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31 覚悟
しおりを挟む舞子の日常は、表面上は順調だった。
オーディションに向けた準備は着実に進み、評価も悪くない。
英語の発音も、表現も、以前よりずっと身体に馴染んできている。
――ちゃんと前に進んでる。
そう言い聞かせる必要がないくらい、日々は忙しく、充実していた。
スタジオでの歌唱レッスン中、講師がふと首を傾げた。
「……少し、歌い方変えた?」
舞子は、マイクを下ろして瞬きをする。
「え……そうですか?」
「うん、悪くない。少し前はスランプかなって時期もあったけど、今はむしろ前よりずっと自然で良くなった。」
講師は言葉を選ぶように続ける。
「前は“届けよう”って、りきみが前に出てた。でも今は……誰かに向けて歌ってる感じがする」
舞子の胸が、ふっと高鳴った。
誰かに向けて。
その言葉が、なぜか心に引っかかる。
「特定の相手がいる歌い方だな」と講師はニヤリと笑みを浮かべた。
舞子は、曖昧に笑ってごまかすしかなかった。自分でも、はっきりとは説明できなかったから。
帰り道、夜風に吹かれながら舞子は歩く。――私は、何が変わったんだろう。
怜の顔が自然と浮かぶ。あの日、静かな声で告げられた言葉。
――治療は、意味がない。
その現実を前にして、何もできなかった自分。
でも分かったこともあった。
私は嫌われたわけでなかった。
怜さんは、ただ自分の恐れを素直にさらけ出しただけだった。私に見せてくれたんだ。自分の心の内の弱さも、恐れも。
だからこそ、舞子の胸には強い気持ちが芽生えていた。
――支えになりたい。あなたの希望であり続けたい。
でもその前に、まずは治療なんだ。せっかくの希望を繋ぎとめてほしい。未来を、閉ざしてほしくない。
その願いは、何よりもずっと切実で、ずっと重かった。
もうすぐブロードウェイのオーディションだ。これをパスすれば、稽古に入り、トライアウトも始まる。アメリカの各都市を回って、試験上演するのだ。
トライアウトを成功させて、ようやくブロードウェイでの公演が決まる。
私にとっても、これは大きなチャレンジだ。
怜さんの治療のように、生死を左右するようなものとは、比べものにならないかもしれない。それでも……。
数日後。
伏見は、舞子の頼みを受けて、静かに頷いた。
「分かった。話は、私からしよう」
「……ありがとうございます」
「君の覚悟も受け入れよう。私は君が成功すると信じてるよ。沢本もそうだろう、だからこその承諾だ」
伏見はウインクしてみせた。無理を聞き入れてくれて、文句も言わなかった。
ふたりがそんなにも私を信頼してくれていると思うと、心が温かくなった。
あとは季実子さんに任せてみよう。
“条件付き”の部分を伏せてほしいとも、詳しく説明してほしいとも言わない。ただ、希望があることだけが伝わればいい。そして私の覚悟も。
いつものように、病院で処方薬を受け取った帰り道だった。
――ロケ、ドラマか何かか。
公園の一角に、数台のカメラやマイク、大勢のクルーが集まり、その様子を遠くから眺めている通行人が何人かいる。
あの中に記者が混じっていたら面倒だな、そう思った怜は歩を早めた。
公園から出ようとしたとき、怜の背中を叩くものがあった。
「怜、怜だろ。俺だよ」
ハン・ジュハだった。イノセント・bのメンバー、俺と同い年のジュハ。あまりに突然で、反応が追いつかない。
「ジュハ……」
「遠くからでもすぐ分かったよ。歩き方って変わんないもんだ」
「ジュハ、なんで日本に? 他のみんなは?」
ジュハは少し意外そうな顔をする。
「そっか、知らなかったんだな。イノセント、活動休止したんだ」
「……知らなかった。みんなで、うまくやってるものだと思ってた」
「そう簡単じゃなかったよ。お前と一番衝突してた俺が言うのもなんだけど」
それから肩をすくめてジュハは笑った。
「お前と一緒にいたおかげで、俺そこそこ日本語ができるんだ。だからこっちのドラマに呼ばれたんだよ」
「懐かしいな」
怜もマスクの下で微笑んだ。
「だな。そろそろ戻るよ。じゃあ、また」
また、か。
懐かしい。たかが数年前なのに、イノセント・bの日々は遥か昔の出来事のように感じる。心なしかジュハも大人びて見えた。
久しぶりに父さんの顔を見に行くのもいいかもしれない。そんなことを考えながら、怜は母親の待つマンションへと帰って行った。
マンションの部屋に入ると、明かりはついていた。
「おかえり」
季実子は、キッチンから顔を出した。
怜は軽く頷き、靴を脱ぐ。
「病院、どうだった?」
「いつも通りだよ」
季実子は努めて軽い調子で続けた。
「……怜、少し、話があるの」
テーブルに置かれた封筒に、怜の視線が向く。英語の資料と、日本語の要約。
「海外で実績のあるお医者様なの。新しい治療法だって」
怜は思わず眉をひそめた。
「……また、その話?」
「“また”って言わないで、とにかく聞いてちょうだい」
季実子の声は、静かだった。
「あなたのレントゲンも見ていただいたの。成功率やリスクも、全部聞いたわ。簡単な道じゃない。でも……これは今までとは違うと直感したのよ」
怜はすぐに否定の言葉を探した。けれど、言葉が出てこなかった。
「それにね」
母は、少しだけ間を置いてから言った。
「この話を持って来てくれたのは、舞子さんなの」
資料を持つ怜の指先が、わずかに反応する。
「……なんで」
「あなたのことを、諦めていないからよ」
――意味が、ない。
そう言い切ってきたはずの言葉が、今は少しだけ揺らいでいた。
「私も舞子さんの覚悟を聞いたのよ。ほんとに……驚いたわ」
なにか、嫌な予感がした。
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