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1章 魔女 扉を開ける

 4 魔女と騎士 4

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 三人は森の中を進む。
 陽は中点を過ぎたのか、その透明度をやや落としていた。
「ザザはこの森に住んでいるのか?」
 ギディオンは黒馬の手綱を引きながら尋ねた。馬の背にはフェリアが乗っている。そしてザザはその前を歩いていた。
「そうです」
「家族は?」
「ひとりです」
「一人だと? お前のような子どもがたった一人でこんな森の中に?」
「あの、子どもではないです」
 ザザは振り返って答えた。途端に青い瞳と目が合ってしまう。
 ギディオンはすらりと手足の長い立派な風采ふうさいの男だった。紺のズボンに白いシャツを着ている。歳はザザよりもかなり上のようだが、隙のない若々しい身のこなしだった。
「では、いくつだ?」
「二十歳」
「二十歳ですって⁉︎」
 言葉が出ないギディオンの代わりに答えたのはフェリアだった。
「てっきり私と同じくらいだと思っていたわ。二十歳って、パトリーシアお姉様と同じくらいでしょう? なんでそんなに痩せてて小さいの?」
「お嬢様。人にはそれぞれ事情があるのですよ」
 ギディオンはたしなめめるように馬上を振り向いて言った。
「すまないザザ、この方に悪気は一切ない」
「大丈夫です」
 足元にはたくさんの夏草が生えているが、ザザの足取りは早い。歩いたところに点々と水滴が落ちている。
「我々はこの森の向こう側にある屋敷に静養に来ている。今日は天気がいいので馬で森に入った。しかし馬がいきなり暴走してしまって、あんなことになってしまったんだ」
「落ちてきた木の実が私の頭に当たって、虫かと思って大声を上げてしまったの。森に慣れない都の馬だったのに。だから私がいけないのよ。ごめんなさい」
 再び少女がギディオンの言葉尻を奪った。
「大丈夫です」
 ザザは前を見たまま頷く。
 さっきギディオンはこの少女をフェリア様と呼んだが、それは無意識のことで、今は意識してお嬢様と呼んでいる。ザザはそのことに気がついたが知らないふりをした。彼がお嬢様と呼ぶのなら、この少女の名はお嬢様なのだ。
 それに家はもうすぐそこだ。小道に朽ちた大木が倒れている。
「我が道を開けよ」
 ザザは口の中で小さくつぶやいた。見えずの魔法が解除される。留守にする時はいつもこうして家を隠してきたのだ。解除の魔法はドルカの見よう見まねである。
 ギディオンと馬も倒木をなんなく回った。樫の木の向こうに小さな古家が現れる。
「あれか?」
 ザザは頷くとそのまま駆け出し、軒下の小さな段を駆け上って扉を開けた。
 奥に炉がある。出がけに火を埋めてきたので、ザザは火かき棒でつついて小さな炎をおこした。魔力で小さな風を送る。
「炎を呼べ」
 炉が勢いよく燃え始めた。
 そこにギディオンが追いつく。馬は外に繋いだのだろう。フェリアを右腕に抱えている。
「おお、火か。これはありがたい。お嬢様、まずは体を温めてください。あの泉の水は冷たかった」
 彼は炉の前の敷物の上にそっと少女を下ろした。
「ザザ、すまないが、お前の着替えを貸してもらえないか? このままではお風邪を召されてしまう」
 フェリアの着ている立派な服はぐっしょりと濡れてとても重そうだ。ザザは側の梯子はしごを駆け上り、屋根裏の寝間に置いてある行李こうりから、替えの服を持って降りてきた。
「これを」
「……これか」
 ギディオンはそれ以上は言わなかったが、その目が感情を表していた。
 頭から被るだけの黒いザザの服は、彼の目に女主おんなあるじにふさわしい衣服とは映らなかったのだ。
「重ね重ねすまないが、私は男で、これ以上この方に触れることはできない。ザザ、お前がお嬢様の服を脱がせて、替えの服を着せてやってくれないか?」
 ザザに向ける眼差しは真剣そのものだった。
「わかりました」
「ありがたい。頼む。私は扉の向こうで待っている」
 ギディオンはそういうと、さっさと小屋の外に出てしまった。
「……あの」
 一人暮らしのせいで無口なザザだが、ここは頑張って伝えなくてはならない。ギディオンからお嬢様と敬われるこの少女は、ザザよりだいぶん年下だ。そしてここはザザの領域なのだから。
「……これから私は、お嬢さまの服を脱がします」
「私はお嬢様じゃなくて、フェリアというのよ」
 少女は自分から名乗った。
「フェリアさま?」
「ええ。ギディオンがお嬢様だなんて呼ぶからちょっと面白かったけど、慣れないからやっぱり名前で呼んでちょうだい」
「はい」
「じゃあさっそく服を脱がせて。さっきからとっても重くて気持ちが悪かったの」
「はい」
 ザザは覚束おぼつかない手つきでフェリアの衣服を脱がしにかかった。まずは背中にずらりと並んだボタンを外す事からだ。こんな複雑な構造の衣服──ドレスというものを見たことがなかったので苦労はしたが、生来器用な性質なので手指はよく働く。
 しかし、これだけ扱いにくい服も初めてだった。帯を解いて上の服を脱がしても、その下に紐で縛られた硬い胴着があり、やっとの事でそれを外すと、次にふんだんにレースがあしらわれた下着が現れる。

 こんなにたくさんの布を使った服を見たことない。とても薄くて上等な布だわ。

 四苦八苦の努力ののち、フェリアはすっかり裸になった。
 シミひとつない、透き通るほどに白くきめ細かい肌だ。膨らみかけた乳房、生えかけた淡い柔毛。しかし、意外にも慣れているのか、それほど恥ずかしがる様子はない。むしろ、世話をされることに抵抗がない風だ。

 なんて綺麗なの……肌の内側から光っているみたい。

「あ」
 ザザはフェリアが肘を少し怪我していることに気がついた。見ると軽いすり傷だ。膨らんだ袖が肘までだから、湖に落ちた時に擦りむいたのかもしれない。
「ここに怪我を」
「あら、ほんと。気がつかなかった。今更だけどちょっと痛くなってきたわ」
 ザザの視線を追ってフェリアが珍しそうに自分の腕を眺めた。
「と、とにかく服を。これです」
 自分が着ているものと変わらない黒服をザザは広げて見せる。ギディオンと同じくフェリアも驚いたようだった。
「……これを着るの?」
「ごめんなさい。これしかないんです。フェ、フェリアさまの着ていた服は乾かしますので、少しの間これを……」
 素直にザザの服は被るだけの簡単なものだ。フェリアは珍しそうに、黒いスカートの裾をつまみ上げている。
「まぁ、すごく軽いのねこの服。それにとても着やすいわ。私もこんな服を作ってもらおうかしら」
 しかし、水を含んだ髪がせっかく替えた服の背中を濡らしてしまいそうだった。
 髪を乾かしたほうがいいだろう。
 魔法で風を起こせばすぐに髪は乾かせる。ザザにできることはその程度だ。ただ、人前で魔法を使うなと言ったドルカの言いつけを破ることになってしまう。
 しかし、ザザに迷いはなかった。

 騎士さまは、フェリアさまに体を温めて、風邪をひかないようにとおっしゃった。

「フェリアさま、髪を乾かします。暖炉に背を向けて座ってください」
「はい」
「あの……すみませんが……振り向かないようにしてください」
 ザザは髪に手をかざし、緩やかな風を起こして暖炉の熱気をフェリアの髪にはらませた。ザザの額にはうっすらと光が現れたが、この程度の魔法ではそれほど集中はいらない。
 明るい金髪がふわりと持ち上がる。
「わぁ! 暖かい! なにしてるのこれ」
 フェリアはちゃんと前を見ているが、肩に好奇心が表れていた。
「ちょっとした道具で暖炉の風を送っています。熱かったら言ってください」
「大丈夫。あなた不思議ねぇ。初めて会ったのに、そんな気がしないわ……それに少しアレックスに似ている」
「アレックス?」
「私の飼い犬なの。黒っぽい毛並みの、とても綺麗な犬なのよ。黒は不吉だっていうけど、動物なんだからそんなことはないわよねぇ。ギディオンの馬だって黒いし」
「いぬ……」
 風を起こしながら、ザザはこれは多分褒められているのだろうと考えた。
「まぁ! もう乾いちゃったわ。それにとっても気持ちが良かった。こんなこと初めて!」
 フェリアは驚いて、ふわふわに巻き上がった自分の髪に指を突っ込みながら言った。
「騎士さまを呼んできます」
 ザザが扉を開けると、すぐにギディオンが飛び込んできた。
「ギディオン、どう? この服」
「……すぐに迎えが来ますのでそれまでご辛抱を。おや」
 ギディオンは目ざとくフェリアの傷を見つけた。素早く駆け寄って傷の具合を確かめている。
「やはりお怪我を!」
「少し沁みるだけよ。大したことはないわ」
「いいえ、私の責任です。申し訳ありませぬ。お父上にお詫びをせねば……」
「あー、それはやめて。めんどくさいことにしかならないから」
「ですが!」
「あのっ」
 二人から同時に視線を向けられてザザは焦る。しかし、ギディオンの様子から、フェリアの怪我が彼にとって大ごとなのだいうことは察せられた。
「わたし、傷によく効く薬を持っています」
「ほんと? じゃあお願いするわ」
「お嬢様、いけません。医師の処方したものでもない、民間の薬など!」
「そのお嬢様ってのもやめてくれない? 私、ザザに名前を教えたわよ」
「なんですって⁉︎  なんて御軽率な! 」
 言い合う二人の間で、ザザは文字通り小さくなって俯いていたが、彼女自身まだ濡れたままであることにギディオンが気づいた。
「お前……ザザ。まだ着替えていなかったのか? すまなかった。私はまた出て行くから着替えるがいい」
「いいえ。着替えはもうないんです。でもへいきです」
 フェリアに貸した分で、二枚しか持っていないザザの服はもうなくなってしまったのだ。平素は洗濯して順繰りに着ている。
 俯いたまま小さく答えたザザにフェリアも黙ってしまう。
 ギディオンは初めてこの家の内部を見渡した。
 扉から奥の暖炉まで、男の歩幅で十歩程度の居間兼台所。狭くて古びているが、家主の性格なのか、室内は案外清潔で整頓されていた。片方の壁には作り付けの戸棚があり、古そうな本や瓶などがぎっしりと詰め込まれているが、素人目にもきちんと分類されている。
 しかし、日常を心地良くしてくれるような家具や装飾品はほとんどなかった。
 部屋の真ん中に粗末な卓と椅子が二つあるくらいだ。右のほうに梯子はしごがかけてあって、屋根裏に登れるようになっている。そこがたぶん彼女の寝所なのだろう。

 どうやら几帳面で無欲な娘のようだ。

 戸棚と反対側の暗い壁には干した葉や、根のようなものがいくつも吊り下げられていた。そのほとんどは薬草らしく少し苦味のある香りが漂っている。いくつかはギディオンも知る種類だ。
「なるほど、どれも貴重な薬草ばかりのようだな」
「……」
「疑って悪かった。ザザの薬をフェリア様に塗布とふして差し上げてくれ。俺は鞍から毛布を取ってくる」
 ギディオンはそう言って再び外へ出て行った。
「で、ではフェリアさま。もう一度向こうを向いてください」
 扉が閉まると同時に、ザザは壁に取り付けた棚から小さな瓶を持ってきてフェリアに見せた。フェリアは黙って従う。
「少しだけ沁みます」
 背後から薄緑の塗り薬を白い肘に塗り広げながら、ザザは額に気を込めた。薬は消毒のため、魔力は痛みと傷跡を軽減するためである。
 張り付いた前髪の内側に、結び目の印が白く浮き上がった。癒術には繊細な魔力が必要なのだ。
「温かい……ザザが触れたところがなんだかとっても温かいわ……それにすごく気持ちがいい……」
 フェリアの体がゆらゆらと揺れる。
「なにこれ……」
「もう少しです」
「そうなの? もう……ちっとも痛くないわ。もっと触れていて欲しいくらいよ……」
「おしまいです」
 ザザはすぐに身を離した。
「とてもよく効く薬なのね。傷がさっきの半分くらいになってるし、もうちっとも痛まないわ」
「良かったです」
 そそくさとフェリアに背を向けて瓶を閉めるザザの真横で扉が開く。ギディオンが毛布を持って入ってきたのだ。
「ザザ、これを……な! お前は!」
 思わず彼を見たザザの目の前で、男の顔がみるみる険悪なものに変わった。その目はザザの額に注がれていた。
「フェリア様から離れろ!」
 血相を変えた男にザザは払いのけられた。



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