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25.追風 3
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風花の首筋に樹の顔が埋まっている。
——こ、これは、ひょっとして……ココロの準備が~!
いくらなんでも男女の間に起きることに知識はある風花だが、如何せん自分と樹の間にそんなことが起こるとリンクできていないところが、風花の風花たるゆえんだ。
事態の急展開にココロも体もついていかない。
「あ、あの……あの、し、清水君?」
「樹」
耳元で深みのある声がささやく。
「きゃ! や、やだ! ちょ、ちょっと、ごめんなさい、あの……清水君てば!」
「ちがうでしょ」
樹が息を吐くたび、耳たぶに熱い息がかかり風花の狼狽がますます大きくなる。心臓が口から飛び出てしまいそうに脈を打っていた。
「樹と呼んで」
「……い、樹!」
「はい」
途端に首筋が開放され、眼鏡の奥で少し翳った瞳がオロオロしているタレ目を覗きこんだ。風花の心象を正確に読み取ったのだろう、切れ長の眼がかすかに笑みを含む。両手は風花の顔の脇に沈みこんでいる。充分過ぎるほどの至近距離で。
「風花、髪が石鹸くさい」
「は?」
またもやイキナリなにを言い出すのか、この謎の少年は。
「もう……本当にしょうがないコだなあ」
「ええ?」
樹は風花と視線を合わせたまま、片手でせっせと三つ編みを解いている。
「まったく無用心なんだから!」
片方が解けると髪をさばいて広げ、もう片方に取り掛かる。器用なものだ。
「……ごめんね」
「そう素直に謝られるとますますかわいくなる。さ、これでよし。髪、伸びたね」
ソファに髪を広げ終わり、もう一度樹は風花の瞳を覗き込んだ。
「キスしたい」
そういうと風花の返事も待たず、唇を重ねる。
角度を少し変えては何度も何度も、やさしい触れるだけのキスを。
ようやく樹が唇を離したとき、風花の口から甘い吐息が漏れた。
「風花、すごくどきどきしてる……ここ」
長い指がそろえられ、ニットに覆われた左の胸を包む。指先にほんの少し力が加えられた。
「……っ!」
タレ目がおびえるように見開かれたのをみて、樹はまた仕方なさそうに少し笑った。
「そんなに心配しないでください。俺、風花が嫌がるようなことしないから」
「……」
「……それともして欲しい?」
ぶんぶんとソファの上で髪が踊った。
「そんなにきっぱり断られると傷つくんだけどな。でも」
ふっと視線が外れる。
「風花に嫌われたくないから」
体を起こしながら樹はつぶやいた。
「嫌いにはならないけど」
体が離れて少し肩の力が抜け、風花はようやく思ったことが言葉になった。
「そう? でも、まだだめだな。もう少し完全犯罪はお預け」
「これが完全犯罪なの?」
「まだちがうなぁ」
樹はおかしいような悲しいような、奇妙な表情をしている。
「し、樹君?」
風花はなぜか名を呼ばなければいけないような気になって彼を呼んだ。
「ん?」
「私、樹くんのこと、ほんと好きなんだけど……だけどゆっくりしかできなくて……ゴメンね?」
「だからね、こんなこと言われるとね」
樹は肩を落としている。
「男はダメになるんだよ。知らないでしょ」
「しっ……知らないよ」
「だろうねぇ」
そのとき、風花のお腹の真ん中からくぅーっというかわいい音がした。
「……」
「……」
二人の目が合う。
途端に笑いが爆発した。
「はは! お腹すいてたんなら正直に言えばよかったのに……あはは!」
樹が笑いの合間に突っ込んだ。
「や、これはちがうんだって! 今、緊張が解けたからつい」
「はいはい、ぷっ……くーだって、くー……」
「だからちがうってば! もー! 笑いすぎ!」
「笑わせてくださいよ」
——俺に毒気があったとしても、お手上げだ、これじゃあ何もしようがない。
「さぁ、もうこんな時間だしご飯にしますか? あ、そうだ。俺のおばあさんのところに行こう」
「おばあさん? そう言えば近くに住んでるって言ってたっけ?」
風花は樹に抱き起こされながら尋ねた。
「うん、俺が作ってもいいんだけど、おばあさんのご飯の方がおいしいし」
「し、樹君お料理するの?」
「タマには。今は流石にしないけど、結構好きな方」
樹はそんなことより、風花の髪のほうが大事とばかりに手櫛で整えている。
——へええ~、私、今まで何にも彼のこと知らなかった。いっつも自分のことばっかり喋っていたし。
「風花ちょっと待ってね、おばあさんに電話してくる」
固定電話はこの部屋ににあるが、携帯をとって樹はリビングを出た。
自室は電気をつけておらず、黄昏という時刻もあいまって部屋の中は薄暗い。
パタン。
後ろ手にドアを閉める。
オーク材の扉の、しっかりした感触を背中に感じた途端、樹の唇から震えるような長いため息が漏れた。
——まったく……もう少しで止まらなくなるところだったね。あの人も無邪気に罪が重い。
しかし――きっと一度でもそんな風になってしまえば、一度では済まされなくなるだろう。そして、それは今はとてもまずい。風花にとっても、自分にとっても。
彼はよくわかっていた。
——しかし、つくづく俺、あの目には弱い。
ビーグルの子犬のようなタレ目で見つめられると、自分が保護者にでもなったような心境になってしまい、傷つけることなんて絶対できやしない。
——案外計算ずくだったりして。あの瞳の魔力は。
ドアを背に、しばらく煩悶《はんもん》してから思い切ったように樹は顎を上げる。あきらめたように前髪をかきあげ、祖父に連絡するために携帯電話を取り上げた。
「お待たせ」
「ううん、勝手にキッチン使わせてもらって、カップ洗ったよ」
風花の先ほどまで紅潮しきっていた頬は今は冷め、彼の悩みのタネの大きなタレ目は、屈託なく笑っている。これが計算ずくでなんてありえない、樹もキッチンに立った。
「それのしても、私おばあさんに会うの初めてかな~、いや~、緊張するなぁ。こんな服でいいかな?」
「どんな服だってかまいませんよ。喜んでいましたよ、やっと会えるって」
「そっか、私も嬉しいな。で……あの」
「はい?」
「今更っていう気もするのですが」
風花はもごもごいいながら、大きなカバンから可愛くラッピングされた包みを取り出した。
「これ、よかったらどうぞ」
風花の元の色に戻りかけた頬は、またもやあわあわとピンク色に染まりはじめる。樹は手渡された物よりも、そっちの方をうっとりと眺めた。
「何です?」
樹が受け取ったそれは、小さいわりにちょっとした重さが感じられた。
「あれ? これはひょっとして……?」
「うん、少し早いんだけどね今度いつ会えるか、わかんないし。邪魔になっても悪いかなって思って……」
チョコレート。
「樹くんは、その……バレンタインなんて、嫌いかもしんないって思ったんだけど、それに、甘い物食べるとこ見たことないし。でもあの……ほんの気持ちだから、食べないんだったらおばあさんに……」
「……ありがとう」
「貰ってくれるの?」
樹の胸の辺りに視線を漂わせたまま、風花はおそるおそる尋ねた。
「風花がくれたものなら、バケツいっぱいだって食べますよ。俺」
「でっ、でも、手づくりじゃないし。だってその、私が作るより、買ったもののほうがおいしいと思って……」
樹が解いた髪の一房を指先でいじくりながら、風花はやっと顔を上げた。
「受け取ったのは初めてだ」
「え? 本当に?」
意外だったこんなに背が高くて美形なんだから。今までもらったことないほうが不思議だ。
「押し付けられようとしたことはある。でも、知らない人からものをもらうなんて、申し訳ないけどいつも断っていた」
「ありゃ、それは……」
「だけど今はすごく嬉しい。ありがとう、風花」
「よかった~、去年はなんだかんだで、チョコレートっていう感じじゃなかったから今年こそはって思ってたんだ~。あ、おばあさん待ってるかな? ごめんね、時間とっちゃって」
タレ目が一層下がり、もう一度抱きしめようかと手を伸ばした樹を、風花はやわらかく牽制する。
——くそ、なんでこの目に弱いのか。
樹は潔く諦めてジャケットを取った。
「ウラの公園を突っきって行けばすぐだから。それより、さっきから思うんだけど、なるべく名前呼ばないように話してませんか?」
「……それはきっと、気のせいですよ~」
「へぇえ~、じゃあ行こう」
外に出るとすっかり暗くなっており、風の冷たさが身に染むが、体の奥にまだ熱が燻っていた樹は密かに木枯らしに感謝した。
「わ~、さむーい。樹君、風除けになって~」
「はいはい」
縦につながって歩いている。それでも触れ合っているので、心まで寒くはならない。
——だけど、いつかは瞳の魔力を打ち破らないとね。
風花のぬくもりを背中に感じながら樹は密かに心に誓った。
——こ、これは、ひょっとして……ココロの準備が~!
いくらなんでも男女の間に起きることに知識はある風花だが、如何せん自分と樹の間にそんなことが起こるとリンクできていないところが、風花の風花たるゆえんだ。
事態の急展開にココロも体もついていかない。
「あ、あの……あの、し、清水君?」
「樹」
耳元で深みのある声がささやく。
「きゃ! や、やだ! ちょ、ちょっと、ごめんなさい、あの……清水君てば!」
「ちがうでしょ」
樹が息を吐くたび、耳たぶに熱い息がかかり風花の狼狽がますます大きくなる。心臓が口から飛び出てしまいそうに脈を打っていた。
「樹と呼んで」
「……い、樹!」
「はい」
途端に首筋が開放され、眼鏡の奥で少し翳った瞳がオロオロしているタレ目を覗きこんだ。風花の心象を正確に読み取ったのだろう、切れ長の眼がかすかに笑みを含む。両手は風花の顔の脇に沈みこんでいる。充分過ぎるほどの至近距離で。
「風花、髪が石鹸くさい」
「は?」
またもやイキナリなにを言い出すのか、この謎の少年は。
「もう……本当にしょうがないコだなあ」
「ええ?」
樹は風花と視線を合わせたまま、片手でせっせと三つ編みを解いている。
「まったく無用心なんだから!」
片方が解けると髪をさばいて広げ、もう片方に取り掛かる。器用なものだ。
「……ごめんね」
「そう素直に謝られるとますますかわいくなる。さ、これでよし。髪、伸びたね」
ソファに髪を広げ終わり、もう一度樹は風花の瞳を覗き込んだ。
「キスしたい」
そういうと風花の返事も待たず、唇を重ねる。
角度を少し変えては何度も何度も、やさしい触れるだけのキスを。
ようやく樹が唇を離したとき、風花の口から甘い吐息が漏れた。
「風花、すごくどきどきしてる……ここ」
長い指がそろえられ、ニットに覆われた左の胸を包む。指先にほんの少し力が加えられた。
「……っ!」
タレ目がおびえるように見開かれたのをみて、樹はまた仕方なさそうに少し笑った。
「そんなに心配しないでください。俺、風花が嫌がるようなことしないから」
「……」
「……それともして欲しい?」
ぶんぶんとソファの上で髪が踊った。
「そんなにきっぱり断られると傷つくんだけどな。でも」
ふっと視線が外れる。
「風花に嫌われたくないから」
体を起こしながら樹はつぶやいた。
「嫌いにはならないけど」
体が離れて少し肩の力が抜け、風花はようやく思ったことが言葉になった。
「そう? でも、まだだめだな。もう少し完全犯罪はお預け」
「これが完全犯罪なの?」
「まだちがうなぁ」
樹はおかしいような悲しいような、奇妙な表情をしている。
「し、樹君?」
風花はなぜか名を呼ばなければいけないような気になって彼を呼んだ。
「ん?」
「私、樹くんのこと、ほんと好きなんだけど……だけどゆっくりしかできなくて……ゴメンね?」
「だからね、こんなこと言われるとね」
樹は肩を落としている。
「男はダメになるんだよ。知らないでしょ」
「しっ……知らないよ」
「だろうねぇ」
そのとき、風花のお腹の真ん中からくぅーっというかわいい音がした。
「……」
「……」
二人の目が合う。
途端に笑いが爆発した。
「はは! お腹すいてたんなら正直に言えばよかったのに……あはは!」
樹が笑いの合間に突っ込んだ。
「や、これはちがうんだって! 今、緊張が解けたからつい」
「はいはい、ぷっ……くーだって、くー……」
「だからちがうってば! もー! 笑いすぎ!」
「笑わせてくださいよ」
——俺に毒気があったとしても、お手上げだ、これじゃあ何もしようがない。
「さぁ、もうこんな時間だしご飯にしますか? あ、そうだ。俺のおばあさんのところに行こう」
「おばあさん? そう言えば近くに住んでるって言ってたっけ?」
風花は樹に抱き起こされながら尋ねた。
「うん、俺が作ってもいいんだけど、おばあさんのご飯の方がおいしいし」
「し、樹君お料理するの?」
「タマには。今は流石にしないけど、結構好きな方」
樹はそんなことより、風花の髪のほうが大事とばかりに手櫛で整えている。
——へええ~、私、今まで何にも彼のこと知らなかった。いっつも自分のことばっかり喋っていたし。
「風花ちょっと待ってね、おばあさんに電話してくる」
固定電話はこの部屋ににあるが、携帯をとって樹はリビングを出た。
自室は電気をつけておらず、黄昏という時刻もあいまって部屋の中は薄暗い。
パタン。
後ろ手にドアを閉める。
オーク材の扉の、しっかりした感触を背中に感じた途端、樹の唇から震えるような長いため息が漏れた。
——まったく……もう少しで止まらなくなるところだったね。あの人も無邪気に罪が重い。
しかし――きっと一度でもそんな風になってしまえば、一度では済まされなくなるだろう。そして、それは今はとてもまずい。風花にとっても、自分にとっても。
彼はよくわかっていた。
——しかし、つくづく俺、あの目には弱い。
ビーグルの子犬のようなタレ目で見つめられると、自分が保護者にでもなったような心境になってしまい、傷つけることなんて絶対できやしない。
——案外計算ずくだったりして。あの瞳の魔力は。
ドアを背に、しばらく煩悶《はんもん》してから思い切ったように樹は顎を上げる。あきらめたように前髪をかきあげ、祖父に連絡するために携帯電話を取り上げた。
「お待たせ」
「ううん、勝手にキッチン使わせてもらって、カップ洗ったよ」
風花の先ほどまで紅潮しきっていた頬は今は冷め、彼の悩みのタネの大きなタレ目は、屈託なく笑っている。これが計算ずくでなんてありえない、樹もキッチンに立った。
「それのしても、私おばあさんに会うの初めてかな~、いや~、緊張するなぁ。こんな服でいいかな?」
「どんな服だってかまいませんよ。喜んでいましたよ、やっと会えるって」
「そっか、私も嬉しいな。で……あの」
「はい?」
「今更っていう気もするのですが」
風花はもごもごいいながら、大きなカバンから可愛くラッピングされた包みを取り出した。
「これ、よかったらどうぞ」
風花の元の色に戻りかけた頬は、またもやあわあわとピンク色に染まりはじめる。樹は手渡された物よりも、そっちの方をうっとりと眺めた。
「何です?」
樹が受け取ったそれは、小さいわりにちょっとした重さが感じられた。
「あれ? これはひょっとして……?」
「うん、少し早いんだけどね今度いつ会えるか、わかんないし。邪魔になっても悪いかなって思って……」
チョコレート。
「樹くんは、その……バレンタインなんて、嫌いかもしんないって思ったんだけど、それに、甘い物食べるとこ見たことないし。でもあの……ほんの気持ちだから、食べないんだったらおばあさんに……」
「……ありがとう」
「貰ってくれるの?」
樹の胸の辺りに視線を漂わせたまま、風花はおそるおそる尋ねた。
「風花がくれたものなら、バケツいっぱいだって食べますよ。俺」
「でっ、でも、手づくりじゃないし。だってその、私が作るより、買ったもののほうがおいしいと思って……」
樹が解いた髪の一房を指先でいじくりながら、風花はやっと顔を上げた。
「受け取ったのは初めてだ」
「え? 本当に?」
意外だったこんなに背が高くて美形なんだから。今までもらったことないほうが不思議だ。
「押し付けられようとしたことはある。でも、知らない人からものをもらうなんて、申し訳ないけどいつも断っていた」
「ありゃ、それは……」
「だけど今はすごく嬉しい。ありがとう、風花」
「よかった~、去年はなんだかんだで、チョコレートっていう感じじゃなかったから今年こそはって思ってたんだ~。あ、おばあさん待ってるかな? ごめんね、時間とっちゃって」
タレ目が一層下がり、もう一度抱きしめようかと手を伸ばした樹を、風花はやわらかく牽制する。
——くそ、なんでこの目に弱いのか。
樹は潔く諦めてジャケットを取った。
「ウラの公園を突っきって行けばすぐだから。それより、さっきから思うんだけど、なるべく名前呼ばないように話してませんか?」
「……それはきっと、気のせいですよ~」
「へぇえ~、じゃあ行こう」
外に出るとすっかり暗くなっており、風の冷たさが身に染むが、体の奥にまだ熱が燻っていた樹は密かに木枯らしに感謝した。
「わ~、さむーい。樹君、風除けになって~」
「はいはい」
縦につながって歩いている。それでも触れ合っているので、心まで寒くはならない。
——だけど、いつかは瞳の魔力を打ち破らないとね。
風花のぬくもりを背中に感じながら樹は密かに心に誓った。
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