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10.北風 3

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 風花は自分の自転車が倒れる音を聞いた。
 だけど、そちらを見ることはできなかった。
 動けないほどがっしり肩をつかまれている。
「聞いた」
「は?」
「聞いたよ」
「な、なにを」
「俺のこと好きって言った」
「え? あ、あれ? あの……」
 身じろぎしても大きな手は風花をつかんで離さない。
「あれは……話の流れで……」
「もう遅い。本気にしたから」
「ち、ちが……っ!」
「じゃあ、嫌い?」
「き、嫌いでは」
「さっきは少し好きって言った」
「そ、それはそうなんだけど……あの、離して……」
「嫌だね」
 あたりは暗いのに。恐ろしいほど真剣な瞳が風花をとらえいるのがわかる。声が静かなだけに、その存在感は圧倒されるほどに大きい。
「あなたが俺のこと無関心ならこのままでいいと思ってた。でも少しでも好きになってくれたんなら、俺は全力であなたを振り向かせる」
 彼は振り向かせたいではなく、振り向かせる、と断定した。
 自信があるのだと。
「あ……」
 肩をつかんだ手は、もうきつくないのに風花は動けない。
「俺の恋人になりなさい」
 樹は小さな上級生を見つめて言った。
 目の前の小さな人は、彼の大好きな大きなタレ目に自分を映している。まるで猛獣に取り押さえられた小動物のように怯えて固まったまま。
「本気で嫌なんだったら、もう二度とあなたに近づかない、話もしない。約束する」
「……」
「どう?」
 問いただされて混乱の極みの頭の中、風花は今日の午後からのことを忙しく反芻《はんすう》した。
 受験用のつまらない課題に惨敗し、凹んで帰ってきたこと。
 そこで思いがけず樹に会ったとたん、うきうきとおしゃべりになってしまった自分のこと。
 そして、またしても樹の言葉によって、なくしかけていた目標を取り戻せたこと。
 ——私、いつのまにか清水君といるのが楽しくなってたんだ。声をかけられるのを心待ちにしてた。もう話せないなんて……それは、嫌……だ。
「私……私は」
 ——これって、これが好きになるって事?
 同級生の小川への思いはもっとずっと切ないものだった。
 初めからかなわぬ恋だったから。
 長いことその恋にしがみついていた風花はほかの恋を知らない。
 しかし、いつのまにかその苦しさに何かが混じり、風花の気づかぬ間に苦くなくなっていったのだ。その何かとは、この無口な二年生から溢《こぼ》れる短い言葉とかすかな笑顔だった。他にもあるが、彼のぞんざいが大きくなっていったのだ。それに間違いないと風花も感じている。
 ——知らないうちに好きになってた。私、知らないうちに恋してた。
「風花?」
 初めて樹か自分の名を呼んだ。
 それが殺し文句。最後の麦わら。風花の心がゆっくりと溢《あふ》れていく。
 風花の頤がこくりとさがった。
「いいの? 風花、取り消し不可だよ」
 静かに問う樹の目に、もう一度風花の頭のてっぺんが映った。
 風花はうなずいたまま両目を痛いほどつむっている。そうでもしないと目の前の少年に圧倒されてしまいそうなのだ。
 肩をつかんでいた長い指がゆっくりと上がり、首筋をなぞってゆく。
 樹の指先の熱さが直に伝わり、自分の方が小刻みに震えるのを止められない。目を開けるのが恐かった。
 大きな手のひらはびっくりするほど熱く、柔らかい頬をつつむ。宝物のように。
「風花、顔上げて、俺を見て」
 それは優しいけれど断固とした仕草だった。風花は恐る恐る顔を上げて目を開いた。恐ろしく真剣な瞳とぶつかる。離れたところに暗い街灯があるだけなのに、彼の顔がとてもよく見えるのはどう言うわけなのだろう。
「……よかった。もし断られていたら俺、どうかなってたかもしれない」
「……」
「驚かせてごめん。でも今は何もしないから恐がらないで」
「……うん」
 頬がふっと冷気にさらられた。樹が手を離し、ようやく開放されたのだ。身を切る寒さにほんの少し自分が取り戻せる。
 ——私、嫌がってない……こんなにドキドキしているのに。
 やっと落ちるべきところに落ちたと思っている自分がいる。
 しかし、まだどうしていいのかわからなくて、風花は視線をそらせた。
「ひどい」
 ふてくされた子供のようにぽつりと呟く。
「え?」
「自転車」
「自転車?」
「こけてる」
 見るとカバンは投げ出され、苦労して持ち帰ったカルトンは情けなく地面に広がっている。
「あっ……! すみません」
 慌てて樹は自転車を起こしてスタンドをかけ、大きな体を折りたたんで散らばった荷物を集めた。
「ぷっ!」
「今度はなんですか」
 けげんそうに樹の眉が寄せられる。
「だって、おかしいんだもん。いっつも冷静な清水君が慌てちゃってさ。珍しいもの見ちゃった」
「……」
「ぷぷ、うくく。やっと反撃できた!」
「反撃? なにそれ。でもこれでわかったでしょ?」
「なにが?」
 まだ笑いが残ったままの唇を眩しそうにみながら清水が続けた。
「俺が本当はちっとも冷静でないってこと」
「うん、よくわかった」
「これからまだまだわかりますよ。この半年あなたに何度振り回されたことか。さぁもう帰ろう。ほれ、ハンドル持って」
 風花は素直に自転車を受け取り、二人は暗い道を歩き出した。
「受験ほんとにがんばってくださいよ」
「うん、がんばる」
「俺のガマンもあと少ししかききませんからね」
「ガマン? なんの?」
「完全犯罪の」
「なんだ、さっきの冗談か。一瞬本気で信じちゃったよ」
「にっぶ~……」
「なんでため息ついてんの?」
「……つかせてください」

 角を曲がるとそこはもう風花の家の道だ。
 細い暗い道は、思いがけず二人の始まりの場所となった。
 曲がり角にある街灯がおかしそうに瞬いて二人を眺めていた。




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