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1章 魔女 扉を開ける
37 魔女、扉を開ける 5
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翌日の昼前、再びウェンダルが診察に訪れた。
昨夜ほとんど眠っていないザザであったが、普段から睡眠は少ない方だったので体調にはさして問題はなく、ウェンダルはザザに午後には帰ってよいと言ってくれた。
「じゃがあんた、なんだか妙な顔をしておるな。何かあったか?」
「……あったのだと思います」
ザザは老博士の鋭い洞察に目を反らせた。
「でも、申し訳ございません。お話しするのは少し待ってください。自分でもまだ混乱しているのです」
「そうか。では己で心の整理をつけるがよい。体の方はほぼ本復したと診る。後はもっと体力をつけることじゃ。体力は気力に通じる。そして気力は、すべての源じゃ」
ウェダルはザザの変化については特に追及はしなかった。
それどころか、帰り際に消化吸収の良い栄養食の作り方を記した書き付けをくれた。変わり者の老人は彼なりに優しい気持ちを持っているのだ。
今後は彼のもとで、能力を伸ばす修練をしたり、薬草の知識を充実させたりしなければならない。そうすれば、母の日記の解明も進むだろう。
ザザは、感謝を込めてウェンダルを見送った。
その日の午後。
施療宮から出る時にはギディオンが迎えに来ると言っていたが、時間になっても現れず、やってきたのは彼の副官ともいうべきフリューゲルだった。
「セルヴァンティース指揮官殿は服務繁多のため、こちらに来られなくなったので、代わりにわたしが参りました。指揮官殿からは申し訳ない、というご伝言をお預かりしております。私が家までお送りします」
「……そうですか」
フリューゲルのことは森での初めて会って以来、知ってはいる。快活で魅力的なギディオンに忠実な青年騎士だ。しかし、なぜだかザザには苦手な人だという印象があった。自分と真逆な性格だからか、同道するのには躊躇いを感じた。
「でも、わたしなら大丈夫です。お城の門まで連れて行ってもらえたら、そこからは一人で帰れます」
「いえ、それでは私が指揮官殿に叱られてしまいます。どうか送らせてください。お願いします」
フリューゲルが少々大袈裟なくらいに頼み込むので、ザザは仕方なく同行を。
「ご体調はいかがですか?」
「もう大丈夫です」
二人は王宮の門を出た。
ここからは王都の大通りだ。祭りが近いのだと言う大通りは、人や馬車で歩道も車道もかなりの賑わいだった。
「すごい人ですね」
「なら、脇道を通って帰りませんか? 少し遠回りになりますが、大通りと違って静かで、今頃は木々が綺麗に色づいていますよ。途中の公園を突っ切れば、大した距離でもありません」
「……いいですよ」
フリューゲルは熱心に勧めたが、正直、ザザも人混みは苦手だ。
金髪で長身のフリューゲルが結構人目を引く要望をしているので、すれ違う人──特に女性からの視線が集まるのだ。彼女たちは彼を見つめてからザザを見て、こっそり笑い合っている。
「じゃあ、こちらを曲がりましょう」
フリューゲルに引っ張っていかれた道は、大通から二筋向こうにひっそりと流れていた。
ほんの少し外れただけで、喧騒はもう遠くなり老人や子供が散歩するだけの、のんびりした道になっている。両側には色付いた広葉樹が赤い実をつけていた。
「綺麗でしょう、俺のお気に入りの散歩道なんですよ」
「そうですね。こんな素敵な道があるとは知りませんでした」
ザザは素直な感想を述べ、二人はしばらく黙って歩いた。
「ザザさん」
ザザが木や空に視線を遊ばせていると不意に名前を呼ばれた。振り返るとフリューゲルが、わずかに険しい顔で佇立していた。
「すみません、ぼんやりして。何かおっしゃいましたか?」
「あなたはいったいは何者なんですか?」
「え」
突然の質問にザザは返答に窮した。フリューゲルは素早く表情の陰りを消して、いつもの明るい調子で尋ねてくる。
「実はね、俺は指揮官殿からザザさんには何も尋ねてはいけない、と言われているのです」
「……はい」
ザザはフリューゲルの一人称が、いつの間にか変わっていることに気がついた。
「でもね、俺は気になるんですよ。あなたは離宮の森の奥で、人の目から隠れるように住んでいた人でしょう? 俺には事情は説明されてないけれど、何故だかあなたは森を出て王都にまでやって来た。そしてギディオン閣下が後見となられた」
「……そうですね」
ザザは慎重に応じた。この青年はいったい何が言いたいのだろう?
「俺は不思議でならないんです。ギディオン閣下が今まで他人、それも女性をこれほど近づけたことはなかった。でもあなたはどう見ても閣下の恋人などではない。断じて」
フリューゲルの口調はいまだに明るかったが、目はもはや笑ってはいない。
「俺にはどうにも不可解だった。あなたには悪いんですが、こんな野暮ったい娘さんに肩入れして、閣下に何の得があるのだろうと。あの方は俺の知る限り、最高の戦士で男なんです。この先まだまだ出世されて当然で、もしかしたら……そう、万が一、フェリア殿下を溺愛する国王陛下が折れて、殿下のわがままが通ったら、閣下は、この国の第三王女の婿にと望まれるかもしれないんです。いえ、これは俺の勝手な憶測ですけど。だって物凄い身分差ですからね。ただフェリア殿下のご執心ぶりは誰の目にも明らかなもんで」
物凄いことを口にするフリューゲルをザザは無言で見つめた。彼が何を言っているのか全く理解できない。
ギディオンさまがフェリア姫のむこ。
むこって、お婿さんのこと?
「まぁ、それは置いといても、閣下なら女性は選び放題ってことです」
「……」
似たようなことを以前メイサも言っていたような気がする。しかし、何を言われてもザザには答えようがない。彼が話し終えるまで待つしかなかった。
「なのに、なぜあなたのような娘さんに拘られるのか? 俺は一度注意したこともあるんですが、閣下に躱されてしまったんです。そうこうしているうちに今回の襲撃事件が起きた。刺客の一人が捕まり、長く黙秘を続けていたのがある日突然自供し始めた。あなたは事情を知っているんでしょう?」
「知りません」
ザザは怯みそうになる心を必死で押さえ込んで答えた。それ以外に何も言えることはなかった。首筋にちりちりするものを感じる。
畏怖。
警戒。
猜疑。
そんな負の感情がザザの心を乱していく。
「そうですか。じゃあ俺は勝手に自分の推測を語りますね」
フリューゲルは平坦に言った。
「……で、今まで様子が変だった刺客が急に普通っぽくなったことにも驚いたが、同時期にあなたが王宮に現れて、その直後にギディオン閣下が酷く動揺しておられた。これらのことは無関係ではないでしょう? いや、誤魔化しても無駄ですよ。教えてください。あなたは何者で、ギディオン閣下をどうしようというのです? まさか何か弱みでも握っているのですか?」
「そんなことはありません」
「では、なにが狙いなのです?」
フリューゲルは一歩前に出た。
「それは……」
「もし、あなたが閣下に何か企みを働いているなら、俺はあなたを許さない」
さらにフリューゲルは前に進み、追い詰められたザザは太い樹の幹を背中に感じた。金色の木の葉がはらはらと目の前を待ってゆく。
「もう一度伺います。あんたは何者なんだ?」
「わ、わたしは……」
何とかしてこの場を収束しなければならない。
何とかしなければ。たとえ嘘をついてでも。
「わたしは」
「見損なったぞ、フリューゲル」
二人同時に振り返った視線の先に、ギディオンが立っていた。
「そこを退け」
昨夜ほとんど眠っていないザザであったが、普段から睡眠は少ない方だったので体調にはさして問題はなく、ウェンダルはザザに午後には帰ってよいと言ってくれた。
「じゃがあんた、なんだか妙な顔をしておるな。何かあったか?」
「……あったのだと思います」
ザザは老博士の鋭い洞察に目を反らせた。
「でも、申し訳ございません。お話しするのは少し待ってください。自分でもまだ混乱しているのです」
「そうか。では己で心の整理をつけるがよい。体の方はほぼ本復したと診る。後はもっと体力をつけることじゃ。体力は気力に通じる。そして気力は、すべての源じゃ」
ウェダルはザザの変化については特に追及はしなかった。
それどころか、帰り際に消化吸収の良い栄養食の作り方を記した書き付けをくれた。変わり者の老人は彼なりに優しい気持ちを持っているのだ。
今後は彼のもとで、能力を伸ばす修練をしたり、薬草の知識を充実させたりしなければならない。そうすれば、母の日記の解明も進むだろう。
ザザは、感謝を込めてウェンダルを見送った。
その日の午後。
施療宮から出る時にはギディオンが迎えに来ると言っていたが、時間になっても現れず、やってきたのは彼の副官ともいうべきフリューゲルだった。
「セルヴァンティース指揮官殿は服務繁多のため、こちらに来られなくなったので、代わりにわたしが参りました。指揮官殿からは申し訳ない、というご伝言をお預かりしております。私が家までお送りします」
「……そうですか」
フリューゲルのことは森での初めて会って以来、知ってはいる。快活で魅力的なギディオンに忠実な青年騎士だ。しかし、なぜだかザザには苦手な人だという印象があった。自分と真逆な性格だからか、同道するのには躊躇いを感じた。
「でも、わたしなら大丈夫です。お城の門まで連れて行ってもらえたら、そこからは一人で帰れます」
「いえ、それでは私が指揮官殿に叱られてしまいます。どうか送らせてください。お願いします」
フリューゲルが少々大袈裟なくらいに頼み込むので、ザザは仕方なく同行を。
「ご体調はいかがですか?」
「もう大丈夫です」
二人は王宮の門を出た。
ここからは王都の大通りだ。祭りが近いのだと言う大通りは、人や馬車で歩道も車道もかなりの賑わいだった。
「すごい人ですね」
「なら、脇道を通って帰りませんか? 少し遠回りになりますが、大通りと違って静かで、今頃は木々が綺麗に色づいていますよ。途中の公園を突っ切れば、大した距離でもありません」
「……いいですよ」
フリューゲルは熱心に勧めたが、正直、ザザも人混みは苦手だ。
金髪で長身のフリューゲルが結構人目を引く要望をしているので、すれ違う人──特に女性からの視線が集まるのだ。彼女たちは彼を見つめてからザザを見て、こっそり笑い合っている。
「じゃあ、こちらを曲がりましょう」
フリューゲルに引っ張っていかれた道は、大通から二筋向こうにひっそりと流れていた。
ほんの少し外れただけで、喧騒はもう遠くなり老人や子供が散歩するだけの、のんびりした道になっている。両側には色付いた広葉樹が赤い実をつけていた。
「綺麗でしょう、俺のお気に入りの散歩道なんですよ」
「そうですね。こんな素敵な道があるとは知りませんでした」
ザザは素直な感想を述べ、二人はしばらく黙って歩いた。
「ザザさん」
ザザが木や空に視線を遊ばせていると不意に名前を呼ばれた。振り返るとフリューゲルが、わずかに険しい顔で佇立していた。
「すみません、ぼんやりして。何かおっしゃいましたか?」
「あなたはいったいは何者なんですか?」
「え」
突然の質問にザザは返答に窮した。フリューゲルは素早く表情の陰りを消して、いつもの明るい調子で尋ねてくる。
「実はね、俺は指揮官殿からザザさんには何も尋ねてはいけない、と言われているのです」
「……はい」
ザザはフリューゲルの一人称が、いつの間にか変わっていることに気がついた。
「でもね、俺は気になるんですよ。あなたは離宮の森の奥で、人の目から隠れるように住んでいた人でしょう? 俺には事情は説明されてないけれど、何故だかあなたは森を出て王都にまでやって来た。そしてギディオン閣下が後見となられた」
「……そうですね」
ザザは慎重に応じた。この青年はいったい何が言いたいのだろう?
「俺は不思議でならないんです。ギディオン閣下が今まで他人、それも女性をこれほど近づけたことはなかった。でもあなたはどう見ても閣下の恋人などではない。断じて」
フリューゲルの口調はいまだに明るかったが、目はもはや笑ってはいない。
「俺にはどうにも不可解だった。あなたには悪いんですが、こんな野暮ったい娘さんに肩入れして、閣下に何の得があるのだろうと。あの方は俺の知る限り、最高の戦士で男なんです。この先まだまだ出世されて当然で、もしかしたら……そう、万が一、フェリア殿下を溺愛する国王陛下が折れて、殿下のわがままが通ったら、閣下は、この国の第三王女の婿にと望まれるかもしれないんです。いえ、これは俺の勝手な憶測ですけど。だって物凄い身分差ですからね。ただフェリア殿下のご執心ぶりは誰の目にも明らかなもんで」
物凄いことを口にするフリューゲルをザザは無言で見つめた。彼が何を言っているのか全く理解できない。
ギディオンさまがフェリア姫のむこ。
むこって、お婿さんのこと?
「まぁ、それは置いといても、閣下なら女性は選び放題ってことです」
「……」
似たようなことを以前メイサも言っていたような気がする。しかし、何を言われてもザザには答えようがない。彼が話し終えるまで待つしかなかった。
「なのに、なぜあなたのような娘さんに拘られるのか? 俺は一度注意したこともあるんですが、閣下に躱されてしまったんです。そうこうしているうちに今回の襲撃事件が起きた。刺客の一人が捕まり、長く黙秘を続けていたのがある日突然自供し始めた。あなたは事情を知っているんでしょう?」
「知りません」
ザザは怯みそうになる心を必死で押さえ込んで答えた。それ以外に何も言えることはなかった。首筋にちりちりするものを感じる。
畏怖。
警戒。
猜疑。
そんな負の感情がザザの心を乱していく。
「そうですか。じゃあ俺は勝手に自分の推測を語りますね」
フリューゲルは平坦に言った。
「……で、今まで様子が変だった刺客が急に普通っぽくなったことにも驚いたが、同時期にあなたが王宮に現れて、その直後にギディオン閣下が酷く動揺しておられた。これらのことは無関係ではないでしょう? いや、誤魔化しても無駄ですよ。教えてください。あなたは何者で、ギディオン閣下をどうしようというのです? まさか何か弱みでも握っているのですか?」
「そんなことはありません」
「では、なにが狙いなのです?」
フリューゲルは一歩前に出た。
「それは……」
「もし、あなたが閣下に何か企みを働いているなら、俺はあなたを許さない」
さらにフリューゲルは前に進み、追い詰められたザザは太い樹の幹を背中に感じた。金色の木の葉がはらはらと目の前を待ってゆく。
「もう一度伺います。あんたは何者なんだ?」
「わ、わたしは……」
何とかしてこの場を収束しなければならない。
何とかしなければ。たとえ嘘をついてでも。
「わたしは」
「見損なったぞ、フリューゲル」
二人同時に振り返った視線の先に、ギディオンが立っていた。
「そこを退け」
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