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ニノ二
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夜になると外は吹雪になり、庭を白くしていった。雪風が戸を叩き、僕をうんざりさせる。まるで取立て屋に急き立てられているようだ。
斎が台所で料理をしている間、僕は斎の母親が自殺したという部屋に寝転んでいた。静かすぎる部屋に一人取り残されるのは、逃げ出したくなるくらいに寂しかった。
その上、何もすることがないので自然と斎の母親の事を考えてしまう。
とても綺麗で、斎の父親が執愛した人。両親の借金の代わりに、金で買われるように犬神家に嫁いできた人。そして心の弱かった人だと、昔に斎から聞いた。
あまり現実味がないような気がする。借金の代わりというのも、時代錯誤だ。それで負債がなくなるのなら、僕なら何とも思わないで嫁ぐだろう。結局は、玉の輿ではないか。結婚なんて詰まるところ、打算だ。
しかし、その人は十七年前、僕が今いる真上で自殺をしたのだ。そして、その隣に五歳の斎がいたのだ。まさか、その現場に泊まろうとは思ってもいなかった。
斎は、母親が自殺をしたのは自分のせいだと言う。そして、父親が自分を憎むのはそのせいなのだと言った。自分自身を責め苛む斎を、僕は七年経っても救うことができないでいる。自分でも不甲斐ないと思う。
目を閉じて、重いため息をついた。
そして、再び目を開けた途端、僕の視界には信じられないものが飛び込んできた。
「え…?あっ!」
僕は喘ぐことしかできず、息は止まってしまった。
女だ。女が天井に浮かんでいる。浮遊する女…。
違う…吊られている?
ああ、ああ!そうか、首を吊っているんだ!
水色のワンピースと、顔に長い漆黒の髪が恨めしそうに絡まっている。細く白い手足が、だらしなくぶら下がっている。時々、それが風に吹かれるがごとく揺れている。ギシ、ギシと梁が締めつけられる音が無音で響き、僕の背骨を軋ませた。
ゆあーん、ゆよーん。ゆやゆよん。
中原中也の『サーカス』を思い出す。あの揺れ方が実際にあるとしたら、これだ。
幻覚を見ているのだ。そう思わなければ、気が狂いそうだ。
必死で起きあがろうとしたが、体が凍ったように動かない。息も限界で窒息しそうだ。
ゆあーん、ゆよーん。ゆやゆよん。
ああ、この緩慢な動きをどうにかしてくれ!
「どうしたの?」
限界だと思った時、聞き慣れた声が僕を救ってくれた。顔を力任せに動かして、顔を横に向ける。そこには、斎がいた。
ようやく呼吸はできるようになったが、身体はまだ強い圧力で押さえられている。
だが、身動きのできない僕を見ていた斎の唇が不機嫌に僕の名前を呼ぶと、すうっと呪縛から解放された。深呼吸をして、再び天井に視線を戻す。一瞬、女の顔がちらりと見えたかと思うと、消えてしまった。
「斎?」
「何?寝転がって人の名前を呼ぶなんて、横柄な奴」
斎は文句とともに、まだ寝転がっている僕の隣に腰を降ろした。僕は起きあがって、斎の顔を見つめた。
あの人が、斎の母親?
目の前の顔とさっきの女の顔が重なって見える。
「…何か見たの?」
恐る恐る、斎は僕の表情を探った。
「いや、何でもない。ちょっと疲れてて、うたた寝してた。寝ぼけてたんだ」
「…そっくりだったでしょう?」
僕は顔をしかめながら嘘を突き通すべきか迷った。何を見たのか、斎は知っている。
「ああ…そうだな。よく似てた」
「そう…親戚の皆が気味悪がるくらいに似てるからね」
斎は綺麗な顔を白い手で覆った。
「ごめん、こんな所に付き合せて。こんな所…」
僕は、綺麗な顔を覆っている白い手を掴み、こちらへ引き寄せた。そして手の甲に唇を当てた。斎が困ったように、形のいい眉を眉間に寄せた。
「斎のほうが一億倍も綺麗だ」
「馬鹿」
斎はやはり弱々しく笑った。泣いていなかったことだけでも幸いだ。
「きっと空腹だったから、幻覚を見たんだ。ほら、マッチ売りの少女みたいに」
「じゃあ、今日は禁煙にしないといけないね。火を点けるたびに現れるんだから」
斎は、少し可笑しそうに冗談を言って笑った。僕は嬉しくなって、斎の髪を両手でかき回した。すると今度は、白い頬を膨らませて僕の両手を乱暴に振り払った。
「もう!子供扱いしてるでしょう!?」
僕はその言葉を無視して、隅に押しやってあったお盆の上の夕飯に視線を向けた。
「俺はコンビニ弁当でも良かったんだけどな」
「…だって、あれは味気ないよ。簡単なものでも作ったほうがいい」
気をつかって作ってくれた今日の夕食は、天津丼とサラダだった。材料は近くのコンビニから買ってきたのだが、斎は食材のなさに腹を立てていた。四年間の共同生活で、斎は完璧に主婦化している。実体はまるで現実感がないのに、行動は現実そのものだ。
つまり、斎の行動にはきちんとした理由がある。気まぐれにみえることも、考え抜いた末の意味がある。ただ、何も話さないから不規則な行動に見えるだけだ。
僕はそう思っている。だから、なおさらに今回の目的を知りたくなるのは当然だ。
隅にあった机を中央に持ってきて、二人して向かい合うように座る。母親が自殺したその真下で合掌し、食事をする。とてつもなくグロテスクだが、現実から隔離されている僕たちには然程の違和感はなかった。
「なあ、『万燈篭』って夜やるんだろう?それまではどこか行くところでもあるのか?」
斎は箸を止めた。少し間を置いてから答える。
「うん。母方のお墓参り。嫌なら、一人でいってくるけど。観光でもしてる?」
「神社仏閣を見て回るほど心が荒れてるわけでもないし、悟りも開いてねぇよ」
「じゃあ、付き合ってよ」
僕が黙って頷くと、斎は心底安心したように顔を緩ませた。
「もしかして、『万燈篭』の日が命日なのか?」
答えてもらえるはずもないだろうと、僕は適当に返しておいた。いつもなら、この辺から沈黙が始まる。
「…うん、そう」
本当に、今日の斎は何もかもが変だ。以前なら家の事情を話したりしなかった。僕が知っていることは小さな過去で、それも一度説明を受けて以来、情報は更新されていない。それが今日に限ってはピカピカの真実ばかりだ。
斎は食欲をなくしたのか、まだ余っている天津丼を僕に差し出した。無言で食べろと命令している。僕はもう半人分、胃に追加した。
風は止んだのか、もう僕たちを急き立てたりはしなかった。
斎が台所で料理をしている間、僕は斎の母親が自殺したという部屋に寝転んでいた。静かすぎる部屋に一人取り残されるのは、逃げ出したくなるくらいに寂しかった。
その上、何もすることがないので自然と斎の母親の事を考えてしまう。
とても綺麗で、斎の父親が執愛した人。両親の借金の代わりに、金で買われるように犬神家に嫁いできた人。そして心の弱かった人だと、昔に斎から聞いた。
あまり現実味がないような気がする。借金の代わりというのも、時代錯誤だ。それで負債がなくなるのなら、僕なら何とも思わないで嫁ぐだろう。結局は、玉の輿ではないか。結婚なんて詰まるところ、打算だ。
しかし、その人は十七年前、僕が今いる真上で自殺をしたのだ。そして、その隣に五歳の斎がいたのだ。まさか、その現場に泊まろうとは思ってもいなかった。
斎は、母親が自殺をしたのは自分のせいだと言う。そして、父親が自分を憎むのはそのせいなのだと言った。自分自身を責め苛む斎を、僕は七年経っても救うことができないでいる。自分でも不甲斐ないと思う。
目を閉じて、重いため息をついた。
そして、再び目を開けた途端、僕の視界には信じられないものが飛び込んできた。
「え…?あっ!」
僕は喘ぐことしかできず、息は止まってしまった。
女だ。女が天井に浮かんでいる。浮遊する女…。
違う…吊られている?
ああ、ああ!そうか、首を吊っているんだ!
水色のワンピースと、顔に長い漆黒の髪が恨めしそうに絡まっている。細く白い手足が、だらしなくぶら下がっている。時々、それが風に吹かれるがごとく揺れている。ギシ、ギシと梁が締めつけられる音が無音で響き、僕の背骨を軋ませた。
ゆあーん、ゆよーん。ゆやゆよん。
中原中也の『サーカス』を思い出す。あの揺れ方が実際にあるとしたら、これだ。
幻覚を見ているのだ。そう思わなければ、気が狂いそうだ。
必死で起きあがろうとしたが、体が凍ったように動かない。息も限界で窒息しそうだ。
ゆあーん、ゆよーん。ゆやゆよん。
ああ、この緩慢な動きをどうにかしてくれ!
「どうしたの?」
限界だと思った時、聞き慣れた声が僕を救ってくれた。顔を力任せに動かして、顔を横に向ける。そこには、斎がいた。
ようやく呼吸はできるようになったが、身体はまだ強い圧力で押さえられている。
だが、身動きのできない僕を見ていた斎の唇が不機嫌に僕の名前を呼ぶと、すうっと呪縛から解放された。深呼吸をして、再び天井に視線を戻す。一瞬、女の顔がちらりと見えたかと思うと、消えてしまった。
「斎?」
「何?寝転がって人の名前を呼ぶなんて、横柄な奴」
斎は文句とともに、まだ寝転がっている僕の隣に腰を降ろした。僕は起きあがって、斎の顔を見つめた。
あの人が、斎の母親?
目の前の顔とさっきの女の顔が重なって見える。
「…何か見たの?」
恐る恐る、斎は僕の表情を探った。
「いや、何でもない。ちょっと疲れてて、うたた寝してた。寝ぼけてたんだ」
「…そっくりだったでしょう?」
僕は顔をしかめながら嘘を突き通すべきか迷った。何を見たのか、斎は知っている。
「ああ…そうだな。よく似てた」
「そう…親戚の皆が気味悪がるくらいに似てるからね」
斎は綺麗な顔を白い手で覆った。
「ごめん、こんな所に付き合せて。こんな所…」
僕は、綺麗な顔を覆っている白い手を掴み、こちらへ引き寄せた。そして手の甲に唇を当てた。斎が困ったように、形のいい眉を眉間に寄せた。
「斎のほうが一億倍も綺麗だ」
「馬鹿」
斎はやはり弱々しく笑った。泣いていなかったことだけでも幸いだ。
「きっと空腹だったから、幻覚を見たんだ。ほら、マッチ売りの少女みたいに」
「じゃあ、今日は禁煙にしないといけないね。火を点けるたびに現れるんだから」
斎は、少し可笑しそうに冗談を言って笑った。僕は嬉しくなって、斎の髪を両手でかき回した。すると今度は、白い頬を膨らませて僕の両手を乱暴に振り払った。
「もう!子供扱いしてるでしょう!?」
僕はその言葉を無視して、隅に押しやってあったお盆の上の夕飯に視線を向けた。
「俺はコンビニ弁当でも良かったんだけどな」
「…だって、あれは味気ないよ。簡単なものでも作ったほうがいい」
気をつかって作ってくれた今日の夕食は、天津丼とサラダだった。材料は近くのコンビニから買ってきたのだが、斎は食材のなさに腹を立てていた。四年間の共同生活で、斎は完璧に主婦化している。実体はまるで現実感がないのに、行動は現実そのものだ。
つまり、斎の行動にはきちんとした理由がある。気まぐれにみえることも、考え抜いた末の意味がある。ただ、何も話さないから不規則な行動に見えるだけだ。
僕はそう思っている。だから、なおさらに今回の目的を知りたくなるのは当然だ。
隅にあった机を中央に持ってきて、二人して向かい合うように座る。母親が自殺したその真下で合掌し、食事をする。とてつもなくグロテスクだが、現実から隔離されている僕たちには然程の違和感はなかった。
「なあ、『万燈篭』って夜やるんだろう?それまではどこか行くところでもあるのか?」
斎は箸を止めた。少し間を置いてから答える。
「うん。母方のお墓参り。嫌なら、一人でいってくるけど。観光でもしてる?」
「神社仏閣を見て回るほど心が荒れてるわけでもないし、悟りも開いてねぇよ」
「じゃあ、付き合ってよ」
僕が黙って頷くと、斎は心底安心したように顔を緩ませた。
「もしかして、『万燈篭』の日が命日なのか?」
答えてもらえるはずもないだろうと、僕は適当に返しておいた。いつもなら、この辺から沈黙が始まる。
「…うん、そう」
本当に、今日の斎は何もかもが変だ。以前なら家の事情を話したりしなかった。僕が知っていることは小さな過去で、それも一度説明を受けて以来、情報は更新されていない。それが今日に限ってはピカピカの真実ばかりだ。
斎は食欲をなくしたのか、まだ余っている天津丼を僕に差し出した。無言で食べろと命令している。僕はもう半人分、胃に追加した。
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