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2章 魔女 未来に向かって

60 魔女と国境の街 2

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 アントリュースの街の東は山地だ。
 東の門は深い谷間に面していて、山地から流れる川が堀を潤し、街を貫いて西へと抜ける。
 パージェス古王国の北方における、水運の重要な地点であった。
 山地のさらに奥にはチャンドラと言う、これも古い国があり、川の占有権を巡って、何度もパージェスと争ってきた長い歴史がある。最近ではギディオンが左手を負傷した五年前の戦いだ。

 常に最前線の街。アントリュース。
 ギディオン一行は南と西の城門に分かれて町に入った。この街を拠点として、チャンドラの支配下にある山地や川沿いを威力偵察するのが当面の目的である。
「なぜ二手に別れたのですか?」
 ザザ達は南の門から街へと入った。古い城壁は傷だらけで、この街が幾多の攻撃から耐えてきたことを物語っている。
「まずは街の様子を調べようと思ってな。敵の密偵が入り込んでいる可能性もあるし。街中を観察して明日落ち合うことになっている」
 ギディオンは空を見渡しながら言った。モスを探しているのだろうとザザは思った。あの賢い隼はどうしているのだろうか? ザザも心配だった。
「お前たちも、市場や路地の様子を探れ。戻る場所は知っているな」
「は!」
 フリューゲルとデルスはするりと大通りを逸れていく、ザザとギディオンは大通りを町の中心へと歩いていた。
 この街ではギディオンの顔を知っている者もいるので、彼はフードを深く降ろしている。
「なんだか街の人達、元気がない様子ですね。大きな街なのに、人通りも少ないようだし」
 ザザは珍しそうに、あたりを見渡して言った。
「それは気がついていた。以前、戦争直前に来た時でもこれほどではなかったんだが」
「子どもやお年寄りの姿がほとんど見えません。まだ日も高いのに」
 冬の陽の落ちるのは早いが、まだ薄暮前である。普段なら買い物客で賑わうはずの大通りが今は閑散としていた。
「そうだな。ひとまず、宿を取ろう。もうすぐフリューゲル達もやってくるはずだ」
 ギディオンが入った宿は大きなもので、一階は酒場兼食堂になっている。彼はここは初めてではないようで、帳場にいた主人が愛想よく彼を迎えた。
「これはギディオン様、よくお越しで。お久しぶりです」
 太った主人はフードの中を見て嬉しそうに挨拶した。
「また世話になる。ところでご主人、どこか落ち着いて話せるところはあるかな? あと食事を五人分ほど頼む」
「かしこまりました」
 食堂にはさすがに通りよりも人が多かったが、その多くはやはり成人男性ばかりで、女性は給仕の数人しか見かけない。
 そして、体格の良いギディオンが入っていくと、皆一様に警戒の視線を浴びせかけた。しかし、その後ろからちょこちょこついて行く小さな女を見て、ほっとしたように元の会話へと戻っていった。
「なるほど、女連れと言うのは、なかなかに意味深いものかもしれないな」
「早速お役に立てましたでしょう?」
 なるほどと感心した様子のギデに、ザザは嬉しそうに言った。
 宿の主人は奥の小部屋へと案内してくれた。扉はないが、他の席とは離れているため、会話は聞こえないだろう。
「ご主人、少し聞かせてくれないか?」
「なんなりと」
 主人は注文を給仕の女に伝えると、飲み物を配ってギディオンの向かいに腰を下ろした。
「なんだか街に活気がなくなっているような気がするのだが」
「ええ。お気がつかれましたか。実はしばらく前から、突然不思議な現状が起きはじめましてな」
「不思議な現象?」
「ええ。医者も学者もこんな現象は、見たことがないと言っております。しかし、三日ほど前に季節外れの東風が強く吹いた日がありまして。東の風は一日程度で収まったのですが、その翌日から、突然ふらりと倒れる者が現れ始めたのです」
「突然倒れる? 病か?」
 ギディオンはさっと眉をあげた。
「はい。崩れるように倒れてしまい、そのまま眠ってしまうのです」
「そんな病は聞いたことがない。呼吸はどうなのだ?」
「熟睡しているように深く、回数が少ないです。体温も普通ですが、なぜかほとんどの者が悪夢を見ているように、苦しそうに譫言うわごとを言っています」
「悪夢を」
「ええ。悪かった! とか許して! などと叫んでいます。現在は二百人程度の患者が出ております。患者と言えればですが」
「二百人!? そんなに多く?」
「はい。今のところそれだけですが、みんな怯えております。風が吹くことを恐れて窓を閉め切っているようです」
「なるほど。街に人気が少なかったのはそのせいか」
「はい。うちの宿も新しいお客は断っております。もちろん、ギディオン様は別でございますが」
「東風のほかに病の原因と考えられるようなものは? 井戸の水は平気か」
「今のところ水は大丈夫のようです。この街の井戸は深く、日常で使う水は川から引いております。川は流れていくものですから。水の可能性ならもっと大事になっているかと」
「なるほど。ではやはり、原因は妙な東風か」
 宿の主人は困り果てて頭を抱えた。
「……こんな奇妙な出来事は街始まって以来です。ここのお客も、宿から出ようとしないので、そろそろ食糧の備蓄が尽きて買い出しにいかねばならないのですが」
「そうだったか。いやご主人、教えてくれてありがとう。とりあえず今夜の宿を頼めるか、五人分」
「かしこまりました」

 主人が出て行くとギディオンは難しい顔をして考え込んだ。
「そうか、定時連絡が途絶えていた理由はそれか……それにしても、モスはどうしたんだろう?」
「魔女です」
「え?」
「魔女の仕業です」
 ザザには確信があった。
「ザザ、どう言うことだ? この流行病に魔女が関与していると言うのか?」
「そうです。東風に呪いを込めたのでしょう。そう言う魔法もあると聞いています」
「なんだと!」
「ただいま戻りました」
 その時フリューゲルとデルス達が戻ってきた。その後ろから、盆に載せた料理を宿の主人が運んでくる。
 ギディオンに目配せされて、一旦ザザは話を止め、フリューゲル達の集めた情報に耳を傾けた。
 それによると、だいたい宿の主人が言った通りで、この三日で街には突然眠りにつく者が増えていると言う。
「最初は男の患者が多かったようですが、最近は女や子供まで眠りだしたようです」
「やはり悪夢を見ている様子か?」
「程度の差はあるようですが、そう見たいですね」
 デルスは歩き回って腹が減ったらしく、いきなり大皿の肉料理にかぶりつきながら言った。
「ギディオン様、明日は市長に会いに行く予定でしたね。どうされますか?」
「今夜伺おうと思う。モスが帰ってきていないのも気になる。保護されているといいのだが……食事が済んだら、遣いに走ってくれるか、フリューゲル」
「は」
「デルス、お前は、残りのものを率いて、引き続き街の様子を見てきてくれ。怪しいものを見かけたらすぐさま伝えるように。今夜はここに宿を取るが、ここではいろいろ拙いから、市長に掛け合ってどこかの空き家を借りるようにしよう。追って連絡する」
「ギディオン様」
「なんだ。ザザは明日の朝早くにこの街を出るんだ」
「いいえ。私が役に立つ時がきました」
「ザザ!」
「ザザさん?」
「また東風が吹けば、皆さんだって眠ってしまうかもしれません。私、悪い風から身を守るお薬作ります! 水薬ですが、布に染み込ませて鼻と口を覆ってしまえば、悪い風が入りにくくなるのです」
「そんなことができるのですか?」
「はい、デルスさん。とりあえずは持ってきた薬草で皆さんの分だけでも。明日は門の外に出て使える薬草がないか探します」
「ザザ、俺はお前に安全な場所にいて欲しい」
 意気込むザザの方に手を掛け、ギディオンは懇願するように言った。
「私は眠ったりしません。伊達に長い間薬草を扱ってきたわけではないです。私には薬草の成分が染み込んでいます。悪い風は寄り付きません。ギディオン様だけでなく、皆さんのお役に立ちます」
「……」
「お願いいたします、ギディオン様」
 その時、食堂の方で人々が騒ぐ声が聞こえた。
「見てきます!」
 フリューゲルが軽快に飛び出して行き、すぐに駆け戻ってきた。
「隣の家の子どもが夕食中に倒れたそうです! 倒れた拍子に頭を打ったとか!」
 その声にザザは無言で鞄を引っ掴んで飛び出す。
「ザザ!」
 慌ててギディオンが後を追った。

「私に見せてください!」
 ザザが飛び込んだ部屋では、母親らしき女が必死に七、八歳くらいの男の子を抱きしめて名前を呼んでいた。子どもの顔は紫色になり、口から泡を吹いている。喉に何かが詰まったらしい。
「手を離して! 呼吸を確保しなければなりません! 窒息してしまいます!」
 ザザは半狂乱の母親をどかそうとしたが、母親には聞こえていない様子で子供にすがりついている。
「ギディオン様!」
「わかった!」
 何をするべきか、すぐに理解したギディオンはおろおろする家族をかき分けて、後ろから母親を羽交い締めにした。その隙にザザは子どもの背中を思い切り叩いた。何回か叩くと、芋の塊を吐き出し、同時に嘔吐も始まる。ザザは額を押して喉を反らせ顔を横に傾けた。
「吐いたものを喉に詰めないように顔を横に傾けます。大丈夫です。間もなく治まります」
 ザザは近くにあった布の上に、吐く物がなくなるまで嘔吐をさせ、呼吸が楽になるように体を水平に支え続けた。しばらくして、子供の呼吸は元どおりになってくる。
「もう大丈夫です。替えのシーツと、お白湯、清潔な布を持ってきてください。それからギディオンさま、すみませんが私の鞄を」
「わかった!」
 ザザはてきぱきと指示を出し、ぐったりしている子どもの口をぬぐうと、吸い飲みを巧みに使って白湯を飲ませた。それからギディオンが持ってきた鞄から小さな容器を出すと、中の緑色の塗り薬を布に塗り広げて、打った箇所にあてがった」
「これは打身に効く湿布薬です。それからもし、このお子さんが悪夢を見てうなされているようでしたら、この葉を揉んで嗅がせてください」
 そういうとザザは、二枚の小さな葉を母親に渡した。
「この葉っぱはリキュウバと言って、この葉の香りが眠りを安らかなものにします。目を覚ませることはできないかもしれませんが、少しは楽になるかと」
「は……はい。ありがとうございます」
「それから、汗をかくと思うので、吸い飲みで半刻に一度お白湯を飲ませてあげてくださいね。果物の汁を入れても構いません。大丈夫です、私がなんとかします。待っていてください」
 そう言ってザザは立ち上がり振り向くと、部屋中視線が全て自分に注がれていることに気がついた。
 

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