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60.ベータは流されるもの

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「すごい、御馳走だ」

 風呂から上がり浴衣姿になった貴文は、並べられた食事を見て感嘆の声を上げた。

 「ありがとうございます」

 配膳をしていた女性にお礼を言われ、貴文はぴたりと止まり、真顔になった。よくわからないけれど、見た感じから言ってもきっとこの高級旅館の女将に違いない。だって傍らでほほ笑んでいる五大名家の嫡男である一之瀬義隆の相手を直々にしているのだから。

「貴文さん、座りましょう」

 義隆に促されてひじ掛け付きの座椅子に座るが、なぜか横並びの配置になっていた。

「リラックスして座ってください。それじゃあ食事が楽しめませんよ」

 思わず正座してしまった貴文に義隆が足を崩すように進言する。そうは言われてもこんな高級旅館で見たことのないご馳走を出されて、リラックスしろと言われても無理がある。

「お飲み物は当旅館オリジナルの日本酒をお冷で、それとこの地域の天然水のペットボトルを常温でご用意いたしました。その他お飲み物の追加がございましたら及びくださいませ。それでは……」

 女将がパン、と手を叩くと正面の障子が音もなく開いた。

「ぅわわわわっわぁ」

 目の前に現れたのは満開の枝垂れ桜。ライトアップされて幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 貴文は思わず膝立ちで目の前の風景に見入ってしまった。

「どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ」

 女将がいなくなったと、貴文はゆっくりと腰を下ろした。そのまま膝を崩した状態になり、驚いた顔で隣に座る義隆を見た。

「綺麗ですよね?毎年ここで花見をするんです」
「え?毎年?じゃあ、ご両親は?」
「父と母は昨日まで滞在していました」
「昨日まで?」
「ええ、妹は発情期が来てしまったので」
「そ、そうなんだ……え、でも、そんな大切な場所に、俺なんかが……」

 恐縮する貴文に、義隆はにっこり微笑んでまたもや飛んでも発言をしてくれた。

「就職祝いなんです」
「………………は?」

 脳内処理が追い付かない貴文はだいぶ間抜けな声を出した。

「おじいさまの会社なんですけど、四月から新入社員として働かせてもらっているんです。学生では貴文さんのこと養えませんから」

 続けて言われたことも貴文には理解できない内容だった。

「え、と……俺、ベータで男なんですけど?」
「同性でも結婚できますよ?」
「いや、ほら、跡取り……とか、さ」
「妹がオメガなので問題ありません」
「あ、でも、俺すごい年上だし……」
「そんなの今更じゃないですか。それに貴文さん、俺のプロポーズ聞いて『嬉しい』って言ってくれたじゃないですか」

 貴文の思考が停止した。

(プロポーズ?そんなのいつ言われた?嬉しい?俺、嬉しいって言ったんだ?駄目だ思い出せない)

 ぽかんと口を開けて動かなくなった貴文を見て、義隆はゆっくりと口を開いた。

「お礼参りに行った帰り、『来年はハワイの出雲大社で挙式しましょう』って言ったら貴文さん『嬉しい』と言ってくださったのに……『本当に?』と聞き返して確認までしてくれたから、俺……」

 まるで土砂降りの雨に打たれた子犬のように悲しみに満ち溢れた顔をして、今にも泣きだしそうな目を貴文に向けてきた。だから貴文は必死で記憶を掘り起こした。あの日、報道陣に囲まれて逃げるように車に乗り込んで、黒いスーツの護衛の人たちに囲まれて、いろいろ初めて尽くしでいっぱいいっぱいではあった。
 が、記憶をたどれば確かに言った。出雲大社というワードに対して『本当に?』『嬉しい』と返事をした記憶がおぼろげにはある。ただ、義隆が情報を少し意図的に操作してはいる。だから貴文は余計にはっきりと思い出せないのだ。

「ごごごごご、ごめん。浮かれすぎてちゃんと聞いてなかった、かも」

 もう反省をする貴文を見て義隆は潤んだ瞳をさらに向けた。

(か、かわいいぃ。顔面の破壊力半端ない。いや、でも、俺ってばプロポーズ受けちゃってたの?いや、受けたよなどう考えても、嬉しいってそりゃ承諾だよな。どう考えても)

 義隆の顔を見つめたまま動かない貴文の頬に義隆の片手が伸びた。

「浮かれるほど喜んで下さったんですよね?」
「そ、です、ね」

 あまりの顔の近さに貴文の体温が急激にあがっていく。

「俺、年下で頼りないかもしれませんが、貴文さんを幸せにするために一生懸命がんばりますから」
「……は、はいぃ」

 どこか裏返った声で貴文が返事をすると、義隆がどこからともなく指輪を取り出した。

「おじいさまから給料を前借しました。三か月分です」

 いつの時代の金額設定なんだと突っ込まずにはいられなかったが、いまの貴文にそんな余裕は何処にもなかった。ゆっくりと左手の薬指に婚約指輪がはめられていく。シンプルなデザインではあるが、しっかりとダイヤがはめられていた。

「そんなわけで、三か月給料がありません。ごめんなさい」
「お、俺、働いてるから大丈夫だよ。年上だし、そーゆーところは頼ってくれればいいんじゃ、ないかな」
「はい」

 義隆がぎゅっと抱き着いてきて、そのまま二人して畳に倒れこんだ。体が伸びたはずみで二人のお腹がぐぅぅと鳴った。

「あ、折角のご馳走が冷めちゃうね」
「そうですね。食べましょうか」
 

 
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