【完結】呪われ姫と名のない戦士は、互いを知らずに焦がれあう 〜愛とは知らずに愛していた、君・あなたを見つける物語〜

文野さと@書籍化・コミカライズ

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3 傷ついた少年 忘れられた少女 2

 九十六号は、荒々しい玄武岩げんぶがんでできた険しい崖を登っていた。
 岩の隙間にあるわずかなくぼみに足の指をかけ、渾身こんしんの力で体を持ち上げ、その勢いのまま跳躍する。
 午後から降り始めた雨がやっと止んだとはいえ、岩肌は濡れて滑り、危険なことこの上ない。
 しかも、斜面の途中の枝や岩に取り付けられたまと刀子とうすを投げ、的中させなくてはならない。
 目印になるように的には白い布が巻いてある。夜目が効くよう訓練されたとはいえ、湿気の中で小さな的を見極めるのは困難を極める。
 しかし、走りながら、あるいは跳びながら、九十六号は一度もあやまたず、次々に的を射抜いては、さらに駆け上がっていく
 雨風に侵食された垂直に近い岩は、崩れやすくなっている部分も多く、足を滑らせたら底なしの奈落ならくが口を開けて待っている。今まで彼の背後で上がった悲鳴は三つ。いずれも彼と同じ立場の少年たちだ。
 仲間ではない。しかし見知った同朋どうほうだった。この試練を生抜いた者だけが一人前の<シグル>として認められるのだ。
 あと少しで頂上。
 九十六号は上方を振り仰いだ。
 その瞬間、足の下からまた一つの悲鳴が上がり、吸い込まれるように消えた。最後まで彼について登ってきた少年のものだろう。
 この訓練を命じられた少年は全部で五人。九十六号は最年少だった。
 そして今、九十六号の他は全て脱落した。それはすなわち死を意味する。

 俺は生き抜く。こんなところで死んでたまるか!
 そして、俺をこんな運命に突き落とした奴らすべてに復讐してやる。

 その思いだけが九十六号を上へ、上へと押し上げている。
「……ほう、あいつ、なかなかいいじゃないか。もうこれで四人落ちたが、あいつはまだしがみついているぞ。雨が降るとは想定外だったが。決行せよとのお頭のご命令だったからな」
 向いの斜面から、登っていく少年たちの様子を見ていた五号が隣の十号に声をかけた。
「ま、最近。俺たち<シグル>も優秀な奴が減ってきたから、餓鬼どもを選別してしこたま仕込もうてぇ、お頭の考えなんだろう。ギマのやつらも増えだした。これからもっと厳しい時代が来る」
「だな。強い奴だけが生き残って良い目を見る、それが俺たち<シグル>だ。皆そうやって生き抜いてきた……おっ」
 五号がやや身を乗り出して感心したように言った。
「ほう。あいつ、あの斜面も超えたか。俺が今まで見た餓鬼どもの中では一番だ。能力も度胸もある。奴は『本物』の戦士になる。お前、じき追いつかれるぞ、十号よ」
「その前に叩き潰してやるわ」
「それも、ここを越えられたらの話だが。そろそろ一番の難所だ」
「……」
 一人だけ言葉を発しない男がいる。八号だ。
 彼は二人の男よりやや後方に立ち、向かいの崖をよじ登る少年の様子を見守っている。男の目は一心に九十六号に注がれていた。
「おおっ! 超えようとしているぞ!」
 十号が指差したところは、斜面が手前にかぶさるように反り返っており、鉄杭てっくいを深く岩の裂け目に突き刺しながら、登らねばならない。
「すげえ!」
 男たちは天井のように張り出した斜面を、確実に上がっていく九十六号を驚きをもって見つめた。
「あいつ、指先の力だけで!」
「ああ。しかも早い! あいつまだ十二、三歳じゃなかったか?」
「おお! 飛びあがろうとしているぞ! やるか! やれるのか!?」

「ふぅ……」
 九十六号は、最後の跳躍のために呼吸を整えた。
 両手の指は崖の頂上の岩にかかっている。これを越えれば、向かい側から見た高地に足がつくはずだった。
「くあっ!」
 指先に力を込め体を振る。あらかじめ目をつけておいた丈夫そうな枝をつかんで、反動をつけて飛び上がる。空中で大勢を立て直しつつ地面に足がついた瞬間、さすがの九十六号も途方もない安堵を感じた。
 人並外れた体術を持つ少年にしても、この最終選別の試練は、非常な緊張を伴うものであったのだ。
 崖の上は平らではなく、やはり岩場であり、あちこちに雨水の侵食による裂け目が口を開けている、荒涼とした風景だ。水溜りには空が映り、寒々しくもそれはひどく青かった。
 しかし、もう登ることはない。
 九十六号は足元の、水溜まりの水を救って飲んだ。それは美味くはなかったが、ちょうどいい冷たさで、こわばった筋肉をほんの少し和らげてくれる役目を果たした。
 左には大きな裂け目が口を開けている。試しに覗き込んでみると、深いところで何かの反響音が立ち上ってきた。

 地下水か? それにしてもひどく深いな。

 と感じた、その瞬間。

 ギャギャギャギャ!

 襲いかかってきたのは黒い鳥だ。
 羽を伸ばせば、大人と同じほどある巨鳥、ギセラだった。それは鋭いくちばしをかっぴらいて九十六号に体当たりを仕掛けた。
「うわっ!」
 痩せて小柄な九十六号などひとたまりもない。ましてや、疲労でふらふらの状態だ。
 暗い口を開けた亀裂に向かって体が傾いていく。
 一瞬の浮遊感の後、凄まじい落下の感覚が彼を襲った。
 視界は暗闇に飲み込まれ、自分が落ちた裂け目だけが細長い光となって遠ざかっていくのが見えた。

「おい! 九十六号は!? 急に姿が見えなくなったぞ!」
「貴様、見てなかったのか。ギセラだ、いきなり空から急降下してきたんだ。おそらく亀裂の中に巣があったんだろう、それとも卵か。奴はあっという間に落とされた。これは死んだな。今までの手間が無駄になった」
「奴は<シグル>として優れた素質を持っていると思っていたが、まぁ仕方がない」
「下は地下水脈だ。死体も上がらぬな。まぁその方が都合がいいが」
「とりあえずお頭に報告しておこう」
「やれやれ、また餓鬼どもを仕込まないと。面倒な!」
「……」
 八号はまだ向こう側をにらみつけていた。
「おい、帰るぞ、八号」
「いや、俺は確かめてから戻る」
「そうか。勝手にしろ」
「さぁ! 餓鬼ども! 戻るぞ!」
 そこには九十六号よりもまだ幼い少年が数人縮こまって震えていた。年上の少年たちの選別を見せられていたのだ。
「ねぐらまで駆ける。一等には肉をくれてやるぞ! 一番最後になったものは晩飯抜きだ! 我らはシグル!」
「我らはシグル!」
 一斉に唱和し、山の色に紛れる衣服を纏った男と少年たちが、険しい山を駆け下りていく。その動きは人間とは思えないほど速い。
<シグル>とは、彼らが属する組織の名で、構成員もまたシグルと呼ばれる。
 この大陸にどこにでもいる浮浪児や孤児を攫っては、さまざまな試練を与えてきたえ、選別していく。哀れな子どもたちは半年と保たずにほとんどが死んでしまうのだ。
 そして生き残った者にはさらに厳しい訓練を施して淘汰され、それを生き抜いた者だけが無慈悲な戦士<シグル>に育っていく。
 彼らは対価さえもらえれば、何でもする。傭兵はもとより、誘拐や盗み、破壊工作に暗殺までやってのける恐ろしい組織だった。
 八号は、身軽に崖を登って九十六号が落ちた崖の上まで辿り着いた。
「これは深いな」
 九十六号が落ちた亀裂は山の底まで続いているようだった。ここからでも地下水脈の激しい流れの音が聞こえる。亀裂の窪みには大きな巣と卵が見える。

 ギャーッ!

 背後から襲い掛かる鳥の気配。
 八号はそちらを見もせずに、つま先で石を蹴り上げ引っつかむと、腕をぶんと振って投擲とうてきした。石は過たず、巨鳥の額に命中しバサバサと崖の向こうへ落ちていく。
 他にもギセラ達は集まってきており、八号を囲んで憎々しげに騒いだが、もう襲っては来ない。賢い鳥は、この人間には敵わないと知ったのだ。
「……」
 八号は再び近くの位置を蹴って亀裂に落とし、耳を澄ます。石の落ちる音は聞こえなかった。
「残念だな。九十六号。この山がお前の墓場となった」
 そう言って、八号もまた山を降りた。
 空には早くも宵闇が迫ろうとしていた。
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