8 / 16
三ノ三
しおりを挟む
再び小さな家に戻ると、老僧が温かいお茶を用意してくれていた。寒い中にずっと立ちっぱなしだったので、とても有り難かった。
斎は縁台に座り、老僧の話に耳を傾けていた。
「なんやらなあ、ここに新しい坊さんが来るよって、わしにどこか行けぇて行けぇて、息子がうるさいんやわ。ほんまに、どこに行ったらいいんか、ようわからん」
僧侶にもリストラの話があるのか。本人の健康状態を考慮してのことだろうと思うが、違うのだろうか。こんな閉ざされた空間に、年寄りを一人で住まわせておくほうが酷い。息子の言い分は至極当然だ。
しかし、斎は何も言わずに頷いていた。時々、優しく手を握り、癒すように擦っている。
たぶん、何を言っても老僧がここを離れたがらないことを斎も解っているのだ。僕たちにできることは話を聞いてあげることしかない。
立っているのも疲れてきたので、僕も縁台に座った。取り止めのない話が、延々と隣で繰り返されている。少し鬱陶しい。
真正面の冬の木々は凛と立ち、限りない強さを誇っていた。空は曇り、太陽はない。雲だけが一面に広がり、地上の雪景色を鏡に映したように見えた。
ああ、時間が止まっている、そう思った。斎が傍にいるなら、そう急ぐこともない。たいして僕自身に執着しているわけでもないのだ。このまま死んだとしても、僕は何とも思わないだろう。
いや、一つだけあった。
僕が死ぬ時には斎を連れていく。残酷だの自分勝手だの、他人にとやかく言われようとも、本人に言われようとも、自分の死期を悟ったら、体力があるうちにさっさと斎を殺してしまおう。それ以外は、全く執着はない。
僧侶の前で、ふしだらな考えを巡らしている自分に自嘲する。自分でも異常だと感じているが、罪悪感はない。自嘲といっても、ただ、その意志を真面目に確認している自分が可笑しかっただけだ。
名も知らない鳥が、天高く鳴いた。
不意に、ざっ、ざっ、と人の歩く気配がして、僕は雪踏みの音がするほうへ目をやった。
墓参りにでも来たのか、何人もの人たちが団体で石段を昇ってきている。かなりの人数だ。
隣に視線を移す。老僧は人が来たのに気ついた様子もなく、まだ斎と話している。斎も何も聞こえていないようだ。
僕は斎を肘でつつき、人々がいる方向を指差した。斎は不思議そうに視線をそちらに向けたが、すぐに僕の顔を覗き込んだ。
「何?」
「人が来てる」
「どこに?」
「どこにって…」
石段へと慌てて視線を戻す。しかし、そこには人の気配すらなかった。がらんとした元の寂しさがあるだけだった。
困惑するというよりは、薄ら寒い。斎にも老僧に見えないものが、どうして僕にだけ見えるんだ?
気のせいだろうと思いかけた時、また雪踏みの音がした。今度はより近く、確実に聞こえた。
怖くないが、見たくない。
それでも、目は音がするほうへ自然に動いてしまった。斎も僕と同じ方向を見ていた。今度は気づいたらしい。老僧だけが気づくことなく、一方通行な会話をしている。
斎が僕の腕をつかんだ。微かに震えている。
人々は会話もなく、こちらに近づいてきていた。容赦なく雪を蹴散らしている。嫌な歩き方だ、何もかもを踏みにじっている。この静寂も、この季節も、この空間も、この白も。
それぞれの顔が見える距離まで近づいてくると、僕は息を止めた。斎は鶏が絞め殺される時のような悲鳴を小さく上げた。
生きている人間じゃない。
顔は青白く、瞳は白濁した網膜で覆われていて焦点が定かではない。肌の色も土色に近い。出来の悪い蝋人形だ。
必死で自分を取り戻すと、斎を引き寄せて抱き締めた。
老僧はまだ話をしている。僕は軽く舌打ちをして、世話の焼ける老僧に声をかけた。
「じいさん!人が…!」
人?明らかに人ではないが、僕はそう告げた。それが精一杯だ。
「人は、おらんのやぁ。息子も、娘も、もうここにはおらん」
「そうじゃなくて、すぐそこ!」
死の群れは、縁台の前を、僕たちに見向きもせずに通りすぎていく。用が無いのなら出てくるな。何のために、僕たちをこんなに混乱させるのか。
吐き気がするような死臭が風に乗って、僕たちを包み込む。
斎は僕の腕の中で震えていた。当り前だ。こんなことが現実にあるわけがない。僕だって、本当は震えたい。斎がいなければ、逃げ出したい。しかし、今、まともに動けるのは僕しかいない。仕方なく、僕は老僧の腕をつかむために手を伸ばした。
その瞬間、不気味な土色の手が僕の差し伸べた手をつかみ、凄まじい力で僕の身体を雪の上へと引き倒す。当然、斎も雪の上へと倒れこんだ。
冷たい。雪はこんなに冷たいのか。
頬に当たっている冷気に、場違いな感想が出てくる。ああ、違う。それどころじゃない。
「うぁ!ああぁ!がぁ!」
背後で、声帯に障害を持って生まれたあひるのような鳴き声が聞こえた。僕が聞いたあらゆる音の中で最も奇怪なものだった。
無神経な足音は墓地のほうへと遠ざかっていく。それと同時に、ダン、と人が倒れこむ音がした。僕は急いで起き上がり、縁台の上を見た。
老僧が臥したまま、凍っていた。
斎は雪の上に座りこみ、茫然と縁台を見上げていた。
斎は縁台に座り、老僧の話に耳を傾けていた。
「なんやらなあ、ここに新しい坊さんが来るよって、わしにどこか行けぇて行けぇて、息子がうるさいんやわ。ほんまに、どこに行ったらいいんか、ようわからん」
僧侶にもリストラの話があるのか。本人の健康状態を考慮してのことだろうと思うが、違うのだろうか。こんな閉ざされた空間に、年寄りを一人で住まわせておくほうが酷い。息子の言い分は至極当然だ。
しかし、斎は何も言わずに頷いていた。時々、優しく手を握り、癒すように擦っている。
たぶん、何を言っても老僧がここを離れたがらないことを斎も解っているのだ。僕たちにできることは話を聞いてあげることしかない。
立っているのも疲れてきたので、僕も縁台に座った。取り止めのない話が、延々と隣で繰り返されている。少し鬱陶しい。
真正面の冬の木々は凛と立ち、限りない強さを誇っていた。空は曇り、太陽はない。雲だけが一面に広がり、地上の雪景色を鏡に映したように見えた。
ああ、時間が止まっている、そう思った。斎が傍にいるなら、そう急ぐこともない。たいして僕自身に執着しているわけでもないのだ。このまま死んだとしても、僕は何とも思わないだろう。
いや、一つだけあった。
僕が死ぬ時には斎を連れていく。残酷だの自分勝手だの、他人にとやかく言われようとも、本人に言われようとも、自分の死期を悟ったら、体力があるうちにさっさと斎を殺してしまおう。それ以外は、全く執着はない。
僧侶の前で、ふしだらな考えを巡らしている自分に自嘲する。自分でも異常だと感じているが、罪悪感はない。自嘲といっても、ただ、その意志を真面目に確認している自分が可笑しかっただけだ。
名も知らない鳥が、天高く鳴いた。
不意に、ざっ、ざっ、と人の歩く気配がして、僕は雪踏みの音がするほうへ目をやった。
墓参りにでも来たのか、何人もの人たちが団体で石段を昇ってきている。かなりの人数だ。
隣に視線を移す。老僧は人が来たのに気ついた様子もなく、まだ斎と話している。斎も何も聞こえていないようだ。
僕は斎を肘でつつき、人々がいる方向を指差した。斎は不思議そうに視線をそちらに向けたが、すぐに僕の顔を覗き込んだ。
「何?」
「人が来てる」
「どこに?」
「どこにって…」
石段へと慌てて視線を戻す。しかし、そこには人の気配すらなかった。がらんとした元の寂しさがあるだけだった。
困惑するというよりは、薄ら寒い。斎にも老僧に見えないものが、どうして僕にだけ見えるんだ?
気のせいだろうと思いかけた時、また雪踏みの音がした。今度はより近く、確実に聞こえた。
怖くないが、見たくない。
それでも、目は音がするほうへ自然に動いてしまった。斎も僕と同じ方向を見ていた。今度は気づいたらしい。老僧だけが気づくことなく、一方通行な会話をしている。
斎が僕の腕をつかんだ。微かに震えている。
人々は会話もなく、こちらに近づいてきていた。容赦なく雪を蹴散らしている。嫌な歩き方だ、何もかもを踏みにじっている。この静寂も、この季節も、この空間も、この白も。
それぞれの顔が見える距離まで近づいてくると、僕は息を止めた。斎は鶏が絞め殺される時のような悲鳴を小さく上げた。
生きている人間じゃない。
顔は青白く、瞳は白濁した網膜で覆われていて焦点が定かではない。肌の色も土色に近い。出来の悪い蝋人形だ。
必死で自分を取り戻すと、斎を引き寄せて抱き締めた。
老僧はまだ話をしている。僕は軽く舌打ちをして、世話の焼ける老僧に声をかけた。
「じいさん!人が…!」
人?明らかに人ではないが、僕はそう告げた。それが精一杯だ。
「人は、おらんのやぁ。息子も、娘も、もうここにはおらん」
「そうじゃなくて、すぐそこ!」
死の群れは、縁台の前を、僕たちに見向きもせずに通りすぎていく。用が無いのなら出てくるな。何のために、僕たちをこんなに混乱させるのか。
吐き気がするような死臭が風に乗って、僕たちを包み込む。
斎は僕の腕の中で震えていた。当り前だ。こんなことが現実にあるわけがない。僕だって、本当は震えたい。斎がいなければ、逃げ出したい。しかし、今、まともに動けるのは僕しかいない。仕方なく、僕は老僧の腕をつかむために手を伸ばした。
その瞬間、不気味な土色の手が僕の差し伸べた手をつかみ、凄まじい力で僕の身体を雪の上へと引き倒す。当然、斎も雪の上へと倒れこんだ。
冷たい。雪はこんなに冷たいのか。
頬に当たっている冷気に、場違いな感想が出てくる。ああ、違う。それどころじゃない。
「うぁ!ああぁ!がぁ!」
背後で、声帯に障害を持って生まれたあひるのような鳴き声が聞こえた。僕が聞いたあらゆる音の中で最も奇怪なものだった。
無神経な足音は墓地のほうへと遠ざかっていく。それと同時に、ダン、と人が倒れこむ音がした。僕は急いで起き上がり、縁台の上を見た。
老僧が臥したまま、凍っていた。
斎は雪の上に座りこみ、茫然と縁台を見上げていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる