隣に身を寄せた。 ふたりの鼓動が、静かに重なっていた。


 番外編

 あの日―― 大誠は、道端で突然激しいめまいに襲われた。
「……っ」
 視界がぐらりと揺れ、思わずその場に座り込む。 地面が波打つように感じられ、身体が言うことをきかない。
(めまいなんて、今までしたことないのに……)
 冷や汗が背中を伝う。 呼吸が浅くなり、手のひらがじっとりと湿っていた。
 そのとき―― 頭の中に、映像が流れ込んできた。
 包丁。 左手首。 血が、流れている。
(……何だこれ?)
 自分の記憶ではない。 自傷行為など、したこともないし、考えたこともない。 最近そんな場面を見た覚えもなかった。
 これは―― 誰の記憶だ?
 そのとき、不意に思い出した。
『運命の番は、相手が死に瀕しているのを感じることができる』
 心臓が跳ねた。
「……旭?」
 名前が、勝手に口からこぼれた。 嫌な予感が、背筋を走る。
 旭の家は知っている。 迷うことはない。
 めまいが少し治まると、大誠は立ち上がった。 そして、全力で走り出した。
 風を切る。 心臓が、ドクドクと鳴る。 焦りと恐怖―― そして、旭のところに行かなければという、強烈な衝動だった。
(間に合え……!)
 足が痛くても、息が切れても、止まらなかった。 運命の番―― その言葉が、今ほど重く感じられたことはなかった。

 *

 旭は―― 大誠が子どもの頃、隣に住んでいたお兄さんだった。
 小さな頃、人見知りだった大誠が、初めて懐いたのが旭だった。 両親は共働きで忙しく、家にいる時間も少なかった。 そんな大誠の面倒を、時折見てくれたのが旭だった。
 旭はいつもいい匂いがした。 シャツの襟元からふわりと香る匂い。 それが、Ωのフェロモンだと気付くのはもう少し後だが、小さい頃の大誠にとって安心の象徴だった。

 最初は「隣のお兄さん」として慕っていた。 でも、だんだん大誠が大きくなるにつれて―― 旭がかわいく思えてきた。
 自分の方が年下なのに、守ってあげたいと思った。 その気持ちは、幼いながらも確かなものだった。
 大誠の野球の試合があると、旭はよく応援に来てくれた。 スタンドから笑顔で「大誠!がんばれ!」と声をかけてくれる。 その声を聞くだけで、いつもより多くヒットが打てる気がした。
 外で見る旭は、真面目で凛としていた。 背筋をスッと伸ばして、誰に対しても礼儀正しくて。 その姿が、大誠にはとてもかっこよく見えた。
 いつの間にか―― 好きになっていた。

 中学生になったある日のこと。 学校帰りに偶然、旭の姿を見かけた。
 その瞬間―― ガクリと全身の力が抜けて、壁にもたれかかった。 動悸がして、息が上がる。
(これは……もしかして、運命の番なのか……?  旭が? やった……!)
 大誠は、嬉しかった。 好きだった旭が、運命の番だと分かって。 旭もきっと、自分のことが好きなのだろうと思っていた。 だって、ずっと優しくしてくれていたから。
(自分の身長が彼を追い抜いたら、告白しよう)
 そう決めた。 それからは、勉強に部活に、何でもがんばった。 旭を幸せにするためなら、努力は惜しまなかった。
 運命の番―― それは、ただの本能じゃない。 大誠にとっては、ずっと育ててきた、想いだった。

 それなのに―― 旭は、ある日突然、隣の家を出て行ってしまった。
 何の前触れもなく。 何の言葉もなく。
 ただ、うなじには真新しい噛み痕があった。 自分よりずっと大人の男。 その番と一緒にいる旭は、幸せそうに笑っていた。
 その笑顔が、大誠の胸を締め付けた。
(運命じゃ、なかった……?)
(そんなバカな! あの時、絶対に運命だと思った!)
(なのに……なんで?)

 答えが欲しくて、定期健診のときにα専門の医師に聞いてみた。 すると、医師は静かにこう言った。
「年齢差が大きいと、運命だと気づきにくいこともあります」
 その言葉に、大誠は打ちのめされた。
(どうして俺は、旭と同じくらいの年で産まれなかった?!)
 自分が10歳も年下であることを、心底呪った。 もし同じ年だったら。 もし、もっと早く出会えていたら。
 今すぐ奪いたい。 そう思った。
 でも―― 幸せそうに笑う旭を、壊したくなかった。

 それに、今すぐ奪ったところで、自分はまだ中学生。 養うこともできない。 守る力もない。 ただただ、無力だった。
(いつか……いつか絶対に自分のものにする!)
 その思いだけが、大誠の心を支えていた。
 それまでに、しっかりと自立しよう。 力をつけよう。 旭を守れる存在になろう。
 そう、心に誓った。

 旭の居場所だけは、常に頭に入れていた。 どこに住んでいるか。 どんな仕事をしているか。 誰と一緒にいるか。
 でも―― 自立するまでは、なるべく出会わないように努めた。
 会えば、何をするかわからない。 その自覚が、大誠にはあった。
 だからこそ、距離を置いた。 だからこそ、見守るだけにした。
 その想いは、ずっと胸の奥で静かに燃え続けていた。
 それから――7年が過ぎていた。

 大学では、仲間うちで立ち上げた小さな会社が、少しずつ軌道に乗り始めていた。 資金繰りも、取引先との関係も、まだ不安定ではあるけれど、手応えはあった。
(もう少し……もう少しだ)
 そう思いながら、日々を積み重ねていた。 旭を迎えに行くために。 自分の手で守れるようになるために。
 大誠は、旭のマンションからそう遠くない場所にアパートを借りた。 それは、偶然ではなかった。
(ストーカーかよ……)
 自分でも、そう思った。 けれど、マンションに押しかけたことは一度もない。 ただ、少しでも近くにいれば―― 偶然会えたときに、旭が自分を“運命”だと感じてくれるかもしれない。
 そんな、淡い期待を抱いていた。それでも、一度も会わなかった。
 そして―― その“とき”は、突然訪れた。あの日、道端で激しいめまいに襲われたのは、旭の死の予感だった。

 * 

 旭の住むマンション。 エントランスに駆け込むと、大誠は震える指で部屋番号を押した。
 ――応答がない。
 何度押しても、何度呼びかけても、インターホンは沈黙を続けた。
「開けてくれ!死ぬかもしれないんだ!」
 管理人にそう叫んだのは覚えている。 いや、叫んだというより、怒鳴りつけた。 剣幕も、言葉の選び方も、すべて無我夢中だった。
 管理人が驚いた顔で鍵を開けてくれた。 大誠は礼も言わず、玄関へと駆け寄った。
「旭っ!」
 玄関の鍵は――開いていた。
 その瞬間、胸がざわついた。 嫌な予感が、確信に変わる。
 大誠は靴も脱がずに中へ飛び込んだ。
 そして―― そこに、旭が横たわっていた。
「旭っ!おい!……おいっ!」
 声が震える。 身体が震える。 大誠の顔から、一気に血の気が引いた。
 頬がこけていた。 見るからに痩せていた。 肌は青白く、唇は乾いていた。
(なんだこれ?!なんだこれは?! 旭は幸せだったんじゃないのか?! どうしてこんなこと……!)
 頭の中がぐるぐると回る。 でも、今は考えている場合じゃない。
 まだ――息はある。
 号は震える手でスマートフォンを取り出し、救急車を呼んだ。 声がうまく出なかった。 それでも、必死に状況を伝えた。
「意識はないけど……息はある……!早く、お願いします……!」
 電話を切ると、大誠は旭のそばに膝をついた。 その手を握る。 冷たい。 でも、まだ温もりが残っている。
「旭……頼むから……死ぬなよ……」
 その声は、涙混じりだった。

 大誠は毎日のように、病院へ見舞いに通った。生きていてくれてよかった―― それだけで、何度も涙が出そうになった。
 けれど、旭は大誠が“運命”だと気づくような素振りはなかった。 ただ、静かに、淡々と過ごしていた。
 相田先生からは、ある日こう言われた。
「……あの人のこと、お願いしますね」
 この人は、薄々感づいているのかもしれない―― そう思った。
 でも、当の本人――旭だけが、気づかない。

 大人になってから見る旭は、痩せて、頼りなくて、泣きそうな顔ばかりだった。 なんだか、子どものようだった。
 そして――退院の日。
「死にたい」と言う旭の言葉に、大誠は耐えられなかった。 気づけば、無理矢理うなじを噛んでいた。 番にしてしまった。
 衝動だった。 でも、それは本能ではなく、想いだった。

 翌日、謝ろうと思った。 好きだと伝えようと思った。 俺は、あんたの運命の番なんだと、説明しようとした。
 けれど――
「今すぐ番を解消しろ!」
 旭は、拒んだ。 その目は、怒りと恐怖に満ちていた。 取り付く島もなかった。
 大誠は、ギリと唇を噛んだ。
(くそっ……!)
 何もかもが、上手くいかない。
 αとして生まれ、才能にも恵まれた。 女性にも、Ωにも、言い寄られたことは数えきれないほどある。 それなのに―― ただ1人の“運命の番”だけが、手に入らない。
(俺が欲しいのは、あんただけなのに……!)
 うなじを噛んだことで、番は成立した。 それでも、心は遠かった。
 旭の目は、大誠を見ていなかった。 その距離が、何よりも苦しかった。

 *

 番になってから初めて、旭がヒートに入った。
 大誠は自宅で仕事ができるようにし、旭に何かあればすぐに相田に電話をかけることにした。大誠はα用の抑制剤を飲んだ。
 真夜中、寝室からガタンと大きな音がした。
 「旭…?」
 声をかけたが、返事はない。
 「大丈夫か…?」
 ドアを開けると、旭の甘い匂いが充満していた。大誠は一瞬頭がくらりとする。
 が、抑制剤が効いているのか、なんとか正気を保った。
 旭はベッドから落ちて、床に横たわっていた。苦しそうに胸を上下している。
 「はぁっ…んっ…」
 上半身は大誠がよく着ている前開きのシャツを羽織っていたが、太ももの辺りが濡れていて、リビングからの光がそれを照らす。
 大誠は慌てて目を逸らした。
 「…たす…けて…っ」
 か細い声で旭は言った。
 大誠は我に返り旭のそばに行き、「薬飲むか?水がいいか?相田先生に電話するか?」と聞いた。
 旭は手を伸ばして、大誠の股間を触った。
 「ちが…これ…、ちょうだい…」
 「えっ…?!ま、待て…!とりあえず、薬飲め…!」
 逃げるように這い、旭に薬を飲ませる。はだけたシャツから、旭の乳首がちらりと見えて、大誠はまた目を逸らした。
(くそっ!たまんねぇ…)
 大誠は旭を床に倒し、シャツのボタンを引きちぎる。旭はとろけたような顔でこちらを見ていた。
(旭から誘ってきたんだ…!いいだろう!…いや、ダメだ!今こいつは正気じゃない!)
 大誠は頭の中でせめぎあいを始める。
(旭を助けるためだ!)
(でも、もし、これで旭が妊娠したらどうなる…?望んでいない子どもができたら…?)
 旭が正気に戻ったとき、もし妊娠なんてしていたら…悲しんで、泣いて、怒って、また全力で拒絶されて…。
 考えると、怖くなった。大誠はピタリと動きを止めた。
(それは、ダメだ…)
 あたまが冷静になると、身体の熱が冷めていく。
(俺は…、何やってんだ…)
 「たいせい…?」
 旭の胸元に、ぽたぽたと水滴が落ちた。 それが自分の涙だと気づいたのは、少し後だった。
(くそっ、くそっ……!)
 悔しさとも、悲しさともつかない感情が胸を締めつける。
「ど……した……?」
 かすれた声が、床に横たわる旭から漏れた。 その目は潤んでいて、焦点が定まっていない。 それでも、大誠の顔を見て、腕を伸ばしてくれた。
 大誠の頭を胸に抱き寄せる。 慰めるように、優しく撫でてくれる。
「試合……負けたのか……?」
 その言葉に、大誠は一瞬、時が巻き戻ったような錯覚を覚えた。 子どもの頃、野球の試合で負けて泣いたあの日。 旭は、同じように頭を撫でてくれた。
「また、がんばればいい……な?」
 優しい声。 暖かい胸。 旭の心臓の音が、静かに耳に届く。
「……大丈夫」
 その言葉に、大誠の涙は止まらなくなった。 しゃくり上げながら、旭に縋りつき、子どものように、泣きじゃくる。
「あさひっ……」
「ん……」
 好きだ。 好きで、好きで、どうしようもない。
「旭……っ」
 どうしたら伝わる? どうしたら、自分のことを見てくれる?
 泣かせたくない。 悲しませたくない。 ただ、大切にしたい。 笑っていてほしい。
 それなのに、上手くいかない。 言葉も、行動も、すれ違ってばかりだ。
「……あさひ……っ」
 旭を、幸せにしたい。 その願いだけが、胸の奥で静かに燃えていた。
「……俺が、そばに……いるから……な」
 旭が、小さな声でそう言った。 大誠の頭に手を置いたまま、薬が効いたのか、スーッと静かに寝息を立てる。
 その言葉は、かすれていたけれど―― 確かに、大誠の胸に届いた。

 大誠はしばらく、旭の胸に耳を当てて泣いた。 心臓の音が、静かに響いていた。 そのリズムが、大誠の涙を少しずつ落ち着かせてくれた。
 目は腫れていた。 けれど、泣いたら憑きものが落ちたように、心がスッキリしていた。
(……俺は、旭のそばにいる)
 それだけで、十分だった。 旭のことを、大切にしよう。 嫌がることは、絶対にしない。 旭から許可が出るまでは、触らない。
 もう、そばにいるのだから。 番になったのだから。
 旭のことを大切にして、喜ぶことをして、笑ってもらおう。 俺が幸せにするんだ。
(そのためなら、なんだってやってやる……!)
 俺たちは、運命の番なんだから。
 その言葉を、心の奥で何度も繰り返した。
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