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三ノ三
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再び小さな家に戻ると、老僧が温かいお茶を用意してくれていた。寒い中にずっと立ちっぱなしだったので、とても有り難かった。
斎は縁台に座り、老僧の話に耳を傾けていた。
「なんやらなあ、ここに新しい坊さんが来るよって、わしにどこか行けぇて行けぇて、息子がうるさいんやわ。ほんまに、どこに行ったらいいんか、ようわからん」
僧侶にもリストラの話があるのか。本人の健康状態を考慮してのことだろうと思うが、違うのだろうか。こんな閉ざされた空間に、年寄りを一人で住まわせておくほうが酷い。息子の言い分は至極当然だ。
しかし、斎は何も言わずに頷いていた。時々、優しく手を握り、癒すように擦っている。
たぶん、何を言っても老僧がここを離れたがらないことを斎も解っているのだ。僕たちにできることは話を聞いてあげることしかない。
立っているのも疲れてきたので、僕も縁台に座った。取り止めのない話が、延々と隣で繰り返されている。少し鬱陶しい。
真正面の冬の木々は凛と立ち、限りない強さを誇っていた。空は曇り、太陽はない。雲だけが一面に広がり、地上の雪景色を鏡に映したように見えた。
ああ、時間が止まっている、そう思った。斎が傍にいるなら、そう急ぐこともない。たいして僕自身に執着しているわけでもないのだ。このまま死んだとしても、僕は何とも思わないだろう。
いや、一つだけあった。
僕が死ぬ時には斎を連れていく。残酷だの自分勝手だの、他人にとやかく言われようとも、本人に言われようとも、自分の死期を悟ったら、体力があるうちにさっさと斎を殺してしまおう。それ以外は、全く執着はない。
僧侶の前で、ふしだらな考えを巡らしている自分に自嘲する。自分でも異常だと感じているが、罪悪感はない。自嘲といっても、ただ、その意志を真面目に確認している自分が可笑しかっただけだ。
名も知らない鳥が、天高く鳴いた。
不意に、ざっ、ざっ、と人の歩く気配がして、僕は雪踏みの音がするほうへ目をやった。
墓参りにでも来たのか、何人もの人たちが団体で石段を昇ってきている。かなりの人数だ。
隣に視線を移す。老僧は人が来たのに気ついた様子もなく、まだ斎と話している。斎も何も聞こえていないようだ。
僕は斎を肘でつつき、人々がいる方向を指差した。斎は不思議そうに視線をそちらに向けたが、すぐに僕の顔を覗き込んだ。
「何?」
「人が来てる」
「どこに?」
「どこにって…」
石段へと慌てて視線を戻す。しかし、そこには人の気配すらなかった。がらんとした元の寂しさがあるだけだった。
困惑するというよりは、薄ら寒い。斎にも老僧に見えないものが、どうして僕にだけ見えるんだ?
気のせいだろうと思いかけた時、また雪踏みの音がした。今度はより近く、確実に聞こえた。
怖くないが、見たくない。
それでも、目は音がするほうへ自然に動いてしまった。斎も僕と同じ方向を見ていた。今度は気づいたらしい。老僧だけが気づくことなく、一方通行な会話をしている。
斎が僕の腕をつかんだ。微かに震えている。
人々は会話もなく、こちらに近づいてきていた。容赦なく雪を蹴散らしている。嫌な歩き方だ、何もかもを踏みにじっている。この静寂も、この季節も、この空間も、この白も。
それぞれの顔が見える距離まで近づいてくると、僕は息を止めた。斎は鶏が絞め殺される時のような悲鳴を小さく上げた。
生きている人間じゃない。
顔は青白く、瞳は白濁した網膜で覆われていて焦点が定かではない。肌の色も土色に近い。出来の悪い蝋人形だ。
必死で自分を取り戻すと、斎を引き寄せて抱き締めた。
老僧はまだ話をしている。僕は軽く舌打ちをして、世話の焼ける老僧に声をかけた。
「じいさん!人が…!」
人?明らかに人ではないが、僕はそう告げた。それが精一杯だ。
「人は、おらんのやぁ。息子も、娘も、もうここにはおらん」
「そうじゃなくて、すぐそこ!」
死の群れは、縁台の前を、僕たちに見向きもせずに通りすぎていく。用が無いのなら出てくるな。何のために、僕たちをこんなに混乱させるのか。
吐き気がするような死臭が風に乗って、僕たちを包み込む。
斎は僕の腕の中で震えていた。当り前だ。こんなことが現実にあるわけがない。僕だって、本当は震えたい。斎がいなければ、逃げ出したい。しかし、今、まともに動けるのは僕しかいない。仕方なく、僕は老僧の腕をつかむために手を伸ばした。
その瞬間、不気味な土色の手が僕の差し伸べた手をつかみ、凄まじい力で僕の身体を雪の上へと引き倒す。当然、斎も雪の上へと倒れこんだ。
冷たい。雪はこんなに冷たいのか。
頬に当たっている冷気に、場違いな感想が出てくる。ああ、違う。それどころじゃない。
「うぁ!ああぁ!がぁ!」
背後で、声帯に障害を持って生まれたあひるのような鳴き声が聞こえた。僕が聞いたあらゆる音の中で最も奇怪なものだった。
無神経な足音は墓地のほうへと遠ざかっていく。それと同時に、ダン、と人が倒れこむ音がした。僕は急いで起き上がり、縁台の上を見た。
老僧が臥したまま、凍っていた。
斎は雪の上に座りこみ、茫然と縁台を見上げていた。
斎は縁台に座り、老僧の話に耳を傾けていた。
「なんやらなあ、ここに新しい坊さんが来るよって、わしにどこか行けぇて行けぇて、息子がうるさいんやわ。ほんまに、どこに行ったらいいんか、ようわからん」
僧侶にもリストラの話があるのか。本人の健康状態を考慮してのことだろうと思うが、違うのだろうか。こんな閉ざされた空間に、年寄りを一人で住まわせておくほうが酷い。息子の言い分は至極当然だ。
しかし、斎は何も言わずに頷いていた。時々、優しく手を握り、癒すように擦っている。
たぶん、何を言っても老僧がここを離れたがらないことを斎も解っているのだ。僕たちにできることは話を聞いてあげることしかない。
立っているのも疲れてきたので、僕も縁台に座った。取り止めのない話が、延々と隣で繰り返されている。少し鬱陶しい。
真正面の冬の木々は凛と立ち、限りない強さを誇っていた。空は曇り、太陽はない。雲だけが一面に広がり、地上の雪景色を鏡に映したように見えた。
ああ、時間が止まっている、そう思った。斎が傍にいるなら、そう急ぐこともない。たいして僕自身に執着しているわけでもないのだ。このまま死んだとしても、僕は何とも思わないだろう。
いや、一つだけあった。
僕が死ぬ時には斎を連れていく。残酷だの自分勝手だの、他人にとやかく言われようとも、本人に言われようとも、自分の死期を悟ったら、体力があるうちにさっさと斎を殺してしまおう。それ以外は、全く執着はない。
僧侶の前で、ふしだらな考えを巡らしている自分に自嘲する。自分でも異常だと感じているが、罪悪感はない。自嘲といっても、ただ、その意志を真面目に確認している自分が可笑しかっただけだ。
名も知らない鳥が、天高く鳴いた。
不意に、ざっ、ざっ、と人の歩く気配がして、僕は雪踏みの音がするほうへ目をやった。
墓参りにでも来たのか、何人もの人たちが団体で石段を昇ってきている。かなりの人数だ。
隣に視線を移す。老僧は人が来たのに気ついた様子もなく、まだ斎と話している。斎も何も聞こえていないようだ。
僕は斎を肘でつつき、人々がいる方向を指差した。斎は不思議そうに視線をそちらに向けたが、すぐに僕の顔を覗き込んだ。
「何?」
「人が来てる」
「どこに?」
「どこにって…」
石段へと慌てて視線を戻す。しかし、そこには人の気配すらなかった。がらんとした元の寂しさがあるだけだった。
困惑するというよりは、薄ら寒い。斎にも老僧に見えないものが、どうして僕にだけ見えるんだ?
気のせいだろうと思いかけた時、また雪踏みの音がした。今度はより近く、確実に聞こえた。
怖くないが、見たくない。
それでも、目は音がするほうへ自然に動いてしまった。斎も僕と同じ方向を見ていた。今度は気づいたらしい。老僧だけが気づくことなく、一方通行な会話をしている。
斎が僕の腕をつかんだ。微かに震えている。
人々は会話もなく、こちらに近づいてきていた。容赦なく雪を蹴散らしている。嫌な歩き方だ、何もかもを踏みにじっている。この静寂も、この季節も、この空間も、この白も。
それぞれの顔が見える距離まで近づいてくると、僕は息を止めた。斎は鶏が絞め殺される時のような悲鳴を小さく上げた。
生きている人間じゃない。
顔は青白く、瞳は白濁した網膜で覆われていて焦点が定かではない。肌の色も土色に近い。出来の悪い蝋人形だ。
必死で自分を取り戻すと、斎を引き寄せて抱き締めた。
老僧はまだ話をしている。僕は軽く舌打ちをして、世話の焼ける老僧に声をかけた。
「じいさん!人が…!」
人?明らかに人ではないが、僕はそう告げた。それが精一杯だ。
「人は、おらんのやぁ。息子も、娘も、もうここにはおらん」
「そうじゃなくて、すぐそこ!」
死の群れは、縁台の前を、僕たちに見向きもせずに通りすぎていく。用が無いのなら出てくるな。何のために、僕たちをこんなに混乱させるのか。
吐き気がするような死臭が風に乗って、僕たちを包み込む。
斎は僕の腕の中で震えていた。当り前だ。こんなことが現実にあるわけがない。僕だって、本当は震えたい。斎がいなければ、逃げ出したい。しかし、今、まともに動けるのは僕しかいない。仕方なく、僕は老僧の腕をつかむために手を伸ばした。
その瞬間、不気味な土色の手が僕の差し伸べた手をつかみ、凄まじい力で僕の身体を雪の上へと引き倒す。当然、斎も雪の上へと倒れこんだ。
冷たい。雪はこんなに冷たいのか。
頬に当たっている冷気に、場違いな感想が出てくる。ああ、違う。それどころじゃない。
「うぁ!ああぁ!がぁ!」
背後で、声帯に障害を持って生まれたあひるのような鳴き声が聞こえた。僕が聞いたあらゆる音の中で最も奇怪なものだった。
無神経な足音は墓地のほうへと遠ざかっていく。それと同時に、ダン、と人が倒れこむ音がした。僕は急いで起き上がり、縁台の上を見た。
老僧が臥したまま、凍っていた。
斎は雪の上に座りこみ、茫然と縁台を見上げていた。
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